第2話 黒い渦

 結局、真辺と別れたのは日が暮れて、夏の匂いが冷やされた夜8時過ぎだった。

 僕らの関係は幼馴染である。だが、家が隣同士という訳ではない。真辺の家は、僕の最寄駅から1つ先に行った駅の地域にある。だから、電車で「また明日」を告げたら、僕は1人だ。

「ただいま」

 普通の2階建ての一軒家。母の趣味で、扉はお伽噺に出てくるお家みたいなダークブラウンの木目調。思春期の男子高校生とは、不釣り合いなソレを開けると暖かい温度を感じる夕飯の匂いがした。

「おかりえなさい。 お風呂沸いてるけど、夕飯食べてから入る?」

 キッチンから母の柔らかい声が聞こえた。夏休みに入っても、ほぼ毎日学校に行ってるからか、例年より夏の母が優しく感じる。真辺が夏休みに入っても学校に来る理由が、少し納得できた。

「そうするよ。 今日はカレー?」

 制服を脱ぎ、キッチンへ近づくとスパイスの香りが強くなる。

「お父さんが、会社でトマトをいっぱい貰ってきたからトマトキーマカレー」

 キッチンでは、コトコトと火にかけられた鍋で少し赤みの強いトマトカレーが踊っている。僕は「大盛りにして」といって、リビングへ向かう。

 リビングでは、テレビで野球中継が流れていて、それを父がビールを飲みながら見ていた。

「おかえり、夏休みも学校に行ってるのか」

「うん、まぁね」

 父のおつまみの枝豆を1つ盗み食いしてソファーへ座る。

「彼女との予定は無いのか?」

「別にないし、彼女なんていないよ」

 今日は、早くから晩酌を始めていたのか、ヘラヘラと笑う父が鬱陶しい。

「真辺さん家の茉奈ちゃんとは、どうなんだ?」

「真辺とは、そういうんじゃないし、それに――」

 僕が、真辺に対して神経質になるのは、父も知っている。だから、僕を真辺でからかえばムキになることも知ってる。昔から、これをネタにからかわれ続けている。

 案の定、今日も、僕がムキになって、言葉を続けようとした。その時、それを大盛りのカレーが遮る。

「お父さん、飲み過ぎです。 息子の恋愛に口出す暇があるなら、まずは私にプレゼントでも買ったらどうなんですか?」

 父は「参ったな」と笑いながら、ビールに口を付けた。

 大盛りのカレーをスプーンで山盛りに掬って口へ運ぶ。スパイスの香りとトマトの酸味が、程よく口の中に広がる。よく咀嚼するとバターの香りで口内が幸福で満ちていった。

 柔らかい味の食事をしていると冷静になれる。今日の僕は、自分でも分かりやすいくらい神経質になっている。それは、昼の電話の一件があったからというのは明白だ。

「あのさ、お父さん……」

「ん、なんだ?」

 電話の事を聞こうとした。だが、他人に話そうとすると、途端に馬鹿々々しく感じる。

 自分で、悪質な悪戯だと笑い飛ばせない感覚があるのに、人に話そうとすると馬鹿々々しく感じるのはおかしなことだ。結局、話す気になれなくて「やっぱりいいや」とカレーを頬張った。

 やっぱり、昼の電話が気になる。人に話す気にはなれないが、どうしても自分の中で黒い渦を巻いている。


 夕飯を食べ終え、風呂に入り、さっぱりとした体で冷蔵庫からアイスを1本取り、口に咥えたまま2階の自室へ向かった。自室の扉を開けると朝から閉めっぱなしで閉じ込められていた夏の熱気が、風呂上がりの体に纏わりつく。咥えていたアイスが溶けて、口元を雫が垂れた。

 窓を開けてベッドへ腰かける。何もない部屋に夏の夜の音が入り込んできた。蝉は不安定なバランスで静寂を保ち、その代わりに鈴の音のような虫の声が聞こえる。

 それがパイプベッドとデスクしかないモノトーンな部屋を美しく彩る。

 夏は始まったばかりなのに、終わるのが堪らなく惜しい気持ちになった。

 夏が終わってしまえば、真辺と僕だけの穏やかな平日は無くなるし、学校で彼女と気軽に話せなくなる。それに、デスクの上で裏側で置かれた1枚の書類に手を付けなくてはならない。

