助けた美少女達でハーレム……のはずが……マインガールズにハーレムは無理!

イチカ

第1話 まいん・がーるず

プロローグ~勝利者


 冷たい夜風が、一人残った少女の髪と衣服をはためかせていた。

 ばたばたと容赦ない強風になぶられ、彼女の襟元は片一方に引っ張られていた。華奢な体もよたよたと左右に揺れている。

 僕は渦巻く低温の空気の中で、カミソリに撫で回されたかのような戦慄を感じている。

 が、そんな些事には全く構わぬ様子で、彼女は血の気のない陶器のように白い顔に、ゆっくりと表情を浮かべた。

 喜びの、唯一人残った、歓喜の。

「勝った……よ、私……勝ったよ!」

 掠れた声の後、彼女は僕に優しく微笑んだ。  

 無垢に、清廉に、純白に。いかなる汚れとも穢れとも無縁に、花が開くように、輝くように!

 だけど僕は、唇の端からこぼれるねっとりとした鮮血に目を奪われていた。彼女のつむられた目から溢れる赤い涙も懸案だ。

「あああ……あああ」

 僕は恐怖と血への嫌悪で、固い地面に尻餅を着いたまま足をばたつかせた。逃げようと足掻いたのだ。

「どうしたの?」

 血まみれの眼を開いた彼女が、かわいらしく小首を傾げる。

「わ、私が……か、勝ったんだよ……」

 ほうっ、と熱い吐息を漏らして足を一歩、僕に踏み出す。

 すうっと心の中の何かから温度が消える。しかし彼女はそんな僕の様子に気付かず、一歩、また一歩と、壊れた人形のようなぎくしゃくした動きで、近づいてきた。 

 自然と真白い脚が目に入った。幾筋もの血の線が走る腿は、そのコントラスト故に、ぞっとするほど艶めかしかった。  

「た、拓生……」

 少女が僕に手を伸ばした。暗い朱の液体に染まった細い腕だった。

「うああああ」

 それから逃れるように、僕はミミズのようにずるずると下がる。 

「どう、したの?」

 きょとんとした風に少女は問うた。その間、細い顎から一つぶ、滴が地面に落ちる。

 暗い光を反射する、赤い赤い液体。 

 でも、実は大した問題ではない。

 今更、それが一滴増えたところで何の事もないのだ。  

 少女の足元には、血だまり、と言う表現ではささやかすぎる程、赤黒い液体が溜まっているからだ。

 血の海の中、彼女がまた一歩進む。亡者のようにゆらゆらとゆらゆらと。  

 頭も衣服も……足の靴先まで、粘度のあるてらてらとした血に濡れたまま。

 呆然と愕然と泣きそうな顔で、僕は見上げた。

 闇の中佇む少女を、その笑顔を。

「たくみ……」

 僕の中で何かがぱちんと弾け、粉々に砕け散っていった。


『計算おわりです』

 五月の空は美しかった。

 青い水彩絵の具を多量の水で溶いたような淡い色の空がどこまでも広がり、薄い雲は光を孕んで、空気には何やらいい香が混ざっていた。  

 強くもなく弱くもない爽やかな風の中、僕、東雲拓生(しののめ たくみ)は深呼吸をして、香の元がゼラニウムという花だ、と思い出す。

 少し冷たい朝の酸素は肺の隅々にまで浸透し、頭の隅にあった重たい眠気が消えていく。

「よしっ」と無意味に呟いて、通学用の鞄を持ち直して歩を早めた。

 低血圧、を言い訳どころか、低血圧だから! と自慢にしているほど、僕は朝が苦手だ。学校のために早起きするよりも、ぬくいぬくいベッドの中で桃色の夢を見ていたい。だが、そんな怠惰な僕を少しの間でもやる気にさせる程、その日の朝はすっきりと輝いていた。

 ふんふんふん、と流行りの曲を鼻歌に直しながら、一ヶ月の経過により見慣れた通学路を歩く。    

 私立巻野高校は、幸運に、と言うべきか軟弱な僕の足でも二〇分程の、ほどよく寝坊できる距離にあった。

 もちろん、それらを考慮して受験したのだが、良く滑り込めた物だ。中学三年時、志望校として挙げたら、当時の担任がにまっと苦笑したのを覚えている。

 超やる気が出た。

 確かに僕の成績では少々きつい場所にあったのだが、故に合格の快挙にまだ心はハイテンションだ。もし法治国家じゃなかったら、全裸で何かやらかしただろう。超やらかした。

 言うまでもなく、僕は晩春の陽気にふらふら浮かれ気味だったのだが、どこからか早朝には似つかわしくない爆音が聞こえ、はっとした。

 意識を向けると、バリバリ、と新鮮な空気を汚染するような、酷く不快で、胸の底から不安をかき立てられる爆発音が、圧迫するように近づいてくる。

 立ち止まってしまう。

 まだ目の前の信号は青だったが、そうしなければならないような気がする。

 程なくして、爆音は耳に痛感として感じられるほど大きくなる。正体は想像通りだ。

 歩道側の信号はまだ青、ならば車道側のそれは赤、『停止』だろう。

 しかしそんな『オトナが決めたルール』とやらを踏みにじる勢いで、何台ものバイクが通り過ぎていく。

 乗っているのは誰も彼も髪を染めた、一目で剣呑と分かる野獣系の少年達だ。

「うわ、『刃苦怨』(バクオン)だ……」

 違う学校の制服を着た少年が、僕の背後で息を飲んだ。同様に、周りにいるサラリーマンや学生、自転車を押している警察官さえ身を潜めている。

『刃苦怨』は、今時珍しい古式ゆかしい暴走族ではない。『犯罪組織』を自称するイタい連中だ。だが、だからこそタチが悪い。

 実際、彼等は『犯罪組織』だ。

 暴力事件は当然で、中には命に関わった被害者もいる。そして怪しげな薬物を売り、酒場の用心棒であり、金が欲しければ奪い、気にくわない人の家に火までつける。

 彼等と対峙して幸福になった者は皆無だが、勝利を収めた者もいない。

 やりたい放題の少年達は、それ故、少年故、未成年故に法が悪行に釣り合わないからだ。『刃苦怨』に説教をした為に、家と財産を奪われた被害者のニュースを思い出す。 

 その人物の家に火をつけ、家財道具一式を焼失させ、六歳の子供に大火傷を負わせた『刃苦怨』メンバーは、『保護観察』という重い刑の下、今も街を闊歩しているそうだ。 

 今や警察も困惑するだけとなった野放図の連中が、当たり前に信号無視をしていく。内心、転んで頭超打て、とか念じていることに気付いたのか、ノーヘル金髪男の鋭い目がついと僕を向く。

 全力で目を伏せた。 

 この連中に関わったら、シャレにならない。

 正直Bダッシュで逃亡を図りたいが、弱者の無用な行動が強者の関心を引く、と動物番組の肉食獣スペシャルで、僕は学んでいるのだ。

 そうして子鹿のように呼吸を止めていると、すぐにバイク集団は通り過ぎていった。

 一時全てが静寂に塗り固められたことが嘘のように、先程までの季節に相応しい朝がカムバックした。

 僕は重いため息をつく。

 気分は台無しだった。爽やかな風も、花の香りも、雲の少ない好天もどうでもいい。

 生活している街に暴力集団がいる、という事実は薄ら寒い、嫌な現実だ。

 寝室に蚊やゴキが紛れ込んでいる以上に、寝苦しいものだ。

 心には不安定な黒雲が湧き、目にする物が何もかも灰色に思える。 

「あら?」

 そんな僕の背に、驚いたような声が跳ねた。

「……東雲、君……? どうしたの?」

 僕は振り向いて、その一瞬で不快な諸々を全てが霧消するのを感じた。

 て言うか、何かあったっけ?

 僕の目に飛び込んだのは、クラスメイトの少女だ。 

 否、僕の視界はすぐにサーチモードとなり、少女の胸部へと落ちるよう鍛えている。

 巨乳、とまではいかないが決して慎ましくはない胸がある。しかもここで終着点ではなく、さらに発展の可能性が見て取れ、形も張りも良い。

嗅覚に意識を転ずると、甘い桃を思わせる甘い香りが、少女から漂ってきた。

 うん、と僕は全ての女子生徒を網羅した脳内リストから、一人選んだ。

「やあ、天城さん、おはよう」 

 笑顔で挨拶すると、天城愛希(てんじょう いつき)は笑顔を引っ込めて半歩後退した。

「……今、ものすごく不本意な方法で私を識別しなかった?」

「違うよ!」

 僕の本心だ。

 天城さんの取り柄は勿論胸ではない。むしろ、どちらかというと大半の者はそこまで行く前に、高鳴る鼓動を止められず緊張してしまう。  

 風にさらさらと煌めく亜麻色の長い髪、桃色の艶やかな唇、高すぎず低すぎない絶妙なバランスにあるほっそりとした鼻。天城さんはそこらのテレビアイドルが田舎臭く見えてしまうほどの、とびっきりの美少女だ。

 更に外見と比例して性格も良く、僕のように何の取り柄もない男子生徒にも、平等に礼儀正しく接してくれる。

 同じクラスになった、という幸運は宝くじ一等前後賞込み並の幸運だ。人生変わったもん。

「……そう? でも、どうしてこんな所に一人で立っているの?」

 怪訝そうに小首を傾げる様も絵になる。芸術だ。しかも爆発を信条としないたおやかなアートだ。

「いや」と僕は照れ隠しに一つ咳払いをして、横断歩道を指した。

「この多彩な美しい世界に思わず見とれていたんだ」

 そう、この光に満ちた暖かい世界はどうしようもなく活力を与えてくれる。悩みなど皆無だ。何もない、天国だ。

 だとすれば僕と天城さんはアダムとイブである。

 他に人のいない森の中で、葉っぱで『ある部分』を隠す二人。

 もちろん、天城さんは大部分見えるから恥ずかしがって、茂みから出てこない。茂みで茂みを隠す仕組みだ。

 バカだなあ、二人しかいないのに、それに僕らは未来のために子孫を残さなくては行けないんだ。

 ―天城さーん、出ておいで。

「……どうしたの? 東雲君?」

 はっとすると、天城さんは引きつった笑顔でこちらを伺っている。辺りは森ではなく楽園でもなく、通学路の途中にある車道の前だ。

「う、うん、もちろん」

「そ、そう、じゃ、じゃあ私、行きます……学校でね」彼女はぎこちなく会釈して、横をすり抜けていった。

 呆然と小さな背中を見送ってしまった。同じ目的地なのだから一緒に行けばいいのだが、その時には考えが及ばなかった。 

 ややあって、失敗に気付いたのだが、気球で空の彼方に消えてもイイと考えるほど上機嫌だったから「ま、いいか」で済ませた。

 今日は朝から実に運が良い。この出会いはきっと運命の女神の複雑かつ繊細な糸たぐりによって演出されたものだろう。

 僕はスキップでもしたい衝動に駆られ、足を上げかけたが、そんな背中にばしりと何かが当たった。

 いきなり叩かれた。鋭い指先が突き刺さった。打突という殺人的な技である。

「な!」

 僕が痛みに振り向くと、天城さんより一回りは小さい胸が間近にあると気付く。

「そうやって……」

 柑橘類の爽快な匂いに誘われると、猫を思わせる大きな目が睨んでいる。

「胸の大きさで女の子を判別するクセ、あたしは別に気にしないよ、あんたの勝手だからね」 

 僕が思わず仰け反ると、佐伯(さえき)えりすが嗤った。

「大体、あたしはあんたに小五までハダカを見られていたからね、そんなに悩まないな、何てったって、胸はちょっと大きさが変わったくらいだから、その他の部分に触れたら殺すけど」

 えりすは軽く鞄を持つ手をスイングさせ、凶器に変わったそれの角で僕の膝を殴った。

 痛い、超痛い。

 鞄の革は僕にとって厚すぎる、ヘンなクセにはならないのだ。

「何するんだ!」

 思わず声に出して僕は抗議したが、ちらりとえりすの瞳が持ち上がると、言葉を失ってしまう。

「文句? 言ってみれば? その後どうなるか、わからないケド」

 喉が言葉と空気に詰まった。

 えりすとの付き合いは一五年、その恐ろしさは骨身に染みている。 

「ふん」と軽蔑したようにえりすが目を細めるから、僕の心はポッキーのように容易く折れる。

 彼女は幼馴染みだ。同じ幼稚園のねこねこ組になってから、縁がずっと続いている。 

 幼稚園、小学校、中学校、高校……本当は途切れて欲しい宿縁である。

「うん? 何?」

 勘の鋭い彼女は、下からのぞき込むように威圧してくる。

 父親が欧州人のえりすの瞳は、淡い緑色だ。そしてショートにした髪は仄かに赤く、くせっ毛で所々跳ねている。

 目は大きく、鼻も少し高めで、唇は艶のある紅色。

 誰もが一目見たら、彼女を可愛らしいと思ってしまうだろう。間違えて。

 ぐりっとえりすの靴、学校指定の革靴が僕の靴を踏んだ。 

 彼女の性格は最悪だ。暗黒で真っ暗だ。肌の色は白人の血のお陰で陶器のように白いが、心はブラックそのものだった。クリープのないコーヒーなんて。

 僕もここまで成長するのに、どれだけ傷つけられたかわからない。

 昔はいつも一緒で、誰よりも仲が良かったのに。

 そうだ、昔二人は結婚の約束までしていたのだ。子供の頃のたわいもない誓いだ。だがある時、それは一瞬にしてブチ壊れた。

「それにしても」えりすはくすくすと嗤う。

「あんた、『刃苦怨』にびびってたね? 笑えるなあ、固まって知らんぷり」

 な! いつから彼女はいたんだ? 特有の甘酸っぱい柑橘類の匂いに気付かなかった。僕がインストールした女の子センサーをかいくぐるとは、なかなかのステルス能力だ。スパイにでもなるために留学しろ。

「天城に話しかけられてオドオドしていた、どうせまたイヤらしいコト考えていたんでしょ? 天城とどこどこに行きたいって」

 えりすは体の向きを変え、横目で睨め付ける。

「昔、あたしとお城に行きたい、とか言ってたクセに」

「うう」と呻いてしまった。妄想を看破されただけではなく、封印していた過去を簡単に暴露されているのだ。封印は簡単に解いてはならない、邪神とか人の過去には触れてはイケナイ。

「確か……あんたが王子様で、あたしがお姫様、悪い奴からあたしを助けて、お城に連れて行って……いただきマース、でしょ? くだらない」

 全く記憶力のいい女だ。確かに僕はそんなイタい夢を小学生の頃、彼女に語ったよ。

「天城に言ったら? あたしと小五までお風呂入っていました、って、嫌われるかな? あたしの体をじろじろ見ていましたって」

 えりすはピンク色の舌をちらりと揺らす。

 反論は出来ない、事実だからだ。

 僕は小学五年生まで佐伯えりすの家で、共に風呂に入る事を日課にしていた。性差が判らない頃……と言う言い訳も立つが、実は再後半、邪でもあった。

 えりすが徐々に変わって行くのに、実は気付いていた。成長していくのに。しかし知らんぷりをして毎日鑑賞していた。

 いやー、なかなかの見応えだった。えりす超すげー。

 あるいは今の彼女との仲の険悪さは、いつかえりすがそれに気付いたからなのかもしれない。

「ホント、男として小さいよね? このクズ、あんたなんて誰も見ていないわよ、これからもね、だから何しても無駄」

 棘を隠さぬ言葉が、ぶすぶすと刺さってくる。

「何の取り柄もないクセに、女の子が寄ってくるなんて、あり得ないから」

 容赦なくえりすが嘲るから、日本政府のような穏和の僕も、咄嗟に言い返そうとした。しかし、つい違う方向に向いていた意識のまま、単語を口走ってしまう。

「いちご味!」

 僕は失言に、はっとしてしまう。

「うん?」とえりすは最初は意味が分からなかったようだが、すぐに漂う匂いに気付いた、と察した。

 ばっと両手で自分の唇を多い、睫の濃い目をつり上げる。

「ふ……こ、このど変態! 何嗅いでいるのよ! ゲスバカ拓生!」 

 不本意な言われようだ。ただ彼女が話すたびにイチゴが甘く香るから、えりすの使っている歯磨き粉の味が分かっただけなのに。一所懸命嗅いだけど。

 一時の恥じらいから復帰したえりすは、かっと頬を染めて唇を震わせ、片手で僕のネクタイをひっ掴む。

「ぐえっ」と喉が鳴るが、構わず彼女は力を込めるてきた。もう泣きそうだ。

「く、苦しい……」

「当たり前でしょ? 苦しめているのよ」

 ぐいぐいとネクタイを引っ張っぱられ前後に振り回され、車酔いのように気持ちが悪くなっていく。

 ああ……と僕は慨嘆する。拷問をするえりすはとても楽しそうだ。昔は兄妹みたいに仲良しで『えっちゃん』『くーちゃん』と呼び合っていたのに。幼馴染みが毎朝迎えに来て、朝故に言うことの聞かない男子の一部分について赤面する、なんていうのはやはりゲームの中だけのことなのだ。

 現実の女の子はこんなに酷いんだよ。泣きたいよ。泣かせて、と場末のバーに寄りたいよ。マスターはきっと温かく迎えてくれる。 

「ううう……頼むから離してくれよ」

「情けない」ハードボイルドのマスターじゃないえりすの言葉はきつい、恥も外聞もなく頭を垂れたのだとしても、言い方がある。

 だが、彼女には逆らえない。幼馴染みだからとか、外見は超がつくほどかわいいから、ではない。

 佐伯えりすに……酷い目に遭わされた。遭わされ続けた。

 とても傷つき、とても悲しかった。

 男としての意地として涙は見せなかったが、彼女に対して大きなトラウマがある。

 もうえりすが嫌い、になりかけている。気付いているのか、より彼女は襟首を締め上げてきた。

「ほらほら、早く歩きなさい、あたしを遅刻させる気?」

 彼女のはしゃぎ声に、力無く目をつぶるしかない。

 えりすを嫌いになりそうだ。可愛い女の子を嫌うのは辛い。しかし、彼女はずっと前から僕のことが嫌いなのだろう。

 嫌がらせも度を超している。

「ふふ、んじゃあ学校行きましょう、あたしが連れて行ってあげる」

 機嫌良く笑うと、ネクタイを引っ張ったまま歩き出した。

 振り払うことも出来ず、僕は腰を屈めたままその背を追った。

 惨めこの上ない、散歩途中の犬のようだ。

 通行人達の視線は羞恥心を刺激し、同じ学校の生徒達のささやきが心に新しいひっかき傷を作っていく。違うんです皆さん、これは強制です、そう言ったプレイではありません。いいえ、プレイも好きです。

 僕は背を大きく丸めながら、ネクタイを片手にしているえりすの背を睨んだ。

 今日こそ言ってやろう! そう、ちゃんとした人間関係の形成のために、この暴虐極まりない女に、言わねばならないことが……あ! 

 えりすの背中に、くっきりとブラの線が浮いている。

 こいつめ……こんな嬉し恥ずかし可愛いブラジャーを……何て嬉し恥ずかしい奴なんだ、あのゴボウえりすが……。

 感慨深い。昔の彼女はつるぺたでがりがりで、兄の気分で僕はとっても心配していた。そう考えると大分成長している。今もむしろ痩せているのだが、ところどころに女性特有の肉が付き、柔らかな丸さが肩やら腰やらに見て取れた。闊達で活発な動きも、男子生徒と違って妙にしなやかで艶っぽい。 

 ああ、腹の奥からわき出る炎のごとき怒りが消えていく……これが乙女の力か、くそっ、スゲーぜ!

 しげしげとえりすの背を観察していると、ほんわか暖かいオレンジの匂いが鼻孔をくすぐった。

 えりすのクセに、いい匂い……いかん、えりすごときに……すーはーすーはー。

 迷夢に迷う僕が我に返ると、もう学校にたどり着く直前だった。

 私立巻野高校は街中にある普通の学校だ。三階建てのコンクリート校舎を平行に並べ、その間に渡り廊下がある、外観においてさしたる工夫のない、まさに『学校』といった趣だ。偏差値も五〇から七五と幅広く、部活動においても何ら目立った成果のない、よく言えば大らかな、悪く言えばありきたりな、どこにでもある高校である。

 そんな学校に入るのに、僕は全身全霊をかけた。つまり、もともとの成績は……。 

 暗澹たる僕はネクタイを引っ張るえりすに従って、鎖に繋がれた奴隷のように鉄の校門から敷地内へと入る。

「あ! 何をしているんだい!」

 途端に声が上がる。僕は頭が動かせないので確認できないが、誰かが近づく気配がした。

「何よ?」えりすは一転ひどく不快そうだ。

「佐伯さん! 拓生君を苛めるな!」

 突然糸が切れた凧のように自由になる、何者かがネクタイからえりすの手を払ってくれたらしい。

 視線を転ずると、ぺたっとした薄い胸があった。男だ、がっかりだ。

「うるさいわね、この男女、女男?」

 えりすの嘲罵など何ともない風に、その人物はえりすと僕の間に割って入る。

 虎狼院(ころういん)みやは背が低い。

 僕とは頭半分以上違い、そんなに身長のないえりすよりもさらに低い。

「君はいつになったらその酷い性格を改めるんだ?」

 みやは綺麗に弧を書く眉を曇らせ、えりすを責める。

「関係ないでしょ? あんた何か消えなさいよ!」

 不愉快そうに眉根を寄せるえりすに、みやは珊瑚色の唇を結んだ。

「関係なくないよ! 拓生君は僕の友達だから!」

「うううう……みやー」言い切ってくれたみやに感動した僕は、その小さな背中に隠れて、おどおどとえりすを伺った。 

「もう大丈夫だよ、拓生君は僕が守るよ」

 みやは西洋の少女人形のようにふっくらした頬に微笑を浮かべ、大きく頷いてくれる。

「た、拓生! このゴミ虫!」 

 激発したえりすが再び僕のネクタイを掴もうと手を伸ばすが、ぴしゃりとみやの爪先は弾く。

「佐伯さん、拓生君に対する暴言と暴力はこの僕が許さないよ」

「なによ、この……」

 えりすは険のある目でしばしみやを睨んでいたが、周りの視線が集中していると気付くと、「ふん」と足早に学校に消えていった。

「ふう」と虎狼院みやは額の汗を拭い、僕は「みやー」と解放された喜びに、後ろから抱きついた。ぺったりな胸もなでなで触ったけど、男同士なら犯罪ではないよね?

「あの暴力女は行ったよ、拓生君は優しすぎるんだよ、あいつなんか突き放せばいいのに」

 みやはしかし知らない。えりすの真の恐ろしさを知らないから、こんな事が出来るのだ。「助かったよ、みや、ありがとう、ホント、ありがたい」

 僕は一歩離れて、眩しいみやを見つめた。

 額で一直線に切り揃えられた髪が、風でふわりと浮く。決して不健康なイメージではない真っ白の肌のみやに、その漆黒の髪はよく栄えた。

 みやは、やや厚めのぷっくりとした唇をほころばせて照れた。

「そんな……いいんだよ、僕らは友達だろ?」

 可憐な少女、容姿だけならば虎狼院みやはそうだ。

 だが、だが、だが、だが、だが、僕はかつて生涯で一度、天を激しく憎み、血の涙を流してゴッド・ハン○に転生しかけた。

 可愛くて、可憐で、優しくて、頭も良い、いつも味方の虎狼院みやは……男だ。

 どんなに外見がコケティッシュで、癒し系で、美少女のようでいても、みやの性別はまごうことなく男なのだ。

 そこら辺、一度体育の着替えの時にとっくり確認させてもらった。 

 間違いなく、家の都合で男として育てられた女の子、ではなく、付いているヤローだ。

 だが致命的な欠陥はあるものの、彼はクラスメイトであり、高校で出来たたった一人の得難い友人であるのは変わらない。

 だから少々のミス、先天的な命題を脇に退ける、人間誰だって欠点はあるさ。

「さあ、遅刻するよ」とみやは少女のようにちんみりとした手を、玄関に向けて促した。

「うん……ところでみや、数学の課題なんだけど」

 こくん、彼は小さく頷いた。

「わかった、またやっていないんだね? 写させてあげる!」

 て、こいつなんで男なんだよ! 天のバカ! バカ! 空気読め! ……そうだ、今度モロッコを提案してみよう。

 僕はまだ天のヤローを許してやるつもりはない。今夜も呪いの言葉を呟きながら寝てやる。

 つーか、表に出ろゴッドども。こんにちは無神論者のダーウィンさん。

 

 僕とみや、ついでにえりすのクラスである一年三組に入ると、早速、みやから課題のノートを借りた。 

 背後からえりすの熾烈な視線を感じるが、なるべく考えないことにする。何よりも今は実務が先なのだ。

 しかし、僕の手はシャープペンシルを掴むのさえままならなかった。

 辺りの喧噪の中に、無視できない単語が飛び交っていて、耳で拾ってしまったのだ。

「今朝、『刃苦怨』の連中を見たよ、あいつらホントっ最低」

「三年の斉藤先輩が『刃苦怨』にかなりの金を巻き上げられたって……ほら、こないだお父さんが亡くなって、その保険金を盗られたって……アイツら人間かよ」

「今度バスケ部が試合する西校の間中さんも襲われたって、大学スカウトが来るはずだったのに」

「マツビシ……、あのスーパーの、あそこの酒類が置いてある倉庫が破られたってさ、多分、『刃苦怨』……警察って何してんだ?」

 クラスメイトの大半は犯罪集団への悪態だが、その中に違う名前が紛れていた。

「二年の雛森先輩、尾澤先輩と付き合っているんだって」という、心胆を寒からしめる会話だ。

 全力で耳を澄ますと、気付かぬ女子生徒達が残念そうに続ける。

「あーあ! 尾澤先輩……憧れていたのに……」

「でもさ、雛森先輩ならって思わない? すごい美形カップル」

 確かに、と悲しいけど認めなければならない。 

 雛森(ひなもり)やよい……一つ先輩で、巻野学校のアイドルである。顔立ちは勿論、そのボディは炸裂、という単語に相応しい。

 特に胸の辺りはもう……ホントに何てこった、オーマイガ! 他の小娘どもなど敵ではない。

「昔、大きすぎて男の子にからかわれたの……だから私はイヤなんだけど」

 と恥ずかしそうに両腕で胸部を隠す仕草は、恐らく核爆弾並の破壊力だろう。実際、目にし耳にした僕の下半身は炸裂しかけた。某超大国に知られたらヤバイ、大量破壊兵器はここにあります!

「うっ」その時を思い出し鼻を押さえてしまう、少し前屈みにもなってしまう。

 ぺちん、そんな僕の頬に突然、何かが当たった。

「いたっ」と顔を巡らすと、小さい四角いものがもぽろりと落ちる。

「消しゴム?」確かにそれは消しゴム、文房具屋で売っている粉が付いた高性能なものの、縮小版だ。

 ぺちん、と今度は額に跳ねる。

「うわ」と僕は地味な痛みに怯む。

 振り返ると発射元は二つ離れた席のえりすからだ。口元にわざとらしい笑みを湛えている。

 彼女は片手に持つカッターをちゃかちゃか動かして何か作業すると、拳を大きく振る。

 ぺちん、と唇にまた感触がある。

 はあ……俯いて正面に向き直った。

 まだえりすは消しゴムをカッターで切り刻んで投げつけてくる。後頭部に幾つも当たるが、関わらない方が良い。

 尾澤先輩か……そっちも有名人だった。二年生ながらバスケ部のエースで、今時の清潔そうなイケメンだ。学年に問わず、女子生徒から熱い視線を送られている、嫌な奴だ。 

 女子生徒の舌の先にも上らぬステルス技術の粋を集めた僕とは、天地の開きがあった。

 その二人が連れ立っている姿は、悔しいがとても絵になるだろう。 

「はぁーあ」とシャープペンシルを机に転がした。数学の課題をするには胸が痛すぎる。「雛森先輩の胸って、どんなだろうな? 尾澤先輩、見たのかな? いいなあ、僕も見たい、触りたい、柔らかいのかな?どんな味かな?」

「……ちょっとアンタ……ええと、東雲? 独り言はもっと聞こえないようにしなよ、聞くに耐えないんだケド」 

 あっと気付くと、今までうわさ話に花を咲かせていた近場の女子生徒達の、ムシケラを見下すような冷たい視線があった。

 そんな軽蔑の視線を前にして、僕の心臓は痛いほど跳ねた。

 なんだか興奮する。

 微妙にずれた自分の性癖に気付いた瞬間だった。


 ノートを新調したときを思ってほしい。

 真新しいページを捲り、文字も筆記跡もない一ページ目、最初の一枚は細心の注意を払い丁寧な字を心がけ、色とりどりのペンを使用して、レイアウトなんかも気にしてしまうだろ?

 だが、その新鮮な気持ちと意欲は次のページには続かず、結局、ノートを新調したときのやる気など思い出せなくなる。次のノートを買うまで。

 一年三組に漂う雰囲気は、まさにそれだ。

 最初の数日は瞳を輝かせて本気で受業を受けていた生徒達も、三〇日も経つと三派に別れる。

 当初の志のまま、一所懸命に教師と黒板を見比べる、デキる奴。

 すっかり慣れて油断して、内心別な場所に気が行っているのに、表面だけは勉強している『フリ』をしている大多数の、デキない奴。

 もはや勉強どころか、内申点さえもどうでもいいや、という、熟睡者。

 佐伯えりすは、そのカテゴリーだと『熟睡者』だ。

 消しゴム弾が途切れたと気付き、そうっと伺って見ると教科書を立てて机に突っ伏していた。

『デキない大多数』の僕は複雑な心境になる。

 えりすは勉強などに全く興味を示さないタイプの人間だ。しかし、どういう仕組みなのか、テストとなると必ず僕の上にランクインしている。

 謎の毒電波受信能力でもあるのか、僕の残念さを知っている彼女は、いつもテストの用紙をわざとらしくひらひらと見せびらかしてくる。

 何で世の中はこんなに不条理極まりないんだ?

 数学担当の葉山先生の声を聞いているフリ、をしている僕は、携帯電話のゲームアプリに興じつつ考えてしまう。

 ちなみに、天城さんは学年でトップ争いに入る秀才だし、みやは根が生真面目なので、いつも真剣に受業を受けている『デキる奴』だ。 

 それも謎である。世界は謎に満ちている。なぞなぞ、ではなく、なぞなぞなぞなぞなぞなぞ……だ。

 同じ受業を受けているのに、彼等との間に差が生まれるのがナゾである。

 考えていたら、夢中でやっている携帯ゲームで、悪のドラゴンを撃ちもらしてしまった。

 何てらしくないミスだろう。携帯アプリ界では、世界に冠たるシューターなのに。

 失態に目が覚め、本気でアプリゲームに取り組むために僕は背骨を伸ばした。大事に育てたキャラを失うわけにはいかない。この弓使いは僕の分身だ。もう一つの命なのだ。

「さて、この問題を……そうね、天城さん、黒板でやって下さい」

 ドラゴンにマイキャラがガッツガッツ食い殺されているようだが、もうどうでもいい。どこでなりとも朽ち果てろ、クソ弓使い。

「はい!」と快活に答えた天城さんは、まるで花道を歩くヒロインのように黒板前まで進み、迷いも躊躇もなくちょこりとチョークを取った。

 円筒形のチョークとは思えない整った字が一つ一つ産まれていく。

 天城さんはこんこんと規則正しい、実に耳に心地よい音を立てる。

 それほど身長のない彼女は、後ろの席の生徒にも見えるように精一杯背伸びして、数学の公式を書き込んでいく。 

 僕には答えどころか問題文の意味も分からない設問だが、教師に指名された天城さんは、考え込むこともなく膨大な式を黒板一杯に記していた。

 その後ろ姿は可憐である。

 痩せすぎていない体はなだらかな丸みを帯びていて、しかもくびれるべき所はしっかりくびれており、背後からでも彼女が心身共に健康だと一目で分かる。

 大きな黒板の関係で、彼女が左右に移動し、上に伸び、下に屈むたびに瀟洒な背中の中程まである長い髪が揺れ、僕の心もぐらぐらした。

 ―女の子っていいなあ……。

 頬に鋭い痛みが走り、重い金属の音が机の上で鳴った。

「いた!」と思わず顔に手をやり音の方向を見ると、机の上に銀色のコンパスが落ちてあり、ぎらぎらと反射している。

「うわあ」掌を確認すると、赤い色の滴に濡れている。   

 泡を食って振り向くと、えりすがいつの間にか夢の国から帰還していて、猫のような目を悪意でぎらつかせている。

 シャレにならない! 僕は声にならない叫びを上げた。

 佐伯えりすはいつもこうなのだ。

 中学時代も小学校時代もシャレどころか事件に近いことを平気でやる、平気で僕を苦しめる。冗談とか洒落とか慈悲とか寛容とかという言葉とは無縁だ。思いやりもない……どうやらその代わりに、重いコンパスを持ち歩いているようだ。

 天城さん鑑賞の甘い感覚は消え、背後で立ち上る黒いオーラから身を隠すように肩をすぼめた。

 どうしてか黒板を見ると制裁を受けるようなので、体を横に向ける。空っぽの机が視界に入るから気が滅入る。

 その空席は葛城司(かつらぎ つかさ)のものなのだ。

 ―葛城……。

 世界が陰った。彼女の姿がない。

 それは僕にとって不安で、心配なことなのだ。

 葛城司とは頻繁に会話するほどの仲ではない。中学時代ずっと同じクラスだったが、三年間トータルで声をかけたのは数度だろう。

 だから彼女は僕のことなど何とも思っていないはずだし、同じ高校、クラスメイトになったことも気付いていないかも知れない。

 だけど僕の心は、彼女がここ数日欠席しているのに騒いでいた。

 葛城の大人っぽい姿を、空虚な席に描いてみる。 

 悪い噂を聞いていた。聞きたくない彼女の悪口だ。  

 それを耳朶にすると、吹聴している連中を男なら殴り倒し蹴りを入れ、女ならスカートを捲りかんちょーしたくなる。いや、女子へのは趣味と合致しているからではない。

 葛城の名誉を守るためだ。ためなのだ。 

 ただ、僕はこの思いが、好意とか恋とかそういうショコラ甘いものではない、と判っている。恋愛対象にするには、葛城はカッコ良すぎるからだ。 

「葛城、どうしたのかなあ?」

 とつい漏らしてしまうのは、彼女への恩義故なのだ。 

 悩んでいると、前触れもなくクラスがわっと沸いた。気付くと黒板の前で、天城さんが顔を赤らめている。

「良くできました! 完璧です」

 葉山先生は、化粧気のない顔に笑顔を湛えてクラス中を見回す。

「天城さんはよく勉強をしているようです、皆さんも彼女を見習って下さい」

 三十代後半の独身女性である葉山先生こそ、天城さんに『かわいらしさ』を見習うべきだ、と余計なことを思うのだが口には出さない。顔面いっぱいにそばかすが広がっている葉山先生が、実は陰湿でヒステリックだと知っているからだ。残念ながら僕のような性癖の持ち主も相手は選ぶ。そんな僕の横を、天城さんが頬に手をやりながら足早に通り過ぎていった。

 ふわ、と何か白いものが、目の端に触れた気がした。

「うん?」

 見直すと、丁度一枚の紙がはらりとゴム床に滑る。

 振り返るが、紙片を落とした事に気付かぬ天城さんは、友人達の賞賛に照れながら着席するところだった。

 ―紙?

