第52話「嘘のような現実」



8月12日 金曜日


 熱海旅行最終日。帰る前にもう一度みんなで足湯に浸かった。もうこの旅も終わってしまうと思うと、ずっとこの温もりに足を浸していたかった。志乃さんが僕にくれたカランコエのブローチ。これは毎日学校に付けて持って行きたいな。ずっと志乃さんの優しさをそばに感じられるようで幸せだから。




 でも、まさか同じ日にそんな幸せが長く続かないかとしれないと感じるとは思わなかった。帰りの電車で敷島泰士君と出会った。彼は中学生の頃の志乃さんの元恋人だという。どういう経緯があったのかは知らないけど、突然現れた彼に僕は嫉妬してしまった。


 だって、取られたくないから。好きになったばかりなのに、せっかく仲良くなれたのに、手離したくない。志乃さんのそばにいるのは僕がいい。そう思うのも、僕が志乃さんに恋心を抱いてしまった何よりの証拠なのだろう。僕はいつ死ぬのだろうか。


 死にたくないな……。




     *   *   *




9月2日 土曜日


 昨日、泰士君に対決を申し込んだ。彼の得意とする居合で。わざわざ相手の得意分野で戦おうとするなんて馬鹿だと思われるかもしれないけど、物凄く悔しかった。特技がいっぱいあって、その上容姿端麗で優しい彼の存在が眩しかった。

 僕はちょっと前向きで明るいだけの、他に何の取り柄もない男だ。泰士君のような完璧な人間との勝利は、彼の得意分野で打ち負かすほどのことをしないと、真の強者として、志乃さんの隣に立つ者としてふさわしくない気がした。


 父さんに協力してもらいながら、僕は死に物狂いで稽古した。ただ、仮に勝てなかっとしても、僕はそれでもいいと思う。だって、勝っても負けても、志乃さんを思う気持ちは変わらないから。負けたから志乃さんへの気持ちを諦めるとか、そういう問題ではない。挑むことに意味があると僕は思う。


 だから、せめて志乃さんに精一杯の愛が届くように、僕は僕のできることを全力でやるだけだ。




     *   *   *




9月3日 日曜日


 泰士君との勝負には負けてしまった。その後、トラックに轢かれそうになったところを、間一髪で助かった。初めて死の恐怖を味わった。今まで必死に気持ちを抑え、気付かれまいと努めてきたけど、ついに恐れていた事態が起きてしまった。望まぬ形で志乃さんに思いが伝わってしまった。


 ごめん、志乃さん。あくまで僕達は友達だと、何度も自分に言い聞かせてきたけど駄目だった。やっぱり君を好きになっちゃったみたいだ。




 その後に聞いた志乃さんの過去は衝撃的すぎて、今日記にどう書いたらいいのか迷っている。世の中には残酷なことが溢れかえっている。志乃さんも想像を絶する辛い思いをしてきた。だから、今率直に自分が思っていることを記しておく。




 僕は絶対に生き延びてみせる。志乃さんの呪いが消えても消えなくても、僕はずっと彼女のそばにいる。何があっても絶対にだ!




     *   *   *




9月21日 水曜日


 今日から文化祭! 僕のクラスがやるのは、前から少しずつ計画していたメイド喫茶。家族や友達にメイド姿を見られるのは物凄く恥ずかしい。

 でも、いいこともあった。志乃さんがメイド服を着てくれたのだ。とてつもなく可愛かった。まさにこの世に舞い降りた天使とはこのことだ。ずっと人との関わりを避けてきた最初の彼女の姿から、よくぞここまで成長できた。恋人として誇らしい。


 もっともっと、志乃さんの魅力が多くの人に伝わってくれると嬉しいな。だって、志乃さんは誰よりも優しくて、頭がよくて、綺麗で、可愛くて、最高の女の子なのだから。志乃さんと付き合えてよかった。ずっとずっ~と大好きだよ!




     *   *   *




9月22日 木曜日


 文化祭一日目の翌日のページではあるけど、今日は9月28日、水曜日。今から書くのは後から書き足した内容になる。

 文化祭二日目、銃を持った不審者が文化祭に乱入し、生徒を射殺して徘徊するという大事件が起きた。僕も撃たれて危うく死にかけたけど、何とか生還することができた。泰士君のおかげで犯人である上條は捕まったけど、彼は僕に志乃さんを託して亡くなった。


 僕はここで死んでられない。ずっと志乃さんを守ると誓ったんだ。迫り来る死なんて怖くない。これから先にどんなことが待ち受けようとも、僕は生き延びてみせる。この命をもって証明するんだ。呪いがあっても人を愛してもいいんだと。


 志乃さん、安心して。僕はずっと君のそばにいるからね!




