花よりほかに知る人もなし

雨宿晴

花椿と楓の葉

 私は私。人にして人を超えし者。人にあらずして人を象る者。

 これは私が、魔女とも悪魔とも呼ばれるこの忌まわしい姿に墜ちるまでの、くだらない物語。


  ♤


 魔女は……いえ、私は元々、かえでという名の少女だった。

 私には親友がいた。誰よりも大切な、椿つばきという名の少女。

 椿とは幼い頃からずっと一緒。道路を挟んで向かいの家。同じ幼稚園、小学校、中学、高校、そして大学。

 学部は流石に違ったけれど、そんなのは些細な問題だった。私は、明日も明後日も、一年後も十年後も変わらずに椿が隣にいてくれると、当たり前のように思っていた。椿がいない風景なんて想像もつかなかった。だから、今という永遠を信じて疑わなかった。

 椿は大人しい子だった。

 一緒にいても、私が適当に喋ったり、黙ったりする隣で静かに本を読んでいるような子だった。

 別にお互い、関心がなかったわけじゃない。寧ろ逆だ。それが私達の日常だった。

 椿は本を読みながらでも私の話はちゃんと聞いてくれていたし、私も椿を、私の一方的なお喋りに長時間付き合わせ続けたくなかったから、結果としてそれがお互いにとって一番くつろげる姿勢だったのだ。

 それに、たまに椿から口を開くときは、決まってその遠慮がちな可愛らしい笑みを浮かべて、心から楽しそうに喋ってくれるものだから、私はその笑みの「たまに」の部分を失いたくなくて、自分ばかり喋っていたのかもしれない。

 私たちは色んな所に行った。ショッピング、ランチ、レジャーはもちろん、二人旅なんかもした。

 私たちは正反対だったからこそ、不思議と波長が合ったのだ。

 私が「あ」と言えば、椿が「うん」と応えてくれた。

 逆に椿が「あ」と言えば、いや、例え遠慮がちな椿が声に出して言ってくれなかったとしても、私は「うん」と応えた。応えられる自信があった。

 私達は、お互いに満たされていたと思う。

 少なくとも私は、椿に勝る友達なんて知らなかった。椿よりも私の心をときめかせてくれる人を知らなかった。

 椿さえ、いてくれれば良かった。

 今にして思えば、あれは単なる友愛ではなかったのかもしれない。

 もう少し大きくて複雑な、別の何かだったのかもしれない。


  ♤


 いつからだっただろうか。椿が私の誘いに応じてくれなくなったのは。

 私が放り投げた「あ」が、「あ」のまま尻切れトンボになるようになってしまったのは。

「ごめんなさい。友達と予定があるの」

「今日は講義と課題で忙しくて」

 最初は否定的な言葉が増えた。そして次に、面と向かう機会が減っていって、最後にはなくなった。

 私は、悲しかった。寂しかった。椿が、いつもいつでも傍に居てくれた椿が、どこか遠くへ行ってしまったような気がして、胸を掻きむしりたいほどの痛みに苛まれた。

 でも、引っ込み思案で私以外に友達もほとんどいなかった椿にもようやく、私以外の友達ができたのだと思って、胸の痛みを抑えつけていた。

 これは椿の成長なんだ、それなら私も成長しなくてはならない。

 それに、例えどんな友達ができたって私と椿の関係が変わるわけじゃない。

 私は自分にそう言い聞かせていた。


  ♤


 そんな日が続いたある日、私は偶然椿を見かけた。

 久しぶりに見た椿は、なんだか少し小さくなったように見えた。でも、それ以上に私の目を引いたのは、椿の隣にぴたりと寄り添う男の存在だった。

 爽やかな笑みを浮かべた青年。身長は百八十センチくらいだろうか。そのせいもあって、ただでさえ小柄な椿が、より一層小さく見えたのだろう。並んで立つその姿はまるで別の生き物のように見えた。

 健全な、男女の青春の一ページの筈だった。

 でも何故か私は、その笑みに強烈な嫌悪感を覚えた。

 ――そこは……そこは私の場所でしょうがッ!