 頭の中がスパークする。

 ―まさかラブレター? 天城さんは誰かにラブなレターを書いたのか? いかん! デスなノートにそいつの名前を千回綴らなくては! 死に方はこの世で最も残酷な……うひひひひ。

 僕はこっそり椅子から離れて彼女が落とした、四つ折りにされたルーズリーフノートを拾う。

「うわ」と思わず呟いてしまったのは、それにびっしりと何かが書き込まれていたからだ。

 ちかちかする目をすぼめると、数式の連なりで、ラブ的要素皆無のつまらない物だった。

 どんな難しい問題を解いたのか、ノートの端から端まで数字と記号が溢れている。

 ふう、と肩をすくめて、元通りに折り直し、開けた痕跡を消した。

 まあいいか……こんな式、必要か判らないけど、後で返そう、と僕は呑気だった。ノートの欠片などに意味があると思えなかったのだ。

 数学の授業が終わると、すぐに天城さんの席へと向かった。落とし物の返却のためだ。

 が、簡単に叶わなかった。

 人気者の彼女の周りにはイケテル系女子の友達や、内心天城さんを狙っているのだろう、羊の皮をかぶった狼どもと言い換えられる男子生徒達もいるので、人見知りのきらいがある僕には、声が掛けづらい。

 意を決して足を踏み出したが、天城さんと何か打ち合わせしている爽やか系スポーツマンのクラスメイトに不審な目で見られた。

 ―そっか、交流会の……。 

 数日前に短距離のタイムを聞かれたことを、ふと思い出した。 

 近日、新入生交流会と銘打たれた体育大会が催されるのだ。そして天城さんは優れた情報処理能力を買われて、実行委員に選ばれていている。

 男子側の委員であるイケメンのカリントウのような色のクソスポーツマンと、席の割り振りやら競技に参加するメンバーの選出に、休み時間も忙しくシャープペンシルを走らせている理由だ。

 うう、と機会を失った僕は、しばしその場に固まった。

 天城さんの近くにいる女子生徒達が突っ立つ僕に気付き、胡乱そうに見上げてくる。

「何か用? 邪魔なんだけど」という彼女達の冷たい、背筋をぞくぞくさせる言葉が聞こえた気がした。

 当人の天城さんはこちらに気付かず、外見爽やかマンと何か熱心に打ち合わせをしている。 

 心が急速に萎縮した。

 ―こんな紙切れ、持って行ってもバカにされるだけだ。

 結局、僕はがっくりとまわれ右をして自分の席に戻ることにした。落とし物、と言ってもただ『数式』が書かれたノート一枚、天城さんにとってどうでも良い物だろう。

 脱力感に耐え、騙し騙し足を動かし席に着くと、倒れるように机に突っ伏す。

 次の受業の予鈴が鳴ったが、もうどうでもよかった。


「はわ!」と背後から焦りに満ちた声が上がったのは、昼休みの一つ前の三時限目の休み時間だった。

「うん?」

 振り返ると、いつも落ち着いている天城さんが、珍しく青い顔で取り乱している。

「はわあ! な、ない! ない、ないよう、あれがない!」

 鞄の中身をぶちまけ、机を斜めにして慌てている彼女の様子に、近くの女子生徒に尋ねてみた。

「天城さん、どうしたの? 何か知っている?」

「…………」

「シカトしないでよ!」

「ああ」と独り言事件から僕へ軽蔑した眼差しを煌めかせている隣席の女子生徒が、やはり色のない目で、しかし説明はしてくれる。

「……何だか私もよく分からない、数式が何だとか……てか、ヘンな妄想しているアンタは私に話しかけないでくれる? 同類だと思われる」

 視線と後半の言葉に若干喜びを覚える僕だが、前半部分に閃く物があった。

 それって……ついさっき無造作に机に入れた紙片を指の感触だけで取り出す。

「ど、どうしよう……三日かけて計算したのに……」

 あまりに衝撃にボーと停止している天城さんに、意を決して歩み寄った。

「て、天城さん」

「…………」

「あの……もしかして、探している物って、これ?」

 よく見えるように、紙を開いて彼女の目の前で振る。

「はうう!」と突然生気を取り戻した天城さんが、それに飛びついた。

「こここ、これ! です……どうして、どこに、どうやって、どうしたら……」

 彼女が混乱の極みにあるようだから、僕は噛んで含めるような口調を作った。

「さっき、数学の時間、君が落としたんだ、意味がないかと思って、返しそびれてて」

 天城さんの瞳に光が戻った。と、同時に銀河のような瞳がみるみる濡れていく。

 紙を持っていた僕の右手を、彼女は暖かい両手で包んだ。

「ありがとうございます……東雲君……感謝します……あうう、私ホントに困ってて」

 彼女らしくない興奮したような早口に、逆に悪い気持ちになった。

「いや……むしろごめん……いらないかと思って……」

「必要です!」

 周りの生徒達が驚くほど、声は大きかった。

「いえ、すみません、とても大切な数式だったので……拾っていてくれて、ありがとう……」

「いや、それはいいんだけど、これ?」

「実は……この数式は昼休みに必要だったんです……もうホントに必需! 無くした、と思ったとき死のうかと思いました、いいえ、私なんて死んじゃえ! て自分に愛想を尽かしてしまいました」

「そ、そんな大げさな」

「本気です……屋上から跳んだら逝けますか?」

「う」と微かに怯んでしまう。天城さんはいつもにこにこしている美少女だと思っていたが、意外に思いこみの激しい性格のようだ。

「……でもしかし、東雲君のお陰で私この世界に希望を見出し、昼休みの決戦に置いて、万が一の敗北も計算の中になくなりました」

 なんだかよく分からないが、数式の書かれた紙は相当大切な物だったらしい。

「私、今日のことは忘れません、この恩に報いるために、毎年の今日、五月一五日は『東雲君の日』として個人的な記念日にして、大切に供養します」

「て、僕死んでない? 記念日?」

 少し引いた僕だが、天城さんは力強く頷いた。

「そうです、私、記念日を作るのが得意なんです、だから今日はもう『東雲君の日』、前日は『東雲君の日イブ』ですね」

 その前はイブイブです、と指摘する天城さんの、未知な部分に触れたと僕なんかでも自覚できるから、どこか気後れして話題を変えてみる。

「そ、そうだ! すごい式……計算だね? 何の問題してるの? 東大入試?」

 苦し紛れだったが、僕の疑問は本当だ。何桁もの数字と訳の分からない記号を駆使している式など、理解出来ないエニグマの変換物に等しい。

「これは」と天城さんは数式の紙を胸に押しつけ、口元を綻ばせた。

「会話内容です」

「は?」

 なにやら齟齬があったようだ。彼女の答えが判らない。

「本当ですよ」どうやら僕が偉く間抜けな顔だったらしく、天城さんはくすくすと身を揺らす。

「私は何もかも『計算』できるんです、この世界の全て」

「?」僕がもう一度首を傾げると、休みの終了を告げる鐘がなった。

「じゃ、じゃあ……」軽く会釈をして席に戻ろうとすると、彼女は「本当に助かりました」とまた丁寧に礼を述べた。

 と、いう経緯のために、次の受業は全く僕の頭には入らなかった。

 何やら科学らしきことなのだが、右手に残る柔らかな少女の手の感触と、会話している間中漂っていた桃のような香りが忘れられない。

 女のコって……いいな。と浸っている間に、前で講釈を垂れていた目障りなハゲ教師が去っていた。

 思わず振り向いてしまう。四時限が終わった今は昼休みなのだ。先程の紙は「昼休みに必要」と天城さんは言っていた。

 彼女は食事の用意をするでなく、一つ大きく息を吸うと勢いよく椅子から立ち上がる。僕が見つめていることに気付かず、何かを決意したように「うん」と気合いを入れ、強い意志を示しているのか肩を張って、すたすたと教室の後ろ側の扉に向かっていった。 

 はら、とチェックのスカートから何かが落ちる。

「またかよ!」

 見覚えがある……デジャヴだ! なればこれは二週目の世界、一度目は愚かなる人類の過ちにより核の炎に包まれた……否、今日二度目なのだ。僕は急いで教室を横断し、再び落とされた紙を回収した。 

 案の定、一度手にあった計算式の書かれたものだ。

 ―もしかして……。

「天城さん、意外とドジなのか?」

 そんな設定も好きです。

 ともかく、昼休みに必要、と言っていた物を落としていったのだ。彼女はまた困っているだろう。天城さんが出た扉を出てその可憐な背中を探した。

 食事時の廊下は混み合っていて、見覚えのある抱きしめてしまいそうになる背中はなかなか見つからなかった。

 ―だ、大丈夫かな?

 昨日までの僕なら、天城さんを心配しなかったろう。何があっても『あの』天城愛希なら何とかする、と勝手に思いこんでいたから。

 しかし今日、つい先程、その幻想は消え、どんなに優秀でも超がつくほど可愛くても、どこか抜けたところがある彼女の本質を知ってしまった。 

 放っておく訳にはいかない。

 僕は購買部、各種教室、廊下、と半分駆けながら天城さんを探し、ようやくそれを視界に見出した。

 生徒は滅多に使われない、職員室等が入った第二校舎一階の階段だった。

 天城さんは二回り近く縮んだ様子で、ただじっと床を見つめていた。そして、その前に背の高い男子生徒の背中がある。

 僕は思わず教室の陰に隠れ、片目だけでその様子を見守った。

 後ろからでも判る均整の取れた体つきをした男子生徒は、何か彼女に必死に訴えていたが、天城さんにとっては楽しい内容ではないらしい。目を見開いて硬直している。

 これは……僕は顎に手をやり考えた。彼女の様子は何か見覚えがあった。ボーと完全停止……停止、手元の紙、停止、手元の紙。

 僕は隠れていた場所から男子生徒の背後に回り、天城さんが気付いてくれることを祈って、再度拾った数式の紙をひらひらと振ってみた。

 気付いた。

 彼女の顔にさっと血色が戻る。

 ―やっぱり……。

 天城さんはすがるような視線を送ってきた。目の焦点が完全に僕の手の紙に固定されていて、それが動く方向に彼女の顔も傾く。

 ―どうしよう。

 無言の要請に気付き、困惑した。

 男子生徒と二人で話している彼女に、歩いていって渡して良い物か……何かわざとらしく気まずい。

 あ、と心づき、手にした紙を素早くヒコーキに折る。不器用故に不細工な紙ヒコーキになったが、何とかなるだろう。

 えい、と投げるとヒコーキなのに飛行せず、回転しながらそれでもなんとか天城さんの足元には届いた。

「なんだ?」

 男子生徒が、突然背後から紙ヒコーキが投げ入れられた状態に振り返る。

 僕は驚いてしまった。その顔には見覚えがある。

 茶色く染色した髪を長く伸ばしてピンでまとめ、耳には校則違反すれすれのピアスが光っている。顔の作りは非常に整っていて、スキンケアも欠かさないのだろう、男なのに肌がさらさらなキモい奴、バスケ部所属の二年生だ。

 ムカツク奴の上位№一0に入るイヤなイケメンでもあるが、今回のことでさらに一ランクアップした。おめでとう! №9。

「なんだお前?」

 その上級生が、僕の姿に気付いて不快そうに眉を上げる。

 うわ、と半歩下がる。男子生徒はただのイケメンではない。この年頃はヤンキーがモてるのだ、だからモてたいヤローはヤンキーを目指す。天城さんの前の男子生徒も例外ではなく、チーマー・タイプにカテゴライズされる風貌だ。もしバトル的な展開になったら一溜まりもないだろう。

 二ランクアップだ。おめでとう! №7。 

 僕がイケメンの眼光に肝を冷やしている間、天城さんはかがんで足の近くまで届いた紙ヒコーキを拾い、それを開いた。

 じっと内容、数式を見つめている。

「先輩!」とはっきりとした口調で彼女が話し出したから、イケメンは天城さんに視線を戻した。

「私はあなたと付き合えません……私は実は欠点ばかりのダメな女なんです、嫉妬深いし執念深いし、先輩にはつり合いません、きっと先輩にはもっといい人が現れます、では!」

 ここまでで判ったのは、天城さんは告白されていた、ということだった。

「な!」と絶句する№7に深く頭を下げた彼女は、頬を硬直させて僕にずんずんと近づいてきた。

 突っ立ったままの僕の腕をぐいっと掴み、走り出すかのようなスピードでさらっていく。

 訳が分からないから、なすがままだ。拉致は犯罪です。お返しに犯罪的なことしちゃうぞ。

 そして僕が天城さんに連れてこられたのは、学校の屋上だった。

 梅雨の六月が近いと言っても、まだまだ五月の空は輝いていた。真っ青な空に、何者にも邪魔されない太陽が輝いている。

 天城さんは人気のない屋上まで来ると、浅く早い呼吸を繰り返しながら手を解放してくれる。

「また、また助けられちゃったね」

 彼女のはにかみは天上界の天女のようだ。ほら、僕の視界に白い天使が舞っている。

 ―いかん! 感激に気が遠くなっていく。天使って可愛い……蘇る信仰心。さようならダーウィン。

「いや! ええっと……」

 己を克己し意識の混濁に耐えた僕に、天城さんは明るく笑った。

「あのね、私、あの先輩に三日前に告白されたんです……返事が今日だったの、だから断るために計算したんです」

「け、いさん?」

「うん、私……実はあまり他の人とのコミュニケーションが上手く取れなくて、いちいち計算しないとダメなんです」

 コミュニケーションが上手く取れない……驚きの言葉だ。あんなに皆に信頼され、友達もいる、実際、天城さんの周りは彼女に好意を抱いている者達でいつもいっぱいだ。

「それは……」疑問に彼女は人差し指を太陽に向けた。

「計算しているからです……それを私は神算星読(計算終わりです)、と呼ぶことにしています」

「神……? けいさん?」

「ええ、どんな風にみんなと接したら良いか、どんな風に勉強すればいいか、どんな風に会話をすればいいか、みんな計算するの」

「ええっと…………数字で?」

「はい」と彼女はノートの一枚、みっしりと書き込まれた式の面を向ける。

「私は何もかも計算できるんです、こうやって式を作って、この世の何もかもを、それが例え理系でなくとも、古文とか運動とか、全部……それが神算星読(計算終わりです)」

「はははは」と僕は笑ってみた。

「じょ、冗談だよね?」

「いいえ……そうですね、みんなには良く分からない、て言われますね……でも本当、私、人の行動も計算できます……うん、そうだ! これ」

 天城さんは手にした紙片に目を落とし、折り目のまま折り返した。先程僕が折った紙ヒコーキを再生させたのだ。

「これ、ここから投げるとどこまで飛ぶと思います?」

 彼女は学校の屋上から、見知った街並みを示す。

「そんなの」天城さんの瀟洒な手に似合わない、自分作なのが切ない不細工ヒコーキを見つめて、僕は首を振った。

「すぐに落ちるよ……実際、さっき飛ばなかった」

「いいえ……」

 たおやかにかぶりを振った天城さんは、周囲の風景を何度も見回して、口の中でぶつぶつと何か呟き始める。

「……ええっと、ううんと、うーっと、だから、そうして、こうなると、ああなるから」

 そして彼女の目は清廉な空色になる。

「神算星読(計算終わりです)、終了」

 次の瞬間、紙ヒコーキは飛び立った。それほど振りかぶってもいないのに、魔法のようにテイク・オフする。

「うそ」僕の口は開きっぱなしだ。

 紙ヒコーキは飛翔する。

 つい先程一メートルも空中にいなかったはずなのに、落ちる様子など素振りもなくぐんぐんと空を滑っていく。

 あっという間に白い点になってしまった。

「て! あれ、何メートル飛んだの? これ何? 魔法? 君は魔法使い? 魔女っ娘アニメも大好きです!」

 ―懐かしアニメ特集で見たけれど、昔の魔女っ娘アニメってさ、恋人の中の人って同じだったよね? つまりみんな一人の声優がモノにしたのかな?

「いいえ、計算したんです」もう全く違うことを考えていたのだが、天城さんは気付かなかった。

「ええっと」

「……風の向き、空気の厚さ、紙の質、全てを計算して、絶対に落ちない道を見つけて、そこに置いたの」

 さっぱり判らない。この娘、可愛い顔して異国の言葉を口にする。

「これが神算星読(計算終わりです)です」

 恥ずかしそうに、恥じたように彼女は顔をそむけた。

「あれって……どこまで行くの?」

 まだ辛うじて視界にある白い点に目をすぼめながら、僕は意味もない質問をしてしまう。

「はい、あと20メートルほどで電信柱にぶつかり、その下のゴミバケツに入ります」

 ―そこまで……けい、さん?

 徐々に事態が判ってきた。

「これ、スゴい、天城さん、凄い! 超スゴい! それ、いいなー」

「あ、ありがとうございます」

 素直な天城さんの手を、僕は興奮して掴んでしまう。

「いや、これって超能力みたいだよ! もはや人間のレベルを超越しているよ、この下等生物ども、って他人を罵倒できるよ! 天空の城から落下していく人を、ゴミと言えるよ、まあダメなフラグだけど……羨ましいなー、クラスのみんなに言ったらきっとスゴく」

「それは、やめてください」

 彼女の顔が青みがかり、僕の手から自分のそれをすっと抜く。

「で、でも」

「私の計算は、実は他のことにも使用しているんです……その、他の人との良好な距離の取り方、とか悩みの聞き方とか、だからバレたら私、困るんです……それに」

 困る、バレた所でこんな高度な技を遮られる者はいないだろう。だが天城さんは真面目に続けた。

「……そして、残念なことに記憶力はさっぱりなんです、だから難しい問題だと計算式を見ながらじゃないとダメなんです、人との特別な会話とか」

 落ち込んだような姿だが、僕にすればあんな膨大な数式を覚える方がどうかしている。

「だから、さっきは助かりました! お付き合いお断りしますの数式をまた無くしてしまって」 

 なんとなく、なんとなくだが感謝の理由に思い至った。

 つまり、天城さんは僕らが思っていた完璧少女ではなく、ずっと陰で努力して来たのだ。『神算星読(計算終わりです)』という……訳の分からない能力があるようだが。

「で、でも」

 ここで疑問を見つける。

「さっきもそうだったの? 告白を断るために? こんなに計算しなくても『NO、キモい! 何うわごと行っているのよ? あたしと付き合う? バカなの? それとも自分がミジンコよりも程度の低い下等生命体であることがわからないの? ああ、バカだから判らないのね? もういい、死になさい、ほらほら早く! 仕方ないわね……選ばせてあげる、消滅するか死ぬか殺されるか、どれがいい? ああ、面倒、どんな死に方がイイ? もうっ、イラつく、殺される前に言うことはない? すっごく痛いけど泣き叫んでいいわよ』で十分じゃない?」

 天城さんは何でか目をぱちくりさせ「そ、そんな酷いこと……」と消え入りそうな声だから、僕は首を傾げた。

 これは目の前で昔聞いた言葉そのままだ。『ある女の子』が人気の上級生に告白された時、その『女の子』……S・Eは前々から用意していたかのように流暢に、告白者の心をへし折った。ちなみにプライバシーの問題で『女の子』はイニシャルまでです。

 佐伯えりすだけど。

「もしかして」僕は困ったような天城さんを見ていて心づいた。

「て、天城さん、も、もしかして……好きな、お慕い申し上げている人とか?」

 ―だからあんなイケメンを? ちくしょー! デスなノート、デスなノート、死に方は、ふふふふふふ。

「い、いいえ」危険な予兆に天城さんは両掌をふるふるした。

「私のこの力、気味が悪いでしょ? だから嫌われる前に、出来るだけ相手を傷つけないような感じでお断りしたかったんです」

「はあ」

 何言ってんだ、このめんこい娘っ子は、フられて傷つかない男はいないって。それがえりすの暴言だろうと、天城さんの誤魔化しでも、それにまず……。

「な、何言ってるの、天城さん! 君のこと嫌いになる男子なんていないよ! 少なくてもこの次元の生命体では、あ、アナザ・ラブを抜かしてね……この能力だって凄いじゃないか、欲しいくらいだよ、ホントに欲しいよ僕」

 そうすればテストで泣きを見ることも、無神経教師に皮肉を言われることも、親に小遣いを減らされることもない。超欲しい。持ち主ごと欲しいです。

 天城さんはばっと頬を抑えた。なんだか燃えているように顔が赤い。

「そそ、そんな、私……」

 謙遜など必要ないのだ。凄いと本心から思ったのだから。

 実のところまだ『神算星読(計算終わりです)』とやらは判らないが、チートに近い。否、チート能力そのもの、格闘ゲームで登場したら即、キャラ禁止に違いない。無理に使ったらリアルバトルに発展だ……交際を断る方法を計算するのに三日間かかるらしいが。

「本当に感謝してます、東雲君にまた拾って貰わなければ、私、断り切れなかったかも……だから、やっぱり今日は『東雲君の日』として個人的にパーティを行う日にします、もうスイーツ食べ放題です、うれしいです、ありがとう」

 妙な感謝のされ方だが、悪い気はしなかった。何と言っても今まで見つめるだけだった天城さんとこんなに話せた。

「いやあ、ただ落とし物を届けただけだよ、すっごく苦労したケド」

「それに、私の力を羨ましがってくれたのは東雲君だけです、私、実はこの力、いらない物だと思っていたのに、東雲君は他の子と違って気味悪がらない、うれしいです、私」

 天城さんが一歩進み、僕のパーソナル・スペースに自然と入った。

 このままいい感じになりそな雰囲気だ。きっと今なら天城さんと簡単に仲良くなれる、きっと今なら。

 僕の全身は突然むずがゆくなった。

 まだ彼女と話したいのだが、余程太陽光線が強いのか頬が焼かれているように熱い。とてもこの場にいられない。暑いよう。日陰に行こう!

「じ、じゃあ……僕、昼ご飯た、食べるから、またね」

 ぎこちない笑いを浮かべ、僕は出来るだけ自然に背を向けた。暑いからだ。

 心臓が胸の中で跳ね回っているみたいだった。きっと、こんな僕は世間では『チキン』とか『チャンスを逃す愚か者』とか罵られるんだろうが、それでも良いような気がする。

 ま、イイ事したんだし、と肉食系の恋愛女神に言い訳しながら、伸びた鼻の下を揺らして教室に戻ることにした。

 どずっ、と鈍い音が、一年三組に一歩踏み入った僕の傍らで鳴った。

 反射的に見た音の方向には白い壁があったが、人の拳ほどある銀色の鉄塊がめり込むのも確認できた。

 うああ、と僕がか細く鳴くと、鉄塊はぼろっと壁から落ち、ずどんと床に転がった。

「拓生! このゴミ! どこ行っていたのよ?」

 消しゴムとかコンパスとかとは比べ物にならない凶器を、むしろ狂気を投げてよこした佐伯えりすが、近づきながら詰問してきた。

「な、なな、何て事をするんだ! これ……死ぬって」

 ゴム床でぎらぎらと殺気を発散する鉄塊に目眩を覚えると、えりすは薄く笑って指を鳴らす。

「そう? おっしー」

 天城さんとの交流で上がったテンションが急激に落ちいく、頬当たりの温もりも冷え切った。

「こ、このあり得ない凶器は何だよ! 学校に、神聖なる学舎に何を持ってきているんだ! えりす」

「うるさいわねえ、それは文鎮よ、ノートとかを固定するための文房具、どこからどう見ても合法な、まっとうな勉強に必要な道具」

 文鎮、言われた僕は異称文鎮を見直した。

 話しに聞いていた文鎮とは、もっと平和的な創造物だったはずだ。えりすが投擲した塊はいびつに丸く、どこかの採掘場から掘り出された生々しい鉄そのものだ。

「どっからこんなもの見つけてくるんだよ!」

「どうでも良いでしょ? てか、実は敢えてハズしてあげたんだからね? さあ言いなさいよ! どこに行ってたの?」

 気配を感じて遮ろうとしたが、その前にえりすは鉄塊を拾い上げ、肩の上に構える。いつでもカタパルト発射可能だ。

「ど、どこって……わー、やめろよ!」

 教室は静まりかえっている。さすがに誰もが彼女の取り出した文鎮に、度肝を抜かれている。

 だが。

「き、君は何て事をするんだよ! 頭がおかしいのかい?」

 一人、たった一人だけ僕のために猛獣に立ち向かってくれる者がいた。小さな体を確認するまでもなかった。

「み、みやー!」

「これはある意味犯罪だよ! 常軌を逸しているよ、君はどうしようもないな! もうこうなったら僕が罰を与えるよ」

「毎回毎回毎回うるさいわね! この女男! これは拓生とあたしの問題でしょ? キモいから入ってくるな!」

「君は自分がどれだけ拓生君に迷惑かけているか自覚しているのか? 拓生君は君の存在により不憫で不当な目に遭っている、かわいそうな子犬ちゃんなんだよ、君は拓生君にとって邪魔なんだよ!」

「邪魔? 邪魔ですって? あたしが? この……あたし?」

 突如えりすの表情が変わった。今まで見えていた余裕が消え、端整な顔が歪む。

「そうだよ、君さえいなければ拓生君の周りは平和なんだ」

「…………」

 はたと気付いた。えりすが無言だ。

 それは、それは、とても、とても、危険な、兆候なのだ。

 彼女の顔を覗いてみると、案の定えりすは人形のような無表情になり、目、左側の色が変わり始めている。緑の光彩が金色へと……。

「お、屋上です! 僕は屋上にいました、これでいいですか? えりすさん」

 えりすの変化に心底怯えた僕は、彼女の疑問を解消することにした。

「……屋上? 何してたのさ?」

 えりすは相当機嫌が悪い、その証として地を這うように低い声だ。

「う、うん、天気が良いから……日に当たってた……ホント、だからもう良いかな?」

 僕がなめくじより下手にると、えりすはしばし虎狼院みやを見返していたが、「ふん」と踵を返す。

「拓生君、大丈夫かい?」とみやが僕を案じてくれるが、実は違う。

 命の危機にあったのは、むしろみやの方なのだ。

 怒りを隠さず、通路の机や椅子やらを蹴りながら進むえりすの後ろ姿を、僕は恐怖の眼差しで見送った。


 こんこんと天城さんは変わらず躍動的にチョークを走らせている。現在、黒板に書いているのは数式、ではなく英語の長文なのだが、恐らく『計算』済みなのだろう。

 彼女の解答が正しいことは、傍らで見守っている英語教師の大木先生の余裕で判る。

 やはり彼女の『神算星読』は凄い、感心してため息をついてしまう。

 天城さんの本質と微かに触れあった屋上以来、僕らの仲は急速に近くなっていた。

 恐らく、今まで彼女の周りにいた者は、頭が良い、真面目で、優しく明るい、完璧な美少女、としての天城さんしか見ていなかったのだろう。

 しかし、僕は天城さんが実は人付き合いが苦手で、あまり物事に自信が無く、どんな事柄も事前に計算しなければ試せない内気な普通の女の子だ、と判ってしまった。

 それを前提にして彼女と接している内に、いつの間にか関係性が変化していた。

 どこが? と聞かれたら困るのだが、明らかに僕だけに見せてくれる笑顔と、こっそりと囁く言葉がある。

 時にそれは、万人に愛される彼女とは思えない一言であったりするが、僕は納得した。

 やはり天城さんも感情のある、むしろ多感な年頃の少女なのだ。

 天城さんが英文を書き終わると、大木先生は大げさに手を叩いた。彼女は恥ずかしげに視線を落とし、席に戻る。

 一瞬目があった。

 瞳がぱっと輝いたように、彼女の唇が綻んだように見えた。

 ごごごごごという黒い波動を感知し、一瞬で背筋が強ばる。 

 僕は振り向かない、その必要がない。二つ離れた後ろの席で、えりすが憎しみに双眸を輝かせていることは知っている。

 どうしてか、えりすの様子がおかしい。

 いつの間にか嫌われていた、から、いつの間にか殺意を持たれていた、にレベルアップしている気がする。クラスチェンジと言っても良いね。僕的には生命的にダウンだから、来世にチェンジ! てところだ……笑えないって。

 かつてのように何かを投げつけたり、という直接攻撃は減ったが、その分無言の圧力は大きく、重く、熱くなっているような気がする。

 額の汗を拭きながら、急いで思考を戻した。

 天城さん……彼女の『神算星読』というのは実はまだ良く分からない。

 放課後、赤く暮れた教室で二人きりの時に詳しくコツを教えてくれたが、まず僕には数式で英文を解く、という意味が分からないし、運動等も数式の連なりだ、という主張にぴんとこない。

 恐らくそれは彼女の特殊な才能なのだ。

 音楽家や画家のような芸術的な、天からのギフト。

 それを駆使して、毎日遅くまで新入生交流会の一年三組必勝の数式とやらを組み立てているらしいのだが、細かく説明して貰っても、ギフトを受けていない僕にはちんぷんかんぷんだ。中に僕の一〇〇メートル走のタイムも記されていた。頭が痛くなったので、それについて細かくは尋ねていない。

 天城さんに任せておけば全て大丈夫に決まっている。

 

 新入生交流会は巻野高校の伝統行事だ。

 趣旨を簡単に説明すると、入学してから二ヶ月経ちそろそろ学校環境になれた新入生達と、上級生達をより仲良くさせるために、大規模な運動大会をしよう、という趣旨だ。

 全校生徒参加必須行事の一つであり、野球、ソフトボール、バスケット等の球技から、短距離、長距離、リレーまで、およそ受業で行うスポーツの全てにクラス単位で参加して順位を競う。大げさな事だが、一年生の運動に関する学年順位を上級生にランク付けされてしまう、意外に重要な催しでもある。

「勝ちます、計算通り」

 それに関して、天城さんはかなり自信があるようで、ホームルームの時、高々と宣言して見せた。

 一年三組担任、細井先生の諸注意が終わると、クラスメイト達はそれぞれ参加する競技の時間が書かれたプリントを手に椅子を立つ。

「さてと……」

 僕もプリントでひらひら扇ぎながら、廊下に出た。

 出場する一〇〇メートル走と走り高跳び、バスケットが始まるのには早いが、その他の時間はクラスメイトを応援する、という暗黙の決まりがある。

 ウザくてだるいが、朝一から始まる女子ソフトボールでも見に行こうかと決めた。

 女子のチチも揺れるし……ケツも揺れるのだ。 

「東雲君!」

 突然呼ばれたので驚くと、はにかむ天城さんがいた。

「て、天城さん……どうしたの?」

 彼女は頬そめて視線を下げる。

「あ、あの、私、一所懸命計算しました……だから、頑張って下さい」

「あ、うん、ありがとう!」

 意識して力強く言うと、彼女の表情が輝いた。 

「あ、拓生!」

 このままもう少し天城さんと言葉を交わしていたいが、不機嫌そうな声のえりすが割って入る。 

「な、なんだよ?」

「あたし、バレーに出るんだけど、応援しなさいよ!」

 えりすは猫を思わせる目をつり上げ、命令してきた。

「だって、バレーは一〇時からだろ? ソフトボールがその前に……」

 えりすのほっそりとした指が持ち上がり、僕の耳をぐねっとつまむ。

「いたたた、離してよ」

「バレー、体育館、今から、練習、あるの!」

 どうやら試合前のアップから応援しなければならないらしい。

「意味ないだろ!」

「あるわよ」とチチ揺れ鑑賞を望む僕の抗議が、あっさり叩き落とされた。

「あたしたちの初戦の相手、一年四組、運動バカの集まりなのよ、バレー部で一年レギュラーのゴリラブスもいんだから、結構しんどいの」

 だからって僕が練習からいても変わらないだろうに。チチが揺れるんだぞ、ケツも。

「来なさいよ」

 えりすは僕の願望に構わず容赦なく耳を引っ張り、激痛に涙がにじむ。

「大丈夫です」

 その悲惨な姿が哀れだったのか、天城さんが入ってくれた。

「何? あんた?」彼女を認めて、えりすは舌打ちをする。

「……あんたは適当に競技決めたけど、勝てるかどうか判らないのよ」

「大丈夫です、勝てます」

「は?」

 僕の心胆を真冬にさせる苛立った様子のえりすに、天城さんは真剣に訴えた。

「私は計算しました、皆さんの運動能力、クセ、性格、人間関係、全て計算してメンバーを選びました、だから計算上、一年四組には負けません」

 心なしか彼女が胸を張ったようだ。僕の視線は豊かな丘に釘付けだ。

「へええ」とえりすは見下したように肩をすぼめた。

「それは凄いわね……で、だから?」

「だから、勝てます、計算通り」 

 冷ややかなえりすに抗して、天城さんも眉根を寄せた。

「ふ」その様子を、佐伯えりすは嗤う。

「計算……どおり?」

 僕の胸にごつごつした暗雲が嵩張りだした。

 嫌な予感は質量を持っている、肩当たりも重たくなった。

「そう」とえりすは僕の耳を解放した。

「判った天城さん、そうね、あんたを信じてみる、何てたったあんた、頭イイもんね?」

 僕は思わず顔を上げた。

 えりすらしくない優しい言葉だ。あり得なさすぎる、たまらなく不穏だ。

「んじゃあね、拓生、あたしたちの勝利、計算された勝利を待ってててね」 

 わざとらしく手を振ったえりすは、僕が何かを言う前に駆けていく。……廊下を走ってはならない、という常套句は通じない。廊下を走る子はやはり悪い子なのだ。

「……大丈夫ですか? 耳、酷いですね」

 呆然とする僕を天城さんが気遣ってくれるが、普段なら嬉しいだろうに、考えが及ばなかった。

 酷い悪寒に震えが止まらない。

 ―悪い予感がする……。

 フォースに乱れがある、と大銀河を守る騎士なら看破しただろう。 

 

 一年三組は天城さんの計算どおり、華々しい勝利を、あげなかった。

 それどころか、五クラスある一学年で最下位にランク付けされてしまう。つまり、惨敗した。

 悄然とクラスに戻った僕を待っていたのは、不景気そうなクラスメイト達だ。

「どうして?」

 思い出すのは天城さんが真剣に計算する姿だ。あんなに集中して一人で放課後まで残って計算したのに、何もかもが覆された。 

 元気のないみやが、気配を察して説明してくれる。

「何だかヘンだったんだ、僕らのクラス……その、みんなやる気がなかった、というか、自身がなさそうだった」

「えええ」僕は腰を抜かしそうになった。全てを計算出来る天城さんでも、人間の行動に関してだけは各個人の協力が無ければ、皆が持てるポテンシャルを活かすことが出来ねば、数式通り物事を動かせない。

