捧ぐ別れの演奏会

唯月湊

捧ぐ別れの演奏会

 はじめに鳴るのはオーボエのAの音。平易に言うなら「ラ」の音だ。その音に合わせて、それぞれが音を合わせていく。

 チューニングにAを使う理由としては、オーケストラに使われるヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスという有名な四種の弦楽器全てにAの鳴る弦が張ってあるから、というのは音楽を本格的に学ぶようになって聞いた話だ。

 演奏曲によりオーケストラの編成人数は流動的だが、今回の演目は通常の編成よりもだいぶ少ない。弦楽器はいつもどおりだが、管楽器がオーボエ、ファゴット、ホルンという三種類しかいない。半分室内楽のような編成だ。

 観客はふたり。綺麗に着飾った花嫁と、その手を握る新郎。客席を前に、先程までヴィオラを構えていた男は壇上で一礼し、指揮者へと装いを変える。その両手が上がるのに合わせて、ヴァイオリンを構えた。

 ただ一度きりの演奏会の、始まりだった。


*****


 自分が不精な性格をしているのは自覚していたが、たまにはいいこともあるものだ。

 青年――しのに突然かかってきた、一本の電話。登録はされていたが、何年も連絡を取っていなかった。

「久しぶり。元気だったか?」

 相変わらずの渋いバリトン。学生時代からコレだったため、当時は声だけ聞けば教授並、と他生徒からからかわれていたのを思い出す。懐かしい話だった。

「元気だよ。そっちも元気そうだね」

 卒業後どこ行ったんだ、最近どうよ、というありきたりにして定番の会話を続けていれば、かけてきた相手――戸塚は本題に入った。

「なぁ、久々に演奏やらないか? 篠」


 指定された場所は少し広めの一軒家。表札を見て、間違っていないことを確認する。呼び鈴を鳴らせば、覚えている顔より少し老けた、無精髭に黒髪の男性が出てきた。

 よく来たな、と笑うその表情は、当時の面影がある。

「ちょっと驚いた。広いな、家」

「お前んちに比べたら全然だよ」

 案内された先は小さな防音室。数年前に結婚したという戸塚は妻と知り合ったきっかけが音楽だったこともあり、家に小さいながら防音室を作ったのだそうだ。練習場所には困らない、と電話口でいっていたのはそのせいだ。

「あ、久しぶり」

 先に来ていたのはショートカットの女性。「みさきち」の異名で呼ばれたかつてと同じく色白で、おっとりした彼女に「久しぶり」と返す。大学時代の面影は色濃く残っていた。当時と変わらぬ、やわらかな印象の女性だった。

「それで、選曲どうする?」

 切り出した言葉に答えたのは招集役の戸塚だった。

「やっぱこれかなー、と思って」

 楽譜は用意した、と戸塚はパート譜を取り出した。渡されたそれには見覚えがある。ただ、思わず突っ込んだ。

「なんで結婚式で『狩り』なの」

 モーツァルト作曲、弦楽四重奏第十七番。曲の出だしが狩りの開始を伝える角笛に似ている、ということから『狩り』という愛称が付いている。普通結婚式ならばもう少し祝いの曲などあると思う。

「俺たちだったらこれだろー」

「懐かしいね、『狩り』。戸塚くんに誘われたんだよね、あの時」

 彼女の言葉で、篠を含めて皆がかつてのことを思い出す。


*****


 大学時代、彼らはオーケストラサークルに所属していた。そこで、文化祭の出し物にと、所属するサークルでは音楽喫茶を開くことが恒例行事となっている。生演奏を聞きながら手作りのお菓子を食べてもらう、というコンセプトのそれは、例年割と好評だった。

 学祭は近所の住民を呼ぶようなイベントであったから、コンサートを聞きに来てくださるような方から孫を連れてくる住民まで、半ば市民オーケストラの様相を呈していたものだ。

