白雪姫の眠りのように

明日葉叶

第1話

 遠浅の海に満月が浮かんでいる。

 僕はどういうわけか素足のままそこに立っていて、どうしようもないくらいの消失感に目を赤くして泣いている。

 欲しいのに、手に入らなかった。

 どうしても僕の人生に必要だったなにかがこの海のどこかに消えてしまったみたいで、途方もなくたたずんでいた。


 遠浅の海を見ていた気がする。

 私を欲しがってくれた誰かが私がいなくなることで泣いていて、私を必要としてくれた存在が私を連れ去る。

 私を欲しいだなんて言ってくれた誰かは、お世辞にも上品とは言えないかもしれないけれど、誰よりも私を欲しがってくれていて……。

 私を必要としている存在は、私を抱えて軽く飛ぶと、ふわりと体が浮いてそのまま遠浅の海が小さくなっていく。

 まだ私を欲しがってくれていた誰かが泣いていて、私の視界にも流れるように私が流した涙が小さくなっていく海に向かって消えていく。


 --夢。

 いつの間にか眠ってしまったことにぞっとした私は、今朝の薬を忘れていたことに気が付く。急いで鞄から薬を取り出して飲むのを、車のルームミラー越しにいつものタクシーの運転手さんに見られてしまう。

 お願いだから父さんには内緒ね。の、笑みを見せると小さくため息をついてくれてひとまずの安堵を浮かべる。

 ルームミラー越しに私が泣いていた証拠が鮮明に映っていて、私は余計に気まずくなる。

 最近見るあの夢、とても昔の出来事のように感じるあの夢を見ると泣きながら目を覚ます。ここ頻繁に起きる出来事だ。


 誰かに涙を流すなんて人生で一度もないくせに、夢の中でそれを体感するなんて何かの欲求不満だとでもいうのか。

 鏡の向こうの僕に問いただしても、答えなんて帰ってくるわけもない。

 何かを欲しがるなんて、あり得ないのに。もう、泣かないと決めたのに。

 明日からの学校生活もあるのにこんな気持ちでは準備もできないと、僕は洗面台の蛇口をひねる。


 夢というものは見てからしばらくは覚えているけれど、この夢に関しては今日ですでに十回は見ているので母国語と同じレベルで頭に定着してしまったらしい。

 部屋着から学生服に着替えていると、傍らの机に置いていた卓上型のカレンダーが4月25日の7時24分を告げた。

 階下ではおばさんがまた朝食の準備をしているのだろう。暖かい食事の匂いが二回の自室にも微かに漏れる。僕は、もう慣れた光景であってほしいと、引き出しから数種類の錠剤をとりだして階段を下りていく。

 四角いテーブルに三人。おじさんとおばさん、そして杏奈が座っていた。ばれないように小さくため息をついて杏奈の隣にそっと座る。

 味噌汁に白米と焼き鮭。健康的で理想的な食事だということはわかっている。叔母さんが早起きして作ってくれたこともわかる。

 でも……。

 東家に引き取られてからというもの、僕は毎度のようにこの光景を目にして同じ行動に甘んじる。

 隣に座る杏奈には気持ち悪いと言われてしまっていて、通学用のシャツの胸ポケットから錠剤を取り出して飲み干そうとする僕を横目でちらりと見やり「……またかよ……」と小言を漏らされる。

 目の前に座る二人も、今日こそは僕が何かを口にするのではないかという期待からか、おじさんは読んでいた朝刊から顔を出して、おばさんは朝の報道番組から視線を僕に移した。

 そして同時に元居た場所に視線を戻す。

 最初は赤子の面倒でも見るかのように、世話を焼いてくれた二人だけれど慣れてくれば野良犬でも見るかのような扱いになる。まぁ、僕がこの家に居つこうとしないのも原因なのかもしれないけれど。

「……無理しなくてもいいのよ」おばさんがぼんやりとした口調で言う。どういう意味だろう……。

「和食は嫌いか? 連君」

「いえ……」

「そうか……」

 毎朝のやり取りで一日の三分の一ほどの体力を使ってしまうんじゃないかって思う。平日ならまだしも、休日なんて想像したくもない。

 隣の席で杏奈が立ち上がる様相をさらした。

「もう行くのか?」

「うん、部活の朝練があるから」

「頑張ってくるのよ」

 よくできた家族だと思うよ。ほんと。上っ面だけの愛情を舐めあって、人間、本当の顔なんてわかりはしないのにって心の何かがほくそえんだ。ばれないようにうつむいた表情で数秒間息を止めてから、僕も席を立った。

「連君は部活はどうなの?」おばさんの質問におじさんも聞き耳を立てるのが目配せでわかった。

「……いえ、まだ検討中で」

「やりたいことがあれば遠慮しないで言ってちょうだいね。杏奈には内緒にしてたけど、本当は息子も欲しかったから」

「はい」精いっぱいの笑顔のつもりの表情を浮かべて、僕は家を出ることにした。


僕が今日から通う高校の通学路。

 港町とは聞いていたけれど、漁港からずいぶん離れた場所に立つ市立の高校には海猫の鳴き声どころか、春にはどこからともなく黄色い花粉が舞い込んではアスファルトを覆うらしい。だから、きっと海辺で男女で仲良く海辺で遊ぶような青臭い習慣もないのだろう。ま、そんなこと考えても僕には関係ないんだけどね。

 僕には欲望なんて存在しないんだから。

 似たような制服を着た僕と同じ背格好の人たちが、同じ目的を持って同じ方角へと歩いていく。

 牧歌的な風景で、まるで今から遠足にでも行くかのようなはしゃぎぶりに、僕は心底あきれていた。

 別にその光景に見とれていたわけではない。強いて言うなら、少なからずとも初登校に緊張していたのかもしれない。

 春の心地いいけだるさにあくびをした時だった。

 いつのまにか、僕の隣に誰かが併走するように歩いていた。

「なーにぼさっと歩いてんだよ。うちのクラスに天使はいないぞぉ」

 その返答に少し間を空けてしまったのは、初対面であるはずの僕に急に話しかけてくる人間がいたことに対する驚きと、彼の顔を見た瞬間、彼も同様に驚きの表情を浮かべていたからだ。

「あ……れ……? 人違い……?」

「みたいですね」

 こう言うときはどういう表情をするのが望ましいのだろうか。そんなことを考えても、きっと僕はまた無表情に笑ってしまっているんだろうけど。

「でも、天使だなんて死に神みたいな存在を信じているんですか」

「天使が、死に神?」

「目には見えない。死んだ人のところに現れる。死に神みたいなものじゃないですか」

「……おもしろい話だな。お前、一年か」

「はい。今日からこの学校にお世話になることになりました」

「そうか、同じクラスだと良いな」

 進行方向前方のそのまた先の人垣で塚原と叫ぶ声がして、「じゃ、またな」と彼は走って行ってしまった。

 

 その様子を友達数人とみていた杏奈と目があったけれど、向こうはその瞬間に目をそらしてしまった。どうやら僕はこの人間関係にも神経をすり減らすことになりそうで、少しだけ面倒な気分になった。

 こんなに空は青いのに、どうして僕の生活は面倒事が多いんだろう。

 そんなことに耽っていると、いつの間にか校門をくぐっていた。

 

 あたりの音は不思議と聞こえはしなかった。

 視界は、僕の隣の無防備な彼女に注がれた。

 この瞬間、僕の世界はふっと息を潜めた。

 舞い落ちる桜の花びらを背景に、隣の席の瀬戸内雪菜は幸せそうな寝顔で机に突っ伏ししていた。

 窓から吹く花の匂いを含んだ風さえ、彼女の眠りの妨げにならない。

 ぱらぱらと彼女の大学ノートだけがめくれていた。

「……天使だ……」つい、小さくつぶやいてしまう。

 意識の外では黒板にチョークが走る音と、それを補足する現文の先生の声がしていた気がするけれど、

「先生、また……。また雪菜がぁぁぁ……!」

 そのうなだれるように泣き崩れる声に、僕は現実に押し戻された。

 その声で緊張の波が波紋のように広がり、5分も立たないうちに瀬戸内雪菜は病院へ搬送された。

 僕は深く安堵した。僕がひた隠しにしている僕の心に潜む薄汚い感情を露見しなかったことに。僕はまだ、無欲で潔癖な人間でいれている。


 真皮性白濁症。この名前を僕は二度聞くことになった。一度目は朝。おじさんが読んでいた新聞の見出しで。二度目は今、瀬戸内雪菜が市内の病院に緊急搬送されてから。

 先天性の病で、具体的な治療方法はまだ確立されていない。初期症状としてあげられるのが眠気と体に生じる白い斑点。これが年齢を重ねると重傷化していく。

 そして最期には二度と起きることのない深い眠りへと落ちてしまう。

 通称白雪姫症候群。初めてこの病気を発見した医師が、いずれ深い眠りにつく自らの子供を不憫に思いこの名前を付けたらしく、その界隈ではこの名前で通るようだ。

 テレビでしか聞かないような難病の存在を肌で感じてしまった教室は、張りつめた空気と不穏に刈られ、口々に何かを喚いている。ざわめきが連鎖的に広がって、やがて小さな騒音の合唱になった瞬間で、担任が二度手を叩いた。

「はいはい、騒がない。騒いだところでなにも変わらない。ひとまず、瀬戸内さんは病院に行ったから」

「これから雪菜はどうなるんですか?」

 僕の真後ろから杏奈が言う。その声は先ほどの泣き崩れた声はすっかり落ちついて、冷静を装っている。

「さっき病院から連絡が入って、しばらくは検査のために入院みたい。落ちついたらまた戻ってくるから大丈夫。ただ、その間の授業に遅れがあるといけないから、誰かにプリントを渡してきて欲しいの」

 誰か。と良いながら視線は自然と僕に注がれる。知らない間にクラス委員とやらになってしまっていた。

 これは単に、クラスの連中が面倒事は極力そのタイミングでいない奴に押しつけてしまおうという邪念による現象だってことは冷たい空気を察すれば分かる。僕は母さんの四十九日で休んでいる間に、人身御供にされてしまった。

「杏奈さんなら病院分かるはずだから、ホームルームが終わったらよろしくね」

 好奇の視線が背後から、いや、クラスの男子から注がれる。

 なにをどうしたらそんなにうらやましく思うのか、僕にはさっぱり分からないし、めんどくさいだけなのに。

 僕はその日何度目かのため息をついた。


「ちょっと待ってって」

 市立病院を目前に、別に杏奈を待つ必要はない。

「もしかして怒ってる? 勝手にクラス委員にしたこと」

「別に」

「じゃあどうしてそんなに怒ってるの?」

 僕はその質問には答えなかった。

「……もしかして、まだおばさんのこと気にしているの……?」

 病院までの坂道は軽く息が切れるほど急だけど、アーチが組まれているかのごとく誇張して咲く歩道に植えられた桜は、入院している患者たちに対してのせめてもの慰めに見えなくもない。

 僕はその日も何度目かのため息をついた。

「別に……」

 桜の花びらの絨毯を蹴散らして、病院までの道のりを闊歩した。


 さくっと挨拶をすませてプリントを渡したら、そのまま帰る。そう言えば、市立図書館から借りていた数冊の小説の返却期間が迫っていたから返さないと。

 なんて牧歌的で、楽観的な考えを持っていた。

 僕が欲しいと願う物なんて、手には入りっこないのは分かり切っているはずなのに、僕は期待をしてしまった。

 平穏に、早急にお見舞いなんて終わるだろうと。

 その僕の理想的な幻想を打ち砕いてくれたのは、瀬戸内雪菜の名前を聞くなり、とても嫌そうな顔をした看護婦だった。

 前に一度来たことがあるなんて杏奈は言ってたけれど、その病室には瀬戸内雪菜なんて名前はなくて、仕方なく素直にナースステーションに訪れていた。

「あぁ、瀬戸内さん? 部屋が変わって、三階になります。エレベーター上ってすぐだから」

 夜勤が続いているのか、嫌そうというより、疲労と倦怠感がにじみ出ている顔だった。

 僕と杏奈は礼を言い、その場から離れようと踵を返した。

「君たち、瀬戸内さんのクラスメイトか何か?」

 声の主はさっきの疲れ切った看護婦で、僕たちはその声に釘を打たれたように止まり、振り返る。

「伝えておいて欲しいんだけど、これ以上私たちをからかうのは止めてくださいって。私たちもあなたの悪い冗談につきあうほど暇じゃないって」看護婦はそう言うと手のひらをひらひらとさせて、僕と杏奈を追い出すような仕草をした。

 一瞬だけ間があいたと思う。

 次の瞬間、僕の体は真後ろに力強く引かれて、そのまま散歩の終了を嫌う犬のように引きずられる形で、向かいのエレベーターまで向かった。

 どう言うことか、事態は逼迫しているらしい。

「雪菜、マズいかも」

 意味が分からずきょとんとしている僕に、目の前の杏奈は髪をかきむしって深いため息をついた。

「まぁ、分からないか……。学校だって今日からだもんね」

「いったい何の話?」

 東は、入ってすぐに「閉」のボタンを連打した。危うく挟まりかけた僕が抗議の意を唱えようと口を開くも、立っていた場所が悪かったらしく「どいて」と一蹴され、杏奈は僕を突き飛ばして「3」のボタンを連打した。

「雪菜はねぇ……」

 凄むような視線がしたから覗いた。「説明してやるからちゃんと聞け」みたいな視線。だけど、同時に僕らが乗っていたエレベーターが小さく揺れた。階数を表示するところを見るとどうやら二階で止められたようだった。