 確か、この書類は、推薦入学をする美大に学校側から提出しなければいけない書類だった気がする。ただ書くだけではない。市役所に行って住民票やらも取りに行かなくてはいけない。

 それが面倒で、夏休みが始まってから、わざと裏向きにデスクの上で放置している。

 時計も、本棚も、テレビも、ゲームもない部屋にいると、娯楽は夏の音だけだ。画材1つすら置いていないのだから、夜の時間は有り余ってしまう。けれど、今更、娯楽目的の物を揃える気にはならない。どうせ、あと数か月もすれば、この部屋を出ていき、一人暮らしが始まる。

 その時に、好きなように娯楽の物を揃え、人生を豊かにすればいい。

 遠くない未来に胸を躍らせた。けれど、それを遮るように昼間の事を思い出す。

 ――真辺茉奈は、48時間後に死にます。

 電話越しに告げられた言葉だ。

 僕は、スマホで時間を確認する。夜の11時を過ぎていた。

 確か、あの電話があったのは昼の――正確な時間が思い出せなくて、通話履歴を調べる。非通知からの着信は午後12時00分ちょうどに掛かってきていた。つまり、残された時間は約36時間という訳だ。

 僕は、どうすればいいのだろう――ただの悪戯を真剣に考えるのが時間の無駄であると分かっているのに、やけに本気になってしまう。

 真辺を助けるべきだ。だが、どうやって助ければいい。警察に話すべき……いや、こんな馬鹿げたことを警察が相手にしてくれるはずもない。なら、彼女とずっと一緒に居ればいい。

 いや、待て。これはただの悪戯だ。真剣になるな。

 ずっと長い間、自分と心の中で会話をしていた。彼女を助けるべきだと決意しているが、結局、眠りに着くまで議論していたのは、彼女をどうやって助けるべきか、ではない。

 彼女を助ける根拠についてだった。

 僕は、真辺茉奈についてどうしても神経質になってしまう。


 昨日は、眠りに着くまで随分と長い時間を残された36時間について考え込んでしまった。だからか、いつもより起きるのが遅くなった。

 ロックンロールをイヤホンで聞きながら学校へ向かっている。時刻は午前10時過ぎ、一応、真辺に「寝坊したから、少し遅れる」とメッセージを送った。

 今日は、随分と涼しい。灰色の雲が、ずっと高い場所で早く流れている。心なしか蝉の声が控えめで、今が夕方に近い時間だと錯覚させる。

 両脇を埋め尽くしている田んぼの稲穂が、風で揺れた。イナゴが数匹飛んで、道を挟んだ反対側の田んぼへ飛んでいく。8月の不穏な天気の気配を感じる。

 学校の昇降口に辿り着いても真辺から返信はない。それに今日は、運動部の声が聞こえてこない。いつもは、嫌になるほどの日差しと遠くから聞こえてくる運動部の声が、夏休みの学校を理想的に彩っている。それらが無いだけで、無意味に焦ってしまう恐怖心が肩越しに微笑みかけてくる。

 僕は、一度、後ろを振り返った。そこには、もちろん誰もいない。でも、じっと見つめていたら気づいてはいけないモノに気が付いてしまうような気がして、足早に美術室へと向かう。

 美術室に行けば、机に突っ伏して寝息を立てる真辺がいるはずだ……いるはずだ。


 真辺茉奈は、学校のどこにもいなかった。

 美術室の引き戸を開けると、電気は消え、曇りの灰色を飲み込んだ教室だけが映った。

 いつの日かのように、学校を探索しているのかと思い、校内を歩き回った。だが、鍵を掛け、閉め切られた教室と名前も知らない教員だけがいる職員室があるだけで、彼女の姿はない。

