最終話 山の頂上で星空を見上げる女性の絵
――血の匂いがする。とても生臭く、僕の知っている匂い。
刹那、目の前が暗転した。瞼を閉じたわけではない。真辺の姿は暗闇が隠してしまっている。それなのにハッキリと彼女の最後の姿を思い出せる。
白いワンピースを鮮血が汚し、首から上が潰れ、ぬらりと光るどす黒いナニかが染めている。
平行感覚が失われ、体がぐらりと倒れる感覚に襲われる。それが気持ち悪くて、僕は体を飛び起こした。
黒い視界が色を持った。知っている場所だ。
本棚も、テレビも、ゲームもなくデスクとパイプベッドのある無菌室のようなモノトーンの部屋。僕の自室だ。
ただ違うのは、体を起こしたパイプベット沿いの壁に、僕の描きかけの絵が額縁に入れて飾ってある。
名前も分からない山の頂上で、夜空を見上げている女性だ。全体を群青色が支配している中、堂々と白いワンピースの女性が空を見上げている。僕にはこの女性が泣いているのか、笑っているのか、または別の表情をしているのかすら分からない。
悩んでいるわけではない。全く分からないのだ。まるで、僕が描いた絵ではないようだ。
「おはようございます」
いつから居たのか……いや、最初から居たのかもしれない。白衣を着た男性が、意図を読み取れない不気味な笑顔でこっちを見ている。
「誰……ですか。 なんで、俺の部屋に、あれ……ここは」
自分が入れ替わっていくような感覚があった。正しいパーツが、じんわりとハマる感覚に近い。だから、違和感を感じる。僕という一人称の違和感や脳が溶けているような感覚、おかしな話だが年齢のギャップに体が悲鳴を上げていた。
「落ち着いてください。 煙草、お吸いになられますか?」
白衣の男は、胸ポケットから新品のハイライトを取り出し、俺に手渡した。パイプベットの上には同じ銘柄の吸殻が潰れた灰皿が置かれている。
「いや、俺……ぼく、煙草とか吸ったことないですから」
と、言いつつも脳が溶けるような感覚が、喫煙者特有の寝起きの感覚であることを体が知っている。煙草を受け取り、火を付けた。咽ることなく肺に向かう煙が、粘膜を通して吸収される。
俺は、確かに喫煙者だ。
煙草を吸っている間、白衣の男が自己紹介をした。
男は医者で、俺はこの病院で、2日間のある更生プログラムを受けていた、それが今終了したということを簡単に説明される。
「すみません。 何も思い出せなくて、もっと詳しく説明してもらってもいいですか?」
医者は「えぇ、もちろんです」と事務的な笑顔で答えた。加えて、一枚の紙を手渡される。
その紙には『自殺法更生プログラム〈アポトーシス〉とは』と書かれていた。
医者が、淡々と説明を始める。
「自殺法の立法に伴い、人が自ら命を落とす自殺行動をとった場合、自殺更生プログラム〈アポトーシス〉を受ける法的義務が課せられます。 あなたは、自殺法に伴いアポトーシスを受けていました。 そして、それが今、終了しました。 ここまでよろしいですか?」
「俺、自殺したってことですか? まさか」
「いえ、事実です。 廃墟になっていたビルの屋上から飛び降りました。 手続きを踏めば、当時のお写真を見ることが可能ですが、手続しますか?」
俺は「いや、いい」と答え、新しい煙草に火を付ける。
「続けます。 アポトーシスとは、自殺未遂者が命の尊さと死の恐怖を精神的に再確認するために国から定められた更生プログラムであり、あなたにとって最も命の尊さを再確認できる疑似体験を疑似世界にて体験してもらいます」
医者が、作業的にベッドの枕元を指差した。手元にある紙に描かれた機械と同じ物が置かれている。紙には強調文字で「記憶障害などの副作用はないよ!」と書かれている。
あの機械が、アポトーシスの世界を作り上げていたのだろう。機械から延びる黒い線を辿ると、俺の体に辿り着く。
「あの質問良いですか?」
「なんなりと」
「真辺……女の子を知りませんか? 白いワンピースを着た」
医者は、呆れたように手元にまとめられた書類を数枚捲り、また事務的に話し出す。
