香奈枝

七里田発泡

 香奈枝は夢を見ていた。夢の中の香奈枝は母の腕に抱かれ、ウーウーという唸り声をあげることしかできない産まれたばかりの赤子だった。


 『ごめんね。普通に産んであげられなくて……』


 母の涙がぽろぽろと、まるで雨のように香奈枝の顔に落ちてくる。母の涙の理由が分からない香奈枝は泣いている母の顔めがけて必死に腕を伸ばそうとした。赤子の身体は自然と母の存在を求めていた。けれども伸ばした右手が母の頬に届くことはなかった。視界の端に捉えた自分の右手に指が3本しかなかったことに気付き、香奈枝は伸ばしかけていた腕を後ろに引っ込めた。フォークみたいな自分の右手が母を傷つけてしまうような気がして怖かった。


 どうやら人差し指と薬指を母のお腹の中に、忘れてきてしまったらしい。せめて夢の中くらい普通に産まれたかった。


 病室の窓から朝日が差し込んでくる。眩しさのあまり香奈枝は思わず目を細めた。世界が急に狭まり、目に映る何もかもがぼやけて見えてくる。白い天井。窓の外に広がる澄み渡るような青い空。風に膨らんで揺れる白いレースのカーテン。春の暖かな日差しの中に母の輪郭がじわじわと溶け込んで消えていく。


『ごめんね。香奈枝。ほんとうにごめんね……』


 暖かな光が母を連れ去ろうとしている。香奈枝にとってその光は死の象徴で、自分から母を奪い去る忌むべきものでしかなかった。


 ――お母さん待って。私を置いて行かないで。


 香奈枝は頭に思い浮かんだ言葉を何度も口にしようと試みてみるも、喉から絞り出すことができるのは相変わらずウーやアーというような意味のない喃語なんごばかり。伝えたいことは山のようにあるのに何1つ母に伝えることができない。言葉を正しく、自在に操ることができればは母を失わずに済むかもしれないのに。


 香奈枝は知っている。この数日後、母がビルの屋上から飛び降りてしまうことを。そして、それが母との永遠の別れとなるのだ。ずっと後になってから母の自殺の原因が”産後うつ”であると叔父から聞かされた時、香奈枝は悲しみとも怒りともつかない訳の分からない衝動に駆られた。大声で叫んで、世の中に唾を吐いてやりたくなった。それからというもの香奈枝は自分が健康な身体に産まれていれば母は自殺なんてしなかったはずだと激しい罪の意識に苛まれながらこれまで生きてきた。


 もう何度、自分の身体を呪ったことだろう。もう何度、この世の不条理を嘆いたことだろう。どうして私が。何故、私だけが。あの時から疑問符ばかりがちらつく日々を香奈枝は過ごしてきた。


 彼女の母は若くして死んだ。まだ26歳だった。だから彼女にとって母という存在はずっと写真の中の人物でしかなかった。時計の針が止まってしまった決して年を取らない、いつまでも若々しく美しい26歳の女性。どれだけ会いたいと願っても決して会うことのできない家族。


 ずっと会いたかった母が夢の中に現れ。また私を置き去りにするのか。そんなこと絶対に許せない。香奈枝は母を傷つけてでも、この場に縫い留めておきたかった。自分の側にいて欲しかった。もともと私はワガママな性格なのだ。全部欲しがって何が悪い。香奈枝は再び母に向かって醜い右手を伸ばし始める。醜悪な自分の右手が母を傷つけてしまうかもしれない。それでも香奈枝は母に触れたかった。


 そして中指がちょうど触れるか触れないかのところまできたところで香奈枝の夢は突然、終わりを迎えた。

 

 

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