 ドアが開いて、年輩の女性が乗ってきた。多分誰かのお見舞いだろう。手には大きな鞄がある。

 その年輩の女性を気遣ってか、杏奈は視線を逸らして一言。

「ひとまず全力で雪菜を探すの。いい?」

 承諾以外の選択肢がないパターンの脅迫めいた質問に、僕は少しながら嫌悪感を感じた。何だって僕がそんなことをしないといけないのか。よく分からないけれど、早いところ切り上げて家に帰って小説でも読みたかった。

 三階へ着くや否や、年配の女性をすり抜けて、廊下を早歩きで移動する。ここは新しくできた病院なんだろう。窓からは健康的な日光の光がどこまでも続いいていた。

 本当にエレベーターを降りてすぐだった。目の前の部屋がそれらしく、入室者を表示するタグに瀬戸内雪菜と書かれていた。

 躊躇なく扉を開ける杏奈を僕は背後から見ていた。杏奈をというより、その先の光景を。僕はこの年頃の女の子に弱い。正直どう扱えばいいのか、分からない。

 部屋の中は、五月の風が流れていて、かすかに花の匂いがした。

 開け放たれた窓からカーテンが揺れている以外は、動く物体はなく、もぬけの殻という言葉に相応しいくらい人気がなかった。

 僕らはそれでも部屋の中に入っていって、ベッドに丁寧に畳まれた部屋着に互いに目をむいた。

「私は、一階から探してくるからあんたは三階よろしく」

 その状況にはじけるように出ていくあんなを僕は目で追っていた。

「ぼさっとしない! さっさと動く!」

 怒鳴られて僕はようやくことの重大さに気づく。行動に移したのはそのさらに数秒遅れてからなのだけど。

 よくある話かどうか。こういう行動をする病人というのは何かと面倒ごとを起こす傾向がある。これは僕の経験上の話ではない。唯一僕が自らの業を許している小説に書かれていたことだ。僕はその世界に住んでいて、それ以外の話に興味はない。

 一応、病室は出ていく。探すふりくらいはしないと怒鳴られかねないからね。そっと、ゆっくり引き戸の扉を閉める。別に怪しいものではないれど、なんだかそうしないと僕が他人を心配しているみたいで内臓を持ち上げられるみたいに居心地が悪かった。

 正面には先ほど杏奈が乗って降りて行ったであろうエレベーターが。その右手にはオレンジ色の光が差し込む窓があって、向こうではこの病院の患者と思われるおじさんが数人たむろしている。

 やけにきれいな夕日だった。まるで油絵で塗りたくった名画みたいに僕には見えた。

 思うより先に、そこに通じるドアを探し、ほどなくして僕はそれを発見する。

 ドアを開けると一気に季節の空気に包まれた。花の匂い、湿った風。僕の通う高校よりは幾分か町にあるにも関わらず、喧騒から離れたその雰囲気が息を吸う度に身に染みる。

 僕がもう少し大人ならたばこの一本くらいは吸っているかもしれない。

 日本という国がもう少し医療が発達する前、結核患者は皆、人里離れた高台に作られた施設に搬送されたそうだ。自然の空気が肺にはいいと、単純な考えからだろうけれど、目の前に広がる光景は何か医学を超えた療法を感じずにはいられなかった。

 病院という重苦しいはずの場所にこんなところがあるなんて。

 さっきはおじさんたちしか見受けられなかったけれど、そのほかにもちらほらともうけられたベンチに座って談笑をしている患者さん。治療を受けに来ているとは思えないほどにのびのびしている。

 勤務している看護師に対する与太話に花を咲かせるおじさんたちを横目に、僕は吸い込まれるようにその先のフェンスに向かう。僕が生きるこの世界と、母さんがいる向こうの世界。断崖とどこまでも続く平地を隔てるフェンスはその世界の境目にも思えて、触れずにはいられなかった。

 軽い金属音が耳に触った。どうやら僕が思っていた以上にこの境目は脆くて、少し力を加えただけでも壊れてしまうらしい。

 なんて、少し感傷に浸っていた瞬間、僕から見て右手のシーツの群れが風にめくれて、下からわずかに足のようなものが見えた。

 本来の任務を思い出してしまった僕は、少し面倒な気持ちになりながらもシーツを捲ってその足の持ち主の近くまで行くことにした。

 数枚のシーツの旗をくぐってようやく、彼女を目の前にとらえて僕は目を丸くした。

「何、やってるの?」

 普段僕は声のトーンを落としている。そのせいか僕の声はフェンスの向こう側に立つ彼女には届かなかったらしい。

 華奢で線の細い体の彼女は、風に黒髪をなびかせていた。

「何やってるの?」

「誰?」

 ようやくとどいた僕の声に彼女は振り向かなかった。

「君、瀬戸内さんでしょ? 隣の席の……」

「あぁ、転校生君か。何の用?」

「そう。宿題がでたんだ」

 西日は彼女の向こう側で輝いていて、彼女の輪郭は淡く光を帯びていた。涙に見える顔の滴も、風に流れる柔らかな髪も。余命いくばくもないという事実がそうさせているのかもしれないけれど、僕には彼女が少し鮮麗に見えてしまった。

「どうせ」

 風が一段と強く吹いて、僕の耳をふさいだせいで、彼女がそう言った気がした。

「誰かに頼まれたんでしょ?」

「僕の意思で来た。頼まれたわけじゃないよ」

 死にぞこないの彼女に、僕はせめてものやさしさで嘘をついた。まぁ、話を円滑に進めるための口上ってやつで仕方なく。

「とりあえず、そんなところにいたら看護婦さんに怒られるからこっちに来なよ」

 一歩踏みよって、フェンスを掴んだ。例の音が脳内に響いた。

「看護婦なんてみんな仕事でやってる。別に誰にも私は必要とされてない」

 僕は、言葉に詰まった。

 今までの人生も、僕が知る限り代用ばかりだった。もちろん僕だって誰かの何かの代用品かもしれない。誰しも必ず誰かの人生において必要な人間とは限らない。その考えが頭に住み着いて離れなかった。

「ほら、やっぱりそう」

「いいから、早くしないと僕まで怒られるから」

「こういう時に自分のことを考えるなんて、最低だね。ほんと、私の最期をみとるのが君みたいなろくでもない人間とはね」

 話ながら死へのふちを歩く彼女は、自由だった。まるで今から死ぬというのにそれを恐れていないかのように。

 見とれていた。なんて認めたくはないけれど、僕の体はそこからなぜか動けなかった。


「何やってんの!!」


 罵声とも怒声とも取れない声と同時に僕の両脇から襲うように数人の看護婦がフェンスに突撃していった。

「さよなら」

 僕の視界から彼女が倒れこむように消えていく……。


 かくして僕は自殺を止めることはできなかったはずだった。

 いくら弁明してもこの事実には疑いようがない。

 予想外だったのは、とうの彼女に死ぬ気はなく、フェンスに体を紐で固定していたこと。

 だからこうして日没してもなお、杏奈にこっぴどく怒られてしまっている。

「なんていうか、意思が弱いっていうか……。なんで私が看護婦に怒られなきゃならないのよ」

「そんなことは本人に言ってよ」

「ていうか、なんでこんな時にも笑っているの?!」

「仕方ないでしょ……癖なんだから」

 当の本人は、自らが計画して実行した趣味の悪い悪戯が成功したことに喜んでいるのか、僕が怒られている姿がそんなに面白いのか、一人でベッドで笑い転げいていた。

 これがさっきまで自殺をしようとしていた人間か……?

「雪菜も! みんな心配してるんだからね! 金輪際こんなことしないで」

「大丈夫大丈夫、ただの練習だから。死ぬ気はないって」

「本当に死んじゃったらどうするの?!」

 さんざん怒鳴り散らした杏奈は、なんだか途方に暮れた浮遊者みたいに頭を抱えて「とりあえず無事で何より……、あんたら何か飲み物飲む?」と提案してきた。四月にしては気温が高いように感じた。僕も咽喉は乾いていたんだけどつい、「別に」と断ってしまった。

「はいはい、ミネラルウォーターね。雪菜は? 午後ティーだっけ?」と杏奈は瀬戸内さんに承諾を得ないまま財布を確認すると、そそくさと病室を出て行ってしまった。

「なんてことしてくれたんだ」

 迷惑だなんてとんでもない。とは思いつつ、つい悪態が出てしまった。だってそうだろ? 僕は別に見殺しにはしてないのに、見殺しにしたみたいな空気になってしまった。

「何の話? 君が私を殺した話?」

 どうやら彼女は僕にとっては面倒な人間らしい。そして、僕をどうにかしようと企んでいるらしい。いたずらに微笑む表情からありありと読み取れる。

「別に殺してなんかいないだろう。そうやって現に生きている」

「そう見える? こう見えて入院歴が長くてさ、またそれが続くと思うとつくづく生きた心地はしないよ。だからさ、手伝ってよ」

「何を?」

「死ぬ練習」

 以前緩い表情を崩さない彼女を見て、ばかげた話をと僕は取り合うつもりはなかった。そろそろ杏奈が近くの売店から何かを買ってくるころだろうけれど、プリントを渡した今、僕にはこの病院にようはない。

 小さく手を横に振ることと、視線を外して鞄を掴んで病室を出ようとすることで、手伝う意思はないことを体現しようと鞄を探した。だけど、僕より先に僕の鞄を取り上げたのは瀬戸内雪菜だった。

「しかしさぁ、この鞄何年使ってるの? 穴まで開いてるよ?」

「返してもらえるかな? その鞄はまだ使えるし、大切なものなんだ」

 通学に使うための鞄は学校指定がなくて、今まで使っていたものを流用していた。目立たない色をしていて、少々穴が開いても穴の先の暗闇と、鞄の色が同化してわかりにくい。

「誰かにもらったとか何か思い出でも?」

「別に、ただまだ使えるから使うだけだよ」

「だったら買いなおそうよ。欲しくないの? あ、センスないとか? 私が選んであげようか?」

 欲しい? 冗談じゃない。

「要らない」

 そんなつもりはない。でも、無意識に語気が強く出てしまったらしく、不穏な表情に顔を曇らせる彼女に僕はひとこと詫びた。

 一呼吸ほど、沈黙が下りた。その間に僕の頭は静かに流れるように、ある事柄について逡巡していた。

 僕のことについて話すべきか、否か。

 話したところで、何か僕にとって利点があるのか。いや、そもそも話さなかったところで、何かまずいことでもあるのか。

 その考えがちょうど脳内を三周巡った時点で、僕は彼女についさっき謝ってしまったことを思い出して「僕には」と口火を切ることにした。

「欲がない。欲しがったところで、手に入ることは少ないからね。望んだ現実が結末になることは僕にはないよ」

「あきらめてるんだ。自分を」

「悟りの境地って言ってもらっていい?」

 瞬時に三つのことが同時に起きた。

 まず、ドアが開いて杏奈が入室してきた。そう思うのと同時に「ごめーん雪菜、午後ティーなかっ」という声がして僕は豪快にミネラルウォーターを頭からかぶることになった。

 言った通りだろう? 僕の望んだ結末にはならないんだよ。この世界は。


「あっはっはっは、何それ。本当に不運な人。面白い、面白すぎぃぃ……」


 笑いながら息が萎んでいったようで、ベッドに座っていた瀬戸内雪菜は、おなかを抱えたまま身をよじって笑っている。そしてそのままベッドに顔を沈めた。

 あっけにとられる僕と、バツの悪そうに僕を見る杏奈。そしてひとしきり笑い終えた瀬戸内雪菜は結構なわがままを僕に言ってきた。

「来週に退院するから、その次の週に駅に集合ね。私を殺そうとしたんだからそれぐらいの責任はとってね、それと、服装どうにかしてきて。いや、私が選んであげるよ。時間は十時」

タイミングを計ったように、通りかかった看護婦が面会時間の終了を告げてきた。どこかめんどくさそうな物言いに、半ば強制的に病室を後にすることになってしまった。


 音は聞こえない。

 映像のみが、古い8ミリのフィルムを映写機で投影しているかのようなコマ送りで流れる。

 空腹で目が覚めたのか、脇腹に深く沈んだ痛みで起きたのかわからない。ただ、ぼくは生きたいという本能で右手を伸ばす。その先にはさっき作ったばかりの塩握りがさらに一つ。気づけば、猛烈に腹が空いていた。磨りガラスから刺す西日が視界に入っては僕を妨害した。

 それともう一つ。僕を妨害する白い腕。

 僕はどうしても自分の空腹を満たしたかった。

 だから、その腕がなんだろうとはねのけて、


「っ…………!」


 いつものことだ。いつもこの夢はその先のことを印象付けるために、僕にその先の出来事を見せない。

 その先の出来事なら知っている。そう認めて生きて行けばいいんだろう? わかってるさ。でも……。この苦しみだけはどうにもならない。

 毎晩三時にこの夢でうなされる。その時々によって状況に差異はあれど、たいていの場合は胸を掻きむしる。いっそそのまま喉でも掻っ切ってくれれば、楽になれるのにとなんども思った。

 冷汗が全身からとめどなくあふれるせいか、夏でもないのに渇きがひどい。

 呼吸を落ち着かせる。どうせこの呪いから解放されることがないのなら、僕はこの時間にうなされることを望む。誰にも気づかれることのない暗闇で、僕はもがきたい。

 そっと部屋を出て、隣の部屋の杏奈が寝ていることを気配で察してから階下に降りる。もちろん、東家の人間に気づかれることのないように忍び足で。

 階下は死んだように暗い空気で満ちていた。叔父さんも、叔母さんもそれぞれの部屋で寝ているに違いない。これで安心して水が飲める。たとえ水道水といえど、何かを欲しているしぐさを誰かに認められるのは心底不快だった。欲しかったのか。そう思われるのが、人間として、葉月連として、いや……、葉月を名乗れた人間として、その資格を侮辱されているような気がしてその場にいたたまれない気がする。

 暗闇を壁を伝いながら洗面台へ。照明の紐を引っ張り、明かりをつける。

 明滅する光。その中に、青ざめた死人が映りこむ。まるで、地獄でも見てきたかのような顔。まるで、地獄の餓鬼のような。欲深い、浅ましい咎人。

 瞬間、夢の続きがフラッシュバックする。

 僕が弾き飛ばした腕の先に、母さんがいた。横たわる母さんは、すでにこと切れていた。

 僕は、僕は、僕は僕は僕は僕は僕は僕は僕は……!!!!


 汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い

 

 それで何が流れ落ちるわけでもないのに、そうしていないと気が狂いそうになる。

 冷たい流水にただひたすらに手を浸し、何かをそぐように洗う。何度も、何度も。

 落ちるように、落とせるように。自分が犯した過ちを。流せるはずもない見えない血を。

 石鹸をつけて洗い、水を流し、さらに石鹸をつける。

 狂人じみていると、自分でもよくわかる。

 でも、そうでもしないと本当に狂人になってしまう。

 明滅する蛍光灯の音が僕を現実に巻き戻す。

 明日、僕は知らない女の子とどこかに行く。

 どういうわけか、自殺を止めることができなかった女の子と。

 見とれていた? まさかね。

 見上げる鏡には、飛沫が飛び散った青白い顔が阿保のように口を開いてこちらを見ていた。


 一か月で時計をみる回数の平均というものを僕は知らないけれど、この二日の間で僕はそれを消化したのではないかと思う。

 昨日は時間通りにきた瀬戸内さんは、僕の服装を見るなり僕を服屋へと拉致してはそれを着ることになる僕より熱心に店員ともめていた。やれこれはもう前に出回っているデザインのものでこの価格はおかしいだの、やれこのブランドは偽物ではないのかだの。

 そのたびに店員は、口の端を引きつり上げて、僕に救助を要請する目を僕に投げてきた。

 僕は一応助けるつもりで口をはさんでみたものの、「こういうのは普通は日ごろから自分で気を使っておくもんだろ」と一喝されてしまって僕は引きずり出されるようにその店を後にすることになった。

 二件目。僕は黙って彼女の後に付いた。

 どうやら彼女は血の気が引いたようで僕に似合うという服を選んでくれた。その際の支払いはもちろん僕のだけれど、しれっと女の子が着るような服も混じっていたことに僕は口をはさむことはなかった。驚いたけど、今回だけだろうと多めに見てあげることにした。

 そうこうしている間に夕方になって、僕はその日の目的の一つのスマホを手に入れることになった。

 彼女曰く「このご時世にスマホの一台ももっていないなんてありえない」らしく、またもや店内に引っ張られてはいっていくことになる。

 でも、僕らはまだ学生で、親の証明なしには買うことはできないと告げられると「なに安心してるんだよ」と脇腹をどつかれて、僕は苦悶にもだえた。古傷が痛む、といったほうが適当かもしれない。

 解放される高揚感ととりあえず一日のミッションを完了したことに対する達成感で、斜陽する街の風景に身を投げ出したはずなのに、そこをたまたま通りかかってしまった叔父さんとおばさんに見つかり、無事に親の証明を獲得してしまったので、買ったその場でせいせいしたという顔の彼女と連絡先を交換することになってしまう。

 名前はなんと登録しといてやろうと自室で数分事案した結果、名前で登録するのはなんだか胃に悪いので、嫌味を込めてかぐや姫とすることにした。

 白雪姫症候群を患うかぐや姫なんて紛らわしいけど、セミロングにした黒髪はいつも艶やかだったし僕に対しての態度も公達から宝石をせしめる様を連想させたので僕の中ではしっくりきた。


 そんなかぐや姫は大幅に遅刻してきたくせに「じゃあ、今日は」と間延びしたセリフを吐きながらくるりと回転して見せる。

 それでも禊は今日で終了なのだからと僕は自らに慰めの言葉を心の中で送る。

 どうやら今日は何かの買い物ではないらしく、LINEで昨日買ってきたものの中で動きやすい服装を選んで着てくるようにと伝令が来たのでさほど考えることもしないで最初に手に取ったチノパンとシャツを着てきた。

 足のつま先から髪の一本まで食い入るように点検をされて「よし!」と二人で歩き出したのはついさっき。

「今日はね、最高に気持ちのいいことをしようよ」

「ボランティアにでも興味があるの?」

「んなわけないでしょ。私はテイクは好きだけどギブは嫌いなの。まぁ、楽しみにしててよ。二人にしかできない最高に気持ちのいいことを体験させてあげるからさ」

 何とも要領の得ない回答だけど、その気持ちのいいことをするには電車で移動をしなくてはならないらしかった。


 彼女が言う気持ちのいいことは、どうやら心臓に悪いらしい。

「こういうの初めて? 私久しぶりだけど緊張しちゃう」

 彼女が言う気持ちのいいことはどうやら僕ら以外にもやりにくる人たちがいるらしい。

「今日は平日なのに家族連れがいるね。まぁ去年までどこにも行けなかったからね」

 彼女が言う気持ちのいいことは、どうやら公の場でしかできないことらしい。


 着実に頂上に向かってきた僕たちの乗り物は、目的地に着くと嫌な静けさをもって制止した。


 溜息なんてつく余裕なんて、僕には。

「行くよ。ここの名物なんだってこのジェットコースター」

 物音とと同時に安全バーをぎゅっと握る。同時に加速したトロッコは、音を置き去りに景色を後方へ吹き飛ばしていく。

「きゃー!!!!! っでも楽しいーーーー!!!!」

 いつしか彼女が天使に見えた日があった気がする。そしてそれが死神に近い要素を持っていると塚原にも話した気がした。やはり、天使は死神に近い。

 大きな円をくるりと回る。実際はかわいらしい比喩なんて嘘のように、現実的な暴力をもって僕の臓物をかき乱す。それまでは何とか意識を保っていられたから、周囲の家族連れの断末魔もよく聞こえたし、隣の彼女の様子も感じ取れていた。

「お、まだまだ耐えられているな。だけど、あともう一周あるから」なんて風が連れてきた冗談がどんどん後方に流れていく景色と混ざって消えた。そして、その言葉を最後に僕は遥か彼方への旅路に出ていくことになった。


 首筋に氷のような冷たさを感じて飛び起きる。

「だらしないなぁ。あれぐらいで気を失うなんて今までどうやって暮らしてきたの?」

 自分が今、どういう状況に置かれているのか把握するのに数舜。あれからどれほどの時間僕は遥かなる旅路に身を投じていたのか察するのにさらに数舜時間を要した。

 目の前でいたずらに笑う瀬戸内さんの後方には、母親と思しき女性に手を握られた子供が赤い風船をもって歩いている。その情報に時計。時刻は13時を過ぎていた。僕はどうやらあれから10分近く現実世界から離れていたようだ。

「びっくりしたんだからね。ゆすっても起きないんだもん。係の人に手伝ってもらって医務室に連れて行ったんだけど、熱中症の人がベッド使ってて、そのうち起きるだろうって私が保護者みたいなかっこでまたここまで連れてきてもらったの」

 なるほどね、そういう事か。それなら合点がいく。と、視線をわずかに下におろした。

「あー、心配したらおなかすいた。ご飯ご飯」

 ぞっとした。背筋に冷たいものが滝のように流れ、体が凍り付いたように動くのをやめたようだった。

「早く食べないと閉演になっちゃうよ。 まだまだ乗りたいものあるんだから。気持ちよかったでしょ? 死ぬ瞬間ってアドレナリンが大量に脳内に分泌されるから気持ちがいいんだって……ってどうしたの? 嫌い?」

 きれいに並べられた脂滴る肉は、食べてしまえば本当に頬が落ちることをイメージで来たし、この快晴の下に映えるみずみずしい色とりどりの野菜に体は歓喜しているようだった。

 でも、僕にとって大事なことはそれら味や栄養素に関してのことではない。

 きょとんとした表情で僕を見つめる彼女は、僕に構うことなく、一口ぱくりと肉を食らう。

 食べなくては、と体に命令をする。ナイフを持て、フォークを掴めと。

「食べるなら早く。次はバンジー行くんだから」

 震える手は、僕の口に甘ったるいにおいの肉を運ぶ。その距離が近づくにつれて、心拍数が上がっていくのが僕自身わかる。肉を欲している体は歓喜に震えているはずで、その肉そのものもきっと相当おいしいのも僕はわかっているはずなのに。

 感じていた寒気は一気に全身を駆け巡り、僕は持っていた食器を豪快に落とすことになった。

 心配して声をかけてくれた重病人の存在で気が付いたのが先か、それに気が付いた店員が先かわからない。

 寒かった。

 何かを人前で食べようとしている僕が。

 怖かった。

 何かを欲してまた何かをなくしてしまうんじゃないかって恐怖が。

「……ごめん」と謝る僕は、またしても失態を犯してしまう。

 鞄にストックしておいた錠剤を瀬戸内さんの前で開封してしまう。いつのもの流れなのでなんのけなしに開けてしまったので、瀬戸内さんの視線に気づくのが遅れた。

「連君も薬飲んでるんだ。私と一緒だね。なんの薬?」

「……これしか食べれないんだ。食欲がないとかじゃないんだけど、どうしてもこれしか咽喉が通らなくて」

 死ぬような体験をしたからといって僕はまだ死んだわけではないらしく、その閊えた言葉をようやく吐き出したとき、僕の体温が徐々に上がっていくのがわかった。

「謝ることないよ。誰にも好き嫌いはあるから。私なんてね、小さいころから牛乳が飲めなくてさぁ。だからかなぁ、いまだに身長が伸び悩むのは」

「そうじゃない、だめなんだ。食べるって行為が」

「じゃあ、さ。練習しようよ」

 東家にその僕の体質を話したときは、あきらめてくれた。そのうち治ると。それまで待っててあげると。だから、僕は彼女に関してもどうせ今日までの関係なのだからそれで許してくれるとばかり思っていた。

「そりゃ、最初から肉を食えとか言わないよ? そうだね、最初は癖のない野菜からでも行こうか。本当は食べたいんでしょ? だったら少しでもその方向へ向かわないと。人生損でしょ。意外と人生短いんだから」

 グルメ番組でも見ているかのような満面の笑みで「おいしいーー」と顔のパーツを中心に集める彼女。

 幸せそうだった。そうやって僕も感情を前面に出せたらいいのにとさえ思ってしまった。

「大丈夫。そのための練習だから。連君も食べれるようになるよ。私も、いつかちゃんと死ねるようになるんだから。あ、そうだ」

 ポーチからスマホを取り出した瀬戸内さんは見事な指さばきで誰かにメッセージを送っているようだった。

「あー、来た来た。杏奈、なんだかんだ言って食いつきが速いんだから」見せられる画面に僕は力が抜けていくのを感じた。

「今月末、三人でここに来ようね。それまでに、連君が好き嫌いなくなるようにしてあげるから」

「あ、でもリハビリがてら何が食べたいかは自分で決めてね。そうと決まれば、ホレホレ」

 僕に拒否権はないらしく、死神によく似た天使は僕にスマホを出すように催促をして、勝手に予定を入れだした。


 今日も授業に集中できない時間が続いている。

 鼻に突く女の子らしいいい匂い。やわらかくてほのかに甘いにおいが、風に乗って隣からやってくる。

 甘いにおいの出所は、済ました顔で黒板を眺めているようだけれど。

「皆さんには何か犠牲にしてでも成し遂げたい願い事はありますか」

 黒板には白く細い線で竹取物語の貴族の名前が列挙されていて、この話がいたく気に入っている古典の先生の小ネタなんかも書かれている。

 誰がどういった経緯で何を貢いだのか。当時の文献まで調べ上げた上に先生の考察も深緑の板の上に乗っていた。一応授業なのでそれらの内容をノートに書き記す。退屈な授業の重要な暇つぶし。

 そんな中唐突に放たれた端的で浅ましい人間の黒い部分を集めたようなセリフに教室は静まり返った。

 何かを犠牲にしてまで欲しいものはあるか。

 それは僕に対しての何らかの当てつけにも聞こえるけど、古典の先生がそこまで知っているとは思えなかったので、僕の思い過ごしだ。少しだけ、眉間にしわが寄っている気がしたのでもんでみる。

 僕が嫌いな多人数での些末な話が四方から聞こえてくる。まるで田舎の夏の田んぼみたいに各々が喚いていて一人一人が何を言っているのかなんて皆目見当もつかない。

 その中でも聞こえてしまうものがいくつかある。

 誰かが言った。

「それって要するに男女の関係をいってるのか? 不純じゃね?」

 誰かが言った。

「世の中結局犠牲なしに物を欲しがるなんて甘い考えなんだよ」

 犠牲ね。

 口に出すのは簡単だろうけど、現実をしらない人たちのたわごとなんて所詮遊び。

「でもさ、だからっつって何にも欲しがることをしないなんて死んでるのと同じだよな」

 些末な話で、僕には関係のないくだらない会話で、その中の雑音でしかないはずの言葉が、どうしても耳から離れない。

 欲望を持たないことは良いことじゃないか。誰の迷惑にもならず、浅はかな考えも持たず、質素に生きて何が悪いというんだ。そうやって生きて行くことで間違いを犯すことなく清らかに生きていけることだってできるというのに。

 似たような考えを反芻することで自己の正当性を何度も確認し、発狂しそうになる僕はなんとか自我を保っていた。もし、これ以上今の僕を否定するような発言があると、僕は人として機能する自信がない。それを感じるほどに、掌に嫌な汗をかいてしまう。なんならいっそこの場から消え去りたいとさえ思う。