「アポトーシスの性質上、関係のない他人、知り合いが疑似的な友人や家族、恋人として登場する可能性があります。 そのため、ストーカー行為などの二次犯罪への発展を防ぐため、こちらからお教えすることはできません。 ご自身で、向き合ってください。」
「なら、真辺が生きているのかだけでも」
「お答えできません」
きっぱりと言い切る医者の俄然とした態度に、言い淀む。
「じゃ、じゃあ、この絵、俺が描いた絵ですよね?」
ベッド横に飾られた絵画を指差す。山の上で女性が星空を見上げている絵だ。僕が、夏のコンクールに出すはずだった――記憶がうっすらと、それを否定する。
「この絵が、アポトーシスに出てきたんですね。 アポトーシスは、あなたの記憶を元に疑似世界を作り上げます。 きっと、アポトーシス前に見たこの絵が、反映されたんでしょう」
医者は、何度も聞かれてきたのか、疲れたように答える。
「他に、何を教えてもらえますか?」
少しでも、真辺が生きている……いや、存在しているかもしれない可能性を見つけたかった。でも、医者の言葉が、真辺茉奈という女性の尾すら掴ませてくれない。
「あなたの年齢と名前、それから私が現れる前に見ていた世界は嘘だという事なら」
俺は、高校3年生のはず……鼻の粘膜を刺激する慣れた煙草の臭いが否定する。何も答えない俺を無視して、医者はまた説明に戻った。
「アポトーシスは、貴方の過去の記憶から違和感なく自然に疑似世界を作り出します。 アポトーシスや自殺をしたという事実は、ごく自然に入り組まれ、現実と疑似世界の境を無くします。 そのため、起床後、一時的な記憶の混濁が生じますが、徐々に回復し、日常生活に支障はありません。 説明をご理解出来たら、こちらの書類に期限までにサインしてください。 期限は48時間です」
医者が指さしたのは、自室にあったデスクの裏返しになっていた書類だ。でも、今は、表を向いている。
俺は、ベッドから体を起こし、デスクの前に腰を下ろした。書類には、医者が説明したことがより契約書らしく羅列されている。
「では、ただいまより48時間をカウントします。 こちらのデジタル時計を元にしますので、48時間後の正午までが期限です」
デスク横に置かれたデジタル時計を見てはっとした。時刻はPM12;00――
「今、12時ですか? 俺が、目を覚ました時って何時でした?」
「……正確な時間は分かりかねますが、だいたい5分前ほどでしたよ。 では」
それだけ告げて、医者は俺の自室のような場所から出ていった。
あぁ、あの時――真辺に告白をしたとき、時計はズレていた。
真辺と待ち合わせる朝、全ての行動が5分ズレていたじゃないか。
なんで、俺は――
自殺更生プログラム〈アポトーシス〉とかいうやつは、機械のように嫌らしく正確に命の尊さを実感させた。吐き気がするくらい命の尊さを俺は知った。
自然と真辺の死に涙が出てこなかった。心が追いついていないから、というよりも彼女のような理想的な女性が存在しないという事実に酷く納得している自分がいる。
真辺茉奈のように理想的な女性が俺の恋人だとしたら、きっと悲しませてしまう。自殺願望のある彼氏なんて誰も喜びやしない。
俺は、書類に目を通し、医者の説明では足りない部分を、脳内で補足していった。
・アポトーシスは、2032年8月1日より施行された自殺法に基づく自殺者更生プログラムである。
・自殺未遂者は、自分の記憶から極自然に作られた疑似世界で、命の尊さを学ぶべきと定められている。
・疑似世界で登場した人物、建物などは、原則、現実の物と全く異なるもので、同一な物は存在しない。
・アポトーシス終了後、自殺未遂者が望む場合、基本的人権に基づき、自己判断で安楽死をすることができる。
・この契約書に署名後、何人たりとも改竄、改変することはできない。
書類の内容全てに目を通すと、これら5点が重要と言える。そして、書類の一番下には、名前を署名する欄があり、隣に安楽死の選択欄と見たことのないドナー登録の一文が書いてある。
【私は、安楽死により心臓が停止した死後に限り、移植のために臓器を提供します はい・いいえ】
俺は、書類にサインすることができないでいた。アポトーシスにより作られた世界で、点付筆の涙色を絵画に付けれないときと同じだ。
