聖女は中華に堕つ

 わたくしは今日も、祭壇の前にひざまずきます。そして、まぶたを閉じて両の指を絡ませ、神に祈るのです。


「神よ……」


 瞳の裏がチカリと光ると同時に、私の頭に声が響きます。


『聖女よ、神託を授けよう』


 音として感じるわけではありませんが、低く、優しく、おごそかな声です。


『レーン川が増水しつつある。三日以内に堤防を高くするがよい。間に合わなければ、ニン村の住民を避難させるのだ』

おおせのままに……」


 神託を感じることができる私は、皆に聖女と呼ばれています。神をまつる教会に住み込み、定期的に祈りを捧げることで、そのご意志をたまわることが役目です。


『聖女よ、節制はしておるか』


 超常の存在からもたらされる神託は、人々に安寧あんねい豊穣ほうじょうを与えます。それは、この国にとって、なくてはならないものなのです。


『聖女よ、食べ過ぎはいかんぞ』


 私は神を深く敬うと共に、このお役目に心からの誇りを持っています。このお方がおわすからこそ、皆が生きていられるのです。


『聖女よ、少し頬が丸くなっておるぞ。まさか、貢物をつまみ食いしたのではあるまいな』


 神に信仰と感謝を、人々に幸せを。私はそれだけで満足なのです。貢物の干し肉は美味しかったです。


『聖女よ、運動をするのだ。筋トレをした後にランニングだ。毎日欠かすなよ』


 神よ、それはそうと、お腹がすきました。


─────────────────────


『聖女よ、よりいっそう励むがよい』

「はい……」


 足の痺れが限界に近付いた頃、神託の時間は終わりを告げました。周囲はすっかり暗くなっており、燭台しょくだい蝋燭ろうそくが淡い光を放っています。


「ふぅ」


 ようやく立ち上がることができた私は、小さくため息をついてしまいました。聖女にあるまじき悪態です。まだまだ未熟な自分に、恥ずかしくなってしまいます。

 

 私は祭壇に向け軽く頭を下げると、ゆっくりときびすを返しました。薄暗さの中に、大きな扉がぼんやりと浮かびます。

 この扉の先には細い廊下があり、聖女や身の回りの方々の宿舎に続いています。でも、きっと、今夜は別の場所に繋がっているはずです。

 

 そう、こんな気分の時は、あの素敵な場所に行けるはずなのです。


「いらっしゃいませ」


 扉を開けると、神とは違う優しく落ち着いた声が聞こえました。教会よりも少し明るい程度の室内から、小柄な男性が私を見つめています。


「はい、ご無沙汰しています、マスター」

 

 私は思わずにんまりと男性に応えます。司祭たちが見ていたら、きっと咳払いをしたことでしょう。そのくらいの、はしたない顔だと自分でもわかります。


 ここは【BAR日諸】という、不思議なお店。色々な世界に繋がっていて、色々な方がやって来ます。そして、私もその中の一人。ここでは聖女でもなく、神の使徒でもなく、ただのフラン・フランチェスカ・フランソワなのです。


「空いているお席へどうぞ」

「はい、ありがとう」


 ここに来たのはこれで三回目。最初は戸惑いましたが、もうだいぶ慣れました。そう、ルールも、楽しみ方も。


「今日はなにをいただけますの?」

「そうですね……」

 

 私の質問に、マスターはあごに手を当て考えこみます。そもそもこのお店は、お酒と会話を楽しむ場です。本来であれば、私には縁遠いところでした。しかし、マスターのご厚意により、私にとって最高の空間になったのです。

 これまでに作っていただいた、チンジャオロース、ホイコーロー。ああ、忘れられません。


麻婆豆腐マーボードーフなんてどうでしょう? いつものごとく、スーパーで買ってきた程度の材料ですが」

「ええ、いただきますわ」


 マーボードーフ? というものが何なのか、私にはわかりません。ですが、二つ返事で答えました。彼の作るものに間違いなどあるはずがないのです。そう、疑う余地などこれっぽっちもありません。