「それは確かにそうね。人は今まで何かを欲しがることで発展してきたし、生きてこれた。でも、単に子供みたいに欲しいと駄々をこねていたわけじゃない。それに見合った努力をちゃんとして、欲しがることを許されてきたのよ。だから、何かを犠牲にしてほしがることは悪いことじゃない。むしろ何かを犠牲にしてほしがるべき、と私は思う」

 正直なところ、最近全然授業に集中できていたなかった。それはすべて隣に座る甘いにおいのせい。でも、どういうわけかこの瞬間だけは古典の先生が言う言葉が脳に直に振動として伝わるかのような重みがあった。依然として教室全体はまばらな会話に騒然としていたけれど、そんな会話が透けて見えて、教室の中に僕一人しかいないかのような気持ちになった。


 何かを犠牲にしてでも欲しかったもの。その対価に見合ったもの。


 そんなこと考えてみたこともない。僕は、母さんを殺してまで生きてしまった。僕の命は間違いなく母さんの命の上に成り立っている。何も欲しがることのない生きた屍のように存在している僕は、果たして母さんの命と対等だろうか……。

 すっと隣から人気が消える気配がした。正確にいうと、僕の視線より上に移動するような気配。

「私は、ほかの誰が何と言おうと私が欲しいと思えるすべてのものを手に入れたい。たとえそれがどんな犠牲を払おうと」

 先生の発言に感極まったのか、それとも僕の知らないところで病が進行してしまったのか、誰も発注をしていない彼女の宣誓はクラスを再び混とんの中へと沈める結果になった。


 瀬戸内さんは僕の欲求をよみがえらせると言ってくれた。死んでしまっている僕の欲求。その亡骸はもしかしたら今や朽ち果ててしまっていて、すでに腐敗して再起不能の可能性だってあるのに。

 いや……そうじゃない。辞めたんだ。何かを欲しいと思うことを。それを感知する感覚もどこかに捨てさった結果が今の僕だ。僕は、人の道を外れたんだ。それでいいとさえ、想うほどに感覚が鈍磨していって、生きているのかさえもわからない。

 五月の半ばにもなっていた。まだ梅雨には早いというのに、湿った空気が街を覆い、挙句の果てにはこうして傘を斜めにしないと歩けないほどの大雨に見舞われている。僕が本当は欲求をどうにかしたいとかはさておいて、僕は瀬戸内さんが提案したことを断って学校を後にした。

 怖い。その言葉を口にできるほど、僕は瀬戸内さんを知らない。そう言っても理解してもらえるほど、彼女も僕を知らない。距離があるからこその防衛線も、こういう時は余計な仕事をしてくれる。そのせいで僕は今からでもどこかに出かけようとげた箱を漁る瀬戸内さんに、怪訝な顔をされてしまった。

 信じらんない。なんて簡潔かつ鋭い言葉でも言い放ちそうな不機嫌な顔。眉間のしわがいつもより数段濃く谷を形成していた。

 ほんの数分前のことだというのに、いったいどうして言い逃れをしたのか思い出せない。

 気づけばげた箱の前で呆然と立ち尽くす瀬戸内さんを置き去りに、雨の中に僕は消えた。

 言霊なんてものが本当にあるのかなんて僕は信用していないけど、僕の嫌いなその言葉を口にしたが最後、僕はその言葉に体を乗っ取られて、ひどい醜態をさらした挙句死んでしまう。きっとそうなる。

 いや、死ぬよりも恐ろしいことも起きうる。それが何かとははっきり言えないけど。

 車が勢いよく水しぶきをあげて、僕の横を通過するのを感じ取った僕は、なんのけなしに進路をわずかに反らしたのがまずかった。

 自分の身に何が起きたのかを正確に理解したのは、地面にしりもちをついて、通りすがったその人にひどく罵声を浴びせられて時だった。どこに目ぇつけて歩いてやがんだ。お前の目は節穴か。

 僕は必死に謝ったんだけど、その謝罪がまた気にくわないとかで、僕は人通りの少ない帰り道を巡回中だったお巡りさんが通りかかるまでさんざん殴られることになってしまった。

 

 珍しいこともあるもんだ。と双方思ったことだろうね。

 僕は、殴られた拍子にどこか頭でも打ったらしく、暖かい食事をとってしまった。正確にいうと、食べたなんて大げさに表現するような量じゃないし、飲み込んだ直後に激しい吐き気に見舞われて、そのまま洗面台へと駆けこんだんだけど、叔父さんは夕刊から顔をのぞかせては僕のことを何か新しい生き物でも見るような目で見ていたし、おばさんは目を潤ませていたから驚きだ。杏奈に関しては、その二人の大げさな感嘆ぶりに心底あきれたような冷たい視線で溜息をついていたんだけど。

 結果からすると、僕は自らに課した禁忌を破ることにした。

 もし仮に母さんの命を犠牲にして僕が生きているのだとしたら、こんな生き方ではダメな気がした。少なくとも母さんの命と今の僕の命とでは釣り合わない。引き取られてから初めての食事に、相当驚かれたようだけど。

 ほんと、珍しいことがあるもんだ。

 数発殴られただけでこんなにも体にダメージが行くなんて思いもよらなかった。体重がずいぶんと減ったからかもしれない。殴られた瞬間、体が揺らいですぐに倒れてしまったし、なにより久しぶりのことだったので受け身をとるのも忘れていた。

 僕がその日の夕飯に少しだけ前向きになる少し前、僕は倒れこむように東家についた。意外だったのは、僕のその様子をみて、杏奈がすぐに駆け付けてくれたこと。

「どうしたの?」だって。

「人に殴られて痛みを感じ取れるくらいにはまだ生きているらしい」僕の中ではそうやって発音したつもりではいるけれど、口を切ってしまっていて何を言っているのか自分でもわからなかった。

 

 簡易的な応急処置を施された僕は、無理に夕飯を押し込み、それを異物と判断した体の反応に正直に従い、その後日常のタスクをこなして自室に戻った。

 ベッドに座るや否や、隣の部屋で律義に勉強をしているはずの杏奈が僕の部屋に入ってきた。

「さすがに勉強はしてないのか……」

 は、してないのかという話し方になんだか落ち着かない何かを感じて、そのまま僕は杏奈を見ていた。

「この家来てから珍しく夕飯食べたり、どこで粗相をしたのか知らないけど、初めてじゃないの? 誰かに殴られたのも」

「殴られたのは別に初めてのことじゃないよ。あまり話したくないからその辺は察してほしいな」

「でもさ、どういう心境の変化なわけ? あんた気づいてた? 涙目になりながらご飯食べてたよ? おかげで今日母さんまでもらい泣きしちゃってさ、明日はなんだか豪勢に作るとか張り切っちゃって。私今ダイエット中なんだけど」

 どうやら僕がその夕飯を地球に返してあげたことはばれていないようで、後にも先にもこの話が出てくることはなかった。

「杏奈から見て、僕はどう映る?」ずいぶんと回りくどい話の聞き方だと思うけど、いきなり自分が生きているように見えるのかどうなのかと聞くよりは、常識的な聞き方に思えた。あとは、杏奈との古い付き合いで染みついた空気に頼る。

「もしかして、授業中のあれ? だとしたら、あんたは人間として機能していない」

 さすがは杏奈だと感心したのと同時に、やっぱりそう見えるのかと落胆する気持ちが往来した。となると、その後の返答もおおむね予想がつく。

「……。叔母さんの件。話してもいい?」言いながら杏奈は僕の了解を得ることもせずに、僕の隣に腰を下ろした。僕はさながら、取調室に座る犯人みたいな心境になっていた。

「私は詳しい話は聞いてないけど、おばさんはあんたが殺したわけじゃない。だから、あんたは」

 何も悪くない。そんなセリフを、僕は耳にタコができるほど聞かされてきた。そのたびに僕は、生きるために母さんを犠牲にしたことは何も悪くはないという意味だとはき違えてきた。

 でも、それに対して今日、別の可能性が浮上してしまった。

「……夢を見るんだ。あの日のこと。僕が母さんの手を払いのけて、おにぎりを奪い取る。毎日毎日、毎回毎回、何かを欲しいと思う瞬間、僕は心底自分を嫌う。でも、もし仮に、先生の言うように、母さんの命を犠牲に僕が生きているのではなく、母さんの代価に、僕の命があるとして、僕は母さんの命分生きているって言えるのかなって」

 昔からそうだった。僕が友達に何か嫌なことをされたときでも、何も言わずに僕の心境を見透かしていた。そしてそのたびに姉のように威張り腐ってはだらしがないだの、意気地がないだの。

「そこまでわかっててどうして行動に移せないの? 意気地なし」

 ほらね。

「……話、聞いてあげるから行ってごらん。あんたにしては珍しくうちに馴染もうとしてたから、それくらい許してあげる」

 正直なところ、僕はこの姉ぶる幼馴染に過大評価をしていた。もう一押し何か言葉を僕に浴びせてくれれば、僕はその心の内をおおっぴろげにできるのに。なんて、杏奈にはいつも頼りすぎる自分にため息が出る。

「……。もし、また僕が何かを要望してしまうようなことがあるなら杏奈はどう思う?」

 伏見がちな視線を杏奈に向けると、きょとんとした表情で僕を見ていた。口は微かに開かれて、落ちくぼんだ瞳が虚空をみている。僕は、こういう時はあまりいい予感がしない。だいたいそうだ。こういう時は簡易的に傷つけられるのがおちだ。そんなもん、お前の問題だろなんて。


「それは、要するに、何か欲しいものでもあるの?」


 一瞬だけ、間を開けてしまった。僕自身、どこか自分の欲望を認めたくない節がまだどこかにあるのかもしれない。半年近くもそうしてきたんだ。無理もない。頷く代わりに杏奈の顔を見る。大きく見開かれた瞳は、驚きと探求心に満ち溢れていた。僕にはいまだない探求心。

「おばさんもきっと喜ぶよ。今のあんた、少しだけおばさんと同じだけの価値を持とうとしているのかも」

 僕は、本当に甘い人間だ。でも、正直僕はこの言葉だけでも今までの体の重みみたいなものがきれいに浄化されて、体が徐々に軽くなっていくのを感じていた。

 ……僕も、欲しがっていい。

 そう思える事が出来るようになったのは、もしかしたら僕が少し成長して前進しようとしている証拠とみていいのかもしれない。


 僕は、母さんの葬儀には出ていない。

 軽度の栄養失調と脇腹に抱えた痣のせいで出席を病院側に止められた。

 お気持ちはわかりますが、体の負担が大きすぎます。

 生きる機能を停止してしまった母さんの体は、日に日に自然の法則にしたがい腐乱していく。僕の気持なんか待ってくれなかった。

「母さん久しぶり」

 木陰に煌めく墓石にはまだ母さんの名前はない。聞いた話では名前はなくなった直後に入れないといけないもでもないらしく、僕が落ち着いたら僕のタイミングで真苗を入れればいいらしい。そっと撫でてみるけれど、やっぱり一肌なんて感じなくて、否応なしに母さんの死を突き付けられる。

 母さんはもう、いない。

「今日はさ、ちょっと連絡があってさ」不思議と涙なんて出ていない自分がいた。もうすでに乾ききって枯渇してしまったのか、泣き方を忘れたのか、そもそも知らないのか。泣きたいわけではない。泣いてしまうと、今度は止め方がわからず腹が空いたと泣き喚く赤子のように泣きじゃくってしまいそうだったから、それはそれでいいのかもしれないね。

「僕さ、ちゃんと母さんの分まで生きようと思う」

 ペットボトルに汲んでいていた水を墓石にかけて花を手向ける。

 そよぐ風に線香の煙は揺れて、空気の流れに乗って消えていく。

 母さんの人生はこんなんじゃない。もっと華やかであるべきだ。もっともっともっと。

 東家に来てから初めて小遣いを欲しがった。

 それは母さんのことに整理がついたというわけではない。でも、このまま足かせのように母さんのことを使いたくはなかった。だから、せめて母さんを言い訳に使うのではなく、理由に使おうと思った。僕が欲しがったのはそのためのお金。

「これ、喜ぶと思って」

 最大限の僕の親孝行。はたから見たら、僕はきっと狂人に見えるに違いない。だって僕が選んで買ったのは生前母さんとは無縁だった真っ赤なバッグなのだから。押しつけがましい考えかもしれないけど、赤という色は大人の女性を連想してしまう。母さんも淡色よりはこういうはっきりとした色合いのものが好きだった。

 黄色い傘、青い花瓶、真っ白なワンピース。

「東の叔父さんがね、驚いたような顔してたよ。……引き取られてからなんも食べてないかったし、僕の口から何か欲しいだなんていわれる日が来るとは思ってなかったんだろうね」

「……それだけじゃないさ。……連君、あまり運動しているそぶりがないわりに結構足が速いんだね。君が家を出てからすぐに追いかけたんだけど、追いつくどころかもうすでに墓参りも終わりか」

 その言葉と同時に、僕の背後に影を感じた。

 風に混じるマルボロの匂いがあいつと同じだから、一瞬だけ心臓が大きく鼓動したけれど、話す内容とおっとりとした口調が東の叔父さんだということを証明してくれた。

 急いできたらしく、おじさんは手を団扇のようにして「夏でもないのに汗かいちゃったよ」と僕の隣に歩を進ませて、荷物を置いた。

「墓参りなんて久しぶりだろう? まぁ、そうそう来るものでもないか」

 談笑でもしているかのような笑い。あいつから逃げ回っていたくせに、どうして今更笑えるんだ。助けてもくれなかったくせに。

 おじさんの笑いには僕は答えなかった。答えてしまうと、それは僕もその話に乗っかってしまったという証拠になり、僕のこれまでの神妙な空気を汚す。

 しばらく黙ったまま、隣の叔父さんの様子をうかがう。

 終始満足げに口角を上げながら割と丁寧に作業を進める。僕と同じようにペットボトルで水をかけ、僕よりもたくさんの花をささげる。叔父さんの選んだ花は白くて上品で、その場に見合った品種なんだろう。だから余計に、僕の選んだものが際立って見えた。