 自分でもよくわからない内に込み上げる衝動に私は困惑した。それが、敵意なんて生易しいものではなくて、殺意に近いものだと気付くのには少し時間がかかった。

 今にも沸騰しそうな心を理性が必死に留めていた。

 椿の顔は見えなかった。風に靡く私とお揃いの長い髪の、その不規則な軌跡だけがいつまでも目について離れなかった。


  ♤


 メッセージアプリを開く。「椿、彼氏できたの?」そう送ろうとして、やめる。送ってしまったら、もう戻れないような気がしたから。なんだか胸が痛い、苦しい。

 前は毎日のように他愛ないことをやりとりしていたのに、最近ではもう、私からの一方通行になり果てていた。一ヶ月も前に送った「暇な日ある?久しぶりにどっか遊びに行こうよ」は、既読すら付かないままポツリと放置されていた。

 その時、私は思い知ったのだ。

 きっと、椿が私に素っ気無くなったのは、新しく愛を得たから。そして、それはきっと私では満たせないもので、彼にしか満たせないもの。

 だとしたら、私は……椿の幸せを願うなら、私のような女は、つきまとうべきではない。

 そんなことは、思いたくなかった。信じたくなかった。だから今までずっと目を背けてきた。でも、椿に嫌われてしまうことは、もっと恐かった。

 その夜、私は泣いた。何故だか涙が止まらなかった。このまま体中の水分を出し尽くして死んでしまうような気がした。それでもいいと思って、私はただ溢れる心を流し続けた。

 私は、私がこれほどまでに、椿を大切に思っていたことに驚いた。それなのに、私は椿にお礼の一つも言わないままだった。

 明日言えばいいなんて、一瞬浮かんだ考えを打ち消す。もう、私に明日はないのだ。体の中心が痛い。痛くて堪らない。その痛みから逃げることも許されない。だから、私は幼い子どものように、泣くことしかできなかった。

 どれくらいの時間そうしていたのだろう。

 ふと目を開けてみれば、いつ泣き止んだのかも分からないうちに、夜が明けていた。


  ♤


 その日の朝、私は髪をバッサリと切った。自分の姿が見える度に、椿とお揃いにしていた髪形がちらつくのが、苦しかったからだ。

 髪の短くなった私が鏡の向こう側から私を見つめている。泣き腫らしたみっともない顔。その顔は、いつもみたいに整えようとすら思えないほどに冷たい表情を浮かべていた。

 短くなった髪が、新しい私を嫌でも突きつけてくる。それなのに不思議と、違和感も不快感もなかった。ただそこには、真冬の朝のような澄み切った心があるばかりだった。澄み切って澄み切って、冷たさと痛み以外の何も存在しない、虚ろ。

 心が動かない。どんなに美味しいものを食べても、どんなに綺麗な夕陽を眺めても。何も笑えない。笑いたくても、口元はピクリとも動いてくれない。

 誰と喋っていても同じだった。ピンボケした白黒写真を眺めているような気分だった。だから、よく話す人たちの顔も名前も覚えられない。しょうがなく、曖昧に「アンタ」なんて気安く呼んでみたりする。向こうは私のことを「楓」と名前で読んでくれるというのに。

 私ってなんて薄情なんだろう。

 そう思ってみても、心はもう罪悪の一欠片たりとも持ち合わせてはいなかった。


  ♤


 そんな日々が、一年くらい続いた。

 椿のことはたまに見かけた。だけど、いつでも隣にはあの青年がいた。椿の白い小さな手をとって、憎らしい程爽やかな笑顔を浮かべていた。

 椿の顔は……怖くて見れなかった。もし、あの遠慮がちな笑みを私以外のあの男に浮かべていたら、きっと私はもう二度と立ち直れない。

 なんて未練だろう。何も感じないはずの心にどういうわけか鈍い痛みが走っている。

 恋に飽きれば、或いは終われば。新しい友達に飽きれば。きっとまた私のことを思い出してくれる。ずっと心のどこかで守り続けてきた微かな希望。

 心の奥底でそれを大事に大事に守ろうとする私に、心を捨ててしまった無慈悲で残酷な私はこう言うのだ。

「そんな希望があるから、中途半端に心が凍ってしまって、痛みばっかりが残るのよ。もう、全部捨ててしまいましょう?完全に凍ってしまえば、痛みも何も感じなくて済むわ」

「そんなこと、したくない……」

「でも、迷っているんでしょう?『しない』じゃなくて、『したくない』だものね」

 私には返す言葉もなかった。

「アンタ、少し重いのよ。椿だって、アンタがいつまでも執着してくるのが嫌になったんじゃないの?」

 鋭い楔が私を穿っていく。おかしな話だ。穿っているのも私自身だというのに。

「椿の幸せを考えるなら、どうするべきか。そんなの、初めから決まりきってることじゃない」

 一年。私は十代最後の一年を、この消えてくれない痛みに耐えることに費やした。心がときめくことは何もなくて、ただ鈍い痛みだけに苛み続けられる日々。

 あと何年待てばいい?一年?十年?百年?

 椿はもう、私のことは何とも思っていないのに?