「では、少々お待ちを」

「はい!」


 マスターが調理場に向き直り、私に背を見せます。


「よいしょ」


 備え付けの椅子に膝を立て、マスターの手元を覗き込みます。お行儀が悪いことは重々承知していますが、興味が勝ってしまいました。自分の胸を邪魔だという感覚は、このお店に来て初めて味わったものでした。

 

 マスターがホーチョーを巧みに上下させると、細長く丸い植物がみるみるうちに小さくなっていきました。さらに、黄色の塊を切り刻みます。同じように、白い塊も。

 私にはわかります。細長いものがネギで、黄色いものがショウガ。そして、白いものがニンニクというのです。そのどれもが、特別な香りを出すのです。


 続いて、フライパンという金属の板に持ち替え、下からガスコンロの火をつけます。最初に見たときは、魔法使いなのかと勘違いしてしまいました。あんなに驚いたのは、初めて神託を感じたとき以来かもしれません。

 そこに油とショウガ、ニンニク、それと数種類の泥のようなものを落としました。これは見たことがありません。


「その泥は、どういったものなのですか?」


 私の質問に振り返ったマスターは、苦笑いを浮かべています。どうやら、なにか間違ったことを言ってしまったようです。恥ずかしい。


「泥……にも見えますね。これは豆板醤トウバンジャン甜面醤テンメンジャン豆鼓醤トウチジャンですよ。ちょっと大きなお店なら、どこにでも売っているありふれたものです」

「難しいお名前ですわね……」


 香味野菜と、ナントカジャンたちの焼ける匂いが私の鼻に届いてきます。なんと食欲をそそる香りなのでしょう。フライパンには、獣の肉を細かく刻んだものが投入されます。ジュウジュウと小気味よい音にも、耳が嬉しくなってしまいます。

 続いて、マナイタの上には見慣れぬものが置かれました。白くて、四角くて、プルプルしています。


「そちらは……?」


 今度は余計なこと言わないように、慎重に尋ねました。私は学習する女なのです。


「これは豆腐ですよ。豆を煮て絞った汁を、いくつかの工程を経て固めたものです。麻婆豆腐の主役ですね」

「トーフ……だからマーボードーフなのですね。マーボーがなにかは、わかりませんが」

「はは、実は私も知りません」

「あら、ふふっ」


 後にお話を聞いたところによると、マスターとしても異国の料理だったそうです。異国の調味料がありふれているなんて、不思議な世界もあるものですね。


 トーフとネギ、いくつかの調味料がフライパンの中に入ります。クツクツと煮立つ音と共に私のおなかも鳴りっぱなしです。


「もうすぐできますよ」

「はいっ!」


 最後の仕上げはカタクリコ。スープがトロトロになる魔法のような粉なのです。


「はい、お待たせしました。そんなに本格的な作り方ではありませんが、どうぞ」

「いえいえ、大変面白かったです」


 私の前に、お皿に乗ったマーボードーフが出されます。

 そして、ゴハン。マスターの祖国では食事の代名詞になるほどの重要な食材です。

 

「ご飯の上に乗せて食べるのがおすすめです」

「ええ、承知しました」


 トロトロの赤いスープが絡まったトーフ。そして周りには刻んだ獣肉とネギ。これらを純白のゴハンに乗せてしまう背徳感はなんとも言えないものでした。

 私は以前教えていただいた、祈りの言葉を口にします。


「いただきます」


─────────────────────


 私は今日も、祭壇の前に跪きます。そして、瞼を閉じて両の指を絡ませ、神に祈るのです。


「神よ……」

 

 神の声が頭に響きます。


『聖女よ、カタヌ山に暴徒が集まりつつある。早めに騎士団を向かわせ鎮圧するがよい』


 神託はいつだって、正しく、人々のためになります。

 私は、神の言葉には逆らいません。


『聖女よ、答えよ』

「はい……」

『服についた赤い染みはなんだ。まさか怪我をしているのではあるまいな。我が運動しろといったばかりに』

「ご安心ください。これは、マーボードーフのスープです。洗っても駄目でした。ナントカジャンは恐ろしいものです」

『何なのだ、それは』

 

 その説明と、後に続く神託は、夜が明けるまで続きました。

 でも大丈夫。私には敬愛する神と、あのお店があるのですから。

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BAR日諸 日諸 畔(ひもろ ほとり) @horihoho

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