 僕が選んだものはすべてそうだった。

「どうしたのその鞄。今から誰かにあげるのかい?」

 思わず墓石から取り上げて、背後に隠してしまった。僕が母さんに捧げた花もそうだった。視覚的にどれも自己主張が強い色ばかりで、趣がない。ずいぶん身勝手な、自己満足。

 だからなのだろう「ずいぶんとお金がかかる女の子なんだね」という言葉を僕は素直に聞き入れられなかった。

 認めたくなかった。僕たちを救ってくれなかった目の前の大人を。

「母は生前から何一つとして自分に何かを買ってあげるなんていうことはしませんでした。もし仮に、早い段階であいつの束縛から逃れることができていれば、僕が母の墓前に派手な鞄を持ってくるようなことはなかったかもしれません」

 僕自身、この言葉が息を吸うように口から出ることに心底驚いていた。

 それは僕に言葉を遮られた叔父さんも同じようで、突然切られたような表情をして呆然としていた。

「……、感情出せるようになったんだね」

 一瞬だけ何を言われたのか聞き取れなかった。風の悪戯に耳をふさがれたのかもしれない。

「……え?……!」

「ほら、今もそう。連くんいつもなんだか表情が一つしかないみたいに生活しているから、やっぱりあの事気にしているんじゃないかって」

「その話、しないでもらえます? それとも、もしかしてわざとそうしてますか?」

 怒りという感情を久しぶりに体感していた。その反面、この人に何を言っても僕の問題は何一つ解決しないと、僕の内側から抑制するいつもの感情も働いて、僕は結局この発言に対しても何か大きな行動に移すことなく握りこぶしを作って耐えていた。

「……連君にそう言われても、僕はやめる気はないよ。君も姉さんと家族だったかもしれないけど、僕も姉さんの弟だからね。だから一応言っておくけど、姉さんはそういう鞄は趣味じゃないよ。もっと大人しい感じの鞄を好んでいたはずだ。もし仮にほかにあげるような女の子がいないのならば、それは立派な無駄遣いだ」

 君の、ち

 気が付くと胸倉をつかんでいた。

 気が付くと握っていた拳を振り上げていた。

 気が付くと、叔父さんが雑草が伸びる墓石に尻もちをついてた。

「誰が、父親だって?! あんたがあの時、あいつから俺と母さんを守ってくれたら、俺だってこうはならなかったはずだ。母さんだって、あんな冷たいところで死ぬことはなかった。親子でたった一つの握り飯を奪い合う事なんてなかったはずなんだ」

 声が震えていたのは、吐き出した言葉に感情をこめてしまったから。憎悪。僕が心に飼っている感情の中で、一番醜く、それでいて粗暴で、時折檻を揺らして外に出ようとしているのを僕はいつも知らないふりをしていたのに……!

 髪に何かが落ちるのを感じ取ったときには、空から雨粒が降り出していた。

「……すいません。これからちょっとやることがあるので」

 一礼してから、踵を返す。

「なんでも好きにするがいいさ。ただ……、何事もバランスだ。暴走だけはするなよ」

 乾いていたはずの墓石は、雨でぬれていた。

 叔父さん、嫌……。あの人は、殴られた痛みからか、路上で酔いつぶれたように片足だけ折り曲げてうつぶせたまま立ち上がろうとはしなかった。

 母さんに供えた握り飯も、そのうち雨で崩れるだろう。


 人は咽喉が渇けば水を飲む。

 腹が減ればものを食べる。

 眠くなったら寝て、笑いたいときに笑う。

 とても人間らしい行動。その当たり前の行動が僕には難しい。

 対照的な人間をここ最近見つけてから、僕はそのことについて何度も悔やんだ。どうしてこの人はそこまで自分に素直にできるのだろうか。今にも死ぬかもしれない病を抱えておきながら。本当ならもっと健康に気を使って生きるべきではないのか。

 そう考えれば考えるほど、なぜ僕にはそんな生き方ができないのか。という葛藤も生まれていた。彼女とは対照的に、僕にはそんな死に至る病を抱えたという事実はない。

「誘っていて一言も話さないのはなんで?」

 どうしてこういう事態に陥っているのか、僕にもわからない。

 目の前の瀬戸内さんは心底不思議に思っていることだろう。何せ、急に放課後喫茶店に誘われたかと思えば、三十分近く何も話すことなく見つめていられているのだから。

 瀬戸内さんが飲んでいたアイスティーの氷が軽快な音を鳴らして、その液体の中に消えていった。

「しかも、私はちゃんとこうして連君とお茶をしようと頼んでいるのに、どうしてまた水だけで済まそうとしているの?」

 言われて視線を落とす。30分も放置された冷水さえたっぷりと汗をかいて、もう何時間待たせる気なんだと僕を責めている気がした。

 僕は、結局何をしたくて瀬戸内さんを呼んだのか。責められても仕方がない目的のないただの暇つぶし。僕は、いったい何のために、

「はぁっ……。もいい。帰る」

 溜息をつかれても当然だ。今、こうしている間にもなんの目的もない無駄な時間が流れているのだから。鞄をもって外に出て行こうとする瀬戸内さんに、僕は待ってほしいと口を割ることもできない。

 何か言わないとと思えば思うほど、僕の頭の中に何もないことが浮き彫りになって余計に体が硬直する。

 言わなきゃ、知りたいって、もっと、君を。

 オーダー表をもって歩き出した瀬戸内さんにばれないように小さくつぶやく。

「僕も、欲しがっていいんだ」

 その言葉に勢いをと鼓動を乗せる。あとは野となれ山となれ。

「イチゴパフェ一つ」

 通り過ぎようとしたウェイトレスに僕の中で一番通る声で明瞭に伝えることができた。

 そのおかげで会計を済ませようとしていた瀬戸内さんが不思議そうな、でも興味がある時の大きな瞳でこっちを見ていた。


「一応確認なんだけどさ、本当に食べる気?」

 その確認は聞くんじゃない。とはいいつつも、恐る恐る首を縦に振る。

 頼んでしまったし、時間を使わせてしまっているし、何よりここしばらく食べ物らしいものを食べていないこの体に少しでも栄養を送るという行為を少しでも慣らしていかないと、母さんの命と等価であるかどうかの検証の前に僕の命が尽きてしまう。

 今日この瞬間、僕の体はそれこそアナフィラキシーショックを起こして死んでしまうかもしれない。今までサプリメントしか口にしていない体からすれば、目の前のとても甘い罪の味がするこの物体は、異物でしかない。僕ら地球人からすれば、これは間違いなく宇宙人なんだ。


 でも、その宇宙人だっても地球人じゃないってだけで、地球人だって宇宙人なんだぞ?

 

 頭をよぎるその言葉が、僕の中の防衛線を決壊させた。


 目をつぶっていたけど、味はわかる。

 舌から口全体にいきわたるのは、甘さよりも先に程よい冷気。

 そして、圧倒的な甘酸っぱさが波状になって舌から脳天へと突き抜ける。

 同時に、冷たいものを食べると急激に頭が痛くなるという例の現象も。

「大丈夫? お店の人やっぱりやっぱり呼ぼうか?」

 僕の中では、これらの現象が一気に起きたような錯覚さえ覚えていた。あまりに情報量が多すぎて、頭の整理がつかない。幼少期に初めて見たショートケーキの食べ方をまねたというのに、まだ先端のイチゴが待ち構えているというのに。

 手が震えていた。汗がふきでているのを隠せない。冷たいものを食べているはずなのに。

 でも、

「すいませーん、ちょっと吐きそうなんです。ボールか何か」

 僕の手の震えがテーブルを伝い、今にも飛び出しそうに身を乗り出す瀬戸内さんにも届いたのだろう。はっと振り向く瀬戸内さんの表情は急に誰かに切り付けられたような切実な表情と得体のしれない動物を見た時のような険があった。

「……泣いてるの?」

 あまりの痛みにないていることも気づかなかった。

 あまりの衝撃に飲み込むことも忘れていた。

 あまりの優しいくちどけにそれらを体が拒否することもしなかった。

「おいしいの?」

 人前で泣くなんて男じゃない。なんていつの時代に誰が言ったのか知らないけれど、少なくともそれくらいの考えは僕の中にもあったはずなのに、僕は。

「あぁ、あ、あ、あああああああああああああああああ」

「なにもそんなに泣かなくても」

 瀬戸内さんがとってくれた紙ナプキンも僕からあふれ出す水を前にもはや意味はなかった。決壊したダムのように、次から次へとあふれるそれを止めることなんてもはや僕にもできなかった。箍が外れて、今まで僕を形作っていたものがなくなり、僕ではなくなる。その型からあふれるものは広がり大きくなる。

「いいなぁ。私はいまだに何かを食べてそんなに泣いたことがないから。でもさ、イチゴパフェでそんなに泣くんだったら本当の大好物を食べたら連君死んじゃうね」

 もしこれが罪だというなら、僕はきっと今死んでしまう。でも、それでもいいと思える優しい味だった。その味がもっと欲しくて、僕はスプーンで中身を掻き出す。口に入れる度に、数秒待つことなく、個体から液体へと姿を変えて、胃に消える。

 食道を通過するときに感じる滑らかさ、胃に落ちた時の冷たさ。

 僕は、生きている。

 そう思えると余計に涙が止まらなくたって、

「はいはい、泣かないの」と彼女が僕を撫でるまで、僕は感情の上書をすることができなかった。

「もう少しでこの世を去ってしまうかもしれない可憐なクラスメートからの教えを一つ。今感じているそれが幸せってやつ。でも、あんまりそれにこだわりすぎると本当に幸せが何なのかわかんなくなっちゃう。だから、ほんの少しだけ不幸を混ぜるの。大人が飲んでるビールみたいに。甘いものばかりだとそれに飽きちゃうからたまには苦いもの取らないとね」

 なんていう割に彼女も声高らかにイチゴパフェを頼む。

「……君にとっての苦みって何?」

 率直な意見だった。僕が知る限り、彼女が苦悩にさいなまれているところを知らない。たとえ病に苦しんでいるとしても、ケロッとそれを口にするものだから現実味がない。本当は難病なんて噂だったりする可能性もある。だって僕が瀬戸内さんが眠ったのを目撃したのは、あの僕の登校初日くらいなもの。

 あの病は確か、日を追うごとに睡眠時間が多くなる傾向にある難病のはずだった。

「うーん、どうだろ。ないかな。そんなもの味わっても崩壊するだけの私の体に意味はないし。しいて言うなら入院生活だったかなぁ……。退屈でさ、それが原因で病気より先に死ぬんじゃないかって思っちゃって」

 もう少しでこの世を去ってしまう可能性のある人間ならどうして入院生活を過去のことのように話すのだろう。

「どういう……」

 意味なのか問いただしてやろうと思ったのに、僕の願望はやはりうまくはいかないらしい。

 古めかしいシャッター音が音声となって通路側から響いた。

「え……あんた。サプリメント以外のまともな食べ物食べたの……?」

 僕をあんた呼ばわりする強気な幼馴染が、僕とその目の前にある乱暴に食したパフェと、その傍らに無数にある紙ナプキンを交互に見ては疑問符を僕に投げつけてくる。

「しかも目ぇ真っ赤」

「……別れ話をしてたの。もう連君に振り回されるの、限界って」

 口にした長いスプーンをくるくる空中で回しながら、悲しそうな顔なんて一切しない幸せそうな表情で平然と嘘をつく。

「別れ話ぃ!?あんたらいつからそんな関係になってたの?!」

「いや、別にそんな話は……」

「ちゃんとおばさんに報告しなきゃね。両方とも」

「あんたにはあとでたっぷりと聴かせてもらおうじゃないの」

「ちょっと、話が違う」

「仕方ないから、ここのお金、連君が持ってくれるんだったら許してあげる」

 イチゴパフェが二つで1600円。それくらい払うつもりで店に誘ったので、その条件はむしろ好都合だった。

「払うよ。誘ったのは僕だから」

 ひらひらさせるオーダー表を文字通り奪い取る。斜陽した通路をレジに向かい、ポケットから財布をまさぐりきっちり払う。

 そのイメージだけは持っていた。だからすっと財布も出せたし、イメージ通りの店員の対応になんだか勝った気さえしていた。

「せっかくなんだし、やっぱりそのお金でもっと遊びに行こうよ三人でさ」

 脇をいると誰もいなかったので、気のせいかと財布を再び開けるころには、逆側に回っていた瀬戸内さんがすべて終わらせていた。


「見てみて! この写真、連君顔面蒼白になってるって」

 学校帰りでまさか遊園地に来ることになるとは思ってもみなかった。歩く度に彼女の鞄についたたくさんのキーホルダーがちゃらちゃら鳴る。

「さすがに今日あたりから何かまともに食事をとることにするよ。……おかゆとか」

「病人じゃないんだからさぁ……。あ、そうだ。今日はもうここで何か食べて行こうよ!」

 空腹かどうかはよくわからないほどに疲れているけど、さっき食べたパフェの水分が汗で流れるくらいには心拍数が上がっていた。入園するやいなや、バンジージャンプをするとか言い出した彼女の意見を何とか阻止するべくジェットコースターなら何とか乗れるだなんて口から出まかせをしてしまった。写真はその時水しぶきを上げるジェットコースターを捉えたものらしい。

「よくそんな食欲あるね……ホント、少し分けてもらいたいくらいだよ。どうしてあんな乗り物がこの世に存在するんだか……」

「生きた心地がするでしょ? 死ぬかもしれない体験すると」

「だから病院でもあんな真似したの?」

 メリーゴーランドには興味がないらしく、その前を何事も見ていないかのようにスルーする。

「だから、死ぬ練習。その瞬間が来ても怖くないように」

「その瞬間てどういう……」

 追いついてその先を聞こうとしたけれど、「あ、バンジーあるじゃん」と明後日のほうに歩き出したので、強引にゴーカートのほうに手を引いた。「あっ、」と小さく悲鳴めいた声が聞こえたので謝って立ち止まる。