 考えれば考えるほどに息が苦しくなる。痛みを逃したくて身を捩れば、一層胸が締め付けられる。

 私にだって、薄々わかっていた。守り続けていた希望は、私自身を苛む十字架だということに。そして、それに苛まれる私という存在そのものが、椿に取っての重い十字架だということに。

 ――もう、やめよう。

 不意にそう思った。張り詰めた糸を断ち切るように、ふっと息苦しさが消えていった。

 椿のためにも、私のためにも、もう、こんな想いは捨ててしまおう。それがきっと、椿の幸せを守れる、私にできる唯一のことなのだから。

 私は痛みすらも失った心でそう決意した。

 そして私は、椿の連絡先を消した。二人仲良く並んでいた携帯の待ち受けは、デフォルトの青い壁紙に戻した。そうやって、椿の痕跡を身の回りから、一つずつ確実に消去していった。

 最後の一つ。初めて二人で撮った写真。家の前の道路で、試しに撮ってみた一枚。今より幾分も幼い私たちが、私に向かって無邪気に笑っている。私は、指先の震えを無視して、削除のボタンを押した。

 Loadingの文字がDeletedに移り変わる。その刹那、私の心から温もりが消え去って、凍りついた。

 その温度は、絶対零度なんて言葉でもチープに思えるほど、固く固く、深く深く私の心を閉ざした。

 二度と動かない、成長しない、その代わりに老けることもない。

 こうして私は永遠を司る魔女になった。


  ♤


 魔女になった私には、もう世界のことなんてどうでもよかった。だから、その灰色の日々で何をしていたのかなんて、何一つとして思い出せない。

 ただ、歴史上の事実のように、勉強をしていたことと、バイトをしていたこと、あとはただ食べて寝ていたことは知っている。

 百年くらい過ごしていたような気もするし、たった三日のことだったと言われればそんな気もするような、そんな日々だった。

 私に再び記憶が残るようになるのは、忘れもしないあの六月九日。

 朝から雨の降りしきる嫌な日だった。あの日、なんだか早く目が覚めた私はぼんやりと窓を伝う雨雫を見つめていた。

 その時、視界の隅を黒い車が掠めて、眼下の道路に止まった。男が降りる。あの男だ。

 私はその時、退屈の病のせいか、その男を観察してやろうという酔狂な気を起こしてしまった。

 窓を薄く開け、湿気の重さを感じる。男は携帯で椿を呼んでいるようだった。

 何故、インターホンを鳴らさないのだろうなんて、その時の私には考え付きもしなかった。

 暫くすると、椿が出てきた。ぼんやりと男の方を見ていた私は、椿から目を逸らすのに、一瞬反応が遅れてしまった。

 「あっ」と思った時には、私は椿の顔を見てしまっていた。そしてその瞬間、凍りついていた心の深層に焼けるような痛みを感じた。

 椿の顔は、変わり果てていた。最後に見たときの色白く優しい顔は、青白くなり、俯いた瞳には絶望の色が塗りたくられていた。

 五月雨の隙間に男の声が聞こえる。

「早くしろよ。ったく、今日は一日中お楽しみって、ずうっと前から決まってたんだからさぁ……。お前、そんくらいの価値しかないんだから、空気読めよなぁ」

 そう言って、道に唾を吐きかけた。

 椿は力なく頷いて、その車に乗り込む。

 男はそのドアを力いっぱい閉めてから、辺りを伺うように見回し、自分も車に乗り込んで、走り去っていった。


  ♤


 ――椿を助けないと……。だってそうでしょう?椿が、私の大切な、大好きな椿が笑顔じゃないなんておかしいじゃない……。

 椿の笑顔を見てしまうことを、一番に恐れていたはずの私は、今度は熱に浮かされたように正反対のことを思っていた。それは、今にして思えばもはや執念としか呼べないものだった。

 それから私は、情報を集め始めた。

 長らく人の顔を個人の符号として識別していなかったというのに、人が変わったように片っ端から、椿と同じ講義に出ていた人の伝手を辿った。中には、もう見覚えすらない人もいたけれど、それでも私は必死に訊ね続けた。

 男のことを付け回し、家を特定した。バイト先、本命の彼女の存在、起床時間、好物はカップラーメンのシーフード味。

 真実の全てを炙り出した。

 あのときの私は、下手な警察や探偵なんかよりもずっと優れた探求者だったと思う。

 情報収集、推理、仮説、検証、整理、計画、準備、そして予行演習。

 そのすべてを終えるまでに一月もかからなかったと思う。あとは実行に移すだけだった。

 私の至った真実は、残酷だった。

 椿は、辱められたのだ。あの獣に。

 あの獣は、私と離れてひとりぼっちだった椿の弱みにつけ込んだ。最初は、優しい好青年のふりをして油断させ、あれやこれやと言いくるめて……。

 その後は、その時の証拠をダシに椿を脅した。あの獣には、取り巻きのクズどもが数人いて、数の暴力と恐怖に屈した椿は連中の言いなりになった。

 あの、誰よりも優しい椿のことだ。椿は、私を巻き込まないようにと距離を置いたのだろう。もしかしたら、そうしろという命令があったのかもしれない。いずれにせよ、彼らは椿を汚し、滅茶苦茶にした。それだけわかれば、十分だった。