 ふふふふ、と聞いていた佐伯えりすは可笑しそうに身を折る。

「計算外、て言うモノがあったらしいよ、だから大失敗」

「何だよそれ?」

 僕はたまらなく不快になる。クラスの力量を試される場での失敗を笑う彼女の気が知れない。

「みんな天城さんを信用しなかったのよ」

「え?」

 俄に理解できなかった。彼女はあんなに人気者だったではないか。

「バカね、拓生」とえりすが呆れた。

「一人で張り切って、けいさん、とか言っても誰がついていくのよ、みんな実は気持ち悪かったのよ」 

「そんな……」

「まあ、絶対に勝つハズだったバレーが一回戦敗退、ド惨敗したから、みんなさらに疑いだしたんだけど」

 その瞬間、僕は悟った。超能力でも毒電波でも言え。判ったのだ。

 えりすだ。

 佐伯えりすは、クラスの天城さんへの不審を見抜いていて、それを最大限利用すべく、わざとバレーで負けたのだ。天城さんの計算では圧勝だった試合で。

「て、天城、さんは?」

 奥歯を鳴らしながら策謀の士に尋ねると、えりすは目を細める。

「計算ミスです! はわあ! とか言いながらどっかに逃げていったわ、あのお嬢様」

 くすくすと、鈴を鳴らすように笑う。

「本当、サイアク」彼女に同調した女子生徒達が囁き合っている。

「天城さん、あんなに自信タップリだったのにね、何? 計算って! キモいっての」

 ひそひそと彼女に関する悪意の花が咲く。

「俺たち最下位かよ、違う人に決めて貰えば良かったな」

 本来ならば養護するはずのイケメンスポーツクソ野郎が、仏頂面で肩をすくめた。

「ふざけんな!」

 僕は怒鳴っていた。腸が煮えくりかえるとはこの状態だ。きっと今なら人食い虎も、僕のホルモンを美味しく頂けるだろう。

 天城さんは必死で、クラスのために計算していたのだ。その姿はずっと目にしていた。

 誰よりも早く登校し、なのにずっと遅くまで学校に残って、クラスのために訳の分からない数式と格闘していたのだ。

 僕はスポーツ中毒の胸ぐらを、強く掴んだ。

「で、天城さんは? どこに行った!」

 突然の剣幕に、クラスメイトは目を白黒させている。

「知らないわよ!」不機嫌に答えたのはえりすだ。

「負けが決まったら泣きながら走っていったわよ」

「くそ」

 僕はスポーツバカを突き離すと教室から出た。

「なにさ、拓生!」

「拓生君!」

 えりすとみやが背後で驚いているが、構っていられない。

 ―天城さん。

 僕は探した。真面目で、どんなことも計算できて、しかし実は万事自信のない天城さん。

 新入生歓迎会が終わり、倦怠のようなゆったりとした空気が流れる校舎を、走って走って、走って走って探した。

 彼女の可憐な姿はない。

「天城さん」一つ呟いて、唐突に思い出す。

 彼女と初めて胸襟を開いて語り合った場所だ。二人で見送った紙ヒコーキ。

「屋上!」

 予感は的中していた。

 階段を駆け上がり、鉄の扉を押し開くと、どんよりとした雲の下に天城さんはいた。  ちっちゃく、萎れた花のように、屋上の隅で体育座りをしている。

「天城さん」

 僕はその儚げな背中に優しく声を掛ける。

「はう?」

 彼女はちょっこっと頭を動かす。

 僕は悶死しそうになる。

 萌えた。めがっさ萌えた。

 ―天城さん、隠れ眼鏡っ子だったんだ。

 彼女は見慣れない黒縁の眼鏡を掛けていた。それはそれで凄く似合う。

 ―萌え、萌え! これは効くぜ、写メ撮ろうか……。

 が、彼女の表情を覗いて、とろける顔の筋肉を無理矢理ひきしめた。

 泣いてなどいなかった。それどこらか悲壮感の影など、どこにも纏っていない。

 余計に僕の心はずきずき痛んだ。無理をしているのが、はっきりと判る。

「えへへへ」と彼女は気丈に笑ってみせる

「失敗しちゃった……計算ミス」

 天城さんは紙の束を持っていた、どうやらここで再計算していたらしく、眼鏡のプラスティックのふちに指を当てる。

「ほら、ここ、ここが違うのよ、ここ、ここよ、ダメだよね? みんなに迷惑かけたし」 平然とした風を装っているが、相当応えている。ルーズリーフをみっしり埋め尽くす数式に、赤字で大きな×がいくつも記されていた。

 冷たく、痛くすら感じるくらいの強風が突如屋上を駆け抜け、天城さんの体は傾ぎ、手にした計算ノートが宙にさらわれてしまう。

「ああ!」彼女は顔をしかめた。

「なくなっちゃう! 計算式、また間違っちゃう!」

 慌てて空に舞う紙を集めようと、天城さんは手を伸ばした。

「天城さん」

 その姿のあまりの痛々しさに、僕はつい反射的に彼女を抱きしめていた。

「わ、私、計算、ミス」

「いいんだ! もういいんだ! ごめん、ごめんね」

「え?」

「僕は、僕らは狡かった、何もかも君に任せて、考えたら、君は一人ですっごく頑張っていたのに、実は気味悪がってて……僕たちは君があんまりにも何でも出来るから、甘えていたし、嫉妬していたんだ」

「そんな……」

 しばし彼女は絶句する。

「ま、間違えたのは、私、です、お父様やお母様にもビジネスや経営の世界で計算ミスをしてはいけない、てずっとずっと躾られて来たのに、私、ミスを」

「僕が悪いんだ! もっとみんなに君の力を教えるべきった、君の持つ才能を」

「そ、それはだって……きっと皆さん、私の計算の事なんか判ってくれませんよ、それはいいんです」

「良くない!」

 僕は叫んでいた。びくり、と天城さんの体が震えた。

「君に頼りっきりで、甘えて、任せて……本当はみんなで頑張らなくちゃならなかったのに……ももも」

「ももも?」

 天城さんが不思議そうに聞きとがめるが、僕は動揺の荒い息をつく。

 彼女を抱きしめると桃のような芳しい香りに覆われたのだ。耳の後ろにはフェロモンを出すアポクリン線がある。女子の香りはクセになりそうだ。

 僕は一瞬前の真面目さをすっ飛ばし、彼女の首筋に鼻をつけた。

「はわわわ」と天城さんが狼狽したので正気に帰る、彼女は電灯が灯ったように真っ赤だった。

「ぎゅっとされた……」

「ご、ごめん! これは、なんというかセクハラじゃなくて、元気づけというか……とにかく犯罪に類することでは……訴える? 土下座じゃだめ?」

「初めて……ぎゅっとされ、ました、力一杯ぎゅっ」

 僕を見上げてくる天城さんの瞳が。眼鏡越しにきらきらと輝く。

「誰にもぎゅっとされたこと、ないのに、東雲君が、ぎゅっとしました」

 ぎゅっ、ぎゅっ、と何やら彼女はぶつぶつ呟いている。

「み、みんなの事は気にするなよ、ぼ、僕が説明する……それでダメでも、僕がいる」

「え?」

 必死で言葉を選んだけど僕の喉は痛んだ。まだ、その話題は多大なるストレスと同義だ。

「ぼ、僕は中学時代、みんなから嫌われて、シカトされていたんだ……」

 天城さんとの接触で上がったボルテージが急降下していく。

「辛かった、今でも泣きそうだし、夢に見るよ、でも、たった一人僕と話してくれた友達がいたんだ……それだけで、僕は救われた……君がクラスで孤立しても、僕は君を一人にしない! 間違いがなんだ! 間違わないヤツなんかいないんだ! 僕なんて、人生の大半間違えている、この間のテスト、カンニングしても二十一点だった、でも平気」

 彼女は何度か瞬きをしてそんな僕を見上げていたが、力強く納得する。

「わかりました……私が弱かったんです、間違えたのなら、皆さんに素直に謝れば良かったのに、悪く言われるのが怖くてこんな所に逃げてきて、私、私、弱かった、東雲君は自分を貶めてまで励ましてくれる強い人なのに、なのに」

 ……かなり僕を過大評価してくれた彼女が、ぐぐっと拳を握る。

「私、もう気にしません、計算ミスも間違いも恐れません、私は間違えながら成長していきます!」

 天城さんの目は、今までにない強い意志を宿していた。

「ありがとう、しの……拓生君、私もクラスで一人になってもいいです、そんなのもう怖くありません、あなたがいるから」 

 そして彼女はしっかりとした足取りで歩き出した。


「皆さん、ごめんなさい! 私のミスでした」

 天城さんは黒板の前で、深々と頭を下げた。

 突然現れ、迷いなく進み出て、頬を紅潮させながら謝罪した彼女に、クラスは静まりかえった。

「なによ」とえりすの態度は変わらない。

「謝って済むんだったらケイサツいらないっての」

 彼女の行動をはらはらと見守っていた僕は、えりすの心ない台詞に腹が立った。

「なによ、バカ拓生、またやるっての?」

「何かおかしいよ、みんな」

 勢いよく立ち上がるえりすを、冷静な声が止める。

「大体、最下位になったのはみんなの力が足りなかったからだよ? その責任を一人に押しつけて、自分は関係ないなんて、みっともないよ」

 虎狼院みやの指摘に、皆こそこそと囁き合う。

「たかが運動会じゃないか、最下位がなんだ、むしろこれからの成長を見て貰おうよ!」

 美麗な中学生女子のようなみやがクラス中を見回すと、趨勢は決まった。

「そうよね」と先程、天城さんを罵った女生徒が息をつく。

「私、けっこう頑張ったケド、他クラス強かったもんね」

「ああ……俺も実は自信なかったんだ、ケドまあまあ良い勝負だった」

 張りつめていた空気が、ゆっくりと温かくほぐれていく。

「天城さん、良くやったよ、もし天城さんがいなかったら、きっと最下位どころか惨敗だった、きっと計算してくれたからだね」

「俺はもともと、彼女が悪いなんて言っていないけどね」

「ちょっと!」

 そんな柔らかなムードに傾く教室の中、佐伯えりすは自分の机を盛大に蹴飛ばした。

「どいつもこいつも……あたしたちはあのトチ狂い計算女のせいで他のクラスから見下されるのよ? それでいいの? 拓生なんてそれでなくても取り柄がないのに、運動でも他のクラスに嗤われるのよ?」

 えりすの熾烈な眼差しに、再びクラスメイト達は黙り、天城さんも項垂れた。

「だ、だったら」ここで遂に僕は切れた。ずっと溜まっていた、ずっと言いたかったことが、許容量を超えた堪忍袋から漏れだしたのだ。

「お前が一人で頑張れば良かったじゃないか!」

「え?」

 僕に一喝されたえりすの顔に、戸惑いが浮かぶ。

「自分だってバレーで負けたクセに他人のせいなんて、それは違う、狡い」

 どうやら痛いところをつかれたようで、えりすは固まった。じっと僕に見開いた目を向けている。

「天城さんは悪くない」その後すぐ他の生徒達はそう結論して行き、天城さんは皆の輪に笑顔で戻ることが出来た。

「うう、ありがとう拓生君、あなたのお陰です」

「そ、そんなこと、ない、よ」

 涙ぐむ彼女に僕は、片頬だけぎこちなく緩めた。

「いいえ! 拓生君がぎゅっとしたくれたから、私、力が出ました」

「そ、そう?」

 だが僕は喜びに輝く天城さんを、実はよく見ていなかった。

 黒いオーラを感じる、ヤバい雰囲気だ。

「ふーん」かなり遠いのに、声は聞こえた。

「……ずいぶん仲良しよね?」

 僕の精神はひび割れる。キレたえりすは何をするか判らない。

 昔からそうだった。

 僕のことも苛めていた評判の悪い上級生は、何の前触れもなく灯油をかぶって自ら火をつけ、命は取り留めたものの大事件になった。

 野良犬に二人で追いかけられた後、次にその犬を見たのは貯水池で浮いている姿だ。

 ボール遊びをしてガラスを割ってしまい、その家のヒステリックなおばさんに二人泣くほど怒られた時など、次の日そのおばさんは家の全てのガラスを顔面で割り、血まみれで救急車に乗っていった。

 佐伯えりすはやる。

 どんなえげつないことも平気でやる。

 キレた彼女を止めるのは富士山の噴火をお盆で抑えるほど不可能だ。

 つい言葉を荒げてしまったが、もし彼女を本気で怒らせたら、冗談じゃなく命に危機が迫るのだ。 

 えりす……後で土下座しかないかも、そうだ! 靴を嘗めよう、趣味と実益って結構一致するよね。

「いや!」

 僕は自分の弱さをぐっと堪えた。ここで頭を下げてしまったら台無しになるのだ。

 佐伯えりすと戦った四年間が。

 ―負けるもんか!

 エメラルドのような彼女の瞳を、精一杯見返したやった。


『いたくないもん!』 

 五月も終わる柔らかな日が、僕の脳髄の血の巡りをひどく悪くしていた。

 前方では、古文の秋山先生が黒板を指してがなり立てているが、僕には斑ハゲの戯言を耳に入れない特技がある。

 ―平和だなあ。

 睡眠を促進させる古文担当教師の奮闘に、ゆったりと机に顎を下ろした。

 実際、ここ数日僕の周りは穏やかな空気が巡っている。数日前からあった背後からの射るような視線も和らいだ気もする。

 天下太平、誰もが待ち望んでいた安寧の時が訪れたのだ! 戦いの日々が夢のよう……が実はちょっと寂しい……なんだか不本意だから。

 一週間ほど前の新入生交流会での事件で、僕と天城さんの仲は劇的に縮まった……ハズだった。気がした。可能性があった。

 だけど、やっぱり世界はそんなに簡単で優しくない、天城さんが無事にクライメイトに受け入れられて、僕らの距離は曖昧になった。

 また以前の立場に戻った……ようではないが、教室で語り合う、というラブな事もない。

 ふと、僕は遠くからそれとなく天城さんに笑いかけて見た。気付いた彼女は慌てて俯き、ペンを持つ手元を小刻みに動かすだけだ。

 はあ、とため息をついて今度こそ机に伏せてしまう。

 夏真っ盛り、海辺を裸すれすれのビキニで走る天城さん。

「あははは、東雲くぅーん!」

 胸はバスケットボールのように弾み、僕はそれを追う。

「待てよっ! マイ・ハニー」

「うふふふ、私をつかまえて! そしたら、な、ん、で、も、してあげる」

「言ったな、よーし」

 煌めくどこか南の方のビーチ。椰子の木は揺れ、パツキンの男達が羨望の眼差しで僕らを見ている……という嬉し恥ずかしい展開にはならなかった。

 それどころか天城さんは挨拶しても、「ま、まだけいさんがっ……」と訳の分からない理由で逃げていく始末だ。

「あううう」と僕は失望と切なさに、みみずのようにのたうち回りたくてしょうがない。

 ―うううう、世界は何て残酷なんだ、もう苦しくて夜も眠れないよ……。

 正午に近い太陽が僕を心地よく温めてくる。だから意識がすうっと遠のく。昼は眠れるのだ。超眠い。だから寝る。  

 と、何の前触れもなく、がらら、と音を立てて教室の前方の扉が開いた。僕の反応が今ひとつ遅れたのは、机に広がる涎に沈んでいたからだった。

 周りの生徒がざわめくから覚醒し、僕は口元を拭いながら目線を上げた。

 三メートルほど先にスレンダーな胸回りながら、ツンと上を向いた健康的なバストがあった。

「葛城……」

 声に出してしまっていた。

 葛城司(かつらぎ つかさ)は皆の視線など意に返さない様子で、無表情に後ろ手で扉を閉めると、すたすたと教壇の前を横断し自らの席へと向かう。

「葛城?」もう一度、その名を咀嚼してしまう。

 葛城司。同じ中学で、数ヶ月前まで同じクラスで、僕にとって唯一の恩人だ。

 そんな彼女が久しぶりに姿を現し、何事もなかったような足取りで前を通過していく。

「ま、待ちなさい!」

 唖然としていた秋山先生が、にわかに我に返る。 

「き、君はなんだね? いきなりやってきて、遅刻か? だとしたら言うべき事があるだろう?」

 薄い髪を海中のわかめのように揺らしながら、秋山先生はあるいは至極真っ当なことを口にした。確かに授業中に突然現れたのだ、何の抗弁もなく堂々と教室を闊歩するのは、どの教師も看過しがたいことだろう。

 だが当人たる葛城は、だんっ、とたどり着いた自分の机に鞄を叩きつけて、それらに対する解答を示した。

「な、何だね? その態度は!」

 秋山先生の怒りは頂点に達したようで、顔面中にびくびく青い血管を浮かせたが、葛城は無言で着席すると腕を組んでそっぽを向いた。 

 僕はしんと静まりかえる教室の中にいた。 

 彼女の態度は『反抗』以外の何ものでもなく、実は極普通の高校生でしかないクラスメイト達には衝撃だ。僕も超びっくりしたから。

「こ、こ、こ、こ」

 激情のあまり秋山先生は言葉を失ったのか、ニワトリに先祖返りした。鳥っぽい先生だから仕方ない。

「この、このことは大きな問題だぞ!」

 ややあって、音を立てて痰を飲み込んだ秋山先生は、ドン引きする女子生徒達に気づかず高音質の声を張りを上げた。

「き、き、き、き、君、受業が終わったら職員室に来なさい! とっちめてやるわ! わたしの受業を妨害するなんて、きー!」

 うわ、こいつ実はオネエだ。と僕もドン引きし、粘着質の眼差しに不安になった。

 が、当人の葛城は全く応えていないようで、頬杖をついて窓の外を見ている。

 ―どうしたんだ? 葛城……。

 僕の記憶にある葛城司は大人びた、すこし冷めた所のあるクールな美人だったが、あからさまな遅刻をして教師を挑発するようなワルではなかった。

 ―それどころか……。

 葛城がいなければ、彼女の凛とした言動がなければ『あの』悪魔のような女に屈していただろう。今も彼女に対する思いは憧れと感謝に満ちている。

 モデル体型の美人の彼女を夜の儀式に使用していないのは、恐れ多いからだ。

 だからこそ、彼女の不穏な雰囲気に心が乱れる。

「何あの格好? いやらしい女」

 えりすの辺りを慮らない嘲りに、僕もそれに気付いた。 

 葛城の胸に気を取られていたために、外見の変化を見落としていた。

 ボリュームのある長髪は、かつては艶々とした漆黒だったが、今は掠れたような茶色になっている。高い鼻と大きな瞳、小さな唇の端麗な容姿は変わらないが、それらはほんのりと、しかし一目で分かる程の化粧が施されていた。

 中学時代はセーラー服をきっちり着こんでいたのだが、高校指定の女子用Yシャツは胸元のボタンを限界まで緩めてあり、大きく開いている。

 ―女の子って……いいな。

 この僕が呻ってしまうほど扇情的である。

 あの姿の葛城と、放課後二人きりになれればとても幸運なはずだ。

「ねえ……拓生……」

「やあ! 葛城じゃないか、どうしたんだい? 何か僕に用か?」

「うん……どう、かな? あなたに気に入られようと……して、みたんだけど」

「ははは、バカだなあ、君には化粧なんていらないよ! 素顔のままで十分さ」

「うれしい……えいっ」(ボタンはじけ飛ぶ)

「ああ! どうして更に勢いよく胸元を広げるんだい?」

「うん、私、中学から少し大きくなったのよ、計ってみない? その手で」

「え! この誰もいない放課後の教室でかい?」

「あなただけに見せてあげる……」

「そ……それは困ったなあ……まあ、しかし葛城がどうしても、と言うなら」

「葛城、なんて他人行儀に呼ばないで……つかさ、でいいわ」

「わかった、つ、か、さ、いただきマース!」

 ばちん、と後頭部に痛みが走った。

 ピンクの精神世界から我に返り。手で頭をさすりながら振り返ると、えりすが目を研ぎ上げてボールペンを構えていた。

「うわあ」と僕は正面に向き直った。

 命中したペンが足元に転がっているが、それを拾ってえりすに返すほどの心理的余裕など無い。

 ―なんでえりすは僕を目の敵にするのさ……うう……。

 

 一悶着あった受業が終わり、秋山先生が不機嫌なまま教室を出て行くのを待って、僕は葛城に近寄った。

 他の生徒は遠巻きに見つめ囁き合うだけだが、少し縁がある僕は「やあ」と親しげに声をかけてみる。

「…………」

 返事はなかった。葛城は頬を厳しく引き締めたまま、椅子に寄りかかって僕とはの反対方向の窓を見ている。

「か、葛城……ええっと」

 早くも行き詰まりだ。実は僕もそんなに親しくなかったのだ。昔の友誼を信じた挨拶が不発に終わったのなら、その後の展開は考えられない。

 ―ど、どうしよう。

 自然と、超自然に、何の悪意もなく、僕の視線は葛城の細い首の華奢な鎖骨の下、開いている胸元に固定された。これは彷徨う視線が落ちただけで他意はないのだ。ないのだ。

 葛城はスポーツ万能で背も高い、中学時代は『格好いい』女子生徒として後輩から憧憬とアブない恋愛の目で見られていた。

『ヘンな男より葛城先輩の方がダンゼン上』

 と言う声を女子生徒達からよく盗み聞いたものだ。僕はその度にその類の動画収集に燃えてしまった。

 しかし、こうして近くで見ると葛城はやはり綺麗な女の子だった。肌はミルクのように白くなめらかで、体つきも柔らかく、ふてくされているような格好もどこか絵になっている。

 飾らない石けんの臭いを鼻に感じ、僕は少し安心した。

 葛城には香水よりも石鹸が似合う。昔も今も変わらない。

 ―うーん……。

 僕は慎重に目をこらした。胸元、その下のブラが見えそで見えないのだ。

 ―なんて絶妙な着こなしなんだ……葛城……お前は天才か? ザッツちらりズム。

「あのさ……」

 突然、その葛城が声を出したので僕は倒れそうになった。

「な、なに?」

 いつの間にからか、不快そうに眉を逆立てている葛城に見上げられていた。

「あんたがどうしてようとあんたの自由なんだろうけど……人の胸をジロジロと見るのはどうなんだろう? 礼儀とか行儀とか、私が言うのはヘンだとは思うよ、しかし一応あんたが見ているのは私だし」

「いややややや」

 僕はぶんぶん手を振り回した。何やら迂遠な言い回しだが、彼女の声は爆発しそうな怒気を孕んでいる。

「ち、違うよ、ぼ、僕は……その、君の様子が何かおかしかったような気がしたから……」「関係ないでしょ! ほうっといてよ!」

 ばしり、と葛城が鋭く机を叩いたので、「は、はい」とすごすごと離れた。

「全く、嫌な女」

 葛城の元から全力で退散した僕に、いつの間にか近づいていたえりすが薄く嗤った。

「昔っからあたしの邪魔ばかりして、消えてしまえばいいのに」

 思わず僕は俯いていた。夜道で蜘蛛の巣に突入した、くらいテンションがだだ下がる。えりすの言葉の意味は僕にとって重い。 

『あたしの邪魔』……というのは僕を苦しめる邪魔、という意味なのだ。

 えりすの願いが天に届いたのか、次の受業の前には葛城は消えていた。ただ、机には荷物等が置きっぱなので、帰ってはいないハズだ。

 僕は葛城がまた顔を出すのを持っていた。先程は『偶然』目のやり場を間違えて険悪になってしまったが、彼女は恩人なのだ。

 葛城がどうして不意に服装を乱したのか、力になれることがあったらそうしてやりたい。しかし僕の願いは天にスルーされ、葛城は昼休みになっても戻ってこなかった。   

 ふう、と僕は落胆し、力無く席を立った。

 昼食は購買の総菜パンである。実はそれについて母からは「お弁当つくるー?」と聞かれたのだが、遠慮した。

 高校生にもなって母親の弁当を持ってくるヤツはムリ……と近くの女子が話していたのだ。

 それから僕は、毎日パン代の500円を母から受け取ることにしている。

 一年三組の教室から出て、重い足取りで昼休みの喧噪にある廊下を歩いた。

 ふと目をやってみるが、天城さんはいつもの仲間と楽しそうに昼食をとっている。

『何の取り柄もないクセに、女の子が寄ってくるなんて、あり得ないから』

 えりすの声が蘇った。

 ―そうだよなあ。

 悪口に加工されて指摘されるまでもなく、僕にも判っていた。

 取り柄のない男に女の子は振り向かない。

 僕はその典型だ。テストは赤点寸前、運動は辛うじて走るのが速いが、それも高校レベルだと問題にならない。ボール競技も人並み、つまりは目立たないということで、容姿も『優しそうだね』と親戚に慰められるくらいだ。

 はああ、と今一度息を漏らす。 

 周りはあまりにも華やかなのに、僕だけ蚊帳の外だった。まるで高級な絵の具のようだ。 色とりどり、何色も綺麗な色が箱に入っている中、一つだけある『灰色』。他より大きめのチューブに入っている『白』と『黒』を混ぜれば完成する、実は敢えてそれだけ別に入れる必要のない色。それが僕、東雲拓生、なのだ。

 パンダを描くときなんてそもそもいらない。

「パンダ……否、パン買お」

 ぐうう、と冴えない音を鳴らした腹部に、不要だけど腹は空くのかと自虐的な考えに浸りながら、僕は購買部への道を急いだ。

 だがすぐに、水平方向に力強く引力と対決している健康的な胸を見つけてしまい、足を止める。

 葛城だ。

 二時限目に突如現れ、次の受業からは姿を消していたが、一階にある購買部へ至る階段の踊り場で、窓にもたれ掛かって何か沈思している。

 ―あれからずっとこうしていたのか?

「かかかか、葛城」 

 僕はようやく巡り会えたうれしさに、反射的に駆け寄った。こういうのがきっと運命なのだ。

「え?」

 葛城はおっくうそうに僕を確認すると、また目線を足元に落とす。

「なんだ……東雲か……」

 思い切り怯んだ。もう足がすくんだ。冷淡すぎる反応だったから。だが考えてみれば先程の完全シカトよりは脈がある。

「どうしたんだよ? お前らしくないじゃないか」

「…………」

「な、何か悩みでもあるのか? !! そうか、今日は女の子の……伝説と伝聞で聞いた、ブルーな日……」

「何の話しよ!」

「やあ! ええと、ならどうしてそんなに機嫌悪いんだよ?」

「ふん」

 ―しかし、葛城はやっぱり格好いいなあ。 

 乱暴な仕草もサマになるので、感心していまう。特に腕を組むと強調される胸の膨らみは、どうしてどうしてなかなかのボリュームと言えた。こいつもしかして誘っているのか?

「……おい」

 気付くと葛城の目が白っぽく光っている。

「ったく……どうして男ってそうなの?」

 苛立たしげ吐き捨てた。

「え?」

「とぼけないでよ……どうして女にだらしないのよ!」

「あの……? 葛城さん?」

 彼女はわしゃわしゃと片手で髪をかき混ぜる。

「浮気なんかしたクセに偉そうな態度で、母さんを泣かせて……私が正しいことを言っているのに、どうして父さんは……」

 目元まで赤くして、悔しそうに唇を噛んでいる。

「私の方が正しいのに……」

「……葛城、家族となんかあったの?」

 文脈を読んでおずおずと尋ねると、はっとした様子で背中を向けてくる。

「うるさい! 行ってよ、関係ないでしょ?」

 しかし僕のような適当人間でも、肩を小刻みに震わす葛城を置いては行けない。

「あ、あのさ、僕、よく分からないけど……きっと間違いってやつだと……」

「……父さんは違う女の人と一緒になりたいから、母さんと離婚したいんだって、はっきり言ってた」

「がふ! い、いや、きっとそれには大人にもある一時の気の迷いという……」

「……もうその女の人との間に子供がいて、歳も私と変わらないそうよ」

「のわ! ええっと、世の中には博愛という」

「うるさい!」

 尚も元気づける言葉を探したのだが、勢いよく振り向いた葛城にそう一蹴され、ついでに胸ぐらを掴まれた。

「く、くるしい」

「お前も男だ! 女の子の見られたくないところばかり見ているヘンタイだ! 私に近寄るな!」

「ぼ、僕は……」

「人の胸ばかりじろじろ見ているクセに」

 葛城は、喘ぐことも出来ないほどの凄まじい力で締め上げてきた。呼吸が細くなり何度か途切れる。

「く、くるしい……か、葛城……」

「男なんて……父さんのバカ! 男なんて死ね!」

 酸素の欠乏で、くるしい、と言う言葉が繰り返せなくなる。かと言って僕の自慢のへなちょこ腕力では葛城をなだめることも出来なかった。

 ―し、死ぬ……くるし……ああ、何か気持ちよく……あれ? 川が見えてきた……。

 はたと窮地に気付き、僕は最後の力を振り絞り叫んだ。

「み、み、みやー!」

「何をしているんだ! 拓生君を離せ!」

 ほとんど次の瞬間駆けつけた虎狼院みやが、僕と葛城の間に割って入った。

「な、何、あんた?」

 葛城は敵意剥き出しでみやを睨め付けるが、多少の動揺の色があった。

 無理もない。みやの外見はひどく幼い。ちょくちょく中学生、マセた小学生にも間違えられる。そんなクラスメイトがいたなど気付かなかったのだ。

 僕は真横で片膝を付くみやの背中に抱きついた。

「みやー! 怖かったよう、苦しかったよう」ぺたぺた薄い胸を触る。みやは男だから犯罪ではないのだ。

よしよし、とみやは優しく頭を撫でてくれた。

「もう大丈夫だよ、僕が守ってあげる、痛いところとか、ないかい?」

「うう、みやー」

 ―なんでお前男なんだよー。

 と続けたかったが、みやの乱入で興奮を静めた葛城が「バカみたい」と言い残して歩き出したから、言葉を飲み込んだ。

「か、葛城……」

 しかし僕の声を背で跳ね返して、葛城は階段を下りていく。

「全く……」みやは遠ざかる彼女に唇を尖らせた。

「ダメだよ拓生君、アイツ……葛城さんには近づかない方が良いよ」

「え?」

「知らないのかい?」

 みやは眉を顰めて小声になる。

「彼女は『刃苦怨』に入ったらしいよ」

 バクオン……今朝の光景、傍若無人な姿と耳を塞ぎたくなる噂を思い出し、僕は愕然とした。視線を転じたが、すでに葛城の姿はどこにもない。 

 僕は彼女に救われた中学時代を思い出し、頭を抱えて一人呻いた。  


 あれから一週間、葛城は定時に登校してきたが、話しかけることは出来なかった。

 葛城は皆を拒絶し、爆発三秒前の顔つきで窓の外を見ていて、僕なんかが近寄れる隙がない。 

 彼女の傷、抱えている悩みを垣間見てしまったが、それ故に何も出来ない。もし葛城が普通に机にいたとしても何かできるかは疑問だが、『刃苦怨』なんていう犯罪集団と関わってしまった彼女が心配だった。

 ―葛城……何もなければ良いんだけど……。

 大音量のスマホの着信音が、僕のそんな追想を破り捨てる。

「おわ」と声を漏らした僕は、現実の英語授業中のクラスに戻る。無表情のまま葛城が鳴り出したスマートフォンを耳に当てていた。

「私だけど……」

 事も無げなく会話を始める彼女に、教室中の誰もが息を飲んだ。

 僕も言葉を失い、色白で端整な横顔と、担当授業中に面目を潰された大木先生の赤と白と青に点滅する顔を見比べてしまう。

 ―葛城……。

 彼女は恩人で、中学時代はクライメイトだ。だが『刃苦怨のメンバー』というあまりに危険な肩書きが、葛城と僕の間に横たわっている。

 だから声も掛けられないのだが、この一週間、朝に葛城を教室で確認したら、僕は素直に嬉しかった。

 まだ学校から完全に脱落していない、まだ同じ場所に居てくれる、それはまだ残った希望だった。

 しかしその葛城は、堂々と受業途中に携帯電話に出て、小声ではあるが話し出した。

 クラスメイト達がこそこそと囁き合う中、場違いな葛城の声だけが教室を満たした。

「き、君!」

 数十秒のタイムラグの後、大木先生はブチ切れた。

「何のつもりかね? 授業中は携帯電話の使用は禁じられているはずだ、それを……」

 ここで喉から妙な音を出す。電磁波だ。大木先生は宇宙人なんだ……否、喉をコントロール出来ないほどに激越しているだけだ。

「き、君は確か葛城、だね? 最近あまりいい話を聞かないが……電話を切りなさい!」 大木先生の声が何段も高くなる、やはり宇宙の人? だが葛城はアブダクションやらキャトルミューティレーションを全く恐れず、通話を続けている。

「こ、高校は義務教育じゃないんだぞ! 受業を邪魔するのなら教室から出て行け……私はこの問題について……」

 だが大木先生は「ぐえ」と変な呼吸音になる。

 葛城が片手にスマホを持ちながら横目で突いているのだ。彼女は美人だがどこかクールな印象がある。不機嫌顔はかなりの威圧的だ。ちょっと興奮を感じます。

 一睨みで教師を黙らせた葛城は、携帯電話を切りスカートのポケットに仕舞うと、無言のまま椅子を引いた。

 大木先生が無意味に口を開け閉めする間に、手早く荷物を鞄に入れる。

「葛城……」

 気配を察して呼びかけてみたが、彼女はそのまますたすたと教室を出て行く。 

 一年三組はエア・ポケットのような静寂に包まれた。

 あまりにも見事に葛城が校則やらから飛び出していったので、皆、むしろ見とれてしまったのだろう。

「大した物ね」と誰もが沈黙する中、全く動じていないえりすが嘲った。

「しゃあしゃあと、全く、途中で居なくなるなら最初から来なければいいのよ」

 ―葛城……。

 僕は中学時代、最も辛かった時を思い出していた。

「このままころころ坂を転がって、墜ちていけばいいのよ」

 ぎらっと、火が漏れそうな目をえりすに向ける。『あの時』葛城は、僕を救ってくれたのだ。

「な、なによ? やる気?」

 一瞬怯んだえりすだが、すぐに身を乗り出してくる。

 拒絶の意味を込めて勢いよく背を向けてやった。

「こ、こいつ……」えりすは僕を罵倒し出したが、構っていられない。

 英語の受業はそれから一〇分の中断の後、再開された。だが、直後にチャイムは鳴り、大木先生は青ざめたまま、教室を出て行く。

 僕は教科書類を片づけるのももどかしく、席を立った。

 葛城はとっくの前に出て行った。しかし、また学校のどこかに残っているかも知れない。

「さすが『刃苦怨』のメンバー」

 と、呑気なクラスメイト達は無責任にはやし立てているが、そんな気になれなかった。

 ―葛城、何があったんだよ?

 モデルのように背の高い彼女の姿を探そうと、僕は扉に突進した。

「拓生君」

 そんな僕の前に、新中学生くらいの女の子が立ちふさがる。

 中学生ではないし、女の子でもない。虎狼院みやだった。

「みや……どいてくれ、僕は葛城を捜さないと」

「彼女のことはほっとくんだ」

 みやは小さな顎を左右に振って、道を譲らなかった。

「どいてよ!」

 僕が強く足を踏み出すと、妙に静まりかえる教室のどこかで椅子が引かれる音がした。

「あ、あの……私も、そう計算で出ました」

 振り返ると、小さなメモ用紙を手にした天城さんが椅子から立ち、おずおずと発言する。

「拓生君は、追うべきではない、という答えです」

 え、と僕が見回すと、クラスメイト達に同意の頷きが広がっている。

「なんで? どうしてさ、葛城は僕の恩人なんだ、クラスメイトじゃないか」

「あうあう、計算では、追ったら拓生君が危険になると計算できます」

 皆に問うと、天城さんははらりはらりとメモ用紙を何枚か落とす。

「え? でも……」

「……君は優しすぎるよ、拓生君」

 愕然とする僕に、みやは眉根を寄せる。

「いいかい、彼女は……葛城さんは自分から出て行ったんだ、自分で刃苦怨に入った、これは真実だよ、君があんな犯罪集団と関わってまで彼女を救う理由がない」

「でもみや、彼女は昔僕を助けてくれたんだ、だから」

「だから、葛城さんを救う? ……それは誰の意思?」

「え?」僕は虚をつかれ聞き返す。珍しくみやは厳しい。

「葛城さんは自分の意思で動いている、拓生君は勝手にそれが間違いだ、と言い出しそれを彼女に押しつけようとしている……そうじゃないかい?」

「で……もさあ」

『刃苦怨』の危険性はみやも知っているはずだ、そんな中に葛城を置いておけない。が、みやはそんな僕の思いを看破した。

「……葛城さんが危険だ……と言いたいんだろうけど、彼女は何度も指摘するけど、自分からそこに入ったんだ、危険かどうか判ったもんじゃない、僕から言わせれば彼女も刃苦怨も同じだよ」

「みや!」

 さすがにそれは言い過ぎだと語気を荒げたが、みやは動じなかった。

「葛城さんが犯罪集団から抜けたいなら自分でそうするよ、そうしないのはそこにいたいからだろ? いくら拓生君でもお節介が過ぎるよ」

「友達、なんだよ、葛城は……」

 反論が見つからないからただ繰り返した。みやの言い分も一理あるのが判る。葛城が『刃苦怨』に入り、受業に出なかったとしても、それが彼女の望みなら、他人である僕にとやかく指示される言われはない。それでなくとも自立を意識して生きているフシがある葛城は、僕なんかの忠告に決して耳を貸さないだろう。

「僕は……」

 あるいは、と気付いてしまった。

 ―僕は気に入らないのか? 僕が『刃苦怨』がキライだから、葛城もそれから遠ざけようとしているだけで、それは大きなお世話なのかな?