印刷された「はい」と「いいえ」のどちらかに丸をつけ名前を書くだけで、俺が見ていた理想的な夏は呆気なく終わる。
それに、幼い頃の夢だった画家にもなれず。
記憶の混濁が、ゆっくりと整えられていく。
自分は画家の成りそこないの26歳。高校卒業から全て空回りし続け、バランスを崩した人生というジェンガが、大きな音をたて崩れた。
そんな時に、雑学的な浅い知識として知ったカート・コバーンや太宰治の生涯がやけに輝かしく見え、俺の中で死が主張し始めた。
そうだ、これらを知った時、誰かに初めて「アポトーシス」という言葉を教わった。誰に話したんだっけ……うまく思い出せない。
でも、疑似世界の理想的な出来事ではなく、とてもリアルな感覚がある。手を伸ばせば、確かに掴めるという確信に近い感覚がある。
その時、俺の病室を3回ノックする音が聞こえた。
両親の誰かが部屋に来たと思いドキッとした……ここは俺の部屋ではない。
また扉を3回ノックされる。
ノックの音にしばらく何も答えられないでいた。扉の向こう側の誰かの気配を探っていたのもあるが、何より、その誰かがあえて正体を隠しているように感じたからだ。
引きつった声で「どうぞ」と誰かを招き入れる。
滑りのいい音を立て引き戸が開かれた。
俺のいる部屋は、扉の向こう側より暗いのだろう。光を取り入れようと大きく開いていた瞳孔が、扉から差し込む夏のような日差しを吸い込み目が眩む。
「もう諦めはついた?」
目は、すぐに光に慣れた。けれど、扉の誰かは滲んでいる。俺は、泣いてしまった。ただ声だけを聞いて。
子供が母とはぐれた時のように、初めて飼ったペットが死んでしまった時のように、呼吸を乱しながら咽び泣いた。すぐにでも扉の前に立っているその人を抱きしめ、胸の中で泣きたいと思った。
その人は、部屋の中には入らず、あくまで扉で隔たれた現実の世界で立ち止まっている。
「君は、言ったよね。 あの日、屋上で、劇的な物語の始まりじゃなかったら命を賭けるって」
俺の記憶が鮮明に形作られる。
そうだった、あの日、あの屋上で電話が掛かってきた時、結局、俺達の関係をからかったクラスメイトからのイタズラ電話だった。その時、命を賭けたのは俺だった。
アポトーシスで体験した俺の一人称の世界と感情は、全て現実世界である女性が見て体験した世界なんだ。その女性は、愛する人を失うかもしれない時間を知っている。
彼女は、俺が誰かを失う感情を知っているより、それをリアルに知っている。
「君の命は、私が貰っているんだよ。 勝手に死ぬ事なんて絶対に許さない」
僕は、全ての記憶のパーツがカチリと音を立ててハマっていくのが分かった。その感覚が、酷く理想的で、それを一度は捨てかけた自分に、また涙を流した。
だから、彼女の言葉に鼻を啜りながら「うん」と答えるのがやっとだ。
「私は、君の存在に何度も救われた。 次は、私が君を救う番」
「うん」
「命を玩具みたいに扱わないで、君の命は何よりも美しくて尊い物なんだよ」
「うん」
「ほら、帰ろ」
部屋の向こうから、その人は左手を俺へ差し出した。薬指にはキラリと光るリングがある。
「ごめん、本当に」
俺は、後悔した。愛する者を失う恐怖を知ったからだ。愛する者がいない世界への絶望も全て体験した。
「私は、君の事が大好きで堪らないんだ。 先に遠くに行かないでよ」
俺はこの表情を良く知っている。でも今だけは目元に小さな雫がある。
あぁ、そうか、やっとわかった。俺が疑似世界で描きかけていた絵には、やっぱり涙が必要なんだ。愛する人も家族も友人もいない場所で、天に思いを馳せてしまう理想的な女性が涙を流さないはずがない。
俺は、差し出された彼女の左手をぎゅっと握った。
白くて細い頼りない手は、夏の日差しで溶けてしまいそうだ。でも、今の僕には、傍にいるだけで全てを失わなくてよかったと思える左手だ。
「おかえり」
彼女は、満足そうに目元をクシャリとさせて笑い、そう言った。
アポトーシス 成瀬鳴 @_naruse_
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