 静かな気持ちだった。心を満たす澄み切った狂気が衝動を駆り立てる。それが私を満たす全てだった。

 あの日以来の涙が止まらなかった。

 今まで気付いてあげられなくてごめんなさい。本当にごめんなさい。自分のことばかりでごめんなさい。

 椿の「あ」に「うん」と返してあげられなくてごめんなさい。

 何を言ったってもう許してもらえるなんて思わない。椿の親友を名乗る資格だって、私にはもうない。

 だから、せめて……。せめてもの償いに、私がきっと椿を解放するから。このおぞましい夢から醒ましてあげる。だから、そんな悲しい顔をしないで。椿の笑顔は、絶対に取り戻して見せるから。

 そう独り言ちてから、私は折りたたみ式の鉈を鞄に忍ばせた。


  ♤


 …………。

 ここまで聞いたあなたになら、もう全て想像がつくだろう。

 私は魔女から悪魔に墜ちた。自ら望んで、悪魔に魂を売り渡したのだ。

 それは、例え魔女狩りの火刑に処されたとしても決して融けることのない罪だった。

 許されることはない。許してもらおうとも思わない。一度狂った歯車は壊れて弾け飛んでしまうまで、狂ったまま廻り続けるより他はないのだ。

 私の計画は完璧だった。何一つとして、描いたビジョンの一秒を狂わすことはなかった。

 血にのたうち回る獣に心無い刃を振り下ろした。

 口元には何重にも巻かれたテープ。その隙間からくぐもった断末魔が響く。部屋に充満する強烈なアルコールの匂いが、血の匂いすらも酔わせて掻き消す。

 動かなくなって、膾のようになっても、その穢れた血の全てが流れ出してしまうまで、私は手を止めなかった。

 第二土曜日の夜。彼とその取り巻き共が好き勝手に集まって、酒を片手に夜通し馬鹿騒ぎをする日。彼は小さなアパートに一人暮らしだった。他の住人は、何部屋も離れて住む老人が二人だけ。何をやっても、公になることはなかっただろう。

 後から来る者に、途中で帰る者。おびただしい出入りの中で、玄関の鍵は開け放たれ、魔女の侵入をいとも容易く許していた。

 視界の隅には、既に物言わぬ肉塊となり果てた人形がいくつも転がっている。そう、これはお人形遊びと変わらない。お気に召さない、可愛くない人形を千切って捨てる。それだけのこと。

 後ろから、風鳴りにも似た唸り声が聞こえてくる。地獄の底から迎えにやってきた悪魔たちの声だった。

「ああ、全部あげるわ。悪魔さんたち。どうぞお好きに平らげて頂戴」

 私は背後の暗闇に潜む影にそう言った。彼らが、この部屋の全てを喰い尽くし、永遠の闇に葬ってくれるだろう。

 ――この世界もこれで見納め。その最後の景色がこんなゴミ溜めだなんてね。私にふさわしいと思わない?椿……。

 それから私は、愛しい人にそっと一言だけ伝えた。それは、ずっと伝えていなかったこと。伝えなければいけなかったこと。

「ありがとう……」

 最後の熱を持ったその言葉を吐き出してしまうと、心が再び凍てついていくのを感じた。今度こそ、もう二度と融けることはないだろう。それでも、後悔はなかった。

 そっと呪文を唱えると、地面にすっと黒い裂け目が現れる。地獄が私を呼んでいる。私は迷いなくそこへと飛び込んで、この世界から永遠に姿を消した。


  ♤


 私は、永遠の魔女。

 楓の葉は枯れ落ちて、椿は厳しい冬を越えて春を迎えた。

 激しく弱った椿が、再び花を咲かせられるようになるには、気の遠くなるような年月が必要かもしれない。それこそ永遠とも感じるほどに。

 でも、私はその永遠の先に、その花の咲きこぼれる結末を見据えている。

 どんな魔女も悪魔も神も汚すことのできない結末を見ている。

 だから私はその日まで、ただ祈り続ける。

 もしも一つだけ。ただ一つだけ、この醜い魔女に、悪魔に、私に何かを願うことを許してくださるというのなら。

 ああ、どうか、枯れ落ちた私の葉が、彼女の根を僅かでも温めてくれますように。

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花よりほかに知る人もなし 雨宿晴 @harutomato8610

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