 急速に葛城を追いかける意思が挫けていく。

 ―ただ、僕のエゴを彼女に押しつけたいのかな?

 そう考えると、自分が上から彼女を見ていた、と気付いてしまう。

 僕の体から、ふわりと力が抜けていった。確固たる葛城への思いが薄れてしまう。

 ―葛城は……学校や僕らより『刃苦怨』の方が良いのかな? 

「拓生君、彼女の事は彼女に任せれば良いんだよ、間違いが判れば自分で何とかするよ、君は『刃苦怨』なんかに近づいちゃダメだよ」

 肩に置かれたみやの手を振り払えなかった、ただ項垂れる。

 結局、彼女を追う事が出来なかった。みやと天城さんから逃れるように、辛うじて廊下に出たが、僕は深夜徘徊する幽霊のように目的も見いだせず彷徨った。

 ―身勝手なのは、僕なのか?

 それは非常に切実な問いだった。

 難問を解く切っ掛けも見いだせず、討論しても負けてしまうのは確実だから、ゆらゆらと一年三組から遠ざかった。

 葛城の姿を探している、訳でもない。みやの忠告が胸に突き刺さっている。逆に、今もし彼女を見つけても、何も言い出させないだろう。

 だが、その意見にどこか違和感も感じる。どこだかは、全く判らない。

 だからふらふらと当てもなく、学校の中を歩き回った。

 人気のない廊下の意味を考えるまでもなく、現在は授業中だ。

 どうやらそれなりの時間が経っていたらしい、気付いたら受業をさぼっていた。授業中故に、誰とも出会わない異世界のように静かな学校内を、僕は夢の中のような足取りで進んだ。

 ―どうすれば、いいんだろう、どうしたら、良くなるんだ?

 何度も何度も何者かに問うたが、有力な解答は思考の中からは飛び出してこなかった。

 永遠に続くような迷宮のような暗い廊下に、不意に神聖なまでに光り輝き揺れ動く、二つの宝石が現れた。現れた!

 コマンド→戦う……戦えない。→魔法……まだ一五年ある。→道具……持っていない。→逃げる……その必要はない。→観察する……しよう。→鑑賞する……している。

 それは、ぽにょんぽにょんと入神の域に達する見事なリズムで跳ねている。  

 とても柔らかそうで、マシュマロよりも甘そうで、温かそうだ。

 正体は一目瞭然だ。 

 ちちだ。

 お父様ではない。

 乳様だ。 

 香り出した甘い香りを目で辿ると、満面の笑みの雛森先輩が立っている。

 学校のアイドル……雛森(ひなもり)やよい先輩が現れた。僕は仲間になりたそうに見ます。

 あまりのクリティカルな出会いに寸前まで考えていた諸々を忘れかけ、拳一つ分くらい口を開けた。

「あれれ? 後輩君、今って授業中だよね? まさかサボリ? ダメよ」

 駄々っ子を叱るように、雛森先輩は柔らく握った拳を持ち上げる。

 まるで菩薩のような神々しい姿に、僕の目が潤んだ。雛森先輩から発散される無限の母性が、僕をどうしようもなく意気地なしにしている。

「こら、先輩は後輩君をそんな不良にした覚えはないぞ……どうしたの?」

 雛森先輩が真顔になる。涙目だと気付いてくれたのだ。

「せ、先輩!」

 言葉がひどい熱を持ち一気に喉にせり上がってくる。葛城のこと、みやに言われたことがいっぺんに飛び出しそうだった。

「うん」と雛森先輩は体操着に包まれた体の正面を、僕に向けた。

「何かあったのね? 体育の移動の途中だったけど……判った、聞いてあげる、この先輩に任せて」

 僕はもごもごとどもりながら、雛森先輩に葛城のことを相談した。

「『刃苦怨』……」さすがにその名称を聞いた雛森先輩は眉を顰める。僕は唯一の友人みやの鋭い指摘についても隠さず、雛森先輩に打ち明けた。

「なるほど」

 彼女は真面目に真剣に耳を傾けてくれた。

「後輩君は、その子の事を助けたい……悪い人達と縁を切らせたい、でも友達にはそれが君の身勝手だ、と言われたのね?」

「はい……僕は、上から目線で勝手に葛城を憐れんでいたんですか? 先輩」

 雛森先輩は華奢な指で顎を摘んで、しばし考える。

「……ねえ、後輩君……そのお友達、助けたいの?」

「はい! 僕が昔辛かったとき、葛城だけは僕の味方だったから」

 僕が即答すると、雛森先輩は光を発したかのように笑った。

「ならいいじゃない? 助けてあげて!」

「で、でも」

「それが押しつけがましい、なんて意見、どうでもいいことでしょ? いい? 後輩君」

 雛森先輩は口元を引き締める。そうすると朗らかな彼女がとても知的に見えた。

「君は言葉に惑わされすぎているの、身勝手? 人を助けるのが身勝手で悪い? 善意っていうのは往々にして身勝手なものなの、助けたいという思いを大切にして、きっとその子も誰かの助けを待っているわよ」

 視界が一瞬で明るくなった。雛森先輩の言葉が閉じかけていた僕の瞳を大きく開いてくれた。蒙を啓く、と言うべきだろう。

「そうか……」

 ―葛城はそんなことを考えず、僕を助けてくれたんだ……考えず、助ける。

「でもね」

 体の隅々にまで活力が戻るのを感じた僕だが、雛森先輩は少し心配そうだ。

「無理はしないでね、後輩君、君みたいな優しい子が傷つくのは先輩、辛いよ? きっと君の友達もその危機を感じたから止めたんだと思う」

 それもあり得た。みやは何よりも僕を優先にしてくれる『良い奴』なのだから。天城さんもそんな事を言っていた。

 しかし、もう腹は決まっていた。

「ありがとうございます」と雛森先輩に深々と頭を下げる。

「い、いいって! もう、大げさなんだから!」

 手と共に乳が揺れているが、その時だけは目には入らなかった。

 ―葛城を助ける。人の意見なんて知るか!

 一人、そう決意していた。


 次の日から葛城の動向をより探った。

 彼女は学校に来たり来なかったりしたが、それでもパターンはある。  

 葛城は絶対に体育はさぼる。

 中学時代もそんなに体育は好きじゃなかった。ただ運動オンチなのではない、フィジカルな面でも超高校級の葛城に誰も着いていけないのだ。

 この世は不思議なもので、出来すぎると逆に孤立してしまう。学校等で行われる集団系の運動では、より顕著にそれが表れる。

 美人で、モデル体型で、スポーツ万能。

 入学と同時に葛城はあらゆる運動部勧誘者に囲まれた。が、彼女は先輩達を一睨みで黙らせ、僕と同じく帰宅部という最も文化的な部活に身を置いている。

 あるいは、彼女の変化はその時からあったのかもしれない。

 気付かない僕はバカだ。

 バカバカバカ! 数回机に頭を打ち付けてみる。 

 周りがざわっとして、周りの机が僕から遠ざかる。

 ちょっと葛城の気持ちが分かった。

 孤立って悲しいな。 

 とにかく葛城は体育をさぼる。

 気付いた僕は、体育の時間を待った。長期戦になるまでもなく、意外にすぐにその時は訪れた。

 二時限目……体育。

 皆はぞろぞろと運動着に着替えるために教室を出て行く。しかし予想通り、葛城はほおづえを付き、席に座ったままだ。 

 程なく、一年三組には僕と葛城しかいなくなった。

 訪れた静寂に心がささくれ立ったが、何とかなだめ席を立ち、また外を眺め続けている彼女に近寄った。

「葛城」

「…………」葛城は相変わらず、最初の呼びかけをスルーした。だが、それはもう想定内であり、そんなことに怯まない。

「葛城、『刃苦怨』から抜けろよ、それからちゃんと毎日受業に来いよ」

「……なによ? いきなり」

 振り向いた葛城の瞳は刃のようだ。

 僕は怯まず、家で何度も反芻した言葉をなぞる。

「どうして学校をさぼるんだ? ルールを破るのはお前、嫌いだっただろ?」

「関係ないでしょ? ほうっといてよ!」

 葛城は硬くした拳で机を叩く。

「関係なくない!」

「何がよ! あんた私の何?」

「友達だ!」

 胸を張ってみせると、葛城は虚を突かれたようで、しばし黙った。

 ふ、と次には体を小刻みに震わせて笑い出す。

「と、友達? ふ……あはははは」

「何がおかしいんだ!」

 笑い続ける葛城に、顔中が熱くなる。 

「友達? ふーん、で、だから? 私に偉そうに説教? あんたが?」

「どうしちゃったんだよ、葛城……お前、そんな奴じゃなかっだろ? 多少大人だったけど、そんな風に投げやりじゃなかったし、本当は優しい良い奴だったじゃないか?」

「うるさい!」

 葛城はやおら立ち上がり、僕の襟首を掴んだ。

「あんたなんかに関係ない! 友達ヅラでお節介しないでよ! 私は自分でこうすると選んだんだ、私の意思だ、邪魔しないで」

「知ったことか!」

 雛森先輩の助言を受けた僕には、そんな言葉など無意味だ。

「僕はお前が間違っている、と思う、思うから間違いを辞めさせる、刃苦怨とも手を切らせる! お節介と思いたければ思え」

「アイツらは私の仲間だよ?」

「ば、『刃苦怨』は犯罪集団だ! そんな所にお前を置いておけない」

「黙れ、お節介!」

 ぼこ、という鈍い音を間近で聞いた。 

 葛城に殴られた僕は、手近な机を倒しながら床に転がる。かっと頬が痛み、口の中に違和感を感じた。

 しかし、それでも僕の心は傷つかない、折れない、負けない。葛城のためだ。

「な、何をされようと、僕はお前を『刃苦怨』から抜けさせる、友達だからだ! そうさ、お前がどう思うと、僕はお前が友達だと思っている! お節介でもいい!」

「え」とその時初めて彼女の表情が変わった。何か躊躇っている。 

 葛城、と続けようとした。それが好機だと何となく察知していた。だが、突如鳴り出したサックスの演奏に僕の舌が止まってしまう。

 彼女は一挙動でポケットから携帯電話を取り出すと、何か言いたげに僕を見ながら出た。

「私……え? い、今から? ……いいケド」

「葛城!」声を上げるが、葛城はもう鞄の柄を掴んでいた。

「お、おい」

「私に関わらないで、東雲……あんた自身の為によ」

「か、葛城!」

「来るな……あんたはここにいなさい!」

 葛城が微笑んだ、触ったら壊れそうな危うい笑みだった。

「東雲、ありがとう……私、嬉しかった……そうね、あんたは友達ね、でも、もうどうしようもないの……『刃苦怨』は、アソコだけが私の居場所なの!」

 そう言うと葛城は教室を飛び出していった。

 僕はゆっくりと立ち上がり口の中のしょっぱさ、彼女に殴られた時に出血した頬の内側を舌でなぞる。

 迷いはない。

 葛城が逃げるなら追うだけだ。 

『お節介』とか、本当にどうでもよくなった。僕は気付いた。

 ―先輩の言うとおりだ、葛城は助けを求めている。

 すぐに葛城が出て行った扉に駆けた。最後の瞬間、泣いていた彼女を連れ戻すのだ。


「拓生君!」

 教室から出るとすぐ、みやと鉢合わせた。

「何しているんだよ? バスケットが始まるよ! 先生怒ってたよ」

 どうやら僕がさぼった事に気付かれたらしい。まあ、毎回点呼するから当然ではある。

「ごめんみや! 僕には、やらなければならないことがあるんだ! 先生に謝っておいて」

 僕はそう言い残して走り出したが、背後にいたはずのみやがどういう仕掛けか、前方から現れ、僕の肩を押すように両手で止める。

「拓生君! 待ってよ」

「え? みや、今何したの?」

 確かに後ろにいたはずだ。が、彼は当たり前のように前にいる。そう言えば少し前、葛城から僕を救ったときも、みやの動きはヘンだった。

 忍者か仙人か?

「そんなことはいいんだ!」

 みや眼差しは厳しかった。

「……葛城さんだね? 彼女を助けるんだね? どうしてそんなことを、前にも言ったとおり」

「みや」色々な疑問はあったが、一刻も時間がおしいから、それらを切り詰めた。

「君は僕の為を思ってくれているんだって判るよ、でも同じくらい、僕は葛城が大切なんだ」

「わかってくれよ」みやの女の子のような腕を握って押し戻すと、彼はじっと僕を見つめてきた。

「全く」静かな薄くらい廊下に、みやの吐息が漏れる。

「君は全然変わらないね? 昔のままだ」

「え?」

 ―昔? みやと会ったのは二ヶ月前なのに。

「ほら、行きなよ、後は僕が何とかするから、先生は適当に誤魔化しとくよ」

 みやは不思議な事を言い出すが、とにかく熱のこもった視線に頭を下げた。

「ありがと、みや、んじゃあ行ってくる」

「気を付けるんだよ」

 みやの微笑みは奥手な乙女のようだった。

 彼と別れた僕は学校中を探し回った。

 だが、葛城の姿はない。  

「どこに……葛城……」

 一瞬、悲観的な思いに包まれたが、その耳にバイクの爆音が飛び込んでくる。

 これだ! 僕の体はそう答えを出す前にその方向を目指していた。

 校舎から走り出て校庭の反対にある裏門をくぐると、葛城はそこにいた。

「なんだよ? なるべく学校の時間は避けろって、言ったよね?」

「いいじゃんかよ、学校なんて関係ねーよ」

 探していた葛城は、バイクに跨る金髪の男と何か言い争っている。

 鉄の決意を固めたハズの僕も、さすがに足を止めてしまう。

 アイツだった。いつかの登校途中の僕を心底ビビらした少年だ。

 背丈は僕より顔一つ半大きく、剥き出された肩から腕は筋肉でぱんぱんに張っている。髪はまだらな金色で、耳には重そうなピアス、指を頑丈そうなシルバーの指輪で武装していた。

 生涯付き合いたくも、すれ違いたくもない風体の男だった。普段なら目があっただけで小中学生女子の持っているぴょーとなるブザーを鳴らすだろう。

 だが、凄まじいプレッシャーに耐え、ぎりっと奥歯を噛みしめると、大股を作ってデカいバイクに近づいた。

「おい!」と勇ましく腹から声を出したが、耳はキーンと鳴っている。

「ああ?」

 金髪男の鋭い視線に、僕の膀胱はふんにゃりとした。だが、力を込めて尿意に耐える。「か、か、葛城、葛城から離れろ!」

 声が奇妙に上下する。だが、今はそんな些事に構っていられない。

「はい?」と金髪男は一瞬、無表情になる。貧弱な僕などに意見されるとは思っていなかったのだろう。

「やめて! 誠次」

 一番物わかりの良い葛城が、一番早く反応した。

 ―誠次、そっか、こいつが……。

 西山誠次。名前だけは知っていた。

『刃苦怨』のリーダーで、確か数ヶ月前の放火事件の主犯で、今は保護観察になっているはずだ。

「なんだ? コイツ?」

「構わないで、アイツはただのバカだから」

 は虫類のような誠次の目を、葛城は必死に逸らそうとする。しかし、僕ももう退けない。

「葛城は、葛城は、お前らみたいなヤツらとつるむ奴じゃないんだ! 葛城を返せ!」

「東雲!」

 珍しく葛城が慌てている。が、もう手遅れだ。

 ふふふ、と西山誠次は、らしくもなく無邪気に笑った。

「なんだよ、イマイチ乗りが悪いと思ったんだ、あんなヤツに絡まれていたのか?」

 そして、誠次は億劫そうにバイクの上から値踏みしてくる。

 無駄だ、僕はタダの貧弱な高校一年生、特技は無し、趣味に映画鑑賞と書いてしまうたわいもない者だ。値踏みするまでもないのだ。ふふふふ。

「おい、そこのガキ」

 僕は身構えた。まだかなり距離は開いているのだが、そうしないと言葉だけでばらばらに壊されてしまいそうだったのだ。

「失せろ」

 だから、その強烈な言葉に耐えた。肩は、唇は、こめかみまで震えたが、僕は耐えた。腕を目の前に上げ、鍛え抜かれた恫喝に抗する。

 西山誠次はそんな小さな抵抗が気にくわなかったようだ。ぺっと、音を立てて唾を吐いた。

「東雲! もうどっか行ってよ!」

 葛城はさらに警告してくるが、誰ももう後に退けない。

 急速に空気が凍てついていく。随分と暖かくなった季節なのだが、肌寒さに身震いした。丁度、雲の切れ間から太陽が覗いたのだが、それすら白々としたガラスの反射のような光でしかなかった。

「へ、おい、そこのヒーロー気取り」

 誠次はどこか冗談めかして語りかける。しかし、その目は闇のように黒一色に塗りつぶされていた。

「グチャグチャにされねーと、わからねーのか?」

 どこかその口調は優しく、発した言葉とアンバランスだ。

 だから「へ?」と聞き返してしまう。

 構えていた右腕が不意に掴まれ、背中に捻られた。

「うぐ!」僕は痛みに呻き、そのまま背後の何者かに足を払われアスファルトに倒された。

 ―バカ! このチキン!

 自分の愚かさを呪う。

 正面にいた西山誠次の迫力に圧倒され、仲間がいる、という簡単で当たり前な事態に思考がたどり着かなかった。

「誠次!」

 葛城は簡単に組み伏せられた僕を見て、真っ青になる。

「アイツは関係ないのよ、いいからどこかで離して来て、私は行くから」

「ダメだ! 葛城」

 惨めさを噛みしめながら僕は叫んだ。自分の責任で彼女の立場を悪くしてしまった。とても耐えられない。

「無理だな」

 答えは意外な所、上から降りてきた。

 え、苦心して首を捻るとどこかで見た顔があった。

「あ!」

 №7だった。いつか天城さんに告白していたバスケ部のイケメン。

「こいつは一年のイケてる女を口説くのに邪魔をした」

 そうか……僕は№7、もはやムカツク奴№1、嫌いな奴界のカカ○ットの、ぎらぎら輝くピアスを見ながら悟った。

 ―こいつも『刃苦怨』なのか……。

「そいつは……」

 誠次は愉快そうに唇を歪める。

「死刑だな」


「つまりだな」

 №1は僕の前の丸椅子に座って、偉そうに説明をしていた。

「俺と『刃苦怨』はギブアンドテイクの関係なのさ、難しい言葉で言うと、相互扶助ってヤツだ」 

 №1は人差し指を上に向けたようだが、目元が腫れた僕にはよく見えなかった。

『刃苦怨』に連れてこられたのは、どこかの店だった。

 そんなに広くなく、バーカウンターがありその奥にボトルが並んでいる。『刃苦怨』が夜の繁華街で用心棒をしている事を思い出した僕は、どこかの飲み屋だ、とだけ理解出来た。そして椅子にガムテープで固定され、何人もの『刃苦怨』メンバー、見るのにも勇気がいる連中に散々殴られ、蹴られ、その様子を携帯電話やデジカメで撮られ、嘲笑われる。

 苦痛と恐怖で最初の方で泣いてしまったのだが、犯罪集団の心に響くことではなかったようだ。実は密かに漏らしてもいた。これはナイショだ。

 一時間近い暴行の末僕の無限の涙も尽き、感情も摩滅したかのようにすり切れた。ただ、痛めつけられた場所が他人の物のように鈍く疼く。

「まあ、お前みたいな小物は殺すまでしねーよ、安心しな」

 僕が泣き叫ぶのをにやにや見ていた№1は、一連の終わりと妙な親しさで接してきた。「ただ、ほら、こちらにも立場とか、プライドとか、いろいろあるんだよ、判るだろ? 今回お前はちょっとばかしやりすぎた、だから、ちょっとばかし痛い目に遭う、そうしなければ、そうはならない」

 つまり自分たちの行動を正当化したいのだ。ぼうっとする思考で意図を理解した。

「これで懲りてくれれば、俺たちはお前にもう何もしない、もちろん、警察もなしだ」

 その後半部分が彼等の言いたいこと全てなのだろう。ぐっと血の味の奥歯を噛みしめた。

「へ」と№1はそんな僕の様子を嗤う。

「しょうのねえヤツだな……まあ、時間はあるんだ、さっきの様子だとすぐに改心しそうだしな」

 体が羞恥に震えた。確かに外聞もなく泣いて悲鳴を上げたのだ。漏らしたし。

「そうそう」と№1はそんな僕をさらにいたぶるように、整った顔面を近づけた。

「俺の役目を説明していなかったな? 俺は……補給部隊? みたいなもんだ、『刃苦怨』の女に飢えた連中に極上のデリバリーをサービスする」

 脳裏に鮮烈に閃いたのは、天城さんの姿だ。

「だから、日々イケた女に声を掛け、モノにした後はここに連れ込み……なぁに、みんな大人しいモノさ、誰かに言ったのなら自分が大恥かくからな」

 その台詞が僕には信じられなかった。許せなかった。女の子を苦しめる『刃苦怨』の理論。どうしてそんなに人を苦しめることで出来るのだろう。

「まあ、その代わり」

 №1は自慢げに続けた。

「『刃苦怨』の連中は、俺がバスケで活躍できるようにするってことだな……ほら、知っているだろ? 西校の間中、もちろんそれだけじゃない、お前はバカだから知らないだろうが、ウチとやる前はどうしてかみんな怪我するのさ」

 僕は怒りにもがいていた。目の前の最低男の口を塞ぎたい。足を動かし柔らかい絨毯を何度も踏む。 

「まあ、強情なのも今だけさ、んじゃあな、しばらく一人で頭を冷やせ、そんで次にお前のクラスの女をまた誘うときには無視しろ」

 その言葉に僕の背筋がつっぱるように凍えた。氷塊で撫でられたようにびくりとする。

「て、天城さんに、何をするんだ?」

 びしり、と頬が革靴で蹴られる。

「口の利き方……先輩には敬語を使えって、カワイクねえヤツだ、まあ、特別に教えてやるが……お前のようなのがうろちょろしているから、この際一挙に済ませてしまおうと思って、力でな」

 №1は自身の引き締まった体躯を自慢するように胸を張った。

「や、やめろ!」

 再び僕の顔面は蹴られた。

「ふん、まあ喚いていろ、どうせ言いなりになるしかない」

 にやり、と嫌らしく唇を歪めて、ムカツク奴№1は店から出て行った。何とか制止しようと最後まで足掻いたが、動きを封じる粘着テープはびくともしない。

「くそっ」

 しばし一人で格闘してみるが、非力な僕ではどうしようもない。

 また目の前がじわじわと滲んでいく。

 辛かった。耐えられなかった。一方的に殴られた傷も痛むが、それ以上に心が痛む。

 ―天城さんが、あの愛らしい子が。

 天城さんの悲しい涙なんて見たくない。違う、どんな女の子の涙なんて見たくないのだ。僕は誰かをイジメることでは燃えない性癖だ。イジメて欲しい。

「くそっ」ともう一度苛立ちが口をついた。

 無力で愚かな自分が許せない。

 もし両開きの扉の片方が開き、一人の人間が入ってこなかったら、そのまままた泣き出していただろう。

「かつらぎ……」

 喉が塩辛い涙につかえる。

「だから言ったでしょ……私に構うなって?」

 葛城は無言で近寄ると、ポケットからハンカチを取り出し顔に当ててくれる。

 ずきり、と鋭い痛みが走った。

「全く、酷くやられたわね……私なんか見捨てれば良かったのに」

「よ、良くない」

 散々格好悪い所を見られた負い目があるから、反論は小さい。

「良いのよ」

「良くない!」

 葛城は僕の強情さがおかしいのか、ちょこっと微笑んだ。

「東雲、私は邪魔な存在なのよ」

 彼女の手が、優しく僕の傷をなぞっていく。

「父さん……言ってた、私が居なかったら母さんと離婚していたって、そしたらもっと幸せだったって……母さんも、私が出来たから結婚したんだって、みんな私が悪いんだって、ほらね、私はいらないでしょ」

 僕は葛城の寂しそうな表情に爆発した。

「知るか! それはお前の親の問題だ! 僕はそう思わない、邪魔じゃない」

「なんでさ!」

 葛城の眉が跳ね上がる。

「なんであんたが、そんなこと言えるの?」

 僕たちの間にしばらくの沈黙が降りる。数回深呼吸をして胸の熱を抑えると、涸れた声でそっと大事な思い出を切り出した。

「……葛城、お前、知っているだろう? 僕の中学時代」

 彼女は無表情だが、構わない。 

「僕は……みんなにシカトされていた、学校に来ても、僕は一人だった」

 学校で誰も口を利いてくれない。それは僕の心に大きな傷と絶望を穿った。登校出来なくなる一歩手前だった。毎朝お腹が痛くなり。起きるとズル休みの言い訳を考えるようになっていた。

 さらに辛いのは、クラスを先導して僕を孤立させたのは、佐伯えりす、ずっと昔からの幼馴染みだった。

「そんな時……僕は、僕は忘れ物をしたんだ、数学の時間必要だった定規だ」

 声が涙で斜めにうわずる。

「誰も貸してくれる人なんかいない、みんな僕をシカトしているんだから、でも、でも君だけは、君は貸してくれた」

 両目にせり上がった熱い液体を阻止しようと目をつむったが、その途端ぶわっと溢れ出した。

「なに? 忘れたの? ほら、私の使っていいよ」

 気付いた葛城のたった一言、それに僕は救われた。

 数学の授業だけでなく、それからの学校生活もだ。

 白い目の群れの中で彼女だけはシカトの輪に入らなかった。それで葛城の立場も微妙になり、えりすに憎まれたが、葛城はどうでもいい風に関わらなかった。

「ぼ、僕ががんばれたのは、お前が居てくれたからだ、お前が必要だった、邪魔なんかじゃない、僕を助けてくれた」

「そう」とじっとその話しに耳を傾けていた葛城は、そっと頷いた。

「あの時は、私、他の連中がバカらしく見えただけなのに、えりすも嫌いだったし、全く、それでこのお節介?」

 彼女は一つ肩をすくめると、僕をがんじがらめに捉えている粘着テープに手を掛ける。

「ほら、逃がしてやるよ、あんたは本当に手が掛かるよね?」

「でも……がづらぎば? ぼぐどいっじょにいごうよ」

「涙を拭いて……何言っているか分かんないよ、私は、ここに残る……だって、『刃苦怨』の連中はひどいヤツラだけど、父さんよりはマシだ、あんたは心配してくれるけど、実際、辛い目には遭っていないし」

「ぞんな……」

 僕は涙声を駆使して、頑なな彼女を説得しようとした。

「本当だよ、私には指一本触れてこない、意外に良いヤツ達かも」

 そんな筈はなかった。先程、№1の卑劣な告白を聞いたばかりだ。

「さあ、ぐずぐずしていられない」と躊躇する僕の手を取り、葛城は扉に押しやる。

 ―葛城は?

 と納得できなかったが、彼女に強く背中を押されて、仕方なしに建物から出た。

 息を飲む。

 目の前には陰がさした路地の一角がある。夜には点灯するだろうライトのない繁華街は、昼日中には眠っている吸血鬼の顔のように白々としている。

 そんな化物よりももっと危険な連中が、僕らの前に並んでいた。

「よう、お出かけかい?」 

「誠次……」

 遅れて出てきた葛城が驚愕に息をついていた。

 西山誠次は斑金髪な撫でつけながら、泥のように濁った眼球で二人を見回す。

「お前はずっと監視されていたんだよ、司、俺たちは人見知りだから、そんなに簡単に他人を信じねーの!」

 西山誠次の背後にいる二十人近い『刃苦怨』メンバー達が一斉に忍び笑いを漏らした。もちろん№1もいる。

「なによ、これ?」

 葛城が震える声で尋ねると、西山はこきこきと首の骨を鳴らす。

「おいおい、司、それはこっちのセリフだろ? 何のつもりだお前、だな」

「監視……?」

 葛城の目が見開かれた。何か凄まじい勢いで考えているようだ。

「ああ、お前がウチで何するつもりか見張ってた……俺たちはさ、それなりに周りに気を配っているワケ、本当に信用できるか、本当に黙っているか、それを見極めてから……てことさ、つまり、お前は俺たちの信頼を勝ち得なかったんだ」

「私を、騙して、いたのか?」

 浅い呼吸を繰り返す葛城に、西山がうんざりしたように肩をすくめる。

「それはだから、お前もだろ? 最後のチャンスにお友達を助けやがった、俺たちを裏切った」

「まあ」と西山は指輪だらけの大きな拳を突き出した。

「お前はいい女だから、仲間にはなれなくてもそれなりには可愛がるさ」

 また№1が、『刃苦怨』達が嗤う。喧しく、醜く、嗤い合う。

「……私に何かするつもり?」

 僕の胸がパンクのようにつぶれた。葛城が危険なのだ、またも僕のせいだ。

「だから、可愛がるだけだって? お前偉そうだけど経験ないんだろ? 安心しろってすぐに大量経験者だ……女のクセに粋がるからお勉強することになっただけさ」

 ぶるり、と葛城の体が震えた。

 僕は決心して一歩踏み出す。

 ―葛城を逃がそう。

 また痛い目に遭って泣き喚くかも知れないが、今度は大きい方を漏らしちゃうかもだ、が葛城は守るのだ。パンツは守れないが。

「東雲」僕の意図を悟ったらしく、葛城が肩を掴んだ。

「無茶よ、殺される」

「そんなこと!」僕は声が割れるほど焦った。彼女が妙に落ち着いている。まるで観念してしまったかのようだ。

「に、逃げ」と続けようとしたが、その前に葛城の頭頂部があった。豊かな髪がさらさらと揺れている。

「あれ?」

 葛城が長身を折って頭を下げていた。

「ごめん、東雲……お前の言うとおりだった、私、バカだった、バカ過ぎる」

 ―謝っている場合じゃない!

 が、葛城は悔しそうにまだ謝罪を続ける。

「ごめん……お前を巻き込んで、傷つけて、こんなゲスどもに騙されるなんて……私」

 ばぐ、と鈍い音が上がった。

 僕は硬直した、葛城の細い肩に金属の棒が振り下ろされていた。

 呑気な事をしている間に、鉄パイプで襲われたのだ。

「か、かかか」葛城、と呼ぼうとしたが、もう舌が動かない。

「さて」

 僕の動揺など何もないように、肩を鉄の棒で打たれた筈の葛城が頭を上げた。

 どぐ、とそのこめかみに違う鉄パイプが命中する。

「おいおい、大事な女をあんまり……」

 その様子を見て西山が半笑いで制止しようとしたが、彼の表情はそのままマスクのように固まった。

 二度も鉄パイプで殴られた葛城は……何ともなっていなかった。

 風でも吹いたか、のように涼しい様子だ。

 間髪入れず彼女のみぞうちが容赦なく突かれる。

 が、身を折ることもなく、表情も変えず、ただ僕を見ていた目をすいっと動かした。

「一つ言っておくわ……女の子をナメるな!」

 葛城の掌が消えた。

「ぐええ」と呻き声が上がる。

 彼女に鉄パイプを振り下ろした二人が、掌の一撃で倒れた。

 凄まじい一撃だったのだろう、二人の男の頑丈そうな顔が半分ほどに潰れていた。

「な、なんだ? おい」

 西山にゆっくりと驚愕が広がっていく。

 どか、と葛城のスレンダーな体にまた鉄が叩きおろされる。

 彼女はしかし揺るがない、何でもない、何も起きなかったようにその一人を無造作な手刀でアスファルトにめり込ませた。

「アイアンボディ(いたくないもん)、私はそう呼んでいるわ、私は昔から粗相をすると父さんに殴られてきたの、それがいわゆる虐待で父さんが私のことを嫌いだった理由も、母さんが見て見ぬフリをしていた訳も今は分かる、でも子供の頃はそれが普通だと思っていた、だから殴られても蹴られても痛みも傷さえもコントロールするコツを私は手に入れたんだ」

 ―いや、コツのレベル越えているから。

 そうツッコミたかったが、その前に葛城の嵐のような反撃が始まっていた。

『刃苦怨』のデカい男達につかつかと近寄り、何をされようが構わず一撃でブチ倒していく。

 凶器で殴られようと蹴られようと、断固とした歩みは止まらない。 

 まるで昔見た洋画のサイボーグ刑事みたいだった。

 おおおおお、と絶叫して№1が金属バットと葛城の頭に振り下ろしたが、コンクリートでも破壊しそうなその一撃にも、彼女の額は傷一つつかない。

 そして№1の胸に葛城の拳が突き刺さり、ムカツク奴№1は黄色い何かを吐き散らしながら倒れた。

「お、お前」

 その様子に怯んだのか、西山が下がる。

 しかし、彼が目標である葛城は歩みを止めない。

「何してんだよ! あの女を殺せ!」

 狂乱したように西山が命じ、残りの『刃苦怨』メンバー達がきつつきのような勢いで葛城を攻撃したが、やはり彼女は小揺るぎもしない、負傷しない。肌は裂けることも痛むこともなく、さわさわ撫でたくなる美肌のままだ。

「アイアンボディ(いたくないもん)」

 葛城は一挙動で、それら男共を背後に仰け反らせ倒した。

「あ、ああ?」

 西山はようやく気付いたようだ。頬を痙攣させて後ずさる。

 ―葛城……めちゃくちゃ強い!

 大人っぽい、綺麗な女の子。としてしか僕は見ていなかった。電柱の陰から階段の下から、見ているだけだった。

 しかし……。

「女の子をナメるな」と葛城は一人残った西山にもう一度告げた。

「黙れ!」

 追いつめられた西山は、不法投棄されたゴミバケツに退路を阻まれると、指輪が輝く拳を構える。

 ―あれは、凶器なんだ!