「……なんか、珍しいね。こういうの」

「僕は死ぬ練習なんてお断りだから。当面死ぬつもりはないよ」



「いやー、車の免許を取る前に運転ができるなんてなかないよねぇ。私の中のやりたいことリストの項目が一つ減ったわ」いいながら瀬戸内さんは少し早めの夕飯を取る。もう少し野菜とかを取ったほうが健康的だし、何より女の子なんだからそういうのを気にしたほうがいいのではないか、なんて質問が頭をよぎったけれど、それは愚問だと瞬時に悟る。

 瀬戸内さんは、寝顔もかわいいけど、何かを食べるときの満面の笑みも良い。これまでかというほどに口角を上げた幸せそうな顔。僕はそれを見ながら色のついた飲み物を飲む。

「結局何も食べれないままなんだね」

「おなかは空いているんだけど、なんか匂い嗅ぐだけで吐き気がするんだ。でも、こうしていれば少なくとも果物は取れているだろう?」

 青い色の飲み物なんてそれこそ健康にあまりよくないイメージがあったけど、ここ最近まで一口も何も食べていない僕が考える事じゃない。今何かを食べろと言われても、僕の胃は今まで何も食べてこなかった分なまけ癖がついている。きっとさっきのパフェの養分をいまだにコツコツと昇華しているに違いない。急に働かせるとストライキを起こされかねないので、せめて水以外の何かで少しだけ胃をいじめることした。

 オレンジジュースとコーラとカルピスが目に入った。値段もほかの飲み物と比べたら安く設定されていたけど、できるだけ食べ物よりの飲み物を選択しようと思った。その結果、僕には不釣り合いなほど派手な見た目のトロピカルジュースになってしまった。

 対する瀬戸内さんは「この店で一番高いものを」と成功者みたいな口ぶりで店員に言いつける。まだ十代後半の僕たちが口にできる性質の言葉じゃない。店員さんだって、そりゃ一瞬だけ固まるよ。その様子を聞き取れなかったのかと勘違いをした瀬戸内さんは改めて「だから、この店で一番高いものをお願いします」と若干機嫌が悪そうに明瞭な口ぶりで話す。

 運ばれてきたものは大人向けのフルコース料理だった。

「悪くないわね」前菜が届くと挑戦的な発言。これがもっと大人ならば。それこそ東のおじさんみたいにもっと歳をとっていたなら、店員さんだって顔を曇らせて帰っていくことないのに。

「そんな高いもの頼んでも大丈夫なの? 僕、あんまり持ってないからね」

「大丈夫。うちの親、私になんでも買ってくれるからお金も結構もらってる」言いながらさっそくなれた手つきでフォークを扱い、運ばれてきたトマトの前菜を切り分けて口に運ぶ。トマトのヘタを切り落とし、中をくりぬいて食材を詰め込んだその料理はなんだかおもちゃみたいに見えた。

 柔らかい唇に溶けるように滑り込むトマト。

「うーん! おいしい!」いうと同時にスマホで写真を撮る。

「なんだ、この店食べログで星2つしかついてないのか。よし、私が星5個つけてあげよう」

「写真なんかどうするの? それを誰かに送っているの? 主治医とか」

 それまでおいしいと食べていたものに眉間に皺を寄せる。まずかったのか、僕を凝視する。

「違うよ。インスタ。知らないの? あ、そうだ」いいながら僕のその無駄に目立つ飲み物を横取りする形で1枚。

「ちょっと、いいから大人しく、こっちに……!」いいながら僕は瀬戸内さんのスマホの餌食にさらに1枚。

「どうしてこういう時は笑えないの? どうでもいいときは笑ってくれるのに」

「ごめん……あんまり写真慣れてなくて」なんていうけど、実際は強引に引き寄せられるなんて想像もしてなかったものだから、そしてあんまりにも近づきすぎたものだから。

 だから、その後の行動も予測はできていなかった。

「思い出にするんだ。たとえこの一瞬だとしても私は忘れない。焼き付けるんだ。そして、君の心にも私は生き続ける」

 あっけにとられながら、僕は瀬戸内さんの白い腕を見る事しかできなかった。

「案外おいしいね」

 ……飲み切ったのか!!

 いや、それ以前にそれは……!!その行為の名前は、

「関節キスだね」



 結論から言うと、今日はとても緊張した。食べなれないものを食べ、人間が生み出した理不尽な乗り物に何度も乗る羽目になった。おかげで終始手は汗で湿っていたし、帰り際に手をつなごうと提案されたときには心底自分の聴き手を恨んだ。

 でも、楽しかった。

 食べなれないものは、僕にその味と触感と冷たさを教えてくれた。

 死ぬかもしれない恐怖で絶叫するということは、誰かと瞬時に感情を共有できることを教えてくれた。

 夕焼けに滲む瀬戸内さんは何かを誤魔化すみたいにめちゃくちゃに叫んでいた。

 僕はこのまま感情を露に生きてゆくことが出来ればいいと思った。そうすれば……、嫌、少なくとも母さんならそうするだろうから。

 くやしいときは怒り、悲しいときは泣いて、うれしいときに笑う。そんな当たり前がこんなに幸せなことだったなんて。

「杏奈も来ればよかったのにー」

 ふくれっ面で綿あめを頬張る瀬戸内さん。

 もうすぐ閉園らしい。アナウンスがいびつな音響で喚く。僕はあまり人が集まるようなところは好きじゃない。でも、こうして人がまばらに歩く閉園間際の遊園地はノスタルジックな感じがあって嫌いになれなかった。

「まぁ、たまたま僕らを見かけたっていってたし、部活の後輩に大会でいい成績のこしたからごはんおごらなきゃいけないって言ってたし。仕方ないよ」

 いそいそとスマホを操作して、東家の二人に画像を送信していた杏奈を思い浮かべた。

 次のアトラクションに乗るにも時間がない。ただ、こうしてあえもなく歩くのにももうすぐ限界が訪れる。僕に限界が訪れるわけではない。

 僕と違って、瀬戸内さんには帰りを待っている家族がいる。

「……。今度はどこ行こうか」

 つないでいた右手を、瀬戸内さんはなんだかさっきより強く握っているみたいだった。それこそぎゅって音が聞こえそうなくらい、強い力で。

 次に乗るアトラクションなんてもうない。そういう時間はない。僕らは次を楽しむにはあまりに遅かった。来る時間も、来ようとした時間も。

「もう時間だよ。来る時間が遅かったんだ。次の休みにしようよ」

 今日はダメでも、次ならまだあるさ。だって僕らはまだ、


「次とかっ、そういう問題じゃないからっ」

 

 今度は僕の手が潰されるのではないかというほどの力で握られた。まるで得体のしれない未確認生物が瀬戸内さんに憑りついたのではないかというほどの力で。

「次とかっ、今日だめだから次とかっ、今日じゃなくてもいいとかっ、あり得ないから! 私たちに残されている時間は目に見えないだけで、明日なくなっちゃうことだってあるんだからっ」

 斜陽した太陽に、表情まではどうしても見ることはできなかったけど、これだけは言える。

 僕は、彼女が泣くことを初めて知った。いままでいくつかの表情を見てきたはずなのに、僕は笑う頻度の高い彼女はいつも笑っている泣くことのない楽観的な人物とばかり勘違いしていた。

「おちついて」なんてありていな言葉しか僕の頭の中には浮かばない。そればかりか、その言葉を言おうと口を「お」の形にとどめた瞬間タイミング悪く彼女のスマホが音を鳴らした。同時につないでいた手をするりと放される。

 泣いている彼女を嘲る夢の国のテーマは、むなしいほどに溌溂としていて、その曲を聞いても夢なんて荒唐無稽なものを実感させるほどの影響を僕に及ぼすことはなかった。

 ポケットからスマホを取り出した彼女は、液晶の表示を見るなり何事もなかったかのようにそのまま手を下げた。だらしなく垂れ下がる手には、淡く光る液晶画面が無機質に映っている。

 彼女は電話には出なかった。相手は誰かは知らないし、そもそも僕を置いていくつもりなのか、歩調を緩めることなく僕の半歩前を闊歩していく。

「出ないの? 鳴ってるよ?」急に泣き出してしまった瀬戸内さんにあっけを取られながらも、僕はどうにかその言葉を口にして、彼女の歩調を緩めようと試みるけど「うるさい」と蓋をされてしまった。

「誰かが君に用事があるから電話してるんだろ? ちゃんとでないと。もしかしたら家の誰かかもしれないんだからさ」

 うるさいという強い口調で罵られたので正直なところ彼女の背中すらまともに見ることができない。だから目が泳いでいた。なので、当然前なんか見てない。

 次の言葉を探すうちに危うく目の前の彼女の靴を踏んでしまうほど、瀬戸内さんに接近してしまっていた。思わず動揺の独り言が口から呻く。


「もうね、来年まで生きられないんだって」


 その声はとても落ち着いていて、雑踏の中でもよく聞き取れる声のはずなのに。


「……え?」


 靴を踏みそうになるほど近くにいたはずなのに、僕は思わず仰け反ってしまった。

 絵にかいたような間抜けな声で、漫画みたいに平面的な情けない顔で、僕は聞こえないふりをした。

 時間が止まったように感じていた。そして瀬戸内さんの口元が再び揺れるタイミングで再び時間が動き出す。

 見たくもない現実に引き戻されてしまう。


「もう、私の体に私の色がないの。全部真っ白になっちゃった。だから、もし、次に眠るときが来たら……」


 電話はとまらない。人混みの雑踏の中でも、その音は切り取られたように存在感を増して僕の耳に聞こえている。

 彼女は、そのまま竦んでしまった。

 もし次に彼女に眠気が訪れて、そのまま闇に意識を飲み込まれたなら、

 もしこのまま、何もせずにいつものように傍観したままで、事の成り行きに任せたなら、

 僕の彼女の間には、僕たちをなんら繋がりのない個人として認識し始めた来場客が、我先にゲートから出ようと縫うように闊歩しだしていた。

 もしこのまま、雑踏に奔流されたら、

 このことをずっと悔いながら生きて行くことになる。あの日、母さんからおにぎりを奪ったときのように……!

 仮にこんな僕でも誰かのそばに寄り添うことで、人の役に立てたとして、

「ちょっとすいません」

 小声に出すと、すぐ目の前を歩く中年のおばさんがぎょっとした視線で僕を見た。

 もし仮に、僕が寄り添うことで瀬戸内さんに何かあげることができるとして、

 一歩踏み出すと、中年女性に手を引かれた小さな男の子までもが僕を驚いたように見上げた。

 2歩、3歩と進むにつれて奔流が狭まり、僕と瀬戸内さんの距離も縮まる。その間、彼女はうずくまったまま立ち上がろうとしなかったけれど、覚悟を決めた僕にはそんなもの関係なかった。

 隣まで行きついて、しゃがむ。濡れたアスファルトにスマホがささやかに自己主張していた。画面には「お父さん」とある。

「……僕には父さんなんて呼べる人間はいないからわからないけど、泣くほど嫌な気持ちならわかるから」震えるスマホを拾い上げて、電話を切る。

 視線を上げた彼女は、意外そうな表情で口を半開きにして僕を見ている。

「嫌なら出なくてもいいんじゃない? 正直あんまりスマホに慣れてなくて……余計なことだったら謝るよ」

 余計なことをしたなと少しだけ後悔している僕がいた。間違いなくトラブルになると、ほんの数日前の僕なら完全にやらないことだ。多少の犠牲を払おうとも、僕は目の前の彼女から涙を奪い去りたかった。

「あ、……ありがと」

 だから、この言葉を聞いた瞬間、僕は次の言葉が出るまでに手間取った。

 うれしいのが半分、照れくさいのが半分。この言葉では言い表せない感情が胸の奥で燻ぶり、その熱で体中が火照っているかのようなくすぐったい感じ。

 立ち上がる瀬戸内さんは、僕の行動によほど驚いたのか、上気した表情で数センチ上の僕の目を見つめる。

 どういう表情でいったい何を伝えればいいのか、僕の頭は完全にフリーズしてしまった。

 何とか会話を始めようと口元を緩めた瞬間、周囲の観客から歓声が起きた。

 何事かと人々が指をさして騒ぎたてる上空を仰ぎ見る。

「流れ星……」

 つぶやく瀬戸内さんにも見えているのだろう。群青に染まる空にいくつもの流星が斜線を描いていく様が。


ーーーーーーーーーくそっ

 午後からバカ娘に連絡が取れない。

 症状が悪化していること、もうこれ以上入院しても意味はないこと、もって数か月の命だということ。現実を突きつけた娘の顔は見れたものではなかった。何かに突然切り付けられたような驚きと絶望の顔。

 数時間前まで娘が横になっていたベッドは奇麗に整理されていた。

ーーーーーーーーーったく、話は最後まで聞けと毎日言ってるだろうが

 病室から外を眺めても、群青に染まる街並みが見えるだけで、娘の姿はどこにもない。吸っていたマイルド7を携帯灰皿に押し付ける。数か月前から健康のためにと控えていたたばこを吸う羽目になるとは思うもよらなかった。

 今までサンプルとして採取していた血液で試作段階ではあるが薬が完成しつつある。その薬さえ完成すれば症状は幾分か和らぐはずだと伝えようとした矢先、一瞬の隙をついて娘は俺の前から姿を消した。

