願わくば花の下にて

新巻へもん

延元元年洛中にて

「兄者。遅いぞ」

 むしろの上にあぐらをかいた正季がふくべを掲げて見せた。その頭上には淡い桃色の五弁の花が咲き乱れている。

 正季の近くに腰をおろした。

 見上げればたなびく薄雲のような花が薫風に揺れている。

 顔を下げると、おれの顔色をうかがっていた正季はかわらけの杯を無言で突き出した。

 杯を受け取ると正季はふくべを傾け、俺と自らの杯にも酒を満たす。

 一つ頷いてみせ、乳白色の酒をあおった。しばらくお互いに無言で酒を飲み、頭上の桜を見上げる。

 杯を重ねるうちに腹の中の冷え固まったものが溶け、ようやく酔いが体を巡ってくる。

 正季が何度目かに注いだ杯にはらりと花弁が舞い落ちた。

「これは風流じゃな」

 髭の中から白い歯を見せて正季は笑う。そのままぐいと飲み干した。

「そんな柄でもあるまいに」

「何を言うか。兄者。おれとて、それぐらいの風趣は解するぞ。とはいえ、こちらも捨てがたい」

 正季は膳の上にかぶせてあった布を払いのける。

「膳所の鮒をひしおで煮てあるものだそうな。かちぐりもあるぞ。腹が減っては戦はできぬからな」

「そうか」

「何じゃ。兄者らしくもない。そんな塞いだ顔をして、御所で何があった?」

「新田殿の手の者からつなぎがあった。播磨をぬけず手をこまねいておるようじゃ。赤松殿は戦巧者。むべなるかな」

「ちっ。口ほどにもない。坂東武者は戦の仕方を分かっておらん。馬上で矢を射かけるだけが戦ではないぞ。猪武者め。それで埒が明かぬと、兄者に後詰を命じてきたのだな。不甲斐なきお味方の尻ぬぐいか。確かに不本意ではあろう。面白くない顔をしているのはそれが理由か?」

「いや。出陣は命じられておらぬ」

「なんと。早くせぬと足利殿が勢力を盛り返すぞ。一体何を考えておるのだ」

 おれは頭を振る。

「何も考えておらぬよ。殿上人は都の中のことにしか眼中にない。護良親王を追われたときと何も変わっておらぬ」

 思えば、ご親政が大きな綻びを見せ始めたのはその時だった。足利殿と唯一並びえた己の息子を切り捨て保身を図るとは畏れ多いが帝は大局が見えていない。そうまでして足利殿の歓心をかおうとしたが、却って、あの御仁は不信を募らせただけだ。そうだろう。用済みとなれば容赦なく切り捨てる。そんな者を主と仰げば不安にもなろう。

 物思いにふけるおれの耳に正季の声が届く。

「兄者。それではどうなる?」

「いずれ……、そうよな、二月もせぬうちに二つ引き両の旗が東上して押し寄せてくるだろう」

「そうか。で、兄者はどう見る?」

「正季。都を行きかう者がなんと言うておるか知っているか?」

「それがどうした?」

「巷ではな。鍋蓋と窯蓋の戦いと言うておる。今度は窯蓋が勝つとな」

 杯を口に運ぶ手を止めて正季がしばし考え込む。やがて破顔した。

「うまいことを言うな。二つ引き両の足利殿を窯、一つ引き両の新田殿を鍋に見立てたわけじゃな。しかし、口さがない都雀の戯言を兄者は真に受けられるのか?」

「そうだ。民草の見立ては馬鹿に出来ぬぞ。我らが力をつけたはその民草と商いをしたからではないか。商いは銭を生み、銭は人を動かす。その商いの元は各地のことを正しく知ることじゃ。兵書にいう料敵と同じぞ」

「確かに兄者のいうとおりだ。これではわしも坂東武者をあざけることができんな」

「それでな。もう民は御所をもう見限っておるのだ。そして戦にも飽いている。民はな、心根の底では足利殿に期待しているのだよ。それが戯言の真意じゃ。もとより全国の御家人は足利殿に心を寄せておる。人望の薄い新田殿では支えきれまい」

「なるほど。して、新田殿で無理ならば兄者の出番だ。得宗家の三十万にも負けなかった兄者じゃ。足利殿を手玉に取る策の一つか二つはござろう?」

 周囲に巡らした幔幕を見回す。余人はおらぬが声を落とした。

「もちろんある。比叡山に逃れて、京の町に足利殿を引き入れ、琵琶湖の水運を止めるのよ。もう一方の河内からの荷運びは我らの手の内にある。たちまち足利殿の軍は干上がること間違いなし」

「さすがは唐土もろこしの孔明に匹敵すると言われた兄者の智謀じゃ。これなら百戦百勝間違いなし」

 手を打って喜ぶ正季に苦笑を向けると小首をかしげた。

「なんじゃ。わしの言うことがおかしいか?」

「おれの策は負けぬ策よ。それだけでは勝てん。俺が足利殿なら京から引く。そうなれば、この都は火中の栗よ。拾った方が大やけどする」

 かちぐりに手を伸ばして口に含んだ。噛みしめると微かな甘みが広がる。

「それにな。絵に描いた餅は食えん」

「どういうことじゃ?」

「戦が分からぬ殿上人どもが声を揃えておれの策に異を唱えるだろう。帝もな、都落ちは好まれまい。そうなれば、おれにそれを覆す力はない」

「ならばどうする」

「都落ちをがえんじないならば、摂津で迎え撃つしかあるまいよ」

「そうか。わしは兄者にどこまでも従っていくまで。腕が鳴るのう」

 屈託なく正季が笑う。

「勝ち戦の前祝いじゃ。さあさ、今日はとことん飲もうぞ。兄者」

「うむ」

 千早城での苦労話に花を咲かせながら正季は痛飲する。話を合わせながら、脳裏に足利殿の顔が浮かんだ。

 鎌倉を相手にしたときは顔も見たことのない得宗家が相手。必ず勝てるとの当てがあったわけではない。くる日も来る日も明日をも知れぬ苦しい戦いだった。

 足利殿。つかみどころのない源氏の長者には底知れぬものを感じる。

 酔いの回った正季がふくべを差し出した。少し手元がおぼつかない。

「兄者。来年はな。足利殿との戦話を肴に飲もうぞ」

 来年も再びこうして酒を酌み交わせるか? 注がれた酒を見つめ、おれは不安を打ち消すように一気に飲み干した。


-完-

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