第4話 左手の金魚

 終点に辿り着いたときには、時計は午前9時30分を示していた。無人駅を出てすぐの大通りは歩行者天国になっていて、ソースの焦げた匂いと祭囃子が鳴っている。その間を縫うように浴衣を着た人たちの笑顔がある。決して、人でごった返しているわけではない。だからといって、人が全くいないわけでもない。

 いや、僕が、勝手にそう思い込んでいるだけかもしれない。視線を真辺に向ければ、僕の意識から他人の気配は消えて、僕らだけが存在する世界のように感じる。敵も味方もいない、生きている生物は僕と真辺だけの世界――

「私、りんご飴が食べたいな。 姫リンゴを使ったやつじゃない一番大きいやつ」

 真辺が、目元をクシャリとさせて笑う。

 電車の中で声を荒げた自分が馬鹿々々しく思えた。それは、彼女の魅せる笑顔が、死とは遠く離れた輝きを持っているからかもしれない。

「食べきれるのか?」

「2人なら食べきれるよ。 それから焼きそばも食べたいな。 お腹空いちゃった」

 ワンピースの上からお腹を両手でポンポンと叩く。夏に咲く一輪の花には似合わない仕草に、僕も笑みがこぼれた。

 夏休みの1ページを真辺とデートを出来て良かったと心から思った。この幸せが永遠に続いて欲しい。贅沢を言うなら、8月が終わらないで欲しい。

『昼花火大会運営からお知らせです。 昼花火の打ち上げまで、後2時間30分をお知らせします』

 古いラジオのような音質でアナウンスが響いた。祭りを楽しむ人々が、ちらほらと空を見上げアナウンスに耳を澄ます。

 僕も釣られて空を見上げた。祭囃子と被って上手くアナウンスを聞き取れない。その代わりに、青空に浮かぶ大きな積乱雲を見た。この雲を目指してずっと歩き続けたら、大きな街がありそうだ。

 いつか、お伽噺のような誰も見たことのない街に住んでみたい。できることなら、真辺と一緒に。


 大通りの端から端まで続いていた祭り屋台を練り歩き、僕の両手にはソースの匂いが漂う袋が下げてある。どれも真辺が食べたいと言って買った物だ。

 それなのに、真辺の左手には小さな赤い金魚が1匹入った巾着型の袋だけがある。金魚は、ゆらりゆらりと水の中で浮いている。

「お腹減ったね 真辺、どこかに座ろうよ」

「賛成、少し歩き疲れちゃった」

 屋台の並ぶ大通りから逸れて小さなわき道に入る。室外機の上で、欠伸をする三毛猫を通り過ぎ、少し奥に進むと杉の林に囲まれた小さな神社があった。よく観察すると土地が少しだけ傾斜になっている。気づかないうちに大通りが坂になっていて、ここに着く頃には小高い場所になったのだろう。

 僕らは、境内に入る前の石段に腰かける。真辺だけは座る前に「少し休ませてください」と鳥居に一礼した。涼しい風が、杉の木を揺らす。

 屋台で買ったラムネを飲んだ。少し温くなってしまったけれど、喉を爽快に通り抜ける炭酸の刺激は、歩き疲れた体をシャキっとさせる。夢見心地に浮かれていた脳内がクリアになる。腕時計に視線を向けると午前11時30分に丁度なったところだ。

 あと30分で、真辺が死ぬかもしれない。なのに、心は落ち着いていた。昨日のような焦燥感は感じない。

 夏祭りと彼女の笑顔が、死ぬわけない、という言葉を僕の体に自然と馴染ませている。

「私、君の事凄く好き」

 石段の上に座る彼女は、空を見上げながら真っすぐにそう言った。恋愛的な意味なのか、友情的な意味なのかは分からない。

 今まで僕たちは、直接的に好きだと言い合ったことはない。

 だが僕は、この言葉を都合よく捉え答える。

「僕も、真辺が好きだよ」

 彼女と同じ景色を見たくて、僕も空を見上げた。杉の木で覆われていると思った空は、切り抜かれたみたいに、丁度境内の真上を青で染めている。水色の絵具を溶かした水に白の絵具を垂らしたような空は、とても澄んでいて美しい。

 祭囃子が遠くから聞こえて来て、蝉の声がやけに激しく主張する。フェードインするように大きくなる蝉の声は、僕の鼓動によく似ていた。

 僕らは、お互いに何も言わない。ただ夏の音に包まれた静寂で、互いを探っていた。電車の中で怒鳴りつけてしまった後の静寂でもなく、夏休みの美術室に漂う静寂とも違う。

 僕は、この静寂を恋と形容しよう。

 どれくらい経ったかもわからない静寂を最初に優しく揺らしたのは真辺だった。

 とても唐突に、驚くような言葉で――

「キス、してみようか」

 僕が、どんな表情で彼女を見たか分からない。けれど、真辺は、僕の表情を見て口元だけを上げて笑った。

「ほら、キスは好きな人とするべきでしょ。 私も、君もお互いが好き同士ならいいと思うの」

「その理屈だと――」

 照れ隠しのための理屈を話そうとして、真辺に無理やり止められた。彼女の柔らかい感触が、僕のおでこをふんわりとつつく。

 言いかけた言葉の形に開いたままの口からは続きが出なかった。その姿を見て、また真辺が笑う。

「口にすると思った? 残念、おでこでした」

 真辺は、僕が彼女を知っているよりも僕を知っている。

 真辺は、僕が彼女を誰よりも好きで、誰よりも愛していることを知っている。

「あ――」

 彼女が指を指しながら呟いた。

 指の先を目で追うと、それは僕の腕についている時計だ。

 時刻は丁度12時になったところだ。


 PM12:00:00:01――02――03――


 あの電話から48時間を過ぎても、時計は止まらずにミリ秒が忙しなく動き、秒を急かしている。目の前にいる真辺も、確かに心臓が動き呼吸をしている。

「私、生きてる」

 目元をクシャリとさせて彼女は笑った。とても幸せそうに、これからの未来を信じているかのように。

「やっぱり、あれは悪戯だったんだ。 よかった、君が生きていて」

 僕は、1つ心の中で決めていたことがある。真辺が死ぬかもしれないという焦燥感の中で、投げやりの脳が考え出した突飛な思い付きだ。

 彼女が生きていた安心感で、それを思い出す。

 真辺の双眼を真っすぐと捉え、人生一大の言葉を絞り出す。

「真辺、僕は、君が好きだ。 これからも、僕は君の隣に居たい」

 それだけ言い終えて視線を真辺から外した。あまりの恥ずかしさに彼女を見ることができない。きちんとした答えが返ってきたら――僕が、真辺の彼氏になったら顔を見よう。

「――」

 真辺が何か言った気がした。けれど、それを聞き取ることができなかった。鈍い振動が、体の芯から響き渡り、火薬の匂いが立ち込める。

 昼花火が上がった。杉の林を切り取ったような空に赤い煙花火が下に尾を引いている。とても綺麗だと思った。冷やされたアスファルトの匂いと夜道に鳴る下駄の音に咲く夜花ではなく、拍手喝采に思えるほどの蝉の声とラムネのように澄んだ青空に咲く昼花は、何にも代えられない理想が詰まっていた。

 僕が、真辺を愛する理由とよく似ている。

 僕は、真辺の方を見た。花火の音にかき消された真辺の言葉をもう一度聞くためだ。

 彼女を見ると左手に握られていた巾着型の袋が地面に落ち、金魚が飛び出ていた。ピチピチとしばらく跳ねて、やがて動かなくなった。

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