 僕は気付いては葛城に知らせようとした。西山誠次の指に嵌っているゴツイ指輪は武器の一つなのだ。煌めく宝石の高度そのものが危険で血なまぐさい牙なのである。だが彼女はもう西山の前に進んでいた。

「食らえ!」

 冷たい空気の塊を飲み込んでいた。西山の拳が葛城の顔面にヒットしていた。

「葛城!」

 だが、攻撃側の西山の下顎が、ゆっくり力無く落ちて揺れる。

 彼女は無傷だ。葛城の端整な容にはかすり傷もない。 

「ちくしょう!」

 西山は猛獣のように吼えて、ボーリング球のようなパンチを葛城に繰り出した。

 がんがんと、鉄がぶつかり合う鈍い音が響く。

 遂に、ぐらりとよろめいた。

 西山誠次が、だ。

 見ると彼の指は裂け、血が滲んでいた。

 対する葛城はダメージなど全くないようで、片腕を天に持ち上げた。

「ま、待てよ」

 気配に気付いた西山が、阿るように笑う。

「わかった……もう、お前達には手を出さない、な? 俺たちは仲間だろ? 判ったよ、誤解があったようだけど、それは今後解決しよう、お前は俺の右腕にしてやる、仲間が欲しかったんだろ? 俺たちと楽しくやろうぜ」

「嫌だね!」

 葛城は無慈悲なまでに冷静に西山をなぎ倒した。巨体が後方に吹き飛び、そそり立っていた電柱に激突する。

 がくんと、コンクリートの電信柱が傾いだ。

「ははは」と僕は、凄まじい光景を前にして可笑しくもないのに笑ってしまう。なんだかお腹がむずむずとくすぐったい。病院行った方が良いかも知れない。

 ―お、女の子って、すげー。

「東雲!」

『刃苦怨』の一騎当千の不良ども相手に眉一つ動かさなかった葛城が、敵を全滅させ僕に走り寄ってくる。

 一転、泣き出しそうな表情だ。

「大丈夫? 痛かったよね? ほんとにごめん、ごめんね、ああこんなに傷が、つばで直るかな?」

 さわさわと、先程殴られた跡を撫でる彼女を見て判らなくなった。

 葛城はこうしてみるとやっぱり女の子だ。優しく、格好いい、魅力的な女子だ。

 辺りを見回すと、悪名高い『刃苦怨』の猛者達が枯れ木のように折れている。

 ―萌えるなあ、葛城、何だか可愛いなあ、敵の血の色に染まる姿もイイ。

 葛城は今まで見せたことのない濡れた瞳で、僕を見上げている。ガムでも噛んでいたのか温かい吐息はミントを想像させる。

 見過ぎて慣れてしまった大きく開いたYシャツの胸元が、今更僕の視線を独占した。

 刃苦怨との戦いで、鋼鉄のような強靱さを見せつけた葛城だが、こうして触れ合うとやはりしなやかで柔らかい、少女の体だ。

「……また、胸を」

「いややややや」見抜かれて身を固くした。彼女は男のそう言った部分を憎んでいる。

「もう、えっち」

 一発くらいひっぱたかれると覚悟しのだが、葛城はちらりと舌を見せる。

「え?」

「諦めたわよ、あんたには」

 心なしか頬染めて、彼女は俯いた。

「まあ、別に見られてもいいかなって……」

「え? なに?」

「あんたにはそれくらいの恩があるのよ、胸、見てみる?」

「バカ!」

 本気で怒鳴ると、葛城は少し仰け反って目を丸くする。

「そういうことはちゃんとお付き合いしてからだよ! はしたない」

「え」と彼女は絶句している。

 葛城ったらまったくオマセさんなんだから、僕らはまだ高校生じゃないか。 

「え」と僕の顔を覗いた葛城がもう一度驚愕した。

「あ、あんた、まさか……色々、見たりしているけど……ホントは口だけ」

 葛城は無礼な奴だ。

 僕の妄想力と行動力、そう野獣たる僕を嘗めている。

 その気になったら、無理矢理、ムリヤリ、どんなに嫌がろうが、力づくで……手を繋ぐことだってしちゃうんだぞ。

 野獣……僕は何てケダモノなんだ。否、男はみんなケダモノだ。

「ふ、ふふふふ」不意に葛城は口を押さえて笑い出した。

 意味が分からない僕だが、「ほら」とイタズラっぽい目の葛城が、はだけた胸元を近づけるから、怒った。

「こら! お嫁に行けなくなるぞ! 全く葛城はスケベなんだから」

「あんたは女の子には口だけ番長だな」

 葛城の言葉に憤慨する。

 ―コイツ、恩人だからってバカにして、ムリヤリ手を繋いでやるか。

 だがまだ笑う葛城の表情が、かつての穏やかなそれなので特別に許すことにした。

 運が良かったな、葛城よ。


『切る、斬る、素KILL』 

「よう、おはよう東雲」

 眩しい朝日の中で、葛城が片手を上げていた。

 僕は朝一からふわふわとした心持ちになり、自分の席に座る。

 あの日から葛城司は変わった。否、元に戻った。

 指定のYシャツのボタンをきっちり上まではめ、薄いがどこか毒々しかったメイクももうしていない。髪も染め直し、さらさら漆黒だ。

 中学時代の雑誌モデルのように『格好いい』、彼女に戻っている。

 が、どうしてか一つだけ中学時代と決定的に違うところがある。

「今日さ、数学があるだろ? 私休んで訳判らなくなっているんだよね」

 そう言うと彼女は、僕の椅子の半分に強引に座ってくる。

 葛城と僕との距離感がいままでと全く違う。 

 恐らく長い間あんな『犯罪者集団』と一緒にいた反動で、微妙に人との距離が判らなくなっているのだろう。

 心細かったんだね? 葛城。

 しかし、僕に数学を、勉強を聞くのはヤボってもんだ。

「そうかー、東雲わからないのかー、やっぱり」

 やっぱり? なら何故聞く、僕を辱めているのか? 興奮するだろ葛城。それに気付いていないようだけど、僕の右肘にちょっと胸が当たっているぞ。

 胸ちょんはちゃんと付き合ってからだぞ。しかし注意しようにも、僕の鼻孔は葛城の纏う石鹸の匂いで満たされ、頭脳は半分溶けていた。 

「うふふふ」

 そんな自分のとんでもない失敗に気付かない呑気さんの葛城は、僕の顔を横から覗いて機嫌良さそうに笑う。

 びゅっと空を切る音がしたのはその時だ。

 ばちん、と葛城は何でもないように腕を振るう。

 金属の高い軋んだ音が床から鳴った。

 視線を転じると、いつぞやも大活躍したぎらぎら輝く銀のコンパスが落ちている。

「うえ!」

 振り返ると、えりすが目を尖らせて睨んでいた。

「このバカ拓生、ドスケベ女にダマされて」

 しかし悪態を聞いていられない、葛城がぐっと両手で僕の頭を挟んで向きを変えたのだ。

「さあ、あんなイヤな女は放っておいて、二人で問題解こう」 

 葛城、何て豪毅な女だ。あのえりすに負けていない。しかも背中にも目があるのか、彼女の攻撃もかわした。

 ―やっぱり格好いいなあ……。

 改めて葛城司の魅力を思い知った。

 いつの間にか机が陰っていた。

 う? と顔を上げるとノートを胸に抱いた天城さんが、ぼー、と突っ立っている。

「けいさんと……ちがう……」

 彼女は表情を消してじいっと見つめてくるが、何のことか判らない。

「計算と違います、拓生君、そんな急に葛城さんと……計算し直さないといけないじゃないですか!」

 なんだか怒られた。

「え、ええっと、ごめん」

 訳が分からないが、謝るのだ。

 そうしないといけないような……今日の天城さんはそんな迫力がある。

「何? 天城」

 僕が場を収めようとしたのに、まだ尖っていたころのクセが抜けていないのか、葛城が不機嫌な声を出す。

 ―あれ?

 その時になってようやく気付いた。今日は教室が静かだ。いつもなら友達とダベっているはずのクラスメイト達が、皆俯いて息を潜めている。

 ちらちらとこちらを見てくるので、不安になった。

 ―もしかして、僕ら煩いのかな?

 同級生に迷惑をかけるのも忍びない、僕は机の前に立つ天城さんを見上げる葛城に囁いた。

「なんだかみんなに迷惑かけているようだよ」

「別にいいのよ、そんなこと」

 ばち、言葉の終わりに彼女はまた腕を鞭のようにしならせ、えりすが投げた百科事典を床に落とす。

 うわー、百科事典を生まれて初めてみた。本当にこの世のありとあらゆることが記されていそうな厚さで、しかもえりすのは装丁が焦げ茶の革で成されている。きっと読むととても頭が良くなるのだろう。鈍器として使われると頭が無くなるだろうが。

 が、そんな凶器を葛城は涼しい顔で打ったし、その後も手を痛めた様子もない。

 確か『アイアンボディ』とか言った。痛みを感じなくなる能力だ。

 目を上げると、葛城の瞳は嬉しそうに輝く。

「計算と違います!」

 珍しく天城さんは激して、僕の机をばしんと叩いた。

 わわ、とどん引きした。

 良く理解できないけど、どうやら三人は仲が悪いらしい。えりすはしょうがないとして、天城さんは他人に迷惑をかけるような子じゃない、葛城だってもう更正したはずだ。

 ―どうして仲が悪いのかなあ?

「そこの三人」

 悩んでいると虎狼院みやが大股で近寄り、彼女達を指さした。

「拓生君が困っているよ、喧嘩するなら他の場所でしろ、それとも僕が拓生君の近くから追い出そうか?」

 みや、あのいつもにこにこしている彼だが、今日はやはり虫の居所が悪いのか、妙に挑戦的な物言いをする。

「やってみたら?」

 葛城はすぐに応じた。えりすも白っぽい目を向け、天城さんはノートに何か書き始めた。

「そうか……どうやら君たちは僕を侮っているようだね?」

 みやは微笑む。まるで女の子のような艶のある笑みだ。

 教室が突然寒くなった。夏が近づいているというのに、真冬のように感じられる。 

 数秒、静寂が辺りを支配する。

 僕は理解が追いつかなくて、ただ葛城、天城さん、えりす、みや、の順で見回すだけだ。

 がらら、と不意に前の扉が開かれ、担任の細井先生が現れた。

「うわ!」

 彼は何か酷く顔色が悪くなっている。いきなり冬に逆戻りしたのだ、春物の服ではきついのだろう。

「運が良かったね」

 みやはにっこりと自分の席へと戻っていき、葛城は最後に僕に笑いかけると腰を上げる。

何か言いたいことが計算できない程ありそうな天城さんも、踵を返した。 

 ただ呆気にとられてそれぞれを見送る。額に生ぬるい感触があった。

 触れてみると汗だ。いつの間にか僕は体中に汗をかいていた。

 ―こんなに寒いのに。

 人間の体の神秘に、思いを馳せる。


 数時間後、僕はすっかり疲れていた。

 そんな一連の遣り取りが、休み時間になるたびに繰り返されたから、いつのまにか気疲れしていた。

 昼休みになるのを見計らい、教室から抜け出した。

「逃げるのか? 東雲」と僕をゴミ虫として見ている隣の席の女の子が悲鳴を上げたが、逃げるも何も、何かに追われてはいない。

 ―彼女は何を勘違いしているのだろう?

 たしかに居づらい気もするが、それは気のせいという奴で、逃げるとかそう言うのではなくて、前向きな脱出なのだ。後のことは見てないから知らないのだ。

 とにかく教室を出た僕の目に、とんでもない物が飛び込む。

 ちちが揺れていた。

 音にするならば、ぷるんぷるん、とちちが揺れている。  

 お父様ではない。

 乳だ。

 あまりのことに固まっていると、ぷるんぷるんは近づいてきて、僕の前で止まり微かに上下する。

「あら、後輩君」

 ―雛森先輩、こんにちは。

 と、本来ならば挨拶せねばならないのだろうが、僕の目玉は雛森先輩の胸部に釘付けにされ、弛緩した口は「ち……ち」と唱えるだけだ。

「何? またっ、もう!」

 雛森先輩は怒ったようにしかし神経質ではなく、子供を窘めるような口調になる。

「ダメだよ、後輩君」

 と雛森先輩は胸を腕で押さえながら、やや屈む。

「女の子は意外と視線に敏感なんだから、見ているところ、すぐにバレるんだからね」

 僕はよろめいた。

 やよいの困ったような微笑みが、あまりにも眩しかったのだ。

 前述したが雛森先輩はこの学校のアイドルで、皆が憧れるマドンナで、男子生徒なら必ず想像の世界で夜半に世話になっているビーナスだ。

 背中当たりまで伸びた濃い茶色の髪はなだらかにウェーヴしていて、それに包まれた小さな顔は陶磁器のように白い。故に長い睫の下の大きな黒目がちの目がよく映え、鼻は嫌味にならないくらいに高く、艶やかな唇は健康的に紅い。彼女の何もかもが好印象に残り、何もかもが魅力的だ。

 アイドル、マドンナと呼称されるのが当然と言えた。

 しかし、当人は「もう、からかって!」とそんな賞賛の言葉に真っ赤になって照れるほどで、気取った所も、偉そうな所もない、誰にも優しい笑みを向けてくれるまさに天使のような存在だった。

 僕との運命に等しい縁は、噂の先輩目当てに剣道部に仮入部した折、全くセンスもやる気もない僕の手を熱心に取ってくれたことからだ。

 雛森先輩以外に目的がない僕は、違う先輩(特に男)が怖くて仮入部に止まったのだが、それから彼女は僕を「後輩君」と名付けて、時々話しかけてきてくれた。

 本当のことを言うと「後輩君」ではなく「拓生君」とか「拓生さん」と呼んで欲しいのだが。否、いっそのこと「私の拓生」と所持を表明してくれても良い。

 人の掃けた武道場で胴衣と袴姿の雛森先輩が、いつも通り背筋をぴしっと伸ばして正座をしている。

「やあ、先輩、どうしたんです? こんな所に呼び出して」

「こら! 拓生くん、神聖な道場を『こんな所』なんてダメでしょ」

「す、すみません」

「い、いいのよ、あなたなら、私の拓生くん……所で今日来てもらったのには、その、聞きたいことがあるの」

「なんです? 僕の先輩、あなたの疑問には何でも答えられる、僕はそんな男です」

「じ、実は……私たちの発展的な未来のことなんだけど……」

「未来?」

「もう、惚けないでよ! 私の拓生くんたら、こういう事はちゃんとしておいた方が良いのよ」

「でも、確か噂では先輩は尾澤先輩と付き合っていると聞きましたが」

「違うわよ! それは信頼できない噂、本当はあなたと付き合いたいの……私の拓生くん」

「ははあ」

「……て、また胸ばかり見て! ……まあいいわ、そうね、私の拓生くんには隠し事するのはおかしいもんね」

「ああ、先輩! どうして胴着を脱ぐんですか? 袴も」

「秘密はなし、おしえっこしましょう」

「そ、そうですか、判りました、いろいろ教えて下さい! いただきマース!」

 雛森先輩の瞳が、じっと僕を見つめていた。

「……何か妄想していない?」

「うはあ」とピンクワールドにいた僕が、強制的に現実に帰還させられる。

「もう」とやよいはため息をついた。くんくん嗅いでみると出来たてのパイのような、甘い匂いだ。

「あのね後輩君、イケナイ妄想ばかりしていると脳が溶けちゃうぞ」

 どぎまぎする僕にウインクすると、雛森先輩は何やら思いついた顔になる。

「そう言えば、尾澤君、知らない?」

 不意の残酷な質問に、背筋が凍る。

 ―尾澤……やっぱり尾澤先輩と……。

 その反応で答えに気付いたのか、雛森先輩は力無く肩を落とす。

「そう……どこに行ったのかなあ……」

 気付くと、彼女は弁当の包みを大事そうに持っていた。 

「そ、それって」

 思わず質問してしまう僕に、雛森先輩は頬を赤らめる。

「う、うん、ちょっと自分で作ってみたんだけど……尾澤君、食べてくれるかな?」

 奈落だ。その瞬間足下がパカリと開いて、ねっとりとした闇の中に落ちていく。

 ―やっぱり……噂通り、付きあってんジャン!

 ここがもし誰もいない深夜の屋上だったら、「うがーん!」と叫んでいたろうし、夕暮れの海ならば「ばかやろー!」と大海原に喧嘩を売っていただろう。

 しかし人の多い昼休みの学校の廊下なので、呆然と立ちつくすだけだ。

「あ、そうだ、後輩君」

 魂が口から抜けかけている僕に、雛森先輩は真面目な口調になる。

「お友達、大丈夫だった?」

 辛うじて現世に踏みとどまる。そう言えば、葛城のことについて雛森先輩に相談して、背中を押して貰ったのだ。

「は、はい! ありがとうございました、先輩のお陰で、葛城を助けることか出来ました」

 それは本心からの謝辞だ。

 雛森先輩がいなかったら、踏ん切りがつかなかったに違いない。そしたらあの最低な『刃苦怨』の中で、葛城がどんな目にあったか。

 いつも朗らかな雛森先輩だが、相談事だと鋭く正しい事を教えてくれる。否、本当は判っているのに避けていた部分を指摘してくれる。

 実に頼りになる先輩なのだ。

「そうよかった、また何か悩みがあったらいつでもお姉さんに頼りなさいね」

 ぽよよん、と雛森先輩は胸を張った。チチが揺れた。釘付けだ。 

「こら! 後輩君たら」

 雛森先輩は僕の目線に気付き、軽く握った拳を振り上げる。

「全く、エッチなんだから……んじゃあね」

 ぶちぶちと呟きながら彼女は去っていく。恐らく尾澤先輩を捜しているのだろう。

 女性らしいなだらかなシルエットを見送りながら、がっくりと肩を落とした。

「パンかお」

 しばしそこで悲しみに暮れていたのだが、すれ違う生徒達にちらちらと見られる異端者になっていたので、絶望の顔を指で直して、昼食に無理矢理心を向けた。

「おい」

 声をかけられたのは歩き出そうとした、瞬間だ。

「はい?」

 振り返ると壁があった。否、壁のように背の高い男子生徒だ。

 猛禽の嘴のような高い鼻に、パイナップルのような髪型、この季節に不自然な日焼け顔だが、妙に様になる整った容姿の男子生徒だ。

 男に全く興味のない僕も、この生徒は知っていた。

 尾澤一馬。この学校の女子生徒から最も熱視線を向けられている、二年ながらバスケ部主将だ。

 そして、先程雛森先輩が探していた、彼女とつきあっ……。

「ててててて」僕はその先に思い至りたくなくて、バグッた。

「な、なんだ? お前」

 尾澤……尾澤先輩は僕の奇行に眉を潜めている。

「い、いえ、何でしょうか? 尾澤先輩」

「俺を知ってんのか?」

 尾澤先輩は薄い唇をつり上げて笑うと、猫科の肉食獣のような均整の取れた肉体を誇示するかのように胸を突き出す。

「少し話しがあるんだ、ちょっとこいよ」

 正直男の話なんか聞いてられない、特に尾澤……尾澤先輩のようないかつい容姿のモテるヤロー何て嫌いだ。失せろ! 

 しかし、高校と言うところは学年により絶対的なヒエラルキーがある。先輩が「来い」と言うならば行かねばならない。

「……はい」 

 僕は最後の抵抗として、少し顔を俯き加減にした。

 尾澤先輩が腹ぺこの僕をわざわざ連れてきたのは、バスケ部の部室だった。

 運動部の部室は部室練という部室が横に集合している所の一角にある。そこまでの道のり、僕は密かに前を行く尾澤先輩の後頭部辺りを睨んでいた。

 確かに体格でも外見でも負けている。だが……そう、若さなら勝っているじゃないか。ビバ! ヤングマン。

「ここだ」と尾澤先輩は鋭い視線で辺りを見回すと、バスケ部の部室の扉を開いた。

「さあ」と促され、何も考えず入る。

「!」

 言葉も無く驚愕したのは、部室の中に数人の男子生徒がいたからではない。

 そいつらが一見してマトモな青春を謳歌していると思えない世紀末的ルックであり、さらに片腕を包帯で吊った№1が歪んだ笑みを口元に貼り付けていたからだ。

「え?」僕が事態に気付く前に、尾澤先輩……尾澤のクソヤローは扉を閉めた。


「まあ緊張するなよ」

 尾澤は嘲るような口調で、棒のような僕をなぶった。

「ここでお前を潰す、とかそういうんじゃねえんだ」

 さり気なく脅される。

「ただなあ、俺たちはさ、一応メンツってモンがあるからな、このままにはしていられないんだなあ」

 僕は尾澤のヤローが何を言っているかさっぱりだ。

「つまりだ」

 お節介な№1が……いや、コイツはもうムカツク奴№1ではないのか? どうやらその座は尾澤に……否、面倒だから№1は№1、尾澤はムカツクチャンピオンにしよう。

 とにかく説明してくる。

「この間の礼ってことだよ」

 僕のような脳を走る電流の少ない人間も、そこで全て理解した。

 №1はバスケ部だ。葛城にやられた後、学校では見なかったがこんな所に隠れていた。そして、じゃらじゃらとごっついアクセを決めている周りの男子生徒達もバスケ部員、尾澤はその主将。

 前に№1が自慢していた。どうしてか怪我する対戦相手。

 何のことはない、この学校のバスケ部が『刃苦怨』の一部だったのだ。考えてみれば天城さんに葛城、二人ともこの学校の可愛い子だ。ピンポイントに狙われていたという事実から、学校内に疑いの目を向けても良かった。大分手遅れだが。

「西山のバカは、女なんかに恥かかされやがってよー」

 もはや荒んだ口調を隠さない尾澤が、舌打ちする。

「超ダルいが、俺たちの……なんつーか、ネーミングライツ? にもそれなりの影響が出るだろ? だからきっちり仕返ししとかないと行けないんだな、判るだろ?」

 全然。

「ぼ、ぼ、僕をどうする気だ?」

 ああ、また膀胱がふんにゃりする。過日の殴る蹴るの地獄が蘇り、生唾を飲み込んだ。

「心配すんな、あ?」

 尾澤は馴れ馴れしく僕の肩を叩いた。三滴漏らしたね、だが三滴で済ませた僕、スゴくない?

「お前は小物だから見逃してやろうと思っている」

 嫌な予感がする。こんな連中の猫なで声が良い兆候の訳がない。

「だが、葛城、とか言う奴はちょっとダメだな」

 ほーら。

「後、俺たちは天城とかいうお前のクラスの奴にも興味がある、だから」

 ぐっと尾澤は僕の肩を掴んだ。スゴイ握力だった。肩が引きちぎられそうだ。四滴いったね。

「だから、あいつらと仲いいお前を『特別枠』で『刃苦怨』に入れてやろう、と思っている、あの二人を疑われることなくおびき出す役でな」

「へ?」

 僕の反応がツボだったのか、周りの男達がぎゃはぎゃはと笑う。

「だから、お前もこれからは栄えある『刃苦怨』の一人だ、どうだ? 悪くないだろ?」

 僕は沈黙した。するしかない。尾澤はそれを思案と勝手に判断する。

「いいぜー『刃苦怨』は、ウザい奴を片っ端からぶちのめせる、いい女も選び放題だ」

「…………」

「あ、そうだ、お前やよいの事が気になってんだろ? 雛森やよい、俺はもうすぐアイツを落とせそうなんだ、まあ今回は時間がかかったが、今日無理にでもモノするさ、俺たちが飽きたら回してやってもいいんだぞ、どうする? ルーキー」

 どうするもこうするも、すでに有望新人にされている。

 だが、だが、僕は震えた。

 怖いのではない、いや、怖いよそれは、だけどその時はその時だけは震えた。怒りに。

「ふざけるな!」

 怒声がバスケ部の狭いコンクリ部屋に響き渡る。

「僕はイジめるよりイジめられるほうが燃える体質なんだ! だれが他人を傷つけるお前らなんかの仲間になるか! 葛城と天城さん? 冗談じゃない、あの二人に何かしてみろ、いや、雛森先輩も含めて何かしてみろ」

「どうなるんだ?」

 尾澤の口調はむしろ嬉しそうだ、だが目はは虫類のように濁っている。

「こうだ!」

 僕はやおら振り返ると、狙いを定めて尾澤にスーパーグレートパンチを見舞った。

 さっとかわされ、逆にハンマーのような拳を腹に叩き込まれる。

 おえ、その時ばかりは胃に何も入れていなかった事を感謝した。

 こんな奴らの前でゲロを吐いたら情けない。

 しかし、残念なことに僕の抵抗はここまでだ。尾澤の一撃の痛みがじんわりと広がり、どうしたのか意識に靄がかかりだした。

 一発で気絶させられた、と知ったのは後で聞いてからだ。


 はっと目覚めると、僕はヒモらしき物でぐるぐる巻きにされていた。

「起きたぜ」

 バスケ部の誰かがそれに気付き№1に告げ、僕の視界に見慣れた、もう見たくない革靴が入ってくる。

「まず、お前に礼がある」

「?」

 №1、やっぱり頭が残念な方向なのか? この態勢で礼とは。

「よく尾澤さんの誘いを断ってくれた」

 ここで革靴が加速し、僕の胸を突き刺した。

「ぐはぁ」と肺の中の空気が強制的に口から漏れる。

「悲鳴を上げても誰も来ないぜ」

 №1は何度も唇をなめ回していた。

「俺は、お前なんか小物、すぐに『刃苦怨』の看板に飛びつくと思ったんだ、そしたらよう、借りが返せないだろ? こないだの、な!」

 革靴が今度は喉を打った。

 形容しがたい苦痛と共に一瞬呼吸が途切れ、ごほごほと僕は咳き込んだ。

 また周りが爆笑している。

「さて、このバカにそろそろ制裁を下そうか」

 楽しげに№1が宣言すると、バスケ部連中は色めき立った。

「俺が右腕をへし折る」

「なら俺は左腕」

「右足は俺が踏みつぶす」

「左足の関節は俺がダメにする」

「なら、俺はこいつの目を少しばかり暗くしてやろうかな」

 どこまでも非道な連中だ、が、僕はもう泣いていたが後悔はしていない。

 ―天城さんに葛城、二人を巻き込まなくて済む。

 №1は僕の諦念と満足に気付いたようだ。

 不機嫌そうに眉を上げる。しかし、すぐに何か思い出してにやりとした。

「おい、尾澤さんがいないぞ、どうしてだ?」

 不意に問われ、僕は微かに体を揺らした。それしかできなかったし、大体№1の言葉の意味が分からない。

 答えたのは違うバスケ部だ。

「へへ、雛森やよいをモノにしに行ったんだ」

 僕の目の前で何かがスパークした。絶望も輝くモノなんだね。

「いいなあ、いまごろ」

 バスケ部はイヤラシイ手つきで、雛森先輩のバストをエア揉みする。

「ああ、後で回されてくるのが楽しみだ」

 僕の暗い表情に溜飲を下げたのか、「さて」と指を鳴らし出した。

 体が使い物にならなくされる。

 だが、僕が考えるのは雛森先輩のことだ。

 あのちち……否、あの優しい先輩が尾澤、『刃苦怨』ごときに傷つけられるなんて耐えられない。

 葛城の時も親身になって相談してくれた……先輩。

 僕の目からまた涙がどばっと噴出した。

「おい、コイツ泣いているぜ?」

 気付いた№1が舌を出して嗤い、他のバスケ部の爆笑が部室に反響する。

「だがもう遅い、まず右腕だ」

 最初の革靴が僕の腿の部分を強く蹴った。

 骨に達する痛みで、じんわり感覚が消える。

 が、僕は雛森先輩の笑顔だけを思い浮かべていた。

 ―どうしたらいいんだ? どうしたら……。

 もう何も考えられない。

 僕は己の無力と酷薄な現実に耐えられなくなって、つい叫んだ。危なくなったとき、叫ぶ名前。

「みやー!」

「あ?」と誰の声が何を誰何したのだろうか、動けない僕には判らなかった。

 ただ、どさり、と何かが落ちる、倒れる音を聞いた。

「な、なんだ? どうした竜一」

 №1は呆然としたような声で、誰かに声をかけた。

「なんで、倒れてんだ?」

「おい、コイツ……ヤバいぞ、痙攣している」

 僕の背後で騒ぎが起こり出す。何が何だか、の僕のすぐ近くに一人の少女、いや胸がない、少女に限りなく近い少年がいつのまにか立っていた。

「君たち、僕の拓生君を痛めつけたね?」

 虎狼院宮みやだ。

「え?」

 一番驚いたのは僕だ。みやはどこから現れたのだ。そしてどうしてこんな場所に来たんだ?

「みや、逃げろ!」

 呼んでおいて何だが、僕は叫んだ。

「僕を心配してくれるのかい? ありがとう拓生君」

 みやは頬をバラ色に染めて喜ぶ。

「でも、大丈夫だよ、少し待ってて」

 僕とみやが話している間に、№1……『刃苦怨』メンバー達は冷静さを取り戻したらしく、

「なんだてめぇ?」

 とケダモノのように吼える。

「僕は、拓生君の友達」みやは僕が五滴ちびったのに全く動じず、むしろ笑った。 

「そして虎狼院流暗殺術五段、虎狼院みや!」

「はあ?」

 №1はオーバーに呆れてみせる。

「何ほざいているんだ? コイツ? まあヤローのようだけど顔は綺麗だから、いろいろ使えるかな」

 相変わらず『刃苦怨』は最低だ。節操がなさすぎる。

 ―両刀かよ!

 心底ドン引きだ。 

 他の数人、残った四名ほどのバスケ部員兼『刃苦怨』構成員達も同様の意見らしく、いやらしく唇を歪めてみやを反包囲する。

「みや!」

 僕は足掻いた。縛られているから何も出来ないが、このまま唯一の友人を失いたくはない。

 が、彼の姿はもう無い。

「は」

 誰かが息を吐いた。そしてバスケ部員の厳つい奴が真ん前にぶっ倒れる。

 そのデカい体がドミノの齣のように倒れると、背後にみやの姿が現れる。 

「な、なんだぁ」

 №1は頓狂な声を出す。そりゃそうだ。みやは突然消えて突然現れる。その度誰かが倒れていくのだ。

「ぐぎぎぎ」みやにやられたバスケ部員が口から泡を吹いてびくびくしている。

「虎狼院流暗殺術の起源は戦国時代にあってね、まあいわゆる忍者の技の先祖なんだ」

 静まりかえる部室に、みやの説明だけが流れた。

「君たちはもしかして、この世で自分が一番強い、なんて思っていたの?」

 楽しげに軽やかに、みやは№1達を打擲する。

「て、てめえ」

 しかし、勝負はもう着いていた。№1以外のバスケ部が力無くぐにゃとコンクリ床に沈んでいく。

 すでに彼等を打ちのめしていたようだ。

「これが僕の技、虎狼院流暗殺術(ひそかにやっちゃえ!)、だよ」

 残った№1は目に見えて動揺した。彼はそれでなくとも葛城にやられて片手を吊っているのだ。そんな状態で、否、どんな状態でも虎狼院みやは倒せない。

「待てよ!」

 見苦しく№1は残った手を振る。

「俺、ほら怪我人だし……そう、もうそいつに危害はくわえねーからさ、そうだ! お前『刃苦怨』に来いよ、俺より上に行けるって、何だったら尾澤さんに」

 ぶつり、と№1の舌は止まった。

 みやの人差し指と中指が、彼の喉元に突き刺さったのだ。

「拓生君、無事かい?」

「がががが」と白目向いてばたばた痙攣する№1など気にもかけず、みやが僕を縛っていたロープを解いてくれる。

「ううう、みやー!」

 感激に思わず抱きしめると、彼はかっと耳まで赤くなる。

「ありがとう、みやー、怖かったよう」

「よしよし、もっと早く呼んでくれれば良かったのに、君の声なら僕はどこでも聞き逃さないんだよ」

 だがすぐはっとする。みやに頭を撫でられている場合じゃないのだ。

「た、大変だ!」

 脳裏で輝くのは雛森先輩の笑顔だった。

「先輩が危ない……こいつらの仲間の尾澤が」

 小首を傾げるみやに説明したかったが、あまりにも焦っていたので舌が上手く回らない。

「みや、ここの後かたづけを頼めるかな? 先生にコイツらのことを説明してくれ、警察にも」

「う、うん」

 僕の勢いに、みやは戸惑いながら頷いた。

「じゃあ、後で!」

 全てをみやに任せて僕はバスケ部部室を出た。

 驚く。どのくらい気絶していたのか、空が暮れだしていた。

 が、感心してはいられない。

 校舎へと走り出しながらスマートフォンを取り出す。

 電源を切っていたから気付かなかったが、葛城と天城さんと……えりすから合計三二〇回も電話を受けていた。

一瞬、何か恐怖のような物を感じたが、今はどうでもいい。

 懸念の一つ、『刃苦怨』に狙われている人物の無事を確かめたい。

 だが雛森先輩の番号は分からない……ならば!

 履歴から発信すると、相手はすぐ出た。

「葛城!」

『おい東雲! 何してたんだっ、昼休みから急に消えて、私がどれだけ心配したか判る? もうっ!』

「いやそれよりも」後半の葛城らしくない口調に突っ込むのを忘れ、今までの経緯を一息に話した。

『なんだって? 『刃苦怨』? 尾澤先輩が……? そうか、バスケ部って』

 葛城はさすがに頭の回転が速い。

『今どこにいる? 東雲』

「校舎C棟の一階渡り廊下近く」

『すぐ行く』

 僕は葛城の声を聞いて安心したのか、自分が酷く息切れしていることに気付いた。

 校庭の端の部室練から全力疾走したのだ、運動不足の僕には酸素が必要だ。

 はあはあ、と内心焦りながら息をついていると、葛城はもう姿を現した。

「東雲! 大丈夫か?」

「僕はいい! それよりも、先輩が、先輩が尾澤に……」

「わかった」葛城はそれ以上僕の心肺に負担をかけないためか、色々丸飲みしてくれた。「だけど、それは学校なのか?」

 僕の考えを見越し、彼女は校舎を見上げる。

 予感、あるいは推理だ。

 尾澤が雛森先輩に何かするとなれば、人目の着かない所、そして今の時間ならそれが学校の建物の中、天城さんではないが図式は間違いなさそうだ。

「……葛城、お前にこれ以上頼むのは気が引けるけど、一人じゃ無理っぽいんだ、手伝ってくれないだろうか?」

「当たり前でしょ」と彼女は即答する。

「『刃苦怨』の罪は私にも関わりがある、それにあんたの大切な人でしょ?」

「すまない」

 僕は葛城に謝辞を述べると、素知らぬ顔を決め込んでいる学校をふり仰いだ。

「こうしてみると意外に大きいな……そうだな、僕は一階から探す、お前は三階から下に向かってあたってくれ、知っている人だ、雛森やよい先輩、もしくは……『刃苦怨』の尾澤一馬だ」

 どうしてか葛城の目元が少し陰る。やはり『刃苦怨』には近づきたくないのだろう。

「雛森……そっか、あの胸の大きな、可愛い人か……」

「そうだけど、どうした? 葛城……そうだ! 尾澤を見かけても危険だから近づかないでくれ」

「それはそっちだけど」

「へえ?」

 葛城は不本意そうに唇を尖らせる。

「あのねえ、私の強さはあんたも見たでしょ? 今更、男の一人くらいどうにでもなる……けど、あんたはねえ」

「うえ?」

「だから……まあ、もうっ、ここで言い争っていても仕方ない、でも危険なことはするな、東雲」 

 葛城の有無を言わさぬ口調に、「う、うん」と首肯することしかできない。

「じゃあ」と、しかしまだ心配そうに一度振り返ると、彼女は健康的な二段飛ばしで階段を上がっていった。

 葛城を見送った僕は、不意に『刃苦怨』バスケ支部で腿の部分を酷く蹴られていたことを思い出した。

「いててて」

 激痛が電気のように右側の脚に流れ、そのまま固い床に蹲りそうになる。

 ―ダメだ!

 僕は己の弱さを叱咤した。

「先輩が、危ないんだ」

 口にすると胸の奥が冷たくなる。もしかしてもう手遅れで、雛森先輩は致命的に傷つけられたかも知れない。

「ま、まだ、きっとまだ間に合う、まだ」

 震えながら願望を繰り返し、僕はC棟に寄り添うA棟の一階の教室一つ一つを覗き始めた。思っていた以上に時間は経過していたらしく、もう生徒の姿はない。

 ―全く見当違いじゃないか? もしかして尾澤は雛森先輩を学校の外におびき出したんじゃないか?