     *   *   *




10月2日 日曜日


 だいぶ体が動くようになってきた。今まで腕が震えて汚かった字も、最近になってようやく安定してきた。長い入院生活は流石に退屈だから、こうして日記を書いていないと落ち着かない。

 姉さんには日記なんか書いてないで休めと言われてるけど、この日記を書き続けることは、僕にとって生きることと同然だ。この日記は僕の生きた軌跡であり、命の証明なのだから。


 志乃さんも何度も何度も見舞いに来てくれて嬉しい。本当にどこまで優しい人なんだろう。改めて志乃さんが僕の恋人であるという事実を噛み締める。贅沢にも程がある。退院したら、目が覚めた時にようやく言えた一言を、毎日飽きるまで言ってあげたい。日記の中でも練習しておこうかな。




 志乃さん、大好きだよ。




 なんてね……(笑)。




     *   *   *




10月19日 水曜日


 ようやく明日で退院だ。志乃さん達が退院お祝いにパーティーを開いてくれるらしい。他でもない志乃さんからの提案だ。僕が退屈しないように、志乃さんは定期的にお見舞いに来てくれた。

 呪いの影響で病院が爆破予告されかけたこともあったな。もちろん僕は生還した。そんな退屈凌ぎの事件が起きたりしたけど、やっぱり志乃さんとベッドで話す時間が一番楽しかった。約一ヶ月の入院生活を無事乗り切った。


 みんなには死ぬのは怖くないと豪語しているけど、正直恐怖は心のどこかに隠れている。それでも、志乃さんの笑顔がこれからいつまでも続くように、僕がそばで支えてあげなくちゃいけない。怖くても頑張って生きなくちゃ。

 何としても呪いを消し去って……いや、消し去ることができなくても、志乃さんを幸せにしてみせる。死に物狂いで生きてみせる。僕が死ぬとしたら、それは寿命を迎えた時だ。それまで僕は、この日記に志乃さんへの思いを書き記す。


 そしてまた、彼女に伝えてあげるんだ。飽きるくらいに何度も何度も。絶対に消えることがない命という名の愛を。




 志乃さん、大好きだよ! これからもずっと、ずっと一緒にいようね!




     *   *   *




 日記はそのページで終わっていた。最後まで読み終えた後に、ようやくページの表面に涙の雫が垂れて湿っていることに気が付いた。

 悲しくて泣いているのか、それとも嬉しくて泣いているのか。たった17年かそこらしか生きていない私には、自分のことながら皆目検討もつかない。数えきれないほどの感情が入り交じり、瞳の中で洪水を起こしている。


「うぅ……ぐっ……」


 ようやく口に出せそうな感情も、喉を通ると言葉どころか嗚咽にしかならない。優樹君という男は、一体私をどこまでおかしくさせれば気が済むのだろうか。お母さんから託された呪いのせいで、まともに人を愛せなくなった私の人生を、彼は丸々と変えてしまった。

 今では私の周りには多くの友達がいて、支えてくれる家族がいて、愛してくれる恋人がいる。彼の日記は私への愛で毎日溢れていた。どれだけ呪いによって傷付けられても、死にかけて怖い体験を重ねても、愛の灯火は消えることなく燃え盛っていた。全ては私の笑顔のためだという。


 優樹君は本当に馬鹿だ。何が「いつか幸せにしてみせる」よ。もう十分幸せだってば……。


「優樹君……優樹君……」


 そんな優しさの度が過ぎる彼だからこそ、世界で一番大切な人である彼だからこそ、私はどうしても願ってしまう。死んでほしくない。もう二度と危ない目に遭ってほしくない。

 きっと彼はこれからも何度の命の危機に瀕して、その度に心も体もボロボロになりながらも生還するのだろう。自分の身を犠牲にして、私のためだけに生きる。死にかけることはあっても、死が確定することは絶対にない。そのことだけは信じられる。