 しかも過剰な睡眠を抑制する常備薬を忘れいていったようだ。……あるいは自棄になってわざと忘れたのか……。

 それにしてもーーーーーーーーーーーー

 ポケットから新たにたばこを取り出して火をつけようとしたところ、俺が知りうる中でこの病院で一番やる気のない看護師が「瀬戸内先生、ここは禁煙ですよぉ?」と背後から急に話しかけてきた。

「まったく。医者の不養生って言葉知らないんですかぁ?」

「別に構わんさ。人間の体には適度なストレスが必要だからな」

 構わず火をつけ、目の前に広がる忌々しい光景に煙を吐く。

 他人からすればただの流れ星に過ぎないだろう。が、俺からすればーーーーーー

 捨てた故郷に対する哀愁か、などとそうぞうするだけでも笑えてくる。窓に映る自分の虚像が口角を上げているのが垣間見えて、自ら起こしてしまった興奮に冷や水をかけて表情を殺す。

「もしかして、また見てたんですかぁ? 例の写真」

「……下らん」

「でも、もう結構な流れ星が降ってますよ? これってもしかして先生が言ってた予兆ってやつじゃないんですかぁ?」

「あぁ、そうだな」

 現に目の前には今も片手で数えるほどの流星が夜空を切り裂いて、同時にその予兆とやらを馬鹿らしいと片付けたがっている俺の右脳も裏切っていく。

「かぐや姫伝承でしたっけ? 先生のご実家で語り継がれていたっていうのは」

「あぁ、そんな話もあったな」

 まったく、この看護婦は俺の感情を逆なですることにはよほどの才がある。間延びした口調、勤務時間ギリギリに訪れるやる気のなさ。そして何より、俺の中身でも見透かしているかのような勘の鋭さ。

「あながち当たってるんじゃないんですか? その伝承。ほら、ネットニュースにもなってますよ?」

 気に障る奴の面は見ないことにしている。俺の背後にあるバカ娘の使っていたベッドにはいつの間にか癇に障る看護師が腰かけて、自分のスマホを俺に差し向けているようだった。

「知っている。もうじき臨時ニュースか何かで本格的に騒ぎになるだろう」

 俺はオカルトには興味がない。実証のないことには対処が利かない、目には見えないものに現実味がない。そんなものは金にはならない。だから、俺が実家の神社を継がなくてもいいことになったのは正直喜んでいた。

 その時もそうだった。呪いでも何でもいい。俺は燃える我が家を見て狂喜した。

「でも、やっぱり呪いだたりして。人類に対する宇宙人の報復ってやつ」

「知らんな。もういいから業務に戻れ。あんまり私に絡みつくようなら減給するように上に掛け合ってもいいんだぞ」

 俺の実家は、原因不明の出火で燃えた。

 閃光で目の前の光景が夜の蒼から昼の白へ色を変える。同時に気づく、もしやしゅっかの原因はこれではなかったか、と。

「って、何しれっと外眺めてるんですかっ。今の、隕石じゃないですかぁ!?」

「……あぁ、そうだな」軽く部屋が揺れたが、問題ない。

 俺が眺めていたのは、天災に燃える街路樹ではない。その先に広がる街の火災でもない。

 この状況下で一人病院に駆け込んでくる男の姿だ。目の前に隕石が落ちてきたのがよほど驚いたのか、腕で視界を遮ろうとするものの、その足はまっすぐこちらに向かっている。

 煙草を深く吐く。

ーーーーーーーーーー全く……。

 娘の話には聞いていた。もしかしたらこれは運命なのかもしれないとほざいていたが、こんな災害時にわざわざ病院に来るような頭のおかしいやつはそれこそ呪いでどうにかなっているのかもしれない。

「忙しくなるぞ、さっさと仕事に戻るんだ」

「とかって先生はどうなんですかぁ? 待ってるんですかぁ? 彼」

 その言葉に半ば呆れていた俺は、何も返すことはなかった。目の前に広がるのは審判の日とでも言いたいのか? その原因を解決するは娘をそそのかしたガキとでも言いたいのか? 目の前で広がっているのただの実証のないオカルトにすぎない。

 ドアが開く音がした。同時にガキの息が切れる音。

 誰が来たというのはもはや説明もいらないほどの出来たタイミングだ。

「あ、あの……」

「面会時間ならとっくに終わっている。今から忙しくなるからとっとと帰れ」

「先生、ちょっと言い過ぎですってぇ」

 だからと言って今から始まるであろう仕事の山をこいつがどうこうできるわけがないだろう。だったら事実を素直に話してお帰り願うべきじゃないのか。俺には今から搬送されてくる患者の対応が待っている。

ーーーーーーーーー新薬も開発せにゃならんのに、くそっ

 踵を返した俺は、ガキが握る見覚えのなるものにはらわたが煮えた。このくそ忙しいときにこいつは問題を抱えてきやがった。なんでも買ってやると誓った娘が欲しがった最新型のスマートフォン。本体だけでもいいだろうと提案したのが却下を食らい、わざわざ専用にケースまで買ったものだ。画面が割れているのは、今こいつが握っているからではないだろう。だが、

「そいつをどこで手に入れた!?」

 壁掛けの時計が外れて落ちて割れた。それよりも大きい声で喚くあの看護婦。この騒ぎを聞きつけて、ほかの看護婦やら医師やらがわらわらと集めってくるのではないかと内心焦ったが、そんなこともなかった。まぁ、おおよそ街中で起きた災害の患者がそろそろやってくるころだろうし、そちらの対応に追われているのだろう。

 壁にたたきつけるように押さえつけてやったガキは、恐怖のためか俺を見ることはない。そう思うのが普通の論理だろう、だが、奴は

「突然、瀬戸内さんが消えて、それで、……それで」

 言葉こそ震えはあったが、何がそんなに楽しいのか狐の面でもかぶっているかのようなふざけた笑みをたたえていた。

「先生ぇ。ここは病院ですよぉ」また間延びした声で言われてイラつくが、まっとうな理由だったので話してやる。建前でしかない。本当は、ガキの言う言葉に愕然として体に力が入らなくなったというのが一番近い事実。

 つくづく、馬鹿馬鹿しい。

 ボスっと尻をバカ娘のベッドに下す。ガキのいう話が本当なら、娘はもう戻っては来ない。俺の研究も無駄に終わる。

 廊下ではバタバタと動き回る人の影が感じ取れる。けたたましい喧騒で指示を出す医師とそれに応じて走り去るキャスター。こちらもそろそろ現実を受け入れないといけないのか。娘がこの世界から消えた現実を、今この瞬間で俺の中で消化しきって、仕事に取り掛かれと、そう言いたいのか。

 そんなの、できるわけがない。あのバカ娘は、あいつと俺の娘だぞ。

「何か知りませんか? ……確かにこの病室にいた子なんです。笑ってないで教えてください!」

 娘がこの世界から消えてしまった事実を認めないということは、要するに俺が嫌っているオカルトじゃなないか。人はいずれ死ぬのだから。でもそれを認めるわけにはいかないなどという心が俺にもあったらしい。ガキに指摘されるまで、自分の表情の場違いさに気づくのがだいぶ遅れた。

「君、彼と俺にコーヒーを入れてくれないか?」

「こんな非常事態に何呑気な事言ってるんですかぁ」

「こういう時こそ冷静になる必要がある。今はまだ情報が錯綜していて、全体像をつかむまでこっちもパニック状態のはずだ。コーヒーでも飲んだらちゃんと仕事に戻ってやるさ」

 タイタニック号の沈没の時も、乗客が冷静になれるように音楽隊が終始美しい音色を奏でていたらしい。などと悠長なことはこの際引っ込めといてやる。

 いくら疲れがたまっているとはいえ、そんな雑談をしているような場合ではない。

「早く」の意味を顎をしゃくることで示す。彼女の目には俺がよほどの奇人に映ったらしい。訝しむように眉間に皺を寄せたものの、きちんと病室から抜け出して、給湯室のある方向へこそこそ動き出した。

「さて、君はこの町の惨状をどう思う?」

「それは僕の返答には」などと戯言に付き合うつもりはない。

「単刀直入にいう。今この町は絶滅の危機にある。それも事態は非常にひっ迫している。今月……あと10日か、そのうちにケリをつけないと間違いなく。だ。君は私を気が狂った医者だと思うか?」

 あと三日。そんな口からでたらめを行ったところで、事態は変わらない。満月は既に終わっている。この状況に、冷静になろうとすればするほど、憤怒の念が胸を焦がす。

 大きく息を吸い、目の前で困惑するガキを見る。俺の視線が怖いのか、この状況を理解しがたいのか、唇を震わせるだけで何も発しようとはしない。当然だ。こんなオカルトみたいな状況、理解しろということこそ無理がある。

「それと瀬戸内さんはどういう……」

「消えたんだろう? さしずめ水たまりかどこかを歩いているときにでも」

 ガキが口を開いた驚きと、それに順応していいる俺に対する驚きと。

 食い入るような視線。前のめりに聞く姿勢。決して話そうとしない娘のスマホ。こいつがどういう心境でここまでやってきたのか、そんなことまで俺は知らん。だが……。

「これから話すできごと。それを信じるか信じないかはお前の勝手だ」

 俺は、信じない。決して。

 話の内容を少しでも腹に残しておくと、それが詰まってすべてを吐き出すことができない気がした。だから、できるだけ深く、ゆっくり深呼吸をしてすべてを吐き出す。

「今から千年以上前、ある男が月人に惚れた。月人はこの地に永住するつもりはなかった。が、男の存在が足かせとなり、月に還る日数を大幅に超えてしまった。怒りに震える月の住人は何度も男に月人の返還を求めてそのたびに交渉した。まぁ、交渉なんてそんな牧歌的なもんじゃない」

 その千年前の出来事は、今と違って医療も発達はしていない。赤く光る窓の外を、ちらと見やる。

「男が惚れた月人はその地の民にとってとても重要な人物だった。それこそ千年以上たった今でもこうして熱烈に返還をもとめてるってほどにな……。男は、ある条件提示させられた。その条件さえ飲めば、晴れて月人と暮らせる。しかし、男は条件を飲まなかった。いや……条件も飲まなかった」

 救急車が何台かこちらに向かっているのか、職業柄あまり聞きたくない耳障りな音が遠くから近づいてくる。

 話はそろそろ区切りをつけて、こちらも臨戦状態にしておく必要がある。幸か不幸かこちらの話になんの疑問も持たない程度の知能しか持たない間の前のガキは、俺の服装からして俺の立場が分かったらしく、そのうえでこんなオカルト話をするこの病院の医者を少し訝しんでいるようだ。眉間にわずかに皺はよるものの、だまって話を聞いている。

「……どうして?」

 わずかに唇が震えるように見えた気がしたが、別にその質問に答えてやるつもりで言うわけじゃない。

「水だ。この世界にあふれている水を要求してきた。この世界を焼き払い、すべてを蒸発させるつもりだった。お前は大切な人間をそばに置く代わりに、この世界の人間を一人残らず殺す決断が下せるか?」

 タイミングを計ったように画面に亀裂が走った娘のスマホが淡い光を放つ。

「……見て見ろ」

 白衣のポケットに忍ばせておいた俺のスマホも、申し訳程度の光を放って小さく自己主張していた。

ーーーーーーーーーーーー世界各国で森林火災相次ぐ

 臨時のネットニュースが流れてきていた。俺の説明よりもそっちのほうが身に入りやすい。

「探しているんだ。月の因子で満たされた次期神楽耶姫を。嫌がる姫を月人は強引に連れ去る瞬間、姫は光の粒になり消えた。らしい。」

 粒になっても男のそばにいたかった。これだけ聞けば聞こえはいい。

「……もしかして、それが」

 どうやらガキはろくに未だに飯も食っていないらしい。空気が口から洩れて声は小さく、頼りない。全力で走ってきたのも加味しても、立っているのがやっとってところか。

「本来ならば白雪姫症候群は肌の一部分が白濁する程度の外見が損なわれる。古来の言い伝えではその後神隠しにあうとされる。……うちのバカ娘は、発症から今日までの間白濁が止まることはなかった。選ばれたんだ次期神楽耶姫に……。ここから先は何も知らないお前には立ち入れない話だ。うちに帰って晩飯でも食って寝るんだな、葉月連」

ーーーーーーーーこいつら一族がすべての元凶、神楽耶姫を殺し、疫病を地球上に振りまいた。

「名前……どうして……?」

 なんだ、こいつ。そんなことまで知らないのか。東も、もっと情報を与えてやるべきだろうが。

「錯乱してたからな、お前は母親を手にかけたあとにどういうめぐりあわせか俺の病院にやってきた。俺は瀬戸内孝則。お前が必死に探し回っている瀬戸内雪菜の父だ。そして俺の家系はだいだいお前ら葉月の一族を監視する役目を担っている。初めましてと言いたいところだが、生憎そんな悠長な時間はない。単刀直入に言う。娘はあきらめろ。伝承が本当なら娘さえ手渡せば世界の崩壊だけは免れる」

 話は済んだ。コーヒーが届かないのは、きっと誰かにつかまってそのまま現場に連れていかれからだろう。となれば、俺も悠長に夢想している場合ではない。代々受け継がれてきたくだらない妄想もこれでしまいだ。白雪姫症候群の研究もこれで意味をなさないことが、わかった。これまでの苦労も、もう少しで完成するワクチンさえも意味はない。

 娘は、戻ることはない。


 だから、諦めろっていうのかよ……!


