結尾 

 


 結尾.



 西暦二〇〇〇年、上海。元宵節。

 正月最後の祭りの日、新たな千年紀の幕開けを迎えた街は大いに沸いていた。

 その夜、祝いの天灯が浮かび始める時分、四馬路の裏路地を駆ける二つの影があった。

 一つは素早いが、どこかぎこちない動きで、ぴょんぴょんと跳ねまわりながら逃げる影。

 もう一つは、弱々しい足取りでふらつきながら、それでも懸命にその影を追いかける男のものだ。

 どちらも今ではその名を忘れられて久しい。だが、かつて前者は僵尸と、そして後者は霊幻道士と呼ばれていた者たちだった。

 華やかなりし頃の老上海の面影を残す旧市街を直走り、道士はやっとのことで行き止まりに僵尸を追い詰めた。それから、覚束ない手つきで薄汚れた黄色い呪符を構えると、嗄れ声でこう唱えた。

「――鬼魔駆逐、急急如律令!」

 舞い飛ぶ呪符が僵尸の動きを封じ、そこに歩み寄った道士の刀が僵尸の首を、ぽん、と刎ねた。満月を背後に、首が舞った。

 道士の手から刀が滑り落ちる。同時に、僵尸の体に火が付き、ひとりでに燃え始めた。

 ……これが、最後。

 かつて人々を脅かし震えあがらせた化物は、これが最後の一体だった。

 道士はずるずるとその場にくずれおち、壁に寄り掛かる形で倒れこんだ。辺りに人影はなく、彼の姿に気づく者はない。

 ひらひらと、雪が降り始めた。

 道士は震える手で懐を探り、煙草を取り出す。紙箱をまさぐり、一本を取り落とす。それでもまた一本を取り出すと、ようやく口元まで持っていく。燐寸で火をつけるまで、また時間が掛かった。火を灯すと、男は美味そうにゆっくりと紫煙を燻らせた。

 遠くで鐘が鳴り響く。その音色は、男の脳裏にかつて用いた帝鐘の響きを呼び起こした。

 清朝が終わり、その後の動乱の時代を経て、この国は、この街は様々に形を変えてきた。

 男もまた同様に年を取り、姿を変えた。霊力は衰え、霊幻道士としての力は最早ない。

 親しい友は今ではもう皆が冥府に去っていった。

 概ね、幸せな去り方をした者ばかりなのが救いだ。一番の親友などは努力の末に魂消るような美女を嫁に貰い、彼女と共に天寿を全うした。二人は同じ年に亡くなった。今は二人仲良く同じ墓に眠っている。他にも多くの友人知人がこの世を去った。

 しかし、もっとも忘れがたい人はこの手で殺めた。月色の髪を持つ、幽けき美貌の少女だった。彼女は勇敢な獅子のように気高く、弟子としていつも自分を救ってくれたものだった。

 絶対に忘れない、そう誓ったが、果たして忘れられる筈がなかった。

 煙草の灰が零れ、燃え尽き、男はそっと目を閉じた。

 今、すべてが終わろうとしている。長くて、それでいて一瞬のようだった。

 生者を生かし、死者を葬る――その理から、ようやく自分は解放されようとしている。

 しかし、この魂はどこへ行くのだろう?

 自分のような者が死後の安寧を願ってはいけないことは知っている。だが、死者を葬る者はもう自分の他にない。それでは、いったい誰がこの魂を弔ってくれるというのだろう。

 弔いがなければ、死者の魂は救われない。永劫にこの世を空っぽのままで彷徨うだけだ。

 ……それは、ひどくさみしい。そして、恐ろしい。

 最後の瞬間、男はひどく恐怖した。そのエネルギーたるや、陰と陽、その属性を反転させるほどのものだった。闇が、腐敗が、恐れが溢れ、それが男の弱り切った心身を蝕み始めた。