 絶望的な考えが脳に閃いたのは、三つ目の無人の教室を見回したときだ。

 難しい事じゃない、尾澤を信じている雛森先輩なら簡単にだませるだろう。だが、そうすると手の打ちようがない。

 悲観的になる僕の腿がびびびと震えた。また痛みか、と一瞬勘ぐったがのだが、ポケットに入れた携帯が鳴っているとすぐに気付く。

「東雲!」 

 出ると葛城だった。切迫した彼女の声が僕の耳朶を叩く。

「今すれ違った先輩に聞いた! 尾澤を保健室近くで見たらしい、もちろん雛森先輩も一緒だ!」

 言葉が雷鳴のように轟いた。保健室、だとしたら、だとしたら。

「こっちからは遠い! 私はB棟の三階だ、だけど……」

 そう、だけど。

「こっちはビンゴだ」

 僕はむしろ呆然としてしまった。

 この短時間で一番離れたB棟の三階まで行った葛城は凄いが、保健室は一階のA棟。つまり僕の目と鼻の先だ。

「神様」と僕はスマホを片手に声を出していた。まさに神がかったような強運だ。

「葛城、ありがとう!」

 まだ何か受話器の先で彼女は言っていたが、それを無理にポケットにねじ込むと、走り出した。

 まだ足は痛むが、どうでもいい。

 保健室のプレートはすぐに見えた。すぐに近づいた。

 そして、中の不穏な空気、時折鳴る音、金属が軋み、女子生徒らしい悲鳴が漏れていることも、察知した。

 間違いはなかった。

 躊躇なく保健室の扉を開き突入すると、尾澤一馬に組み伏せられている雛森先輩の姿が何よりも先に、何よりも鮮明に飛び込んだ。

「後輩君!」

 半ばYシャツを脱がされた彼女が、大きな目に涙を溜めて僕を呼ぶ。

 目眩に襲われた。

 尾澤の神をも恐れぬ手が、神聖不可侵たる雛森先輩の片胸を握っているのだ。それは大人になってからデショ!

 まだブラの上からだ、というのが救いだが、それでも尾澤一馬に対する判決は一つ。

 ―お前、死刑。

「た、助けて! 私、こんな……のイヤ」

 雛森先輩が尾澤の胸の下で泣き出した。本当は顔を覆いたかっただろうが、両手首を一掴みでまとめられていて、それもままならない。

「お、尾澤」

 保健室には養護教諭はいない。恐らく放課後故に職員室へと引き返したのだろう。

 だから、そこには尾澤と裸に近い雛森先輩、そして僕だけしかいなかった。

「離して!」

 ベッドの上で雛森先輩が暴れ、白いカーテンがレールから外れた。

「お前、何でここにいる?」

 力ずくで雛森先輩を組み伏せながら、尾澤一馬が怪訝な顔になった。

「先輩を離せ!」

 質問に答える必要を感じなかった僕は、叫んでただ突進した。

「うわ!」と勢いに驚き、尾澤の大きな手が雛森先輩を解放する。

 そのまま尾澤一馬をスーパーグレートパンチで殴り倒そうとしたが、パンチは簡単にかわされ、反対に引き締まった尾澤の腕が僕を撃ち倒した。

「いやぁ!」

 上半分下着姿の雛森先輩が、僕にブラの白さを見せつけながら保健室から飛び出していく。 

 ちっ、と尾澤は彼女が姿を消すと舌を鳴らす。

「この野郎、大事なときに邪魔しやがって!」

 倒れた僕に尖った革靴の一撃が入る。

 全く容赦のない強烈な蹴りを受け、床で無様に転げ回った。

 だが、それでも安堵している。

 ―先輩は、無事、だ。

 恐らくこれからまた酷く痛めつけられるのだろうが、それだけで良いような気がする。「タダじゃすまさねえからな」

 案の定、尾澤は転がる僕を熾烈に睨んでくるが、もう覚悟は決めている。

「『刃苦怨』をコケにしやがって」

 尾澤の革靴が顔面に振り下ろされた。踵の部分が唇を踏みにじり、口内に血の味が広がっていく。

「酷い目に遭わないと学習しない、どうしようもないクズめ!」

 もう目をつむる。何だかその方が痛くない気がしたのだ。

「尾澤君」

 冷ややかな声が、尾澤の次の一撃を止めた。

 僕と尾澤が突然のことに振り返ると、まだ上着を着ていない雛森先輩が、音もなく立っていた。

「せ、先輩! どうして」

 逃げないんですか、とまでは続かない。尾澤が横腹に靴先を突っ込んだのだ。

 言葉と呼吸を失い、ごろごろとその場を転げる。

 僕は自分の甘さに歯がみした。あの胸を母性で特大に膨らませた雛森先輩が、考えたら一人だけで逃げるはずがない。僕を助けるために無理をして戻って来てしまったのだ。

「や、やよい、帰ってきてくれたのか? そうだ、何もかも誤解だ、この一年が」

「尾澤君、聞こえたよ、あなた『刃苦怨』なの?」

 雛森先輩の表情は判らない、下を向いて見せないようにしているのだ。

「……ち、しゃーねーな」

 尾澤が唇をつり上げた。

「まあ、そーだな、だけどそんなことどうでもいいだろ? お前も酷い目に遭いたくなかったら、従っていた方が利口だぜ? このバカ一年みたいにみっともなくなりたくないだろ?」

 革靴がまた顔を踏んだ。ピンに固定された昆虫のように動けなくなる。

「……しなさい」

 雛森先輩が何か言ったが、苦しんでいる僕には聞こえない、

「ああ?」

 どうやら尾澤にも聞こえなかったらしい、荒々しく聞き返している。

「後輩君を、離しなさい!」 

 顔を上げた雛森先輩は、いつもの明るい笑みを浮かべていた。どんな時も絶やさない、誰もが惹かれる女神の笑み。だが床の上からでも、いつも密かに観察していた僕には判った。

 ―先輩、笑っていない。

 彼女はぱっと見、微笑しているようだ。しかし、それはあくまでも上っ面だけで、その体からは今まで感じたこともない冷気が発散されていた。

 雛森先輩が片手に木の棒を握っていると、気付いた。

 箒の柄の部分に使われている、細い丸い持ち手の棒だ。

「そんなもの」と尾澤は嗤うと、わきの辺りから何かを取り出した。

「せ、先輩、逃げ」

 乱れる息をなんとか制御して叫んだ。

 尾澤の手には、ごつい、アメリカ軍辺りが使っているようなサバイバルナイフが煌めいていたのだ。

「へ」と彼は嘲る。

「そんな木の棒きれ取りに行ったのかよ? 人を呼ばれたらやっかいだったが、まあお前がバカで良かったぜ」

 が、雛森先輩は気にせず、やはり作り笑いを浮かべたままで、棒を構えた。

 彼女が所属する剣道部の、竹刀を構えているようだ。

「バカか? お綺麗な試合じゃないんだぞ?」

「そうね、尾澤君、これは試合じゃない、殺し合い、うん、今から君を殺すのよ」

 物騒な宣言すると、視線がついと下がる。

「後輩君、ちょっと待っててね、すぐ助けてあげる」

「先輩、逃げて、僕はいいです!」

「おっと」尾澤がナイフの切っ先を真っ直ぐ僕に向けた。刃物特有の狂気に近い輝きが、心に霜を降らせた。

「今度逃げたらコイツを殺す、わかってんだろ? 俺たちはそうしても今のところ大した罪に問われない、ちょっとした事故、とでも主張したら助かるんだ、本気だぜ」

「……嫌な噂はね」

 僕が背筋が痛むほど緊張している間、雛森先輩はゆったりとした口調で語り出す。

「あなたに関する悪い噂は、聞いていたのよ、でも、私は信じなかった、信じたてたの、バカね、ええ、確かに私はバカだわ、もうホントに、後輩君をここまで苦しめちゃって、先輩なのに……やよいはバカでした」

「はあ?」と尾澤が頬を上げたが、次の瞬間、彼の目の前にあったベッドと斜めに掛かっていたカーテンがズバリ、と真っ二つに切断された。

「天神命神流剣術(切る、斬る、素KILL)」

 呆気に取られた僕達に、雛森先輩は静かに教えた。

「私の家は代々剣術をやっててね、私もイヤだったんだけど子供の頃から血を吐くほど練習させられたの、お陰で普通の棒でも何でも斬れるようになっちゃった、鉄でも刃でもなんでも斬れちゃうのよ、危ないから封印してたんだけど、もう良いよね?」

 ―ええっと……。

 僕は考え込んだ。頬に当たる床が冷たい。

 ―雛森先輩は何を言っているのだろう?

「それが、切る、斬る、素KILL……ほら、チルチルミチルみたいで可愛いでしょ?」

 その趣味は良く分からない。  

 尾澤もそうだったらしく、顔面から生気を失いつつナイフを構え直した。

「そ、そんなバカなことが」

「女の子をバカにするな!」

 今度は僕にも、辛うじて彼女が棒を振るうのが見えた。

 硬質な音と共にナイフの刃先が斜めに落ちた。ついでに尾澤のYシャツと顔にも斜線が入る。

「う?」

 彼が手で押さえると、線から大量の鮮血が吹き出した。

「うぎゃぁ!」

 刃がないナイフを取り落とし、尾澤一馬はその場にしゃがみこむ。じわじわと白いシャツが赤く染まっていく。

「ええ?」

 事態の急転に着いていけず仰向けのまま口を開けていると、繊細な腕が伸ばされた。

「後輩君、立てる?」

 雛森先輩は微笑んでいる。いつもの優しい、女神の、聖母のそれだ。

「は、はい」

 慌ててその手を掴んで、ゆっくり体を起こす。

「がががが」尾澤は血まみれで倒れ込んでいる。

 ―ええと。

 途端混乱してしまう。周りは見慣れた保健室。ベッドは真っ二つでスプリングも露出している。カーテンも綺麗な切れ目で上下に分かれている。

「外に出ましょう」

 戸惑いの中にいたのだが、雛森先輩は答えを出す時間を与えてくれなかった。

 苦悶の声を上げる尾澤を背に、二人は保健室を出た。寂しい廊下をしばらく進む。

 僕ははらはらしたが、雛森先輩は無言だ。何も言わない。

「せ、せんぱ、い?」

 根負けして声を掛けた途端、彼女はばっと俯いた。艶々とした髪が前に流れる。

「ごめん、ね、私、バカだ」

「先輩」

「あんなヤツに騙されて!……後輩君がこなかったら、私」

 次に気付くと彼女の頭は僕の胸にあった。

 勢いよく抱きつかれ、どぎまぎしてしまう。

「バカ……私のバカ、バカ」

 シャツがじんわりと熱を帯びる。雛森先輩が僕の胸の中で泣いているのだ。

 からん、と持っていた木の棒が落ちた。

「先輩」僕は抱きしめようとしたが、出来なかった。

 剥き出しの肩に触れていいのか判らないのだ。それを意識すると、規格外の胸が、おっぱいがいっぱい押しつけられているのにも気付いてしまう。まだ告白もしていないのに、この感触は早すぎる。

 ―おおう。

 背後に倒れかけた。雛森先輩の熱が、柔らかさが、匂いが夢の中に誘っている。

「……後輩君」

 僕の顎のすぐ下で、雛森先輩が濡れた声を出す。

「こういう場合は黙って抱きしめるのが男だよ、それに、私の魅力って胸だけ?」

「あわわわ」見破られていた。下心から反応まで。

「全く、男の子は」

 彼女はちょっとむくれたように見上げて来たが、それに安堵した。

 目が赤いが、それ以外はいつもの明るく優しい雛森先輩だ。

「もう! 女の子の慰め方も知らないんだから、後輩君、ね」

「だって、先輩、その、下着が」

「きゃっ」

 今更彼女は飛び離れると、両手で胸を隠した。大分隠せないが、隠そうとした。

「こら! 青少年にはまだ早いでしょ?」

 赤面した雛森先輩が叱り、その通りだから僕は項垂れた。

「せ、先輩……だから、それは、先輩が着てくれないと」

「あのねえ後輩君、とにかく謝るのも男なんだよ」

 ―なんたる不条理。

 嘆く僕だが、一連の遣り取りを受けた彼女の目に、煌めく光が戻ってくる。

「ありがとう後輩君、バカな私を助けてくれて」

「ば、バカだなんて! せ、先輩は尾澤先輩の事を信じただけです! それより、僕の方こそお陰で葛城を、友達を助けることが出来ましたし……それに、僕は何も出来なかったし、格好悪いし」

 記憶の中で僕は自分の姿を再生させてみる。助けようとして尾澤にやられ、逆に助けられた。なんたる恥。このへっぽこ野郎が。

「な、何言ってんのよ!」

 雛森先輩は驚いたように片手を僕の頬に当てた。

「君は格好良かったよ、うん、先輩見直しちゃった、絶対に尾澤君に勝てないのに、危ない『刃苦怨』と敵対しても助けに来てくれるなんて」

 ―半分でもすごいなあ、ああ、柔らかかったなあ、さっき。 

 しかし僕は露わになった彼女の胸に、照準を合わせている。

「あ! また」

 耳まで赤くして、再び彼女は胸部を覆った。

「こうは……拓生くん、あんまり変なことばかり考えていると、先輩が矯正しちゃうぞ」

「わわ」おののく。矯正とは尾澤のようにズバっとだろうか。

「ちがうわ」その様子に彼女は顔を、艶やかな唇を寄せて来る。

「イタイんじゃなくて、拓生くんが私以外の誰のものも見ないように、きょういく、そしたら見られてもイイから」

 どうしてかこんな時なのに、足元に雲、頭に金のわっかが現れた。

 僕の魂が天国へと吹き飛んでいたからだ。

「うん? なるほど……拓生くんったら、なんだかんだ妄想しているけど、実は意外によわよわだね」

「せ、せ、せ、せ、せ、先輩、こ、こ、こそ、ららら、らしくない冗談です!」

 ろれつが回らない僕を、雛森先輩はイタズラっぽい横目でつついた。

「あら、甘い認識ね、尾澤君はもう嫌いだけど、あんな強引さが女の子に全くない、女の子が男の子を襲わない、と思うんだ? だとしたら拓生くんはやっぱり子供だよ」

 はっきり感じた。今、どうやら骨を抜かれているらしい。びりびりとした心地よい刺激の中、少しずつ骨抜きになっていくのだ。いつの間にか呼び方も『後輩君』から『拓生くん』になっている。

 フェロモンというのはアポクリン線から分泌されるらしい。それは耳の後ろとわきと……乳首周辺と肛門の近辺にある。

 世界がこんなにくらくらすると言うことは、どれだけ雛森先輩は全開なのだろうか。想像すると鼻の奥が熱を帯びて乾いた。鮮血が吹き出しそうだ。

「一緒にナイショで大人になろうか?」

 止めの吐息が耳に吹きかけられ、僕は籠絡寸前だった。あと数秒で雛森先輩にひざまずき、一生の愛を誓ってしまうはずだ。

「東雲!」

 その直前、張りのある声をかけられ我に返る。

「きゃつらぎ!」

 思い切り名前を噛んだ僕に、駆けつけた葛城は小首を傾げた。

「どうしたのよ! 大丈夫だったの?」

 ほねが、ほねが、と何度か繰り返したが、彼女の手前ぐっと己を取り戻す。

「うあ、あ、あ、ありがとう葛城、先輩も大丈夫だったし、僕も何とか無事だ、お前のお陰だ」

 だが、葛城はどうしてか表情を曇らせている。ふと横を見ると、雛森先輩も何か沈んでいた。

「この人が友達? 拓生くんの?」

「はい、先輩、葛城司、僕の中学からの同級生です」

 葛城は何故かよそよそしく頭を下げ、何かを断ち切るように、すぐに歩み寄って来た。

「あーあー、また怪我が増えている、全く、つまらないことをするからよ」

「大丈夫だよ、ん?」

 切った唇に人差し指を当ててくる葛城が、何か今暴言を吐いたような、気がした。

「ごめんなさい」

 と雛森先輩は謝る。

「あなたにも迷惑かけたのね? でも大丈夫よ、私は拓生くん一人に助けて貰ったから、拓生君一人で十分だったのよ」

 ―あれ?

 再び引っかかった。一瞬葛城と雛森先輩の視線が絡む。非常に剣呑な気がする。

「早く服を着た方が良いですよ、人を呼びましたから」

 葛城は上半身ブラジャーだけの雛森先輩から目を逸らす。

「ごめんね、あなたには嫌味だったわね」

「……どういう意味ですか?」

 意味どころか、僕には状況が判らない。

 葛城を『刃苦怨』から助け、雛森先輩も尾澤から救出した。なのに、どうしたか今、殺伐とした空気になっている。

 大団円、と言うべき状態なのに、中国の名軍師が没した場所のような秋風が吹いている。

 ―まだ夏前だよね?

「私たちより年上で、早く年を取る雛森先輩」

「何かしら? ええっと、一年年下で体育会系ならば本来絶対服従のはずの後輩の、カツラギ? さん?」  

 葛城が聞きようによっては挑発しているように雛森先輩を呼ぶと、彼女も聞きようによっては挑戦を受けたように応じた。

「いいんですか?」

「は?」

「もう人が来ましたよ」

「え」と雛森先輩が目を見張ると、沢山の話し声が近づいてきた。葛城が要請した加勢だろう。

「きゃー!」雛森先輩は下着姿の自分を再自覚したのか、悲鳴を上げて走り去っていった。

 取り残され、僕はしばし自失する。

「……せ、先輩、あんな格好で大丈夫かな?」

「大丈夫よ」

 当事者のようにあっさり、葛城が断じる。

「体操服くらいはあるでしょ? あの人剣道部だよ」

「なるほど」納得すると、腕に葛城の腕が絡む。

「おお、君たち、校内に不埒な輩がいるそうじゃないか、警察にも電話しておいたぞ、すぐ来る」

 と、先生達がどやどやと僕らに合流した。

「は、はい、保健室と部室練のバスケ部部室です」

「ようし」  

 僕の報告を受けた先生達は、使命感に燃えた様子で走り去っていった。

「ふう」

 これで学校内の『刃苦怨』勢力も壊滅するだろう。

 西山も尾澤も倒れ、他のメンバーの化けの皮も剥がれた。

 連中にはかなりのダメージのハズだ。葛城も天城さんも雛森先輩も何とか救えた。

「ふふふふ」

 葛城が脱力状態の僕にそっと寄り添う。

「東雲、あんたやっぱりスゴイよ」

 いや葛城よ、事態を解決したのは虎狼院みやと雛森先輩自身なのだ。

 ぼくは少しばかり人望があるだけなのだ!


『王様、あたし!』

 一面、真っ赤な血の色だった。

 そう感じ僕は一人戦慄した。

 ただ日が傾き、無人になった教室を夕日が染め上げているだけなのだ。

 だが、濃い暗いオレンジ色は、どうも不吉な色に見えてしまう。

 僕こと東雲拓生が放課後一人残ったのには……さしたる理由はなかった。

 ぼんやりとしていたら左右の生徒が帰宅し、一人残されていた。

 ―えりす。

 今突然ふと思ったのは、幼馴染みの、猫のような目と性格の少女のことだ。

 血のような赤は彼女を想起させる。 

 ハーフで一見かなりの美少女で、気が強くて明るくて、運動神経もいい。装いはボーイッシュだが、体の線はなだらかでとても女性らしい。

 彼女は昔からファンが多い。

 小学校の四年生の時に、すでに六年生の男子から告白されたらしい。

 だが。

「キモいわね、あんたなんかと付き合うわけないでしょ? もっと自分を知りなさいよ」 舌っ足らずながら、彼女はそう上級生にカウンターを浴びせた。

 勿論、それだけでは済まなかった。

 もともと人気者だったその上級生を手ひどく振った女、として女子生徒の目の敵にされた、僕もその一党と目されたが、えりすに告白した男子生徒が全裸で校庭を駆け回ると、彼の失墜と反比例して立場を回復させる。

 彼女は何でもする。

 そう認識している。

 自分のために、何でもする。

 ―あの、恐ろしい力で。

 自然に肩を抱く。朱色の闇の中、過去の記憶が再生される。

「君、可愛いね! 名前なんて言うの? 僕、タクミ!」

 えりすと最初に会話したのは確かそんな始まりだった。

 その頃彼女は幼稚園の隅でひたすらにぶちぶちと花を引きちぎっていて、他の園児達からは気味悪がられ、遠巻きにされていた。

 僕が話しかけたのは、生来のKY機能が発揮されたからであり、別に仲間はずれにされた女の子への同情ではなかった。

「え? え、えりす」

 驚いたような困ったように答え、それが切っ掛けとなった。 

 最初は西洋人形のように無感動だった彼女は、僕と遊んでいる内に、生気を、笑顔を、怒りを、面に表すようになった。

 いつも画用紙を切りさくように、血まみれの天使や黒に塗りつぶされた街を描いていたいたえりすだが、いつのまにか僕の顔を熱心にへたっぴに、多彩なクレヨンでスケッチするようになった。

 その頃になると、互いの親も子を通じて仲良くなり、僕は保育士の資格があるえりすの母の元に、彼女の家にほぼ毎日やっかいになった。

 僕とえりすは兄妹のように仲良く、いつも手を繋いでいた。実際、僕にとってえりすは妹だった。少し過激な怖い妹。

 ただ小五、彼女が態度を一変させた。

 僕は佐伯えりす先導により、学校で孤立した。

 小学校五、六年次、中学校三年間、葛城という例外を除いて、友達を作ることが出来なかった。会話すらもなかった。

 ―どうしてだよ? えりす。

 泣いて問いただしたかったが、幼いながら芽生えたなけなしのプライドを総動員して、皆の前で耐えて見せた。

 本当はとても辛く、悲しかったのに。

 そんな時、僕はこんな血のような赤い夕日の教室で、赤い闇の中で一人泣いた。この色はそれからトラウマとなり、えりすに重なるようになったのだ。

「拓生君」

 幼馴染みを思っていた僕は飛び上がりかけた。

 自分しか残っていないと思っていた教室に、美少女が立っている。

 くりっとした大きな目が印象的な、中学生くらいの娘だ。

 否、視線が定位置に着き、そのほっそりとした胸の前に男子生徒用のYシャツとネクタイがあると見て取り、かぶりを勢いよく振った。

 乳がない、男だ。虎狼院みやだ。

「お、脅かすなよ! みや」

「……………………」

「何この沈黙? どうしたんだ? みや」

「ごめん」

「え?」ぺこりと揃えられた前髪を垂らし謝るから、目を丸くした。

「どうしたんだよ? いきなり」

「僕は……」しばし唇に言葉を包んだみやは、そっと柔らかそうなそれを開く。

「僕は間違っていた、君に葛城さんを助ける必要はないって、前に言ったね、それは間違いだった、もう少しで君を傷つけるところだった、やっぱり『刃苦怨』は放っといてはいけなかったんだ」

「い、いや、いいんだよみや、助けてくれたし、丸く収まったし、みやが気にする事じゃないって、みやも正しいと思うし」

「……変わらないなあ、君は」

「え?」

「ずっと昔のままだ」

 昔? 思わず眉根を寄せる。

「何言ってんだよ、みや、お前と会ったのって入学式だろ? 昔って」

「覚えていない、か」

 みやはどこか寂しげだ。

「無理もないか……名前も言わなかったしね、大分前だし」

「みや?」

 みやは陽の光が届かぬ、蹲っているような闇を向いている。

「僕は、僕は昔、君と会っているんだよ」

「ええ!」

「驚くのは無理もないね、どうやらあの時、君は僕を女の子と認識していたようだから」

 とつとつと、大事な宝石をビロードで磨くように丁寧に彼は語り出した。

「僕は劣等生だった、いつも双子の姉のやみと比較され、いつも父上や母上を失望させていた、僕の双子の姉は天才だ、虎狼院流をあっという間に体得して、なのに僕は基本すら出来なかった、だからいつも僕は家の中で軽んじられ、意見を無視され、テレビもやみの観たい物ばかりかかっていた」

 みやの整えられた眉が曇る。

「僕には味方がいなかったんだ……家でも、外でも、どこでも……あれは、僕が小学校六年生の頃、公園で僕はからかわれていた、女男、女男って、僕はもう諦めていた、悪口には慣れていたし、でもその時、一人の少年が現れてみんなに言ったんだ『可愛い子を苛めるな』てね、その後ぼこぼこにされたけど、僕には十分だった、僕にはその少年が唯一人、生涯味方になってくれた人だった」

「それって……」僕の記憶層がスパークした。確かに、かつて可愛い女の子を助けたために、2、3日動けなくなる位やられたことがあった。

「僕だよ」虎狼院みやはふわっと頬を緩める。

 複雑な気持ちになる。みやがもし男の子だったら、一目でそう分かったら、恐らく助けなかったろう。それでなくてもその頃、心身ともにえりすにいたぶられていたのだ。

「それはいいんだ」気配を察したのか、みやはふるふると否定する。

「僕にとって重要なのは、僕の味方になってくれたのが君だけだった、ということだから」 恒星のような瞳を見て、僕は理解した。

 どうして虎狼院みやが、こんなにまで親身になってくれるのか。

「君は凄いよ」とみやは感心したようにため息をついた。

「あの時みたいに、いや、あの時以上に……聞いたよ、天城さんも葛城さんも雛森先輩も、助けたんだってね? 僕には、誰にもきっと出来ない、三人はあの『刃苦怨』に目をつけられていたのに」

「そ、そんなことないさ、あれはみんなそれぞれ凄かったんだ」

 どんな攻撃にも耐えうる体、何でも切ってしまう技、ついでにどんな事象も計算する頭脳。どれをとっても単なるスキルと括ってしまうには大雑把すぎる物だ。

 それらが在ったからこそ、『刃苦怨』なんていう犯罪集団と戦えたのだ。

 ―違う、戦ったのは葛城と雛森先輩と、……みや自身だ。

 その傍らでめそめそ泣いていただけが僕だ。

「君はスゴい」

 みやは夢見る乙女のように、今一度呟いた。

 ―イカん!

 突如気付いた。自分の両腕が上がっている。

 このままでは勢いに任せてみやを抱きしめてしまいそうだった。

 色々なモノを飛び越えて、知らない世界に飛び込んでいきそうだ。

「す、凄くない、凄くない、僕はタダのスケベでアホな男子高校生です」

 きょとんとするみやに不規則な呼吸でそう説いて、僕は鞄をひっつかみ、手を振った。

「んじゃっ、みや、また明日ー」

 笑顔を保ちつつ廊下まで自然に歩き、教室の扉を閉めてすぐダッシュする。

 ―あぶねー。

 一息ついたのは、校門から出て数百メートル全力疾走した後だった。

 ―ソッチはまだ早い。そうだ、修行が足りない。

 何度も自分に言い聞かせながら、足先を自宅に向ける。

「でも」一瞬、心がゆらゆら揺らいだ。

「みやとなら、いいかな」

 僕が致命的な危機の接近に気付かなかったのは、にへら、とした笑みを浮かべていたからだ。

 気が付いたら目の前に大柄な男が立っていた。

 そろそろ闇が降り出した街並みをバックに、男が行く手を遮っていた。

 ようやく異変に気付いて、凍り付いた。

 包帯だ。その男の顔面は包帯でぐるぐる巻きにされていた。

「ええ……?」冷えたナイフのような空気が肺腑をえぐった。

「世話になったな? おい」

 包帯男の口元が動いたとき、その正体を悟る。

「お、尾澤先輩……」

 尾澤は雛森先輩に斬られた後、姿を消していた。事情を聞いた先生達が保健室に急行したが、惨劇の跡しか残っていなかったという。

 今、眼前にいた。

「ふふふ」と尾澤は笑ったようだが、包帯で良く分からない。

「お前にはよー、ホント世話になったぜ、クソやよいにはこんなザマにさせられるし、学校にも行けなくなった……きっちり、礼をしないとなあ?」

 ―やばい!

 僕は地球儀のようにぐるりと踵を返した。尾澤の声は割れていて、どこかに歪みがある。

 今更だが、尾澤達を『刃苦怨』を完全に敵にした事実に慄然とした。

 だが、その背後には尾澤より長身の男が腕を組んでいた。

 斑な金髪。絆創膏だらけの太い腕。

「逃がすワケないだろ?」

 西山誠次は三日月のように口角を尖らせた。


 尾澤と西山に挟まれた僕は、それでも逃走を考えたし、実行した。そしてあっさりと捕まり、近くの公園へと連行された。

 魂がごそりと落ちるような感覚を覚える。 

 珍しい土の地面の中規模な公園には、滑り台、鉄棒、今は使用禁止の回る遊具の他に、轟音を立てる金属の塊が集結していたのだ。鉄の馬、と良く表記されるバイクだ。

 百人からいる柄の悪そうな男達の間を、歩かされた。

「どうだ?」

 腕を背中で捻っている尾澤が自慢げに示す。

「これが『刃苦怨』の全戦力だ、見覚えあるヤツ達もイネーか?」

 涙目で改めて見回すと、確かに中には巻野高校の制服を着た少年や、中学時代、畏怖の対象だった札付きの連中もいた。

「俺たちは、意外に考えているのさ」

 西山は厚い胸を突き出す。

「近辺の学校に一人、必ずスパイを入れているし、名のあるヤツはすぐにスカウトするんだ、ほら、それによっていろいろ情報が入るだろ? これからはよ、情報が大切なんだって」

 ―そうか……僕らはいつも『刃苦怨』に監視されていたんだ。

 納得する間もなく、乱暴に中心近くにあるベンチに座らされた。

「ぼ、な」

 僕に何をするつもりだ? と問いたかったが、上手く喋られなかった。

 右側に聳える尾澤が、包帯で隠れた口部分をもごもごさせる。

「何言っているかわからねーが、自分の運命を知りたいんだろ?」

 西山と目配せし合う。

「そうだな、お前、浮きたい? それとも沈みたい?」

「へへ?」

「浮きてーなら、貯水池に浮く、沈みたいなら石を一緒に括ってやる」

 楽しそうな西山の説明を聞き、体から温度がすうっと抜けていった。

 手の指、足の指が痺れ、背中がきゅっと強ばる。

 体の芯まで冷却された僕の反応を面白がるように、尾澤が指を突き出す。

「もちろん、やよいと一緒だ、良かったな、一人じゃない」

「ああ、一人じゃない、二人でもない、三人だ」

 西山が二の腕の傷を撫でる。

「司も含めてさ」

 僕は小さく呻いて、公園に集まった『刃苦怨』達に視線を走らせる。

 確かに、この人数を相手にしたのなら、葛城も雛森先輩も危なそうだった。

「や、やめろ、頼むから」

 二人の笑顔を思い浮かべ、情けない声で懇願した。

 西山も尾澤も答えなかった。どちらも僕にはそれほど興味などないようだ。

「さて、そろそろかな?」

 西山が誰ともなく呟き、腕時計を確認した。

 その仕草に、違和感に気付く。

 ―どうして、僕にまだ何もしないんだろう?

 西山と尾澤は、傷を負わせた葛城と雛森先輩を激しく憎んでいる。彼女達への復讐の段階一として僕をさらったのだろう。

 だが、だとしたら『刃苦怨』らしくなかった。

 かたかたと震える他人のような自身の体を見おろした。 

 怪我一つ負っていない。

 ここに連れてこられた時も殴られることも縛られることもなく、彼等としてはむしろ大人しいほどのやり方だった。

 彼等が普通に行動していたら、もう五体満足ではいなかっただろう。

「ああ」と読心術でもあるのか、その疑問を解消したのは尾澤だった。

「俺たちの新しい仲間に言われてな、お前を壊すのは後だ」

「新しい仲間?」

「ああ、どうしたかそいつの言うことは聞かなければならない……変な奴だが今回のことを俺たちに提案したのもそいつさ、とにかく、すぐに判る」

 尾澤の言うとおりだった。

 それから五分も経たず、太陽が完全に落ちた公園の入り口に人影が現れた。

 闇に曇っていて、最初それが誰だかは判らなかったが、ベンチの近寄り街灯が当たり、判別が着く。

「え、りす」

 声がふわふわと力無く漂う。腹が妙に軽く感じられた、内臓が空気にでもなってしまったようだ。ベンチの木製部分に触れていた腰がすべる。

 佐伯えりすは無邪気な可愛らしい笑みで、手を振る。

「こんばんわ、拓生」

 ―ここまで、するか?

 機嫌の良いえりすに僕は尋ねたかった。

 ―どうしてこんな、酷いことを? そんなに僕が嫌いなのか?