 そんな彼を、この先見守っていくことしかできないなんて、私には耐えられない。いくら彼の愛が呪いの力より何倍も強靭であるとしても、何度も何度も命の危機に襲われながら生きていく彼の運命を、止めることができない自分が不甲斐ない。彼は死んではいけないし、傷付くこともあってはならない。

 だって、彼以上に優しくて、思いやりに溢れた人なんて、もうこの世にはいない。なぜ彼のような誠実で情に満ちた人間が呪いによって苦しまなければならないのか。どうして呪いを消去する手段が存在しないのか。嘆いてもどうしようもない不条理ばかりが、私の胸を深く抉り続ける。


「……」


 私は改めて優樹君の日記の最後の日付のページを撫でる。彼が私のことを心から愛して命を燃やしてくれるように、私も彼のために行動を起こさなければならない。彼がこれ以上悲しい思いを、苦しい思いをしないために、私にできることが何かあるはず。


「優樹君、勝手にごめん……」


 私は勉強机に座り、優樹君が書いた最後の日付の次のページに、シャープペンシルを走らせて文章を書く。彼に送る私の精一杯のメッセージだ。無力な私に残せるものはこれくらいである。

 優樹君、本当にありがとう……私のことを心から愛してくれて。呪われた私をこんなにも思ってくれる人がいるなんて、まさに嘘のような現実だ。結局呪いを消すことができるか最後まで分からなかったけど、この際どうでもいい。心から溢れんばかりの幸せの前では、どんなに強大な絶望も無力だ。


 私は日記を書き終え、静かに閉じた。


「……」


 そしてそのまま、机の引き出しを開けた。






 優樹君、本当に……ごめんね……








「そうですか、幼なじみで結婚……いいものですね」

「えへへ、ありがとうございます」

「どうも……」


 遅れて父さんも退院パーティーにやって来た。不思議と悟さんとの会話が弾んでいる。悟さん……母さんの馴れ初め話をよくうんざりせずに聞けるなぁ。まぁ、自分の好きな人を思う存分自慢したくなる気持ちは、今の僕ならよく分かる。見せびらかしたくなるほど志乃さんは魅力的な人だから。


「それにしても、志乃遅いなぁ」

「トイレ行ったんだよな? もう随分経ってるぞ」

「そういえば、確かに……」


 僕はスマフォを開いて時刻を確認する。さっき志乃さんがトイレに行くと言ってリビングを出てから、もう既に30分近く経過している。食べ過ぎて腹を下している……とは、志乃さんのイメージからして考えたくはないけど。


「ああ、きっと自分の部屋だろう。志乃の奴、疲れたらいつも部屋にこもるからな」


 悟さんが教えてくれた。だいぶ人との関わりに慣れてきた志乃さんだけど、パーティーの騒がしい雰囲気に疲れて休みたくなったのかも。計画したのは彼女本人だけど、だいぶ無理をさせ過ぎたのかもしれない。申し訳ないな。


「これだけ戻ってこねぇとなると、疲れてベッドで寝てるんじゃねぇか?」

「ほな、王子様のキスで起こしてあげんといかんな♪」

「誰が王子様だよ……///」 


 僕はソファから立ち上がり、リビングを出ていく。全く、星羅さんはいつもからかってくるんだから……。常識人らしく呆れていながら、王子様気取りで真っ先に起こしに行く僕も、正直心の中で浮かれている。


「2階のベランダに一番近い部屋が志乃の部屋だ」

「あっ、ありがとうございます」






 コンコン


「志乃さーん、いる?」


 僕は志乃さんの部屋のドアをノックした。流石に女の子の部屋にノック無しで入るのは無礼にも程がある。それにしても、志乃さんの部屋には初めて入るなぁ。どんな部屋なんだろう……ドキドキする……。まぁ、入れてもらえるかどうかは分からないけど。




「志乃さん?」


 おかしいな……返事がない。聞こえなかったのかな? それほど熟睡しているのだろうか。見たところ鍵をかけられる部屋ではないみたいだけど。


「えっと、入るよ?」


 怖いくらいに静かだ。部屋の電気が点いていない。微かに住宅街の街灯の光がカーテン越しに届いているだけだ。本当に寝ているのかな。志乃さんは大丈夫だろうか。僕はゆっくりとドアを開けた。


 志乃さん……?








「志乃……さん……?」















 志乃さんは部屋の真ん中で首を吊って亡くなっていた。


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