 怨念が体を異形のそれに変化させてゆく。骨格が暴れ出し、血肉が皮下で踊り始める。爪と牙が尖り始め、視界が赤黒く明滅する。

 喰いたい、喰いたい、喰いたい、喰いたい。

 やはり、自分ではダメだった。結局、この世界から人の怨みや憎しみが消え去ることはない。

 オレは、霊幻道士は、負けたのだ――。

「てやっ!」

 突如、ぺちん!と額に張り手がかまされる。

 転化しかけたその腕を掴む者があった。同時に額に呪符が貼られ、僵尸化が治まった。

「……もう。先生って、本当に底なしの馬鹿ですね」

 鈴を転がすような声に、道士が紺碧の瞳を見開く。

 そこに映り込むのは、夜風に銀色の髪を靡かせた満月のごとき美貌の女。猫の目のような翠眼が、道士をやさしく見下ろしていた。

「寂しくて僵尸になりかけるなんて、馬鹿もいいところだ。最後の霊幻道士が聞いて呆れます」

 驚きのあまり何も言うことが出来ない道士の手を、彼女がそっと握りしめた。

「さあ、どうしたんですか。約束でしょう。この手を取って、早く立ってください」

 鮮やかな翠玉の瞳が揺れている。その左目には僅かに火傷の痕が残っている。

 約束が、あるいは自分自身のことが忘れられていないかどうか不安なのだろう。

 ……忘れるものか。ずっと、ずっと覚えていた。

 ユーリン。きみを忘れるなんて、そんなこと一度たりとも無かったよ。

 道士は――グウェンはユーリンの手を取ってついに立ちあがった。魂が肉体から抜け去り、尸解するに至ったのだ。これは仙人となり、永遠の生を得る過程の第一歩であった。

 瞬間、黒髪が風に踊り、紺碧の双眸があの日の精悍さを取り戻す。

「――ったく、ユーリン。いっつも強引なんだよ、オマエは」

「だって……どうせ他に迎えに来てくれる超絶美女なんて、いないのでしょう?」

「それはそれ、どうだかな?」

「もう、ずっと心配だったんですからね」

 ユーリンはグウェンの頬に手を触れ、かつて別れた時と同じ、花開くように微笑んだ。

「お役目、随分と時間がかかりましたね。おかげで待ちくたびれてしまいましたよ」

「悪かったな。あの後色々あって、こちとら大変だったんだよ」

「知っています。よく……ここまで頑張りましたね」

 目にいっぱいの涙を溜めて、万感の思いを言葉に溢れさせる。

 だが、グウェンはそれをじっとりと睨みつけ、拳を掲げた。

「オマエな、さっきからどんだけ師に向かって上から目線なンだよ! いい加減叩くぞコラ」

「だって私もう地仙だし先生より格上じゃないでぅ痛ぁっ!? 今本当に殴りましたね!?」

「なんだ。仙人のくせして尸解したての人間の拳も避けられないのか。相変わらずトロいな」

「なんですって!」

「すぐ怒るし」

「……むぅ」

「胸ちっさいままだし」

「なっ、あっ……!」

「それに、すごく可愛い」

 あっけらかんとしてのたまうグウェンに、ユーリンは思わず頬を朱に染める。

「で、どうするんだ、ユーリン。オマエがオレをエスコートしてくれンだろ?」

 ユーリンは改めてグウェンの手を取った。昔と同じ、温かい手のひらだった。

 グウェンがユーリンの手指を握り返した。きつく、やさしく。もう二度と離さない、とでもいうように。

「どうしようかな。時間はたっぷりありますからね。うーん、東の竜神様や私の先輩にも紹介しなくてはならないし、雪蓮とルオシーたちの様子を見に冥府に寄ってからという手もあるし……」

「おいおい、くれぐれもお手柔らかに頼むぜ」

「さあ、次はどこへいきましょうか? 先生」

 そう訊きながらも、ユーリンは自らグウェンの手を引き、何処ぞへと駆けだすのであった。

 夜空に、天灯が浮かび始めた。

 ひとつ、ふたつと舞い始めたそれは、やがて無数の灯りとなって。

 人々の願いや想いを乗せて、灯は遠くの空に飛び立っていった。




 かつての中華帝国。まだ魔法が生きていた混沌と狂気の時代。

 あの世とこの世の境目は地続きで、世には数々の怪異が溢れていた。中には人の世界と隣り、共存するものもいた。

 しかし、僵尸は人に害なす妖怪として最も恐れられるものの筆頭であった。人が人として在る限り、世に苦しみは満ち溢れ、彼らが消えてなくなることはけしてない。

 そこで、不老長生を成し、道を得ることを究極の目的とする道教世界において、俗世に留まり魔を退ける存在が求められ、生み出された。

 生者を生かし、死者を葬る者たち――霊幻道士。

 清朝末期。

 魔都を襲った大怪異を祓った二人の霊幻道士がいたが、彼らの姿を見た人々は暫くの間こう呼んで、その活躍を語り種にしたという。

 即ち、〈霊幻師弟〉と――。





 ファントム・ルーラー〈了〉



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