「えりす……お前」

「怪我はない? 拓生」

 彼女は蛇に睨まれた蛙のように動けない僕の肩に、そっと手を乗せる。

「そこらへん、ちゃんと言っておいたから、大丈夫でしょうけど」

「ど、ど、どうして」

「うん」とえりすは容易く頷く。

「『刃苦怨』の仲間が学校にいるのはすぐに判った、じゃないと葛城や雛森先輩、天城みたいな特別に可愛い子だけを狙えないからね、だからあたしがお願いしたの、入れて、て」

「な、なんでそんな?」

 だが、実は判っていた。その答えは「あんたが嫌いだから」なんだろう。

「確認したいから」

「か、く、にん?」意外な返事に、マヌケに聞き返してしまう。

「ええ」

 西山と尾澤が困惑し出したようだ、何かえりすの様子は変だ。彼等としては、すぐにでも攻撃開始と行きたいのだろう。

「あのさあ」とえりすは僕の耳元まで顔を近づけた。

「あたしたち、結婚するんだよね?」

「へ?」何が起きたか、何を問われたか理解できない。

「だから!」とえりすは苛立ち、肩に爪を立てる。

「結婚の約束したでしょ! 幼稚園の時」

 したかもしれない、だが思い出せない。違う、どうしてこんな場所で、こんな状況での話題がそれなのか。

「とぼけても無駄だから! あたしは覚えている、拓生はあたしと結婚するの、あたししか見ないの、なのに」

 きりり、とえりすの奥歯が鳴る。

「あんな不良崩れや計算女、胸だけが取り柄の先輩に色目を使って!」

「あうう?……」

 剣先のような彼女の目の中の僕は、首を急角度に傾げている。

「あたしは、ここらではっきりさせないといけないのよ」

 えりすはそう言うと僕のズボンに手を伸ばし、大腿部のポケットからスマートフォンを抜きだした。

「他人の男に手を出したら、どうなるか……凄い目に遭うのよ、そりゃあ凄いこと」

「な、何するんだよ? えりす!」

「うーん?」携帯から視線を外さず、彼女はいとも簡単に答えた。

「葛城と雛森先輩、ついでに天城も呼び出すの、あんたのスマホからのラインだったらあいつら飛んでくるわ」 

 僕は顔を伏せた。やはりその展開は変わらないのだ。しかも天城さんまで巻き込むこととなる。

「あいつらのラインアドレス手に入れたのはグッジョヴね」

 が、もう聞こえない。

「君はすごい」

 みやの姿が、どうしてか今更浮かんだ。だが彼を呼んでも犠牲者が一人増えるだけだろう。

 全然凄くない、それどころか関係ない人まで巻き込もうとしている。もし、三人がここに来たら、彼女達は徹底的に苦しめられるだろう。

 僕は思い出した。

 葛城の格好良い姿、天城さんの可憐な微笑み、雛森先輩の……圧倒的な胸。

 ―みんな、ようやく助かったのに……

 しかし何もかも破壊される。

 それも、自分がその要因の一つになる、とても耐えられなかった。

 いつの間にか瞼が熱くなっていた。溢れ出た涙をもう拭えない。

「うううう」と僕は誇りも意地もなく泣き出した。

「え!」

 どこかでえりすの驚愕が聞こえた。

 が、と両肩が掴まれたから、泣き顔を上げる。

 佐伯えりすがこれまで見たこともない程、混乱していた。 

 見開いた目にある瞳が激しく揺れ、唇も微かに開け閉めさせている。

「おい、いい加減にしろよ、早くやよい達を呼べよ」

 焦れた尾澤が声をかけるが、「うるさい!」と鞭を振るったかのように、彼女は黙らせた。

「ど、どうしたの? くーちゃん、何で泣いてるの? お、お腹いたいの?」

 えりすはおどおど問う。彼女に『くーちゃん』と呼ばれるのはいつ以来か。

「ひどいよ……えっちゃん」僕も『えっちゃん』とえりすを呼んだ。

「え?」

 えりすは動揺していた。肩の手からそれが震動として伝わってくる。

「どうして、みんなを、ボクをいじめるの? えっちゃん、ひどいよ」

「だって……それは、くーちゃんが、くーちゃんがあたしを……えりすをイジめたからでしょ!」

 涙と鼻水をだらだら垂らす僕に、えりすの表情も歪む。

「くーちゃん、やくそく、まもらなかった! えりすの十一のおたんじょうびに、きてっていったのに」

 いつもの間にか、彼女の声も涙でうねっていた。

「ぼく?」

「うん! えりすのおたんじょうびだよ!」

 その時、僕の頭脳が突然クリアになった。ずっと忘れていた思い出が蘇る。

 小六の頃、ずっとべったりのえりすについて、男友達から「おかしい」とからかわれたのだ。丁度妹だと思っていたえりすを微妙に意識し出した頃だ。だから、行かなかった。恥ずかしかったから、すっぽかした。

 呼ばれていたえりすの誕生会。約束していた彼女の十一歳の記念日。

 そして、次の日から、えりすの態度は変わったのだ。

「えりす、ずっとまってた、くーちゃんをまってた、なのに……なのに、ママが、えりすにいったの、くーちゃんきっとようじができたって……ママがよ! パパにすてられたクセに、ママなんかにえりす、なぐさめられたのよ! それで、それで、ゆるせなくって」

 だから、彼女は僕を苛めたのだ。皆を先導してシカトしたのだ。

「くるしかった、とってもかなしかった、いたかったのに、えっちゃんが、やった」

 しかし嗚咽は止まらない、そのまま腹にある熱い息をぶちまける。

「えっちゃんなんてきらいだ!」

「そ、そんな……くーちゃんがごめんなさいって、えりすにあやまったら、いつだってすぐにゆるしたのに」

 そう言えば僕はその時意地を張って彼女に頭を下げなかった。それ故にいじめは中学以降も続いた。えりすは謝るのを待っていたのだ。僕はえりすの変心について、ようやく得心した。

「えりすわるくないのに、くーちゃんがわるいのに、あやまらないから、ごめんねっていわないから、ママなんかに、えりすは、えりすは……」

 えりすは幼い子供のように舌足らずに、何度も何度も繰り返す。

「お、おい! 何だよお前ら?」

 ついに尾澤が割って入った。僕らの会話の異常さに狼狽を隠しきれない。

「なかせた……」

 えりすがぽつりと漏らす。

「な、なんだよ?」

「あんたらっ、えりすのくーちゃんを泣かせたねっ!」

 怒りに満ちた一言を、金槌のように振り下ろす。

 びんびんとした攻撃的な波動を受け、僕は目を開く。

 涙で歪む世界に、佐伯えりすは立っていた。

 緑色の瞳、左目が金色に輝いている。

『魔眼』

 または『邪眼』や『邪視』とも呼ばれ、魔女がその力を持つという。東洋と西洋では伝承が異なるが、視線に呪いを込める、という部分は一致している。それをもつ者に睨まれた相手は、最悪死に至るという。

 佐伯えりすの片目、左目にそういう能力があることは知っていた。

「だれにも言っちゃだめだよ、くーちゃんだけに教えるね」と小学校低学年の折、彼女自身から耳打ちされた。

 当初、僕はそれについてえりすの冗談か、もしくはそう言った物語に感化されて成り切っているのか、と思っていた。

 しかし、すぐにその力は眼前でふるわれた。

 幾度も、彼女が窮地に陥ると、その左目は邪悪な金色を帯びるのだ。

 なぜ、えりすの眼にそんな力があるのか、「私のパパはね、魔道士だったんだ! 沢山の人を呪い殺したのよ、だから」彼女の説明は今も理解できない。

「よくも、よくも、よくも、えりすのくーちゃんをっ! くーちゃんをっ! ゆるさないっ……ゆるさなあい!」

 えりすは怒気に体を硬くして、鋼鉄のコンパスのように鋭く踵を返した。

 彼女の前には『刃苦怨』の全員が集まっている。

「な、なんだよ?」

 その中の一人が頬をピクピク動かしながら、彼女に聞いた。

 当然だ。佐伯えりすは自分から計画を持ちかけておいて、それに乗った彼等に一転、憎しみを向けているのだから。

「お、おまえオカシいんじゃ、ぐええ!」

 彼女はその男と会話をする必要を感じなかったらしい。蛙が潰れるような嫌な音が響いて、文鎮という名の鉄塊を鼻面に受けた一人が仰け反った。

「て、てめえ!」

 一瞬の空白時間の後、すぐに西山が怒鳴った。

「裏切ったのか?」

「裏切る?」

 えりすは冷たく、吹雪が呻るように応じた。

「あんた達ごときの仲間にあたしがなるはずないでしょ? 最初から最後はこうなったのよ、でも、言っておくけどすっごくイタいからね、あんた達はくーちゃんを泣かしたんだ、殴り合いなさい!」

 その宣言を受けた『刃苦怨』は一斉に戦闘態勢になった。さすがに場慣れしている、辺りが殺気に凍り付くようだ。

 しかし……。鼻をすすりながら、えりすの背中を見つめた。

 勝負はすでに付いている。

『魔眼』を持つえりすには誰も勝てない。

 西山が吼えながら指輪輝く拳を彼女に突き出そうとした、が、頬を何者かに殴られて、横に飛ぶ。

「な」西山は不意打ちに驚愕としながら、攻撃してきた者を識別し、もう一度驚愕した。 彼を打ち倒したのは、長身の男。顔面を包帯で隠した者だった。

「尾澤! てめえ、なにしやがる?」

 西山誠次の怒りに、尾澤一馬は何度もかぶりを振った。

「ち、違うんだ……お、俺の意思じゃない! 体が、勝手に……」

「何を……うが?」彼は言葉を途中で飲み込んだ。 

 人形のように不自然な動きで、西山は立ち上がる。そして眼前の尾澤の包帯面に、拳と指輪を叩きこんだ。

「あがあ!」

 苦痛の声が上がった。だが尾澤は倒れない、まるで足が地面にピンで固定されたかのように、または上半身のみしか動くことを許されていないかのように、揺らいでも転ぶこともできず、再び仲間であるはずの西山を攻撃した。

 気付くと、同じような当惑と混乱、苦痛と悲鳴が『刃苦怨』の全ての連中から絞り出されていた。

 皆、横にいたメンバーを容赦呵責なしに殴り、蹴り、しかしそれが本意でないことを口にしている。

「ふん」とえりすはその光景からそっぽを向く。

「死ぬまで互いに殴り合いなさい、どんなに苦しくても立ち上がってね、くーちゃんを泣かした罰なんだから」

『刃苦怨』達は異常事態に恐慌に陥っている。だが、僕にとってそれは当たり前の光景だった。

 えりすの『魔眼』に皆、操られているのだ。このままでは彼等は本当に、死ぬまで殴り合うだろう。

 彼女の金色の瞳の支配下に置かれた者は、ただの操り人形となってしまう。『魔眼(王様、あたし!)』とえりすは呼んでいる。その通り、どんな不条理な命令でも無理矢理に実行させられてしまう。意識がいかに拒否しようとも抗えないのだ。

 かつてえりすが上級生に睨まれたとき、野良犬に追いかけられたとき、クレーマーおばさんに、ガラスを割ったことで責められたとき、『魔眼』はその相手を徹底的に破壊した。 僕は鈍い打撃音と悲鳴の坩堝で、怯えきった。

「くーちゃん……」だが僕よりもさらにびくびくと、それを引き起こしたえりすはしゅんとなっていた。

「ごめんね……あたし、泣かすつもりなんか無かったのよ、ホントだから」

 彼女の目が潤んだ。すぐに涙が白い頬を滑っていく。

「いいんだ、えっちゃん、でも、あの、こいつらは……」

「死ぬまで殴り合う、くーちゃんを苛めた罰」

「そ、れは、えっちゃん、死ぬのはイヤだよ、こいつらでも」

「そう?」と殊勝に彼女は頷いた。

「くーちゃんが言うなら、『死ぬ寸前まで』にする」

「変更、死ぬ寸前まで」とえりすは『魔眼(王様、あたし!)』により無理矢理殴り合いを演じさせられている『刃苦怨』に一言、命令した。

 まだやりすぎだと思ったが、これ以上の妥協点はなさそうだ。

「また、力使っちゃったね」未だ続く乱闘を見つめて、放心する。

「しかたないよ」とえりすは唇を引き締めた。

「くーちゃんを泣かせた……えりすは決めているんだ、くーちゃんの為にしかこれはしないって」

「え?」

「うん、今までだって、あたしが『魔眼(王様、あたし!)』を使ったのはくーちゃんが危ないときだけだよ」 

 冗談を言われたのか、と彼女の様子を探った。しかし、えりすは真剣な眼差しで、もじもじとバツが悪そうにしている。

「この力は、くーちゃんが『使っちゃダメ』ていったから、普段は使わないんだ」

 それは覚えている。

 最初に『魔眼(王様、あたし!)』の威力を見せられた時に、怖かったからえりすと約束したのだ。

 ―そっか……

 その時ようやく、佐伯えりすについて誤解していたことを知った。

 考えてみれば、彼女が『魔眼(王様、あたし!)』で事態を無理矢理に終息させるとき、必ず僕にも類が及んでいた。

 貯水池でおぼれた野良犬はむしろ僕の足を噛んだ。窓ガラスをボールで割り、おばさんに責められて火がついたように泣いたのも僕だ……えりすにフられた上級生は、その腹いせに彼女の傍らの僕に暴力的なちょっかいをかけて来た。

 ―えりすは。

 泣いたせいでぼんやりとする頭で考えた。

 ―いつも僕のために、あんなことをしていたのか……。

 それに気付くと、青ざめてしょんぼりしている彼女がかわいそうだった。

「ごめんね……えっちゃん」

 心から自らの弱さを詫びる。小さな囁くだけだが、それで十分だったようだ。えりすははっとする。

「う、ううん……えりす……あたし、こそごめんね、いじめてごめんね、今までごめんね、こんなことしてごめんなさい」

 彼女は僕に被さるようにしがみついた。

 ごめんね、を繰り返す。

「ううん、いいんだ、もう仲直りしよう」

 女の子の体の温かさと、汗の温気にどきどきしながら、僕はえりすの肩に手を置いた。

「うん!」

 それはここ数年の不機嫌そうな佐伯えりすではなく、昔いつも一緒だった『えっちゃん』の屈託のない、輝くような笑顔だった。

 ようやく、昔の二人に戻れたのだ。ずっと二人で夜まで遊んでいた僕とえりす。兄妹のように一緒だった、二人。

 が、なのに、えりすはそれを拒む。その立場ではもう嫌なようだ。

 ずっと前の、ただの子供の頃に返るには、二人とも成長しすぎていた。

 えりすは妹になるのを拒否したのだ。

 気付くと、彼女の濡れた瞳が目一杯広がっていた。

 え? と問う間もなく、えりすの唇は僕のそれに重なる。

 やはりイチゴの香りがした。

 だから、僕、東雲拓生のファーストキスはイチゴ味だった。


 激闘編


 夜、僕はなかなか寝付けなかった。

 女の子の唇の感触が脳に焼き付けられたから、だけではない。

 考えることが多かった。

 葛城、雛森先輩、天城さん、みや、えりす。

 今までの人生は平凡な灰色だったが、突如そんな人々が入り乱れ絡み合い、良く分からない色彩にべったりと上塗りされていた。

 ただ、五人の誰を思っても僕の鼓動は加速し、誰の微笑みも何にも代え難かった。

 みんなには悲しんで欲しくない、涙は見たくない。それなら僕が泣いたほうがマシだ。

 パイプベッドの上で、そんな事を考えている内に意識は薄れていった。

 だから、彼女達の夢は見た。

 微笑む天城さん。

 可愛いみや。

 格好いい葛城。

 両手を広げる雛森先輩。

 僕を呼ぶえりす。

 くーちゃん。くーちゃん。

「くーちゃん」

 目が覚める。

「おはよう……くーちゃん?」

 ゆさゆさと学校指定のYシャツとスカートを履いたえりすが揺さぶっている。

「あれれ? えりす?」

 飛び起きた。がばっと上半身を起こす。

「うふふ」とえりすはその様子に、らしくもなく穏やかだ。

「ななななな、なんでら?」

 驚きの為か起き抜けだからか、ろれつがあんまり回らない。

「なんでって? 朝だからよ、くーちゃん、起きないと遅刻するよ」

「はひ?」

 見回すと、確かにカーテンの引かれた窓から、朝特有の薄い日差しが入り込んでいて、漂っている埃まで見える。

 だが、問題はそこではない。佐伯えりすが僕の部屋に早朝から居ることだ。

「あら、くーちゃん」と彼女は逆に不思議そうだ。

「だってくーちゃんを毎朝迎えに来ていたでしょ? あたし」

 確かにそうだ。ただし小学校五年生までだ。それから……色々なことがあって、最近、彼女は僕の家に近寄りもしなかったはずなのだ。

「だって…………昨日、仲直りしたじゃない」

 ゆっくり思い出す。確かにえりすとの間にあったわだかまりは、彼女の本心を聞くことで消えた。そして僕も自分の浅薄さを詫びた。

 が、その数時間後、数年来の習慣を思い出し、目の前に現れるとは考えていなかった。「……実はね、喧嘩してから毎朝、この近くまでは来てたんだよ、で、くーちゃんが出かけたらナイショで後をつけてた、ごめんね、あたしもっと早く仲直りしたかったんだ」

 なんだかさらっと恐ろしいことを言われたようだが、気のせいだろう。

「でででで、今日は?」

「だから、起こしに来たの……おばさんに言ったら入っていいって」

 どうやら母は幼馴染みのえりすについて、何の不安もなかったようだ。

「起きなよ、くーちゃん、遅れるのヤでしょ?」

 えりすは屈んで今まで僕が寝ていたベッドに手を突く。 

「う」思い出すのは、イチゴ味だ。僕の中で何かがよろめく。

「ふふん」何もかも彼女は見抜いていた。

「またキスしたい? くーちゃん」

 朝日にえりすの唇が艶めいた。

「いいよ、はい」簡単に彼女は目をつぶるから、僕はベッドから勢いよく立った。

「ま、まあ、そんなひんぱんには、その、あの、まず手を繋ごうか」

「もう! くーちゃんはさ、いろいろヘンな妄想するクセに、実は臆病なんだから」

 言われっぱなしだが、気になるのはそこではなかった。

「あのさ、くーちゃんて、その、呼ぶの?」

「え? くーちゃんはくーちゃんでしょ?」

「しかし、その、もう僕、高校生なんだし……」 

 しばし彼女は沈思したが、うんと頷く。

「そうね、くーち……拓生はだいぶ大きくなったもんね?」

 了解しかけて、「は?」と聞き返す。何かえりすの表情はいたずらっぽい。

「大きくなったね! 拓生」

「ええっと、それって?」

「大きくなったね! 拓生」

 えりすの目線を追う。パジャマのズボンがある。だが、寝間着の宿命として腰のゴムは緩めだ。

「あ!」心づいて、耳が灼熱に燃える。

「み、みみ、見たな?」

「なにをー?」

「寝ている間に、ズボンと……を下ろしただろ!」

「大きくなったね! 拓生」

「このスケベ! えりすのヘンタイ!」

 血相を変えた僕だが、彼女は何ともないように首を傾げる。

「どうして? 前は一緒にお風呂入ってたし、拓生も昔、よくあたしにしていたイタズラでしょ?」

「ううう」

 二の句がつけない。確かに、彼はそんな犯罪行為的なイタズラを彼女にしていた。どこが違うのか、知りたかったから。

 妹だと思いこもうとしていたからだ。

 気付かれていたとは、やはりえりすは一枚上手だ。やるね!

「でも」とえりすは少し目を丸くし、頬に手を当てる。

「びっくりした」

「このスケベ! えりすのヘンタイ!」

 羞恥に悶える。頭を抱えて絨毯に蹲る。汚された! 付き合ってもいないのに、僕もうおムコに行けないよ。

「わかったわよ、もー」

 仕方ない、という体のえりすは、細長い指を伸ばしてチェック柄のスカートの縁を摘んだ。

「ほら、あたしの見てもいいから、おあいこね」

「ええ?」

 スカートが少しめくれ、見上げる形の僕は錯乱しかけた。

「……今日ね、あたしのママ、仕事で朝からいないんだ……学校なんて行っている場合じゃないんじゃない? あたしたちに必要なのは違う勉強だと思うな、一緒に大人になる?」

 頭が爆発しかけた。今、僕の脳細胞は確実に一億くらい焼き切れただろう。あまりの事に目の前がピンクと赤にちかちか点滅する。

 ―オトナ……

 えりすの胸に視線が惹きつけられる。雛森先輩ほども天城さんほどもないが、しっかりと存在は誇張していた。それを包み隠すYシャツのなんと白いことか。

 だが、返事次第ではそれを脱がせる、という異次元にある行為が許されるのだ。合法的に。

「ぼ……」あうあうと止まりかけた呼吸器を、慌てて再始動させる。

「ぼ?」

 えりすは瞳をエメラルドに輝かせ、返事を持っていた。

「ぼく、がっこー、いきます、がっこー、いくんだ、い、いかなきゃ、がっこー」

 何を言っているんだえりす。僕たちは学生だ。勉強しなくてはならない。もちろん、マジメな歴史とか数式とかだ。あー勉強したい。したいのだ。

 がくりとえりすは肩を落とした。

「ふう……拓生は本当に臆病、こんな千載一遇の大チャンスに……まあ、仕方ない」

 真白い下着がすれすれ見えていたスカートがふんわりと戻り、安堵してしまう。

「でも、隙を見せたらどうなるかな……」

「え?」

「ううん、別に、さ、学校行こ! 用意、用意!」

 えりすにせき立てられ、僕は慌ただしく出発した。

 時刻は七時半少し前、まだまだ朝は早い。なのに太陽はすでに真昼のような熱さをもっていた。じりじりと睨め付けるかのように照りつけて来る。   

 僕は自由になる右手で額に滲む汗を拭った。

 体が傾ぐ、もう片方に重みが掛かりすぎている。

「あの、えりすさん?」

「なあに?」

 僕の左腕にしがみつくように、まとわりつくようにぶら下がるえりすは、うっとりと幸福そうだ。

「……今日は朝から暑いね」

「わかった!」と彼女は顎を上げて、頬当たりをふうふうと吹いてくれた。

 イチゴが、イチゴが。とパニックに陥りかけるが、全力で冷静を保つ。

「離れた方が、涼しいのでは?」

「いやよ」むしろ彼女は、僕の腕を強く抱く。

 二の腕辺りに柔らかな二つの感触がある。肘はえりすの腹部に当たり、そのなだらかさが強烈な印象として伝わってきた。 

「こらぁ!」

 僕は怒った。

「嫁入り前の娘さんが、はしたない!」

「……ええっと、くーちゃ、拓生?」

「なにさ」

「……まあいいや、……ごめんね、あたし少し攻めすぎだった」

 何を攻めたのかは判らないが、えりすは反省したようにしゅんとなる。 

 ―く、えりすめ!……そんな顔しても……許すしかないじゃないかぁー! 

「ねえ、ゆるしてくれる?」

「勿論だよ、ははは、お触りは付き合った後だよ、あはははは」

「ありがと! やっぱりくーちゃん好きー! でも、どうしてはあはあしているの?」

「いや」急いで深呼吸する。

「朝から何だか疲れて、いいや心配無用、もう大丈夫、さう学校行こう」

「うん!」

 彼女は再び僕の左腕を独占した。

 しばらくそのまま進んだが、あることに気付き足を止める。

「うん? どうしたの拓生?」

 えりすはいぶかしげだが、辺りを見回してふと思う。

「あの、やっぱり離れない?」

「なんでさ!」

「だって……みんな見ているよ、視線がイタい」

 えりすもくるりと頭を巡らす。

 彼女も気付いたろう、朝からべったりの二人に他の人々の目は冷たかった。同じ学校の生徒やら、スーツ姿の会社員達が僕等の姿に眉を顰めている。

「このままじゃあバカップルだよ、バカだと思われる」

 僕の悲嘆に、えりすの大きなエメラルド色の瞳が動いた。

「バカ? 拓生をバカだと思ったヤツが居るの? どいつ? あたしがやっつけてあげる!」

 彼女の左目が金色に変わりかけたので、慌てて手を振る。

「ち、違うって!」

 あうあうとその後は日本語にならない。佐伯えりすの『魔眼(王様、あたし!)』は本当に恐ろしい力なのだ。おいそれと使わす訳にはいかない。

 昨夜、まだ『刃苦怨』の連中が乱闘続行中に、彼女に手を引かれて帰宅したが、朝目にしたニュースによると、ほぼ全員が重体で、病院に緊急搬送されたという。

『仲間割れ』という有り触れた結果に警察はたどり着いたらしいが、真相を知る僕は戦慄を禁じ得ない。

 ―本当に『死ぬ寸前』までやらせたんだ……

 彼女の力と性格を何よりも知ってはいるが、その部分はドン引きだ。

 きょろきょろと物騒な目つきで、えりすは通り過ぎる人々を確認している。

「え、えりす」慎重に、事を荒立てないように台詞を吟味していると、背後に軽い足音が迫って来た。

「拓生君! おはよう」

「うあ?」

 天城さんだった。恐らく遠いところで僕を見かけたのだろう、彼女は頬を紅潮させ、速い呼吸を整えている。

「おはよう、天城さん」

「私ね!」彼女はうれしさにはち切れそうだった。

「あなたがこの道を通る時間を計算して来たんだよ、だから会え……」

 弾むような声が途切れる、左腕にいるえりすに気付いたようだ。

「あ!」

「あら? おはよう、計算違いの天城さん」

「はうう」と日が差したように明るかった天城さんの表情が曇り、しばしえりすと見つめ合う。

「おはようございます、佐伯さん」彼女の声のトーンが沈んでいる。

「あたしね」とそんな天城さんにえりすが報告した。

「拓生と一緒に学校行くの、二人一緒に」

「…………」

 何故か冷感を覚えた。振り仰ぐと太陽は当たり前のようにある。

 無言で天城さんが歩き出したので、僕も倣う。

 しばし僕らはただ学校へ向かって足だけを動かした。

「私」と天城さんが突然切り出した。

「拓生君と同じ中学校出身の友達に聞いたんだけど……」

「何よ」何故か答えるのは僕を飛び越しえりすだ。

「拓生君をイジメてたの、佐伯さんなんですってね?」

 どきりとした。それは意外にまだデリケートな話題なのだ。

「そうよ」と僕の煩悶など構わず、えりすは首肯する。

「最低です」小さな一言だが、それには天城さんの憤懣が満ちていた。

「拓生君を苦しめたなんて」

「それは、誤解だったの、間違い? あたし、勘違いをしていたの、でももう仲直りしたから」

「でも!」天城さんの前髪が勢いよく跳ねる。

「拓生君が苦しんだのは事実です」

「……何が言いたいの?」

 僕は困惑した。どうしたか空気がひりひりしている。

 天城さんと、仲直りした佐伯えりす。

 二人とも僕にとっては大切な人たちだ、なのにどうして二人が揃うとこんなに居心地が悪いのか。

 まるで金属が張りつめたような固い空気の中、僕らはまた歩を進めた。

 僕は焦っていた。

 ―なんだか、居づらいな……二人はあんまり仲良くないのかな?

 だとしたら、早急にその中にもう一人加えなければならない。大抵、そりが合わない者同士でも、三人目に誰か入ると何とかなる物なのだ。

 すぐに見つかった。

 登校する生徒の中に見知った背を見つけ、手を挙げて呼んだ。

「あ! 葛城!」

 葛城は勢いよく振り返る。

「東雲」

 彼女が珍しく機嫌が良さそうなので、急いで近寄った。

 だが、葛城は僕の左右にいる二人に気付くと、表情を消す。

「おはよう! 葛城」

「おはよう」

 短く呟くと背を向ける。

 ―あれれ? 何だろう?

 あてが外れ、疑問符で一杯になったが、問うことも出来ずただ追った。

「…………」

 今日は肌寒い。天気予報では六月下旬の陽気、と解説していたが外れている。そんなに温度があるならこんなに凍えそうになるはずがない。

 と、つと葛城が立ち止まった。早足だった僕はそのまま彼女の背中にぶつかり、反射的に肩を抱いてしまう。

「あ、ごめん」彼女が珍しくコロンをつけていることが判った。

 僕の胸に背を預けた葛城は、「ふふふ」と忍び笑う。

「何それ? イヤらしい手を使うわね!」

「計算ですね! 計算しましたね!」

 左右にいる少女は揃って葛城を非難しているが、意味が分からない。

「おーい!」

 そんな時に、息と胸を弾ませて雛森先輩がぴょんぴょん近づいてきた。

「おはよう! 拓生くん、今日も会えたね!」

「雛森先輩! おはようございます」

 礼儀正しく頭を下げたが、三人の女子は微動だにしない。

「あらあら、ご挨拶ね」とそれでも雛森先輩は微笑む。

「ああ」とえりすが応じる。

「『刃苦怨』の尾澤なんかに騙された先輩じゃないですか? 汚れきった体で何のようですか?」

「うん?」と笑みを浮かべたまま、雛森先輩は首を横に倒す。

「残念だけど、私は尾澤君とはキスもしてないのよ、その前にはカレシ無しだし、だから真っ白……それよりも、まだまだ発育途中なんだから、大人の真似事はしないほうがいいわよ」

 ―あれれ?

 気付く。やよいの笑顔は嘘だ。

 ―先輩、笑っていない、どうしたんだろう?

 場が寒いどころか、どこか不穏になってきた。『刃苦怨』の前でも、こんなに殺気が充満していないだろう。

 思わず一歩下がる。退路はそこしかないような気がした。理由は分からないが、一目さんに逃げ出したい。

「拓生君」とその背中に指が当てられる。

 虎狼院みやがいつの間にか背後に立っていたのだ。

 みやは目元を険しくして、僕の状況を確認する。

 はあ、とため息の後に、彼は向き直った。

「拓生君、僕は言っただろ? 変な連中に関わったらダメだ、君の為にならない」

「へんなって……」絶句すると、女の子達が一拍の後、反撃する。

「ヘンなのはあんたでしょ? この女男!」

「どんなに計算しても、虎狼院さんは男子ですよ!」

「生意気言うな! 怪我するわよ」

「あのねえ、こういうのって男の子でも良くあるらしいんだけど、憧れと恋愛感情をごっちゃにしているよ、君」

 えりす、天城さん、葛城、雛森先輩の順に責められたみやは、全く動じず全員の視線を跳ね返している。

 ―ああうう……。

 内心で僕は四肢をばたつかせてもがきたい。どうしてか皆が上手くいっていない。どうしたらかみ合わない歯車を直せるのだろう。

 彼女達はとっても『いい人』ばかりなのだから、きっと仲良くなれるのだ。

 だが結局、学校についても妙案を思いつくことが出来なかった。 

 全員無言で校舎に入り、気まずく足音を響かせ、階段に近づくと進み出た雛森先輩が僕に手をひらひらした。

「じゃあね、拓生くん、また後で」

「は、はい」

 やよいの細められた目に会釈するが、他の四人は反応無しだ。

 健康的な足取りで彼女は駆け上がっていく。しかし、それはいつもの軽い足音とは違う気がした。どこか乱暴で、憤りのまま足を叩きつけられているように聞こえる。

「……先輩、どうしたんだろ?」

 誰とも無く問うが、その腕がえりすに引っ張られた。

「あんなのどうでもいいから、教室行きましょ」

 ―そうだ。

 僕は期待する。

 ―きっと教室行って、友達に会えばみんな普通になる、みんなの機嫌も直る。

 淡い願望はすぐに崩れた。

 一年三組は氷河期を前にしたかのように、緊張と緊迫で寒々としていた。 

 クラスメイト達は最初は日常の喧噪にいたのだが、僕達が入ってから数分で水を打ったような静けさの中、下を向いている。

「あれれれ?」

 全く状況に着いていけないが、級友達を細かく観察すると、彼彼女達はちらちら、怯えたように誰かを伺っている。

 えりす、葛城、天城さん、みやがその先にいるようだが、僕がそちらを向くと、みんな嬉しそうににっこりするだけなので、どうして教室が硬質に固まっているのか判らない。

「あんた、東雲……」

 いつか僕の独り言を聞きとがめた、隣の女子生徒が囁いてきた。

「なに?」

「なに、じゃないわよ全く、のほほんとしてる場合じゃないでしょ? この空気、どうすんのよ?」

「空気?」

「だーかーらー」彼女は口に手をやり、声を潜めた。

「……で、誰を選ぶの? 誰が本命?」

「はい?」

 聞き返す。何を言っているのかさっぱりだ。

「こ、こ、こいつ」女子生徒はその様子に大仰に仰け反る。

「ガチか? このバカ……くそバカ東雲! もう話しかけないで! ダメ人間!」

 ずざっと彼女は机を僕のそれから離し、体ごとそむける。

 ―そんなに怒らなくても……

 完全に接触拒否され傷ついたが、それはそれでなんかイイ。僕はもう治らないようだ。

 しかし次の休み時間、合間に立った彼女が予鈴がなっても机に戻ってこない。

 ―あれ?

 と辺りを見回すと、小刻みに震えている彼女の友達がいる。

「彼女、どうしたの? 病気? 保健室?」

「あ、あ、あんたを、き、傷つけたって……」あわあわと少女達は両手で口を押さえる。

「知らない! 何が起こったかなんて知らない! 私たちあんたを傷つけたりしないから! 悪口も言わない! お願い、かまわないで」

 僕の胸裏が微かに陰った。どこかで悪いことが起きている気がする。

 だが、次の受業の担当教師が入ってきたので、都合良く忘れた。

 こんこんこん、といつものように天城さんが、黒板で健康的にチョークを響かせている。 毛筆で書いているような美しい筆致で、どんどんと古文が白く訳されていった。

 うんうん、と必ず彼女を指名する古文の牧村先生も、できの良い生徒に頬を緩めている。 僕はようやく人心地ついていた。

 一年三組はまだよそよそしいが、こうして可憐な姿を眺めていると心が和んでくる。

 ―ようやく平和になったなあ……。

 それに関して奔走した自分を、心底誇らしげに思った。

 ―みんな助かって、みんな立ち直って良かった。

 古文の訳を終えた天城さんがくるりと振り返る。

 牧村先生の絶賛を受けたので、彼女は頬を上気させていた。

 ふと、少し上目使いの視線が僕の視線と合う。

 春の太陽のように天城さんが唇をほころばせた。

 ごすっ、と鈍い音と共に、額に何かぶつけられた彼女が「きゃう!」と背後に仰け反り、倒れた。

 ざわっと教室が微動し、僕は思わず立ち上がっていた。

「あれ? ごめーん! 手が滑っちゃった」

 まるで消しゴムでも落としたかのように、文鎮と呼ぶ鉄塊を彼女に投げつけたえりすが立ち上がる。

「うええ?」

 僕が衝撃の中にいる間に、舌をちらりと見せたえりすは文鎮回収のために教室の前に出ようとする。が、途中で派手な音を立てて顔面からスライディングした。もし野球ならセーフの勢いだ。

 葛城の真横である。

「悪い、事故よ」

 葛城はえりすを一瞥もしない。伏せるように倒れていたえりすの体がわなわなと震えた。

「ちょっと!」

 バネが弾けるように立つと、葛城を指さす。

「どう考えてもわざとでしょ? 事故で足が払われるもんですか!」

「…………」葛城は彼女を完全に無視している。

「こいつ……」

「何しているんだよ! 君たち、今は授業中だよ!」

 時が止まったように身動きもしない生徒達の中、みやが咎める。

「いくらなめくじ程度の低い知能では着いていけなくても、他の人達には迷惑だ、くらいはわかってよ」

「なめくじ? ひ、低い知能?」

 葛城は意味を確認するかのように、みやの言葉を口の中で繰り返す。

 僕はそれどころではない。

「天城さん!」

 彼女がまだ倒れているのだ。

 ごつい鉄の塊をモロに受けたのだ、あるいは119か、と携帯を探る。

「だ、大丈夫です」

 ゆっくり天城さんは体を起こし、立ち上がった。

「け、計算すべきでした……こんなこともある、と」

 僕は何も答えられない。

 彼女の顔色は紙のように白く、額から滑り落ちている一条の赤い線が異様に目立った。

 本来なら駆け寄ってもいい状態だが、どこか今の天城さんには凄みがある。

 彼女は落ち着いた動作でスカートのポケットからハンカチを取り出すと、そっと額の血を拭いた。

 ―おかしい。

 どこかがおかしかった。皆、それぞれの問題を解決したのに、より溝が深まったように見える。

 何が原因かは、全くわからない。

 クラス中の誰もが悄然とする中、時間だけが過ぎていった。

 昼休み。学校が最も和むイベントを迎えても、一年三組の様子は変わらなかった。

 こそこそひそひそ、とクラスのあちこちで級友達が真剣に語り合っている。

 ―どうしたんだ? みんな。

 僕は自分の席で彼等の視線の意味を考えていたが、腹部がじんわりと冷えだしたので顎から手を離した。

「パンかお」  

 購買部でパン、それが日常だ。

 が、立ち上がると、教室の前の扉から女生徒が四角い包みを持って現れた。

「お久しぶり、拓生くん」

 明るくそう呼ぶのは雛森先輩だ。

「まだ『久しぶり』というほど時間は経過していませんよ」

「あら?」と彼女は頬を膨らませる。

「オンナゴコロが判らないとダメよ? 一緒にいたい人と少しでも離れたら、もう『お久しぶり』なの」

 雛森先輩は包みを拓生の木机に置く。

「はい」

「なんです?」

 僕の問いに、雛森先輩は瞳に光を灯す。

「お弁当!」

 彼女が慣れた手つきで包みを開き蓋をあけると、そこには卵焼きやらエビフライ、タコウインナー等、夢のような光景が広がっていた。

「うわあ……」感動してしまう。

「これ、僕、食べていいんですか?」

「何言ってんの、拓生くんに作った物なのよ、召し上がれ」

 ―何だこの感動は……。

 僕は号泣しそうな自分を必死で抑えた。

 憧れの雛森先輩が手作り弁当を作ってきてくれたのだ。

 ―こんな日が来るなんて……そうだ、今日のことは記念に日記につけよう!

