第7話
その日から、ユリカは学校を休みがちになった。
たまに顔を見せる日も、様子がこれまでとは明らかに違っていた。以前は懸命に押し殺していた怯えが、今は表情を見なくてもその背中のかすかな震えだけで手に取るようにわかる。
担任だった眞鍋が殺されてから急きょ僕たちを三か月間だけ受け持つことになった教頭先生はマスコミへの対応などもあって忙しそうで、そんなユリカを目にしてもそれ以上気にかけることはしなかった。彼女を一番よく知っているつもりだった僕も、同じだった。放課後になると、彼女は空き地には行かずにそのまま家へと帰ってしまう。その後ろ、声は届かないくらいの距離から僕は彼女の通った跡を辿っていくけど、追いつくことはなかった。縋る心と竦む足がどちらも言うことを聞かないから、ため息をつきながら疲れたような足取りで僕の家に帰る。見上げた白い雲の形だって、とびきり寂しいものに思えてしまった。そして日々が積み重なるごとに、胸の軋みもひどくなっていった。
三月の足音が迫ってきた日曜日。父親が突然、引っ越しの知らせを伝えてきた。
東京の会社に転勤するから、家族そろって東京近郊の街へ行くのだという。本当は十月からの予定だったけど、僕の卒業のタイミングに合わせてくれたみたいだ。
もう、会えない。
最初に思ったのは、ユリカのことだった。僕には特に親しい友達がいるわけでもないし、今世紀から忘れ去られたようなこの街が恋しいわけでもない。それなのに動揺したのは、彼女のせいなんだろう。
言いたかった言葉。言えなかった言葉。初めて話してからの思い出が、波のように押し寄せる。会えないのはきっと苦しくて、でもなぜか痛みは和らいでいて。部屋のベットに顔をうずめて、気づけば一日が終わっていた。
最後はちゃんと語り合って、それからきちんと手を振ろう。眠りが覚めて、朝の日射しを浴びて、ようやく決心した。
卒業式の前日。眞鍋先生を殺した犯人は未だ不明で慌ただしい雰囲気だったけど、僕たちを祝う準備は着々と進められていた。
式当日は両親が迎えに来るから、会話を交わせるのは今日がきっと最後だ。これまでより心なしか目まぐるしい時の流れを乗り切り、表紙の裏側が白紙のままのアルバムをランドセルに突っ込んでユリカを追いかけた。
校門の隣の桜並木は蕾を膨らませ、春本番をじっと待っている。その木々の間を抜けると、横断歩道を渡りかけていた彼女が見えた。顔を出す弱い自分。それを三月の魔法で振り払う。
ゆるやかな坂道を駆け下って、横断歩道へ。信号機はチカチカと点滅して赤くなりかけていたけど、構わずに渡っていく。
そのまま裏路地へ入り角を曲がると、やっと彼女を捉えた。跳ね上がる心臓を無理やり押さえつけて、息を吸い込んだ。
覚悟を決める。
「待って!」
ありったけの力で叫ぶ。
彼女は立ち止まる。そして、こちらを振り向く。
「真人くん…」
二か月ぶりの声が聞こえた。
「引っ越すことになったんだ」
彼女に告げる声だけは、いつものままでいられた。
空き地への道を並んで歩いて、次第に僕らの速度は遅くなっていく。どこかで小鳥の鳴く声がして、それが僕らを包む音のすべてだった。
「それで、もう会えなくなるから、最後に話したいって思って」
ユリカは答えない。
「最近、学校来てなかったから、どうしたんだろってずっと気になってて」
前を向くと、すぐそこにいつもの場所。そして彼女はようやく口を開いた。
「あの人を殺したの、私なの」
消え入りそうな、悲痛な声だった。こんどは僕の方が何も言えなくなる。誰かの命を奪う彼女の姿なんて、想像さえできない。
「八月くらいに、なんか本当にあの人にいなくなってほしいって思った時があって。それでベランダの端っこの物置に足を踏み入れたら転ぶような仕掛けを作ったの。ロープを張っただけの簡単な仕掛けだし、物置にはめったに入ることないからほんとに殺すことはないって思ったんだけど…だから…」
鈍い衝撃が僕を襲った。彼女は何か月もの間背負ってしまった罪に押しつぶされながら、耐えてきたのだ。そう思うと、ますます彼女の辿る運命が残酷に見えて仕方がない。
彼女の頬に、一筋の涙が流れた。
「ぜんぶ、私のせい」
何度も口にしたその言葉。彼女のせいじゃない。そう言って何もかも断ち切ってしまいたいのに。季節は僕らに牙をむいて、少しずつ搾り取っていくようだ。
「大丈夫だよ」
抗うために、僕は俯いた彼女に語り掛ける。今までの苦しみも後悔も搔き消すために、何度も何度も。馬鹿の一つ覚えみたいでも、構わなかった。
僕の手では世界は変えられない。もうすぐこの街から去って、新しい暮らしを始めてしまう。それでも。だからこそ。救うべき人を救わなきゃいけない。
「ありがとう」
震えながら細い腕がこちらへ伸べられて。僕は花束を掴むときみたいにそっとその手に触れて。
伝わる振動は冬の寒さ。体温は春の暖かさだった。
そのままで、どれくらいの時間がたっただろう。
ユリカは泣きはらした瞳を僕に向けて、そのあと泣き疲れたと言って笑った。
別れが音を立てて近づくのを知って、僕らは他愛無い話に花を咲かせた。彼女の好きな食べ物がチョコレイトなのを、初めて知った。僕の両親のことを初めて話した。魔法のことも、母親や先生の死も、その時だけは忘れたふりをした。そうして、夕焼けが地平線のかなたに消えるまで、二人の時間を積み重ねた。
そろそろ帰らなきゃ。どちらが先に言ったのかは、なぜだか覚えていない。けれど、帰り際の彼女の名残を惜しむような眼とその足取りはちゃんと焼き付いている。
僕が見送るのをやめようとした時、暗くなった道を彼女が引き返してきた。
「真人くん、携帯買うって言ってたよね?」
「あ、うん。買ってもらったよ」
「よかった!私も一月に買ってもらったんだ。良かったら番号とメールのアドレスだけでも交換しない?」
「いいよ。電話番号は…」
こうしてお互いの連絡先を教えあった。数字とアルファベットの羅列だけが僕らのつながりの証なのだと思うと、こみ上げてくるものがあった。
涙を見せないように、ここを去ることにした。一度だけ振り向いて見たユリカの顔は、最後まで笑っていた。
これが、彼女との記憶のすべてだ。
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最後の願い 砂川未明 @honoka-mimei
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