 この音楽喫茶の運営は大学二年。篠や戸塚達は三年だったので、演奏に専念するだけでよかった。そこで、戸塚が発起人となって弦楽四重奏をやることにしたのだった。

 交響曲の弦楽器は、楽器ごとに異なるパートを皆で弾く。ヴァイオリンに限っては二パートに分かれるが、それでも一人で演奏することはソロ以外にはありえない。

 そんな中、弦楽四重奏は一人一パートだ。普段のオーケストラでは味わえない緊張感がある。

 けれど、行う機会の少ない四重奏や室内楽を行うチャンスであり、文化祭は責任も重大だったが毎年の楽しみなイベントであった。

 二ヶ月ある夏休みのうち、ひと月はサークルの練習で拘束される。サークル時間外に楽譜を読み、練習するのが決まりだった。

 そうして、夏休みも終わりに近づいた九月下旬。大学の斡旋する狭い練習室を訪れた。先に来ていたのはふたり。戸塚はまだだった。

 楽器の準備をしながら、どこが難しいとか練習時間が足りないとか、そんな他愛のない話をする。

 遅くなった、と戸塚が練習室へやってきた頃には、楽器の準備も音出しも済んでいた。遅いよ、といえば相変わらず憎めない笑顔で戸塚は「ごめんごめん」と言う。

 準備を終えた戸塚を見て、首を傾げた。

「戸塚、楽譜どうしたの」

「いや、製本できてなくてさ。とりあえずこれでやるわ」

 戸塚は教室の長机に楽譜を横一列に並べていた。

 彼らの学生オーケストラでは、練習用楽譜は自分たちで製本をする。ガーゼを止めるようなテープを使って一枚一枚貼りあわせ、折りたためば冊子になるような形状にするのだった。

 次までにきちんと製本をしてきなよ、と周囲から苦笑されながら、練習は始まった。

 モーツァルト作曲、弦楽四重奏第十七番『狩り』。モーツァルトらしい細やかな音符の描く華やかリズムと旋律に彩られた四重奏曲。

 楽譜の演奏面に合わせて横にスライド移動していく戸塚に苦笑を禁じ得ない。篠はクスクス笑いをこらえつつも、どうにか演奏を進めていった。

 なかなか一度に最後まで演奏しきるのは難しい。自分のパートの休みを数え間違えたり、単純に練習不足でうまく弾きこなせなかったり。合わせて演奏するからゆえの悩みもあった。弦楽器は、右手に持つ弓を下に動かすか上に動かすか、といった方向や、音符の止め跳ねも印象に左右されることから、奏法を揃えておくのが基本だった。

 演奏が合わず止まるたびに、全パートが並列表記してある総譜スコアを広げ、パート譜を突き合わせながらああでもないこうでもない、ここはヴァイオリンから繋がる部分だ、などと言い合いながら楽譜に書き込みをしていく。白い余白は黒くなり、各々が使いやすい楽譜に仕立てていく。

 本番はもちろん緊張はあれど楽しいものだ。ただ、こうして少しずつ音を、音楽を奏でていく時間もまた、同様に楽しいものなのだった。


*****


 あの時一緒に四重奏を行ったメンバーのひとりが結婚する。その余興をやってくれないか、と頼まれたのだと戸塚は言う。そこで、当時一緒に四重奏を行った人間を集めて演奏会を開こう、という話になったのだそうだ。篠が呼ばれたのは偶然そのメンバーにいたからだったが、せっかくの席だ。無下に断るのも悪いだろう。


 そうして、幾度か練習を続けていった。一度弾いているからとはいえなかなかに思い出すのは大変で、練習もしっかりしないと無残な演奏になるのはわかりきっていた。大学を卒業してから音楽を続けている人間は篠だけだった。勘を取り戻すのにも時間がかかったが、それでもさすがに専門で学んだことがある面々。徐々に、不協和音は綺麗な音色に塗り替わった。