 神に祈りそうな僕だが、その席にもう一つ楕円の包みが置かれた、

「え?」

 葛城が恥ずかしそうに目線を外している。

「ええっと……」

 僕に構わず彼女はそれを開いた。

「おおお」呻ってしまう。葛城の弁当もかなりの高レベルだったのだ。

 雛森先輩とは違い、料亭に出そうな本格的な料理だ。

「実は私、料理は得意なんだ」

 葛城が誰ともなく誇る。確かに、それは家庭料理の範疇から飛躍していた。

「東雲、味を見て欲しいんだけど」

「え! う、うん」僕としては了解するしかない。

「あうああ」 

 そこに女生徒が飛び込んできた。

 天城さんだった。額に絆創膏の彼女は、両手で重箱を持ち、葛城と雛森先輩の間をこじ開ける。

「拓生君、私のお弁当はカロリー計算バッチリです! 塩分も計算されていますし、食べると健康になります」

 どんと目の前に置かれ、少し怯んだ。 

 三人分、計六個の目が注視しているのだ。

 食べるどころか、どれかを選ぶことも出来ない。

 ―うーん、味は葛城だろうな、しかしバラエティーは先輩に分があるし、健康には天城さんのがいいんだろうな……。

 が、そんな懊悩を一挙に救ってくれたのは、えりすだった。

 迷う僕の机が、突然ひっくり返される。

 宙に幾多の食材が舞うのを、何も出来ず網膜に焼き付けた。

「こんな何が入っているか判らない気持ち悪い弁当より、拓生! 食堂行こうよ、あたしと」

 雛森先輩、葛城、天城さんの弁当を床にぶちまけたえりすは、エビフライを踏みにじりながら僕の腕を取る。

「ちょっと!」

 阻止したのは雛森先輩だ。いつもの微笑みはもうない、初めて見る剣幕だ。

「……これ、いくらなんでも酷くない?」

 彼女は散乱する食べ物に柳眉を逆立てる。

「そうだ! 食べ物を粗末にするな」

 同調したのはみやだった。

「拓生君、こんな食べ物の大切さが判らない女と一緒にいることはない、ほら」

 彼が手にしているのは、僕がいつも買うカレーパンとコロッケパンだ。

「僕は君の嗜好に併せてすでに購入してきた、これを僕と食べよう、他人に作られた料理なんて、どんなばい菌が入っているか判らないよ」

 しかし、結局僕は昼食を採ることが出来なかった。

 雛森先輩がみやの購入してきたパンを、バチンと叩き落としたのだ。

 ―え……。

 少しだけ引く。そんな激情を発露させる雛森先輩を知らなかった。

 雛森先輩、葛城、天城さん、えりす、みや、はその後、唇を引き結び互いを牽制し、結局、その圧力で僕の食欲は消滅した。


 はあ、と僕はパイプベッドに横になり、重いため息を落とした。

 部屋にある窓にはすでにカーテンが引かれ、窓の外にある夜の風景を伺うことは出来ない。 

 もう僕は学校から帰宅していて、自分の部屋で一日の出来事を反芻しながら、くつろいでいた。

 否、くつろぐ、など出来なかった。

 考える事が多く、複雑すぎる。

 蘇るのは、好意を持った者達の対立する姿だった。

 ―おっかしいなあ……。

 指で髪をかき混ぜる。

 どうしてか上手くいっていないのだけは分かる。僕と会話している間、あんなに嬉々として、闊達としている彼女達なのだが、一人でも増えるとぎこちなくなるどころか、ぎしぎしと金属音のような音を立て、軋み出すのだ。

 うーむ、といくら考えても何が悪いのか判らない。

 幼馴染みで、少し乱暴だけど本当は寂しがりの佐伯えりす。

 年上で、お姉さんのようであり、包容力抜群の雛森やよい。

 同級生で、楚々とした落ち着いた雰囲気を持ちながら、案外ドジな天城愛希。

 旧友で、一見気が強そうだが、その実女の子らしさ満点の葛城司。

 親友で、女の子のような容姿で世話好きの虎狼院みや。

 みんなそれぞれ大切で、親しくしてみると、思った以上に沢山の美点で形成されていることが判った。

 実際、僕の前では皆、天使のように優しく寛大だ。

 なのに……僕はその日の放課後、数時間前逃げるように家に走った。

『誰が僕と一緒に帰るか』という、当人たる僕にとってはそれほど重要じゃない問題で、暴力に発展しかけたのだ。

 一触即発だった。

「うわー」と鞄をひっつかんで飛び出さなければ、その後どうなっていたかわからない。

 おっかしいなあ……僕はベッドに丸くなって考え続けた。

 だが結局、答えも有効な打開策も浮かばないまま、時間通り夕食を食べて入浴し、出ていた英語の課題を都合良く忘れ、少しオトナな夜の番組を見、今度は睡眠のために再びベッドに入った。

 色んな問題があるが、何となく時間を稼いでおけば、何となく解決する。

 僕が一五年で学んだことだ。

 母が日中干していてくれていたお陰で、布団は些末な悩みなど薄れてしまうほど寝心地が良かった。

 ―平和な夜だ。

 そう意識する間に、瞼が重くなっていく。

 スマートフォンが飛び上がらんばかりに鳴り出したのは、そんな時だ。

「わ!」

 ベッドから飛び起き、勉強机に置いたままのスマホを、LEDの明かりを頼りに取った。

『雛森やよい』と液晶に名前が表示されている。

 ―雛森先輩? なんだろう?

 そう言えばこの間携帯番号登録したな、と何となしに耳に当ててみる。

「はい、拓生です」

「ああ、拓生くん? ごめんね」

 雛森先輩はいきなり謝った。

「え? どうしました?」

「もう、こんな遅くに電話して、ごめん、ということ」

「ああ、いいんです、先輩ならいつでもOKです」

「ホント?…………」

「あれ? 先輩?」

「……あ! そうだった……あのね」

 雛森先輩は囁くような話し方になる。

「私、ドジしちゃって、教室に課題の入った鞄を置き忘れちゃったの、で、今から学校に行きたいんだけど……怖くて……」

 なるほど、と得心する。

 確かに夜の学校は怖い。昼が明るいから、とか、人がいるべき場所に誰もいないから、と説明する輩は多いが、とにかく怖いのだ。

「一人では……ちょっと」

「判りました!」

 僕は横目で、時刻が深夜一時を少し回っていると確認し、胸を張る。

「僕が今行きます! こんな時間女の子一人だと危険です、一緒に入りましょう」

「でも、悪いわ……」

「いえ! 先輩の為です、全然構いません」

「嬉しい……」雛森先輩の吐息まじりの声は、まるで身近にあるかのようにドキドキさせてくれる。

「じゃあ、巻野高校で落ち合いましょう、待っているわ」

 僕は切れたスマートフォンをしばし見つめていたが、すぐに行動を開始する。

 夜だが、雛森先輩と会うのだ、それなりの格好をしたかった。


 闇の中では目立たない無駄なお洒落をして、徒歩二〇分の夜道を駆け抜け、僕は巻野高校の正門にたどり着いた。

 意識して早めに出たのだが、彼女はすでに到着していたらしく、すぐに「拓生くん」と闇の中から呼ばれた。

「は、はい」

 人影が数歩前進し、校門前の街灯の下に雛森先輩が浮かび上がった。

 ―あれ? 

 と僕がここで気になったのは、彼女がまだ学校指定の夏服姿だったからだ。

 ―先輩、いちいち着替えるのかなあ?

 そうなると軽い気持ちで私服を選んだ自分が、場違いなように感じられた。

「ありがとう、ホントに来てくれて」

 雛森先輩はそれらに全く触れずに、感極まったように胸で掌を組んでいる。

「当たり前ですよー」

 照れて後頭部を撫でると、彼女はくるりと背を向けて、鉄の校門を引いた。

 ゆっくりと門が開く。

「じゃあ、いきましょ」

 彼女は一度振り返り、僕に片目をつぶった。

「はい」

 と答える前に、すたすたと学校敷地内に入って行く。

 その背に続きながら、夜の学校をきょろきょろ観察した。

 たしかに不気味だった。巻野高校にも平凡な怪談は幾つか存在する。昼間は鼻先で一蹴してしまうそれらが、今は妙にリアリティを持つ。

 つい黒く塗りつぶした窓を一つ一つ確かめてしまった。

 怪談の一つ、自殺した生徒が夜に窓から見ている、という話しを確かめたかったのだ。 それらしいものは無かったが、足は鈍った。

 ―あれれ、先輩。

 雛森先輩は何事もないかのように、変わらぬ歩幅で進んでいる。

 ―怖いんじゃ……。

 確か、夜の学校が怖い、と呼び出されたはずだが、彼女には何かを恐れるような雰囲気はなく、闇も亡霊もはじき飛ばすような断固とした足取りだ。

 校舎へ入るとしても、さすがに表玄関は無理そうだ。巻野高校は夜守衛がつくので、彼等に話しを通すのだろう、僕はそう勝手に思いこんでいた。

 守衛室は校舎の……。

 雛森先輩は普通に表玄関を押し開く。

 ―うん?

 戸惑う。

 玄関に鍵が掛かっていない、ということもあるが、雛森先輩の行動に躊躇がなさすぎる。 当たり前の場所に当たり前に向かっているようだ。

「ええっと、先輩」

 学校に忘れ物でしたよね? と確認しようとしたが、僕の疑問を誤解したようだ。

「ああ、大丈夫、守衛さん達には……寝て貰ったから、永遠に来ないわ」

「えいえんに……寝て?」

 段々話が見えなくなっていく。忘れ物を取りに、雛森先輩の教室だった筈だ。

 しかし僕を連れた彼女は上階への階段をスルーして、どうしてか一年の教室が並ぶ一階の廊下を迷わず進んだ。

 その足が止まる。

 一年三組の前だ。

「ここって」問う前に、雛森先輩は扉を開いて「さあ、入って」と促す。

 驚いたことに、一年三組は電灯が付いていた。

 ―なんだろう。

 訳が分からないが、白々と照らされる教室へ踏み行った。

 夜だからか、馴染みの教室にも違和感がある。

 机も椅子もロッカーも、何も変化などしていないのだが、より魂を失い無機的な、無意味な物になってしまったかのように、ただの風景と化していた。

 中程まで歩き、僕は言いしれぬ不安を感じた。

 雛森先輩の理解できない行動もそうだが、ここには長居したくない気がする。

「あのー、先輩、これは?」

 震えそうになる声帯を苦労して抑え、尋ねると、彼女は目を伏せており、表情が判らなくなっていた。

「ごめんね、拓生くん」

「はい?」

「ごめんね、騙して、みんなで話した結果、こうしよう、てことになったの」

「は?」

 全然、さっぱり意味が判らなくて聞き返す。

 乾いた音を立てて扉が開く。

 雛森先輩と僕以外に誰も生徒はいないと思っていたから、仰天した。見知った四人が神妙な面持ちで、僕の前に横一列に並ぶ。

 佐伯えりす。

 天城愛希。

 葛城司。

 虎狼院みや。

 唖然と全員を見回す間に、雛森先輩が最後尾に付ける。

「こ、これって……」

 白い光の下、僕の喉が痙攣した。

 五人分の視線、真っ直ぐに僕を見つめてくる瞳に、布団圧縮袋に入れられたような圧迫感を覚える。

「ど、どうしたの? みんな」

 おそろおそる尋ねると、口を開いたのはえりすだった。

「拓生、選んで」

「え?」

「この中の、誰を選ぶの?」

 彼女の言っている事が判らない。ただえりすは酷く真剣だ。

「あたしは拓生が好き、子供の頃の約束、結婚の約束、守って」

 えりすが告白したのだと気付くのに、数秒かかる。

「え?」

「私は」次は天城さんだ。

「ずっと寒かったんです、とにかく一人でがんばって、どんな時でも一人で必死に計算してきました、でもこの世界は寒くて仕方なかった、そんな印象しかなかった……でも、拓生君にぎゅっとされたとき、初めて温かいと思った、だから、もっと温かくなりたいんです、拓生君、二人で温め合いましょう、計算も終わりました、拓生君は私を選ぶのが一番幸福です」

 反応しようとしたが、葛城が遮る。

「……私にとって男は敵だった、父さんも含めて、いつも私のことを生意気だの偉そうだの言う男はキラいだった、そのクセ、女の見られたくないところばかり狙っているアイツ達は大嫌いだ、でもあんたは、あんたは自分の身を捨てて私を助けてくれた、だからあんたは、キラいじゃなくて、その……逆になったんだ」

 何だか迂遠な表現だ。

「ええっと、葛城」

「葛城、なんてイヤよ、つかさでいい」

「つ!」

 どこかでそんな夢を見たような気がする。

「僕は、この世界でたった一人味方になってくれた君が大好きだ、もうこの気持ちを伝えなければ一歩も進めない、だから……受け止めて欲しい」

 みやは完全に倒錯したようだが、容姿が女の子なのでそれに気付かなかった。

 そして、最後に雛森先輩が大ぶりのメロンのような豊かな胸に手を置く。

「こんな形で君に告白なんてごめんね、でも私たちの発展的未来の話しをどうしても拓生くんとしたかったの、ねえ、私ってどうかな? 私にとって君は『私の拓生くん』だけど君にとって私は、あなただけの特別な存在? 教えて欲しいな」

 僕は倒れかけた。そして死にかけた。

 一体何事か、と恐れていたのだが、五人に告白された。

 真夜中の学校、教室に呼び出され、憧れ好意を抱いていた者達に愛を囁かれた。

 ―夢、これは夢? 実は温かいふと真ん中?

 と頬をつねったが、現実の痛みがリアルに走る。

 ―僕の、僕の人生が、まさかこんなに明るいモノだったなんて! ビバ・ヒューマンライフ!

 僕はそのまま両手を上げて叫ぼうとするが、えりすの真摯な態度はまだ変わらない。

「聞いた?」

「え?」

「みんなの告白」

「うん! とっても嬉しいよ」

「で?」

「で?」

「誰を選ぶの?」

 はたと僕は動けなくなった。

 五人は身じろぎもせず、視線を逸らしもしない。

 ―だれ?

 考えていなかっただけに、その疑問に不意を突かれた。

 ―だれ?

 五人を何度も見直す。

 ―選ばないといけないのかな? 

 その時気付いた。選べない。

 えりす、天城さん、葛城、雛森先輩、みや、誰の悲嘆も見たくない、みんなの事を近くで見ていたい。

 とても一人に選べない。

 が、それは悪いことだと、何となしに判る。

 ―どうしよう……

 僕は突然、この空間の居心地の悪さに気付いた。

 みんなそれぞれ、とても、とても好きだ。好きだからこそ、選べない。

 幼馴染みのえりすのイチゴ味は忘れられない、天城さんの可憐さもいい、葛城のモデルのような格好良さも最高、雛森先輩の完成されたボディは完璧だ、みやは……その世界もそれはそれでいい。

 選べない。

 僕は汗だくになりながら、その場でフリーズした。

 選べないのだ。

「で、誰にするの?」

 えりすが今一度問い、他の四人は祈るようだ。

 重い、重すぎるプレッシャーが、体にずしりとのし掛かった。それは丁度心肺の上にあり呼吸を妨げる。

 はあはあ、といつの間にか、肺の運動は浅く、苦しいものになっていた。

 はあはあはあはあ。

 目前には、五人、僕に告白した者達が待っている。じっと答えを待っている。

 はあはあ、はあはあ。

「え、え……え、らべ、ない」ついに力尽き、本音が口をつく、

「え?」

「ごめん! みんな大好きだから選べない!」

 ―最悪だ。

 すぐに僕は消沈した。恐らくこれで逆に皆に呆れられ、嫌われるだろう。

 ―でも、誰かを泣かせるよりはマシだな。

「わかりました」

 天城さんは「やっぱり」と感動したように、涙を拭う。

「やっぱり、拓生君は優しい人だった、そうですよね? フられる他の子が可哀相ですもんね?」

「はい?」

「うん、えりすを選びたかったんだろうけど、くーちゃんは他のヤツとの人間関係を大切にしているんだね?」

「おお?」

「仕方ないなあ、父さんと違って女に優しいんだから」

「へへ?」

「私は判っているわよ、後輩君、お姉さんを甘く見ないで」

「あの?」

「やっぱり君は凄い人だ、拓生君」

「あれ?」

 五人がそれぞれ自己完結していく。僕は完全に置きざりだ。

「さて」と一連の賞賛の後、えりすが天井に指を向けた。

「案の定、拓生は選べなかった……でも、みんなは自分が唯一人で独占したい」

 四人は強く首肯する。

「あたしも、他の誰にも拓生に触れて欲しくない、と言うことで決めましょう」

 そう宣言したえりすは、首を捻る僕に構わず朗々と説明を始める。 

「ルールその1、学校敷地内から出たら失格、諦めたら自分から出て行くこと、ルールその2、死んだら負け、各自家で遺書を書いたと思うけど、死んだら外には自殺、ということになるから、ルールその3、最後に残った一人が拓生を手に入れられる、以上」

「何それ?」物騒な単語やら僕自身に対する一方的な取り決めに、耳を澄ました。

 が、僕に全く構わず物事は始まろうとしていた。

「くーちゃん、ちょっと待っててね」

「私、がんばって計算します!」

「負けないから、私」

「僕は君のために戦うよ!」

「ちょっとだけ、いい子にしてて」

 固まる僕に五人はそれぞれ決意を述べる。

 ―これは……?

 白っぽい光の中、一人僕だけが浮いていた。

「さあ、んじゃあ」えりすが片腕を上げると、今までゆったりとしていた教室に硬質な感覚が充満していく。

 その感覚には覚えがある。『刃苦怨』の連中の前に引き出されたときだ。否。その時よりも数倍、数十倍、数千倍、辺りの空気は凍っていた。

 ―これって、殺気?……

「始め!」

 次の瞬間、一年三組の教室から五人が消えた。

 きいきい、と風もないのにしなる蛍光灯の下、僕一人がぽつんと残る。

「あれ?」

 狐に摘まれたような心地で、椅子と机しかない空間を見回した。


 ―みんなどこに行ったんだろう?

 僕は立ちつくしたが、すぐに疑問符は消えた。

 どがん、という凄まじい音が聞こえたのだ。

「な、なに?」

 思わず教室から飛び出し、鈍い音の方向へと走った。

 不安が、何かしらの悪い予感が、腹部にどっしりと溜まっていた。

 が、しかし、その光景は僕の予測やら妄想やらを遙かに飛び越えていた。

 一階の一年一組の教室の壁が半壊していた。

 崩壊したコンクリートから粉塵が吹きだし、辺りは灰色に曇っている。

 がらん、と崩れるコンクリを押しのけ、人間が歩いてきた。

 葛城は背中で壁をぶち破ったようだが、涼しい顔だ。しかし、さすがにYシャツは所々破け、スカートも幾ばくが裂けている。

 剥き出しになった編み目のような鉄骨をバックにした彼女に、僕は言葉を失う。

 空気が裂けるように鳴り、再び葛城が背後に吹っ飛ばされる。今度は壁をぶち破り、彼女は一年一組の中に消えた。

 代わりに、僕の前にみやが着地する。

 何やら尖った金属を手にした彼は、蹴り飛ばした葛城の姿を必死で探していた。

「み……や?」

「ああ、拓生君」

 無邪気な、偶然外で出会ったような笑みだ。

「僕の家に伝わる『虎狼院流暗殺術(ひそかにやっちゃえ!)』だよ、待ってて、すぐにみんな殺すから」

「へ……?」僕の下半身から力が抜けていく。

 殺すって!、と混ぜ返せるような状況ではない。

 壊れた壁、舞い散る粉塵、傷だらけの葛城……どうひいき目に見ても、冗談にはならない。

 が、そのみやが喫驚した。

 霧のような砂の粒子を破って、葛城が突撃してきたのだ。

 その拳を受けて、みやが反対に廊下の端までぶっ飛ばされていった。

 破裂するような勢いで、並ぶ窓ガラスが粉々に割れ、雨のように降り注ぐ。

「東雲」葛城も僕に気付いた。

「私、アイスクリームが好きなんだ」

「はひ」その突然の告白は謎だ。

「美味しいところを知っているから、一緒に行こう……一緒に一つのアイスを食べよう」「えーい!」とみやが絶叫して、彼方からジャンプし拳を振り下ろした。

 尖った鉄が司の頭、人体の急所『聖門』に直撃する。

 葛城は、揺るがない。

「な!」みやが顔を歪める。

『アイアンボディ(いたくないもん)』葛城は呟いてみやが着地する前に、その襟首を掴む。

「くそ! 『虎狼院流暗殺術(ひそかにやっちゃえ!)』」

 捕らえられたみやは、司の喉に武器を突き出す。

 ごつり、と嫌な音が響き。思わず視界を覆うが、葛城は倒れてないようだ。

「残念だけど『アイアンボディ(いたくないもん)』には物理攻撃は利かない」

 話しが大きくなっていない? とは指摘できなかった。

 みやの顔面に葛城の拳がめり込んだ。

 そして宙に舞う彼の体に、立て続けにパンチやらキックが入る。

「うわぁ」みやはぐしゃりと床に落ちた。

 虎狼院みやは、血の気の引いた瞼を閉じて倒れている。

 じっくりと、動かない体から放射状に鮮血が広がっていく。

「みや!」

 慌てて近寄った。起こそうとするが、手がぬるぬるして滑る。

「なんだこれ」僕は自分の掌を一瞥して、凍り付く。

 べっとりと赤い液体に濡れていた。みやの血だ。

「あわわわわ」

 狂乱しかけた。何が起きているかさっぱりだが、一つだけ判った。

 ―僕が選ばなかったからだ。

「東雲」とみやを倒した葛城が、思い出したように付け加えた。

「駅前のプレート・アイスのクーポン、持っているんだ、おまけで四つタワーに出来る、それを二人で……」

 葛城は頬を真っ赤に染めて口ごもる。

 確かに刺激的なシチュエーションだが、彼女は虎狼院みやを仕留めているのだ。

「二人で一つのアイスを……」

 彼女は最後まで説明できなかった。

 額に鉛色の鉄の塊が命中し、上体を仰け反らせたのだ。

 とんでもない威力だ、今まで『刃苦怨』の猛者達に殴られても微震もしなかった葛城を仰け反らせる。

 誰が? と考える必要はなかった。

 かららら、と金属を引きずる嫌な軋みを辿ると、鉄パイプを引きずった佐伯えりすがいた。

「あ! 拓生!」

 えりすは僕から視線を外さず、しかし体は葛城に向け鉄パイプを上段に構える。

「ねえ拓生、あたしさあ、一緒に暮らすんだったらスリッパとかパジャマ、おソロにしたいな、今度お店に見に行こう」

 えりすは駆けだした。葛城に向かって鉄パイプを振り上げて襲いかかる。

 ただ、その間もまるでこの場に二人きりしか居ないように僕に話し続ける。

「アイスは、二つ、味選んでもいいよ、だけど二つは私の食べたいの選びたいな」

 葛城も走り出し、二人は廊下の中程でぶつかり合った。

「スリッパはさあ、猫の顔が着いたヤツが……」

「私は、チョコミントとストロベリーがどうしても……」

「うわわわわ」

 乱闘と言うには生々しすぎる、拳と鉄パイプの応酬が始まった。

 ごおんごおんと鈍い、骨の奥を振るわす音が響く。

 現実と暴力の効果音を遮るために耳を塞いで、僕は逃げ出した。

 着いていけない、滅茶苦茶な世界に居られない。

 みやの死体の側で、殴り合いながらスリッパやアイスクリームの話題に花が咲けない。 うわうわ、と呻きながら二人と離れるために階段を駆け上がった。

 目的無く、闇の真ん中を走る。どこまでもどこまでも暗黒は続いていた。

 どん、と柔らかい何かに包まれるかのようにぶつかり、僕は足を止めた。

「あら? どうしたの? 拓生くん」

「あわわ」と怯える僕に、ふんわりとした柔らかな声がかけられる。

「ぜ、ぜんばい……」

 甘いお菓子のような匂いで気付く、雛森先輩だ。

 次の瞬間、自分が何にぶつかり、何に顔を埋めているか悟って、僕の体が焼けるように熱くなった。

「す、すみません!」と胸から離れようとするが、反対に頭を抱きしめられ、動けなくなる。

「どうしたの? そんなに泣いて」

 雛森先輩は頬を優しく撫でてくれた。

 ―先輩はマトモだ!

「せ、先輩!」

「もう、やよいって呼んで……呼びなさい、先輩命令よ」

「やよい、さん」

「なに?」

「お、おかしいんです、みやが、みやが」

 血まみれのみやの姿が、網膜から消えない。

「そう、でもっそれよりも! あのね、何月何日にする?」

「はい?」

「私三年後まで書き込めるスケジュール帳を買ったんだけど、ほら、拓生くんまだ一五じゃない、結婚するにはまあ三年必要でしょ? 三年後の大安はね」

「せ……ん」

 ごくり、唾を飲み込んだ。また話しが歪みだした。 

「私は教会がいいなって思うんだけど、君はどうかな? 何? そんなにきょとんとして、私にプロポーズしてくれたじゃない……あ、ごめん、アレは妄想か、まあいいわよね、それで、確かに……」

「いけませんよ、拓生君が怖がっています」

 背後から可憐な声がしたが、強く抱かれている僕には確認できない。

「私、必死で計算しました、負けませんよ、無駄なスケジュールは組まないで下さい」

「確かに神前式もいいわよね? 風流で」

 いつの間にか雛森先輩の手には木刀があった。

 彼女がそれを構える間に、僕は雛森先輩の胸から逃れ、振り返る。

 薄暗闇の中、天城さんがノートを片手にしている。

「拓生君」彼女の瞳孔は大きくも小さくもならない、全く変化しない。

「私、お父様に『好きな人が出来たら連れてこい』って言われています、今度の日曜日です、大丈夫です、お父様は厳しい人だけど、拓生君が気に入られる方法は計算しています」

 ずばっと雛森先輩が木刀を振り、天城さんは辛うじてかわした。

「うーん、白無垢も着てみたいのよ、だけどお色直しでいろいろ着るのって、大変だし」 雛森先輩は目にもとまらぬ速さで木刀を振り、『天神命神流剣術(切る、斬る、素KILL)』が天城さんの体に切り傷を付けていく。

「お父様は文学が好きで、拓生君もいくつか読んでおいて下さい、幸田露伴とか川端康成とかです、大丈夫、貸してあげます」

 雛森先輩の剣を瞬間移動しているようによけている天城さんから、ばさばさと何枚かの紙が落ちた。

 びっしりと数式が書かれているそれを見て、僕は悟る。

 ―天城さん、先輩の剣術を計算したんだ。

「友達代表のスピーチは、夏美にしてもらおう」

 が、雛森先輩の横薙ぎにより、ざっくりシャツが切れた。じわっと汚れ一つ無い白が朱に染まっていく。

 空気だ、僕はもういやいや、乱暴に理解した。

『天神命神流剣術(切る、斬る、素KILL)』は空気さえも切断するのだ。

 天城さんがよろめき、大量のノートの切れ端が滑るように舞った。

「子供はすぐに欲しいな……何だったら結婚前に産んで、結婚式で花束を持たせるのもいいわよね」

 次の一撃で、校舎の天井から床までが両断される。

 まともに受ける事だけは回避した天城さんだが、右肩が切り裂かれ、血がスプレーのように噴き出した。

「ちょっ……」

 僕は無惨な光景に両手を振った。

 何とか辞めさせたいが、話も通じないこんな状況をどうしていいのか見当も付かない。「子供の名前は、ねえ」

 しかし、ここで廊下の隅でしゃがむ劣勢の天城さんが体勢を立て直し、素早く手元のノートに血文字を書き加える。

「出来ました『神算星読(計算おわりです)』完了」

 構わず雛森先輩は木刀を振るい、宙に漂う紙が何編にも細かくなっていく。

 しかしその斬撃をくぐり抜け、天城さんは彼女の直前まで接近する。

「きゃっ!」

 雛森先輩の悲鳴が上がった。何があったか僕には全く見えなかったが、彼女の女性らしい体は激しく壁にぶち当たり、そのまま横の階段から転がり落ちていく。

「せ、先輩!」

 僕は段を飛び、踊り場に転がっている雛森先輩に急いだ。

「うっ」と彼女に近づき怯む。

 首が不自然に捻れていた。色を失った唇から真っ赤な液体が溢れ、動かない瞳が床を映している。

「せ、ん」

 僕の腰がびりびりと痺れていた。もしかして漏らしてしまったかもしれない。辛うじて残るパンツの感覚に変わりないから、それだけは回避したのだろう。

「せ……」

「拓生君」と腕が掴まれる。

 天城さんは血まみれながら、天使のように微笑すると、僕の手を引き階段を上る。

 ぼんやりと夢の中を歩くような足取りの僕は、意のままに屋上に連れてこられる。

 いつの間にか嵐になっていた。

 ごうごうと湿った風が吹き荒れ、夜空は混沌と渦巻いている。

「さあ!」と天城さんは僕を屋上の端にまで誘った。

「拓生君」

 彼女は強風の中見上げてくる。

「ぎゅっとして」

 僕の背中に、天城さんの腕が絡まる。

 しばらくして彼女は身を離す。何か満足していない様子だ。

「……拓生君、匂うね……他のメスの汗と体臭と息の匂い」

 と、僕の上着のボタンに指が伸ばされる。

「消臭しないとね、私の匂いをたっぷりつけて」

 幾つかボタンを外し、彼女自身もYシャツのボタンに手を掛ける。

 しかし、天城さんの眉間に稲妻が走ったように皺が刻まれる。

 ばたん、と屋上の扉が開けられ、暗黒の中にぼんやりと葛城が浮いていた。

 ―えりす……は?

 靄が掛かる視界で、僕は誰かに尋ねる。

 葛城は苦悶している様子で、自らの手で己の首を掴んでいる。

 見えない何かに抵抗するように、彼女はほっそりとした首を、血の気の引いた指から引き離そうと試みている。

 自分の腕と力比べをしているように見えた。

 ごりっと嫌な音が鳴り、葛城の首は曲がった。そして一歩進み、頭から屋上のコンクリ床に倒れる。

 喉から血がごぼごぼと流れ出す。

 その背後に、鉄パイプを肩に置くえりすがいた。

「全く、面倒な女」とえりすはまだ金色の己の左目を指し、葛城の背中を踏みにじる。

「攻撃、全然聞かないから、結局使っちゃった」

 ばたばたと衣服をはためかせて、僕の横を抜け天城さんが進み出た。えりすに。

「拓生から離れなさい、あたしのモノよ」

「いいえ! 拓生君はわたしのモノと計算しました」

 二人の対峙は短かった。

 えりすが何かを投げつけ、天城さんがそれを避けた。

「計算どお……」

 が天城さんの顔で何かが弾け、小さな白い粉が風に流れた。

「あんたの計算を計算したわ」

 えりすは可笑しそうに笑う。

「最初に投げた文鎮はフェイク」

 えりすは天城さんが『計算』して避けることを察知し、まず文鎮を投げ、動いたところに本命の何かをぶつけたのだ。

「う」と短く天城さんが声を上げた。

「て、てんじょう……さ」

 彼女の目には瞼が下ろされ、その下から血が滴り落ちている。

「あんたにぶつけたのは、蛍光灯の破片を集めた袋……目に入ると大変!」

 えりすは鉄パイプを持ち直す。

「あんたの能力は目で情報を得て発動する、それがなければ、ただの計算違い女」

 無言の天城さんにえりすは駆けだした。

 闇の中でも鉄パイプは鈍色に光る。

 視界を封じられた天城さんは、ただ無力にその一撃を頭に、受けなかった。

「え!」

 振り下ろされた鉄の棒が激しく灰色の床で火花を散らし、えりすが動揺する。

 天城さんはまるで見えていたかのように、予測していたかのようにそれを寸前でかわしていた。

「残念ですね、私は『暗算』も得意なんです、『神算星読(計算おわりです)』完了」

「く!」

 えりすの左側の目の色が再び金に転じ、彼女の指が屋上の柵の外、荒れた海のような虚空を指した。

「仕方ない、『魔眼(王様、あたし!)』! ここから飛び降りなさい!」

 その時、天城さんの唇に硬質な微笑が刻まれた。

「無駄です、あなたの能力を『催眠術』と計算しました、しかし私はもうかかりません、あなたが眼を潰したんですよ……計算ミスです」

 空気の断層まで計算したのか、天城さんは空中を駆け上ると、上からえりすを蹴った。

 きゃあ! という悲鳴と鉄パイプが転がる耳障りな音が重なり、彼女の体が屋上の鉄柵を越える。

「えっちゃん!」

 はたと僕は気付いて必死に近寄る。えりすは辛うじて腕一本で、屋上の縁に掴まっていた。

「た、たくみ、あた、し」

 えりすが必死に何か伝えようとしている。僕は柵から乗り出してえりすの腕を捕まえようと、指先に力を込めた。

 がん、と鉄パイプが彼女の手に打ち落とされる。

「え?」

 天城さんがえりすの落とした武器を拾っていた。

 それを当たり前のように、佐伯えりすの命を繋ぐ手に突き立てていた。

「拓生君、最初のデートは映画ですよね? 私の大好きな恋愛映画」

 がん。もう一度えりすの傷ついた手に、鈍色の棒が下ろされる。

「そうだ、私、手芸も得意です、何を編みます? マフラーとか、パッチワークも出来ます、拓生君、サイズを教えて下さい」

 がん、がん、がん。

 えりすの白い手は裂け、血が噴き出し、桃色の爪は剥がれた。

「や、やめ」

 僕は天城さんを止めるために、彼女の前に入ろうとした。

 だが、その前にえりすは力尽き「たく……み」と言葉を残して重力に掴まれて落下していく。

 佐伯えりすの体は遙か下の校庭で二度弾み、その一部始終を僕は目撃した。

 小さなえりすの体を中心に、ここからだと黒く見える液体が吹き出していた。

「……勝ったよ、私、勝った」

 一人残った天城さんは、勝利の喜びに身震いした。

「た、拓生君、私、の」

 東雲拓生は、白い、真白な何もない世界で、天城愛希の声を聞いた。

「いただきまーす」

 

 エピローグ


 夏休み真っ直中の八月。まだまだ太陽は強烈だった。

 そんな日なのに、巻野高校は全く意味のない、学生の風紀の緩みに釘を刺す登校日を迎えていた。 

 僕は天城さんと一緒に登校する。

 僕らの交際は五日前の月曜日からだった。 

 僕は『彼女』と付き合うことで、女の子が妄想の世界などでは考えもしなかったほど多彩な面を持っている、と知った。 

 妄想よりも温かく、妄想よりも芳しく、妄想よりもやわらかく、甘いだけかと思えばしょっぱいし、実は……。

 天城さんは傷一つ無い輝く瞳で僕を見つめ、微笑む。

 夏休みに入るまで『彼女』と朝、手を繋いで登校し、放課後、手を繋いで帰宅し、昼には一つの物を二人で食べた。 

 端から見れば完全なバカップルだ。

 だが、それでいい。

 それしか考えられない。

 もう、『彼女』の思いのままだ。

 そして、今日金曜日の朝、登校日、また手を繋いで歩く。

 巻野高校は平和だ。危険で残酷な夜の決闘の噂があるが、昼間は普通の高校である。

「幸せですか?」

 校門付近で天城さんがふと尋ねるから、「うん」と肯定した。

「よかった」 

 彼女は夢見るように、吐息をつく。

 と幸福な僕達に数人の少女が明るく挨拶してきた。

「おはよう、拓生くん」

 包帯だらけの雛森やよいは、変わらずに眩しい。

「一週間、元気だった?」

 腕を吊っている葛城司が、反対側の手を振る。

「もう金曜日だね?」

 虎狼院みやの言葉は意味ありげだった。

「そうしたら次だからね、拓生!」

 佐伯えりすは、べりりと左の眼帯を外す。

 皆、死ななかった。あの日の決闘は凄まじかったが、それぞれぎりぎりで命を拾った。が、そうなるとルール2に抵触する。

「死んだら終わり」……しかし「死んでいない」だから。

「次の開催日は日曜だから」

 えりすはパーティの案内でもしているようだ。

「はい」と天城さんも簡単に受け入れる。

 ―ああそうか。

 拓生は八月の、夏空を見上げた。

 あれからもう何度も、この戦いは行われたのだ。

 しかし皆頑強で強く、決着には至らず、暫定勝利者が一週間だけ『暫定彼女』になる。 みやもいるから『暫定彼氏』の時もあるが、嵐の初戦から数週間、天城さんは今回で二回、えりすは一回、雛森先輩は二回、葛城は一回、みやは一回、『暫定勝利』している。

 その度に相手が代わり、僕は困惑……しなかった。

 あの嵐の日から、心のどこかが鈍い。

 少女達の誰が横にいても、みやが横にいても、僕は変わらずその人物だけが大好きだった。 

 ―次は誰かな?

 夏ど真ん中の空は光と熱に満ちているが、僕には青空さえも白く寒く見えた。


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助けた美少女達でハーレム……のはずが……マインガールズにハーレムは無理! イチカ @0611428

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