第3話 ズレた時計

 夜明け前5時――僕が目覚めた時間だ。真辺との待ち合わせの時間までは、あと3時間もある。けれど、2度寝をする気にはならない。

 娯楽が何もない無菌室のような自室では、10分が数時間にも感じてしまう。だから、窓を開けた。夜の黒が背を向いて、代わりに白んだ青が滲んでいる。

 日差しに蒸される前の澄んだ空気が心地よかった。結局、台風は、昨日の夜に温帯低気圧に変わり、他人事の空がはにかんでいる。

 真辺は今日死ぬ――正確には、死ぬ可能性がある。それを意識すると胸が、締め付けられるように痛い。ただ、この痛みは純愛によく似ている、と思う。

 あぁ、そうか、僕は真辺が死ぬから苦しいのではなく。真辺を思うから苦しいんだ。

 自分の未来を想像すると、必ず真辺が隣にいる。けれど、死を告げた電話が、想像上の真辺の首を狩っていく。

 僕は、真辺のいない未来が嫌なんだ。彼女が死んでしまうことが、何よりも苦しいんだ。


 夜明け前から起きていたのに、行動が5分ズレてしまった。父から借りたミリ秒カウントの腕時計のせいだ。正確にミリ秒単位で時間を示すのに、時間が5分ズレている。でも、早起きのおかげで、待ち合わせには支障がない。

 朝8時過ぎの電車は不思議と、人の姿がほとんどなかった。夏休みだから学生の姿が無いのは当たり前だが、スーツを着たサラリーマンすらいないのだ。

 居るのは、虫かごを肩から下げた少年とその父親らしき男性だけ。

 でも、僕にとって都合のいい車両だ。真辺とデートをするのに、満員電車は不釣り合いだ。夏に過剰な期待を寄せる少年と好きを伝えない男女は、とても理想的だ。

 車内にしゃがれたアナウンスが、真辺の最寄り駅への到着を告げる。

 車窓から流れるホームを見た。誰もいない、誰もいない、誰もいない、あ――

 無人駅の改札近く、麦わら帽子を被った真辺と目が合った。彼女は、目元をクシャリとさせ微笑みながら手を振っている。

 プシューと音を立てて電車の扉が開いた。そこでやっと、彼女の全身を見れた。

 麦わら帽子に白いワンピース、裾にはぐるりと一周するように小さな青色の花が根を張り巡らせるように刺繍されている。彼女の白く細い全身が、花畑に立つ精霊を僕に思わせた。

「おはよう……変、かな?」

 真辺の声に思わず目をそらす。僕は、無意識のうちに見惚れてしまったようだ。動揺を隠すために「おはよう」と答え。一拍遅れて「似合ってるよ」と答えた。

「……嬉しい」

 隣に座る彼女から爽やかな夏の匂いがした。

 電車が走り出す。とても静かに――何も邪魔をしないよう気を遣うように。

「今日は、どこへ行くか決まってる?」

 真辺の質問にスマホを取り出し答える。

「昼花火っていう花火大会があるんだ。 正午から夜にかけて花火をずっと上げ続けるお祭りなんだって。 今日は、ここに行こう」

 夜明け前に目が覚めてから、今日のデートの予定を立てていた。水族館や動物園、美術館に行くのも考えたが、この「昼花火」のサイトを見つけてしまったら、水族館も動物園も、美術館も、嫌な沈黙を埋めるための愛想笑いのように感じる。

「昼花火って、外が明るくても見えるの?」

「夜の花火みたいに光が見えるわけじゃないよ。 色付きのスモークを打ち上げる彩煙柳さいえんりゅうって花火がメインらしい。 ほら、運動会の前とかに音だけの花火が上がるだろう。 あれも、昼花火の一種なんだってさ。 もちろん、夜は綺麗な打ち上げ花火もあがる」

 真辺は、クスクスと笑う。

「夜の花火見れるかな?」

 彼女の言葉の意味が、普通の意味を含んでいないことは十分に分かる。僕は乱暴に「見えるさ」と言う。

「私、今日死ぬのかな?」

「死なないよ。 死なせない」

「あと数時間の命だね――」

「いい加減にしないか」

 僕は、声を荒げてしまった。彼女が、自分の命を玩具のように扱っているのが悲しかった。彼女が自分の命で遊んでいるような言葉に腹が立った。

「……ごめん。 あの電話を悪戯だと思いたいけれど、笑い飛ばせるほど僕は図太くないんだ。 正直に言うと、真辺が死ぬのは何よりも悲しい」

 真辺の方を見ることができない。膝の上で両手を力いっぱい握りしめ、その一点を見つめる。

 視界に父から借りてきたデジタルの腕時計が入った。時間は、午前8時30分を指し、ミリ秒だけが忙しなく動き、一定のリズムで急かされた秒がカウントされる。

 父のミリ秒まで表示されるデジタル時計が必要だった。彼女が48時間後に死ぬのなら、コンマ数秒すら見逃すことはできない。だから、あえて、この時計を付けてきた。

 ただ、今の状況では、カウントされるミリ秒が、僕を責め立てる。

「ありがとう。 私だって怖いんだ。 もしも、本当に死んだらって考えると……だから、君が笑ってくれれば、本気で冗談だって思える気がしたんだけど。 なんてね、言い訳だよね」

 僕は「ごめん」とだけ答えた。

 その後、僕らはいつものように、冗談を言い合うことはしなかった。窓から見える景色に、小さく感想を言い合い、昼花火をみれる終点まで揺られていた。

 いつの間にか、夏に期待した少年と父親は下車していて、車両には僕らだけになっていた。色褪せたモケット生地の椅子の座り心地が、今だけはしっくりこない。電車の天井で空気を循環させる扇風機の風が肌に当たると少しだけ肌寒い。

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