 一度休憩にしようかと、女性二人が買い出しへと赴いた。残された戸塚は、おもむろににやりと笑んだ。

「篠、聞いたぜー?」

「? 何を」

「お前、昔みさきちに告られてたらしいじゃん」

 篠はぱちくりと目を瞬かせて、昔の話だよ、と苦笑する。そんなことも、たしかにあった。

「お前なぁ、当時のみさきちは高嶺の花だったのになんで振ったのさ」

「だからだよ。恐れ多い」

 肩をすくめた。どこから聞いたんだ、と戸塚に問えば、みさきち本人からだという。

「結構サークル内恋愛も多かったし、みさきち狙ってるやつもいたの知ってるだろ」

「そんな話もあったかな。ただ、俺がその手の話に興味ないっていうのもよく知ってると思ってたけど」

「まぁな。この朴念仁」

 戸塚はそう呆れたように笑った。そんなことを言っている戸塚のほうが、みさきちに惚れていたことを知る人間は少ない。

 元々戸塚は社交的でもあったから、「友達としては見られるけど恋人としては見られない」という、よくある「いい人」ポジションにおさまってしまう傾向があった。

 篠が戸塚の恋心を知ったのは、この四重奏メンバーに勧誘を受けたときに本人から聞いたからだ。篠が誘われた理由は、同性のメンバー集めが半分、もう半分は「お前なら言っても悪いことにはならない気がする」というよくわからない信頼のもとだったそうだ。

「なぁ篠、ちょっと手伝ってほしいんだよ」

 そう、彼が改まって告げてきた。外へ出ていったふたりはまだ戻ってきていない。そんな今、言う必要がある話なのだとは察せられた。


*****


 計画していた四重奏演目は、滞りなく演奏を終えた。花嫁たっての希望だった、「演奏会のある結婚式」は、ただ奏者のためだけにあるものだった。

 ありがとう、と立ち上がった花嫁へ、新郎が迎えに来る。彼はその手を取って、客席へと促す。予定と違うその行動に、花嫁が首を傾げたそのときに。会場の両袖から、各々楽器と自分の座る椅子を持った奏者たちがやってくる。

 戸惑いながらも花嫁が座席へ座れば、舞台上は準備が出来ていた。そして、ヴィオラから指揮棒タクトに持ち替えた戸塚が、一度礼をした。


 ハイドン作曲、交響曲第四十五番。

 全四楽章合わせて二十五分弱という交響曲にしては比較的短いこの曲は、元々ハイドンが仕えていた貴族が別荘地で音楽を嗜む時に連れて行った楽団用に、ハイドンが書き下ろしたものだったと言われている。

 交響曲のいくつかには呼びやすい異名がつけられている。ベートーベンの「運命」などがソレだ。

 このハイドンの交響曲四十五番の異名は、「告別」。貴族用の宮廷音楽にふさわしい華やかさのある曲で、この異名は一見ふさわしくないように聞こえる。


 第四楽章も終盤にさしかかると、曲の途中でホルン奏者の一人が立ち上がる。楽譜と楽器を持って、そのまま舞台上から退場していく。そうして、ひとりひとり、舞台を降りていく。

 これが、「告別」と異名がついた理由。奏者ごとに退場するタイミングが楽譜に書いてあるのだった。


 きちんと気持ちに区切りをつけたいんだ、と戸塚は言った。みっともない話だ、とも。

 彼の結婚は、あまり本人が望んだものではなかったらしい。今でも、言えない気持ちは残ったまま。けれど、いい加減別れを告げたい。そのための、大げさすぎる演出。けれど、彼女の前で演奏することは、おそらくもう二度と無いだろうから、この機会を逃す訳にはいかないと。

 今回結婚する花嫁に、それは伝えていなかった。すべてひっそりと裏側で準備が進められ、篠も演奏メンバーを集めるべく数少ない知り合いに声をかけた。


 演奏が続く中、続々と自分の演奏を終えて席を立っていく。そうして管楽器が全て消え、弦楽器も残すは1stヴァイオリン最前列観客側、コンサートマスターと呼ばれるその位置に座る篠と指揮者のみ。本来ならこれにヴィオラの最前列客席側、トップも残るはずだった。とはいえ、今は指揮者と篠の演者がふたり。指揮者の前には譜面台があるのだが、そこに総譜スコアは乗っておらず、あるのは一本の蝋燭。

 篠が演奏を終え、席を立つ。指揮者と一度目配せをして、そのまま立ち去る。

 指揮者はその蝋燭をふっと吹き消した。

 暗闇になったコンサートホール。指揮者の立ち去る足音が遠のけば、そこには静寂の幕が下りた。


(了)

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捧ぐ別れの演奏会 唯月湊 @yidksk

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