 恐ろしい存在に追いかけられているような焦燥感に襲われ、いつしか心臓の脈拍として現れだした。最後に屋上へ向かう。

 屋上も開けられた痕跡はない。真辺は、この壊れた鍵の扉を開けるのが苦手で、1人の時は、必ず扉の間に何かを挟み、半開きにさせる。

 扉は、何も知らないような面をしている。

 もしも、扉の向こうで、真辺が閉じ込められていればいいのにと思った。

 正直に告白しよう。追いかけられるような焦燥感は、昨日の電話越しに並べられた言葉だ。

 彼女が消えてしまうような不安があるなら、鍵を掛けて彼女を閉じ込めればいいだけだ。

 僕にそんな権利なんてない。嫌われてしまったも、彼女が生きていればいい。それだけでいい。

 僕は、扉を開けた。

 登校していた時よりも、曇天を近くに感じる。屋上から見える名前も知らない山の上では、雨が降っていそうだ。もう少しで、ここにも雨が打ちつける。

 真辺は居ない。夏とは相性の悪い深い影が、嫌味みたいに人型にみえる。

 ポケットからスマホを取り出した。勢い余って手に取ったスマホが、ポロリとすり抜け地面に叩きつけられる。その衝撃で、電源が入り画面が光る。

 時刻は午後12時00分――電話から24時間が経過した。

 スマホを拾い上げて、真辺に電話を掛けた。

 プルルルル、プルルルル、プルルルル――冷たい雫の感覚を頬に得る。

「もしもし?」

 曇天を割いて晴れを見せるような澄んだ声が聞こえてきた。

「今、どこにいるの?」

 電話越しの日常の一片でしかない声色に、声を荒げそうになる。

「どこって、お家だよ。 もしかして、学校にいるの?」

「そうだよ」

 彼女の澄んだ声色に苛立って、声に力が入る。でも、怒鳴りつけた所で無意味なことは、十分に理解している。だから、バレないように小さく深呼吸をして言葉を続けた。

「今日も、学校に来ると思ってたから心配したよ。 ほら、昨日の電話があるだろ」

 彼女は、クスクスと笑った。

「心配してくれるんだね。 ありがとう。 でも、あれは悪戯なんでしょ?」

「あぁ、悪戯だ。 だからといって、用心するに越したことはない」

「君は、私の命のために、涙を流すほど心配してくれるんだね」

「え?」

 思わず疑問符が漏れた。自分の頬に触れると確かに濡れている。てっきり雨だと思ったが、胸を締め付ける感覚と目元に溜まる液体が、雨を否定している。

 僕は、気づかないうちに泣いていた。自然と涙に疑問は無かった。

 お風呂に入った時、膝が沁みて、よく見ると怪我をしていた。その傷の心当たりが、ぼんやりといくつかあった時と同じ感覚だ。

 ただ、この涙の理由が、彼女が生きていた安心感なのか、彼女が消えてしまったかもしれないというさっきまでの不安のどちらだ、と問われると答えられない。

「とにかく、生きていたならそれでいい」

 僕の言葉に、真辺がクスクスと笑った。口角だけをニヤリと上げる種類の笑いだと容易に想像がつく。

「私の命より、自分の命の心配をしなよ。 今日は、午後から台風だってよ」

 普段なら前日の夜には知っているはずの天気予報も、この日だけは目にも入っていなかったようだ。それほどまでに、僕は真辺の死に支配されている。

 そう実感し、悪戯と笑えない自分を確信せざる負えない。

「気づかなかったよ。 僕も、もう帰る」

 そう告げると、お互いに沈黙した。僕が絵を描き、真辺が机に突っ伏しているという沈黙に慣れているはずなのに、これには居心地が悪かった。

 僕は、それが嫌で、思い切った事を言う。

「明日、2人で遠くに出かけよう。 明日は、必ず晴れるから」

 初めて、真辺をデートに誘った。比喩でもなんでもない、純愛のソレだ。初めて好きという物を、直接的な言葉で表現した。

「……嬉しい。 うんとお洒落していくね」

 真辺は、僕が彼女を知っているより僕を知っている。だから、僕からデートの誘いがあるなんて思わなかったのだろう。言葉を選ぶように慎重に、Yesを回りくどく告げた。

 最後にいくつか明日の約束をして電話を切った。夏の蒸し暑さよりも、スマホが熱を持ってしまっていることに、電話を切ってから気づいた。

 僕にとっては、告白よりもデートに誘うことの方が緊張する。僕らは、普通の高校生が告白する前の、お互いの好きを探り合うことをしてこなかった。けれど、特別な意味を持って互いが互いに純愛を静かに向け続けていた。

 真辺は、あくまで僕を同級生の中では特別扱いをしてくれる。

 僕は、真辺のいる世界を特別扱いしている。

 これが、互いの純愛の向け方だ。それが、僕らにとって理想的なの表現だ。

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