 ひらがなで脳内に入ってくる言葉を、俺は知らない。

 今まで怯えと驚きの表情しか出さないガキが、俺に対して啖呵を切っている。

「父親なんだろう! それで納得できるのかよ! 父親っていうのは、どこでもそんな勝手なものかよ!」

 俺は最初、娘のスマホを持ってきた子のガキをぶっ飛ばしてやろうと心の隅で思っていた。それを止めたのは俺が着ているこの潔白な白衣だ。これを着れなくなれば、娘を本当の意味で守ってやれない。そう考えると、一気にその気は失せた。が、俺は気づくとガキに胸倉をつかまれて、ベッドに押し倒されていた。

「なんか知っているんだろう?! 千年前の出来事なんて俺は知らない。でも、千年前の出来事と同じになるとは限らない。そうだろう! 人間な、明日の天気だってわかんねぇんだぞ」

ーーーーーーーーーー明日の天気もわからない、か

 ノックもコーヒーもなしに、あの看護婦が戻ってきてほぼ罵声のような仕事の要請をしてきた。

 取ってつけたような典型的な内容だったので、反射的に行動で来た。今は、このガキに構っている場合ではない。が、明日の天気は晴れるのかもしれない。

「私が知っていることはさっきのが全部だ。だが、もし仮にほかに何か情報があるとすれば水無月神社だろう」

 ガキをはねのけ、ドアを開ける。何度も往復する医師と看護師が慌ただしく作業に追われていた。


 僕は、遊園地からの帰り道、ある決心をしていた。

 もう、自分に嘘をつかない。欲しいものは口にする。

 それが人間として生きているということ。

 そうなのであれば、僕は僕の犠牲になってしまった母さんの分まで人間として生きることが、親孝行につながるはずだ。

 だから、言おう。

 ちゃんと。

 そう思っていた。

 遊園地を出てから、僕らには何の予定もなかった。電話を切ってしまった以上、瀬戸内さんはしばらく病院にも顔は出しずらい。僕のほうも、こういう状況はあまり慣れていないので心臓の誇張は止まることを知らなかった。

「どこいこっか……?」

 気分だけ先走ってしまっている僕が、どういうわけか行きつけの書店を目指して瀬戸内さんの手を引いている。でも、そんな僕の浅はかな内情なんて僕より人付き合いが上手な瀬戸内さんからすれば答えの知っているテストのようなもので、少し頭の情報を思い出すだけで想像なんてたやすい。

 通り雨の夕暮れ。消えかかる虹を前に僕は口火を切った。

「このままだと君のお父さんに僕が何を言われるかわからない。だから、少しだけお茶でもしていかない?」

 言いながら我ながらナイス言い訳だと思い、内心自分をほめていた。思い返せば、あの建物の二階は確かに喫茶店だ。

「珍しいことは続くものだねぇ。まぁ確かに、帰りずらいのもあるよね。でも、まさか電話を切ってくれるなんてね」

 笑ってこそいるけれど、その言葉の意味を僕は悪いほうにとらえてしまったので何も言う事が出来ないままただ目的地を目指していた。そのうちに僕は、電話を切ってくれたなんて皮肉を言われたことをひどく後悔している自分に気が付いた。同時に、そこから先に進む力が失せて、歩を止めてしまった。

 当然、そんな僕を瀬戸内さんは不思議に思うだろう。

 ここが田舎で本当に良かった。ここがもし東京のような人口密度が飽和状態の場所ならば、歩道で急に止まってしまったら後方からついてくる人の列が詰まってしまい、迷惑をかける。そして、その人たち全員から不思議がられる。そんなところとは違い、ここは遊園地だって電車に揺れないとたどり着けない田舎だ。ぴたりと立ち止まっても、そこまでの注目は浴びない。

「……どうしたの?」

 息をするような当然の言葉に僕は。

「僕は、もしかしたら君の生活基盤を壊したのかもしれない。もしかしたら、とんでもないことをしでかしたのかもしれない。もしそうだとして、君を不幸にしてしまったのなら、僕にできることがあれば」

 なんでもしよう。そう、言おうと思った。

「……ありがと。そういうことであるなら、一つだけお願い。もっと欲しがって。今のこの時間と」

 背中には、身に覚えのないぬくもりがあった。風に乗ってくるのは、身に覚えのある匂いなのに。

 聞き覚えのあるその声の主は、僕の肩に両腕を回して、ぎゅっと力を込めた。

 僕は、瀬戸内さんを初めて意識した時のことを思いだしていた。

 世界が、息を潜めるような濃密な静けさを。血の濃度が一気に上がる感覚を。

 言わなきゃ。本能的にそう思い、振り返ると、瀬戸内さんはまるで本当はそこに誰もいなかったみたいに消えていた。

 呆然とする僕と誰も視線を合わせることはなかった。目の前で人が忽然と消えているのに、誰も僕に気づこうとはしない。

 気の抜けた声が唇から洩れる。どうしようもなく阿保みたいな声。無意味な五十音。

 彼女がここに立っていた現実的な証拠はその瞬間まで何一つとしてなかった。

 ただ一つ、ひどくひび割れてしまった彼女の愛用のスマートフォンが水たまりの近くに落ちていて、それがまるで瀬戸内さんであるかのように、頭の追いついていない僕は大事に抱き上げた。


ーーーーーーーーーーー僕はまだ、瀬戸内さんに本心を打ち明けることはできていない。

 

 瀬戸内さんを探さなくてはという考えが、瀬戸内さんを見つけなければとういう意識に変わり、気づけば病室

にいた。


 小説や映画なんかでは、きっとこういうときはわき目も降らずにヒロインを探しに行くのが定番。ヒロインだなんて呼び方は抵抗はあるけれど、僕はそうしなかった。

 東の家に戻り、夜が明けるのを待っていた。そうするしかほかなかった。

 情報網は錯綜し、交通は麻痺。近くの発電所にまで隕石が落ちがという話も出回ったけどさすがにそれはデマだったらしく、一応電気はついた。

 町は、津波にでもあったみたいに崩壊していた。

 瀬戸内さんの父親の話が本当なら、わずかに街らしい建物を残したのも「いざというときはそこも壊せる力を持っている」という脅迫なんだろう。病院とケーブルテレビの基地局、ご丁寧に大手スーパーまで残してあった。

 玄関を開けるなり、三人が急に居間から出てきて僕は質問攻めになることになる。

「今までどこにいたんだ?」とおじさんは少しだけ怒っているような表情で。

「どうして連絡の一つもよこせないの?」とおばさんは情報網が一時的に死んでいるのをわかっていない様子で。

「ケガはない?!」と心配する杏奈はその先に僕が予想していた言葉を話すことはなかった。

 今一つ腑に落ちない不自然な会話。何か物足りない、終わり方。

「……瀬戸内さんの病院に行ってきた」

 隠す必要もないので、そのまま息をするように話をした。もしかしたらぼくがそんなことをするなんておかしいかもしれないけど、興奮気味の心とは裏腹に体はひどく疲れていたのでできるだけ早く寝て明日に供えたい。見てきた街の惨状も、脳裏に焼き付いていたので今日はもう無理だろうと判断した。

 帰ってきた反応は、その町の惨状に拍車をかけるような奇妙な回答だった。

「……瀬戸内? あんたの知り合いかなんか?」

 あんな話を聞いたうえでも、心のどこかで疑っていた。僕の目の前から消えたといっても、それは何かの勘違いで実は僕の知らない自宅のほうにでも戻っているんじゃないかって頭のほうで勝手に都合のいいイメージを作り上げていた。だから余計に、杏奈のスマホのデータを見たい欲求に駆られた。

「ちょっ……あんた、なにすんの……?!」

 ない、ないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないないない。

 ……ない。

「あんた人のスマホ勝手に分捕っていったい何考えてるの?!」

 杏奈のスマホには、今日撮ったはずの僕の写真がなかった。僕の記憶にはあの冷たくて甘いパフェが鮮明に残っているのに……。

 何もかも嘘に思えて、もう何を見ればいいのかわからない。目の前の人たちでさえ、本当は別の何かで、もしかしたら僕には人に見えているけどもはや人としての形をしていない別の何かだっておかしくはない。

 目の前の人たちだけじゃない。もしかしたら僕だって本当は別の何かなのかもしれない。

「とにかく、もう遅い。早いところ夕食をとって今日のところはもう寝よう。町のことは明日になれば明るみになる。今こうしてとやかく騒いだところでどうにもならん」

 人の形をした三つの個体は井戸端会議を終了させた。

 僕もまた、促されて家の中に入っていく。この家の中に本当に実在するものなんてない気がした。

 夕食なんて喉を通るはずもない。そもそも例の写真もないのだから、僕が何かを食べているところなんてこの三人はしばらく見ていないはずだ。だから当然のことながら、僕は自室の机の引き出しに眠っているサプリメントを大量に飲み下す。

 腹が空く感覚、のどが渇く感覚、この空気に違和感を覚える感覚は確かに感じているのに。

「ねぇ、本当に何も覚えていないの?」

「……お金なんて借りてないけど」

 この会話は現実だというのか。

 

 僕の自室には普段あまり使わないベランダがある。

 星空を眺めるような趣味も、なにか植物を育てるような趣味も、町の風景をぼんやりと眺める習慣も、僕にはない。それらのことになんの意味も持てなかった。まして今日のような夜遅くに、ベランダに出るなんて考えたこともない。

 ひんやりとした空気の中に、この町のどこかで起きている火の気配がした。

 隕石が降ってきたなんて大げさな表現の現象が、この町に起きた。

 幸い、そんなに大きなものでもないし、10分程度で収まった。まともに降ってきたら、きっとこの町なんて跡形もなく消えるだろう。なんならこの地球上に増えすぎた強欲の塊も。

 人は、何かを欲する。生きるため、自分の生活を向上させるため。その行為は破壊を必ずもたらす。

 僕が自らの食欲に負けて、母さんを殺したように。

 瀬戸内さんのお父さんは言っていた。

 葉月の者を監視する役目だと。

 視界に広がる暗闇の空に、一筋の光が一瞬だけ斜線を描いて消えた。見える限りの地平線の向こうで小さな赤い光が灯る。そよ風が僕の短めの髪を揺らす。

 僕が、僕の家系の人間がこの惨事を招いたのか……!

 僕が生きることは許させないのか……!

 どうしようもない吐き気に急に襲われた僕は、手すりにもたれるようにかがむしかなかった。

 寒気と吐き気に震える僕の耳に、どこからともなく救急車のサイレンが聞こえた。


 日が昇ると同時に、玄関から一人で出ていくつもりだった。冷静に考えて、行ったところで何も変わらないという事は十分承知の上で、それでも何かしないと気が狂いそうだった。

「一人でどこに行く気? お金もないくせに」

 朝日をバックに、余所行きの格好をした杏奈が僕に凄む。小鳥さえ控えめに鳴いているっていうのに、どうしたらそんな溌溂とした声が出せるのか。

「散歩」

 言いながら杏奈の脇を素通りする。

「……あんた、昨日から様子が変なのよ。私の顔をじろじろ見たりとか、変にこっちの気を勘ぐるような感じとか。どこに行くのか知らないけど、日ごろ部屋にこもりっきりのあんたじゃ迷子になるのがいいオチ」

 気にせず歩を進めようと歩き出すと急に腕を掴まれた。

「何隠してるか知らないけど、あんたがそんなに興味を持つことなら私も行く。今度こそ、私があんたを守る」

 痛む脇腹の古傷が何を言わんとしているのか分かった。

「父さんじゃあの時は無理だった。少しだけ力が足りなかった。でも、もう力で解決できる相手は少なくともいない。私にだってできることはある」

 昔なら、その腕を振りほどくことはできたはずだ。でも、もう何日もサプリメントに頼り切った生活をしている僕に、そんな筋力はない。そして何より、

「そんな体で歩き回るとか、預かっている人間としておばさんに顔合わせができない」の言葉に、僕は怒っている母さんを想像してしまい、ここしばらくの自分の生活習慣と僕を心配してくれている杏奈に申し訳ない気持ちがでてしまい、腕を振りほどくことができなかった。

ーーーーーーーバスは予定通りにやってきた。

 ついてきてくれてありがとう。そんな言葉は僕の口から出ることはなかった。今の僕の行動を杏奈に説明をしようにも、信じてくれるとは思えない。僕らはお互いに目を合わせることもなく、一番後部の席に並んで座った。

 出かけるときは曇っていた空が徐々に晴れていき、雲の隙間から刺す陽光に少しだけため息が漏れた。右側に海が見える。その陽光は、海に向かって伸びていき、海面に突き刺さっている。

 僕たちの住む町は、嘘みたいな出来事に苛まれているのに、すこし街を離れるとそんなことはまるで起きていないかのような牧歌的な空気にそまっている。

「っていうかさ、そのなんとかって神社にいったい何があるっていうの? あんたが何かに興味を示すのは珍しいことだし、これを機に変われるのであればそれは結構な進歩だとおもうけど」

 水無月神社はすでに廃れていた。バスに乗る前に検索すると、数年前の津波にすべてを飲み込まれ、建物は海の藻屑と消えた。幸い宮司さん家族は無事で、再建に向けて動いているらしい。

 その時ついでに検索したことに、疑念を抱いていた。

 各国で肌の白い人たちだけがこの数日の間で次々と失踪していた。しかも、全員満月の夜に。

「信じてくれとは言わない。でも、いたんだ。僕と杏奈に大切な友達が」

 僕が落とす視線の先のスマホには、件の失踪事件に関する続報が流れてきていた。

「……、役場にはちゃんと失踪した人の個人情報があるのに、失踪当日を境に関係者から忘れさられるみたいだ。個人差はあるらしいけど」

 スマホを掲げて見せてあげる。腑に落ちない表情で画面を覗く杏奈。半信半疑だけど、一応文面は追ってくれているらしい。

 瀬戸内雪菜。僕は心の中で彼女の名前を復唱してみる。

 大丈夫。僕はまだ覚えている。そう確認するという事は、僕もいずれは忘れてしまうときが来るのかもしれない、そう考えるといたたまれない気持ちに肋骨のあたりから急に寒気が訪れた。

 

 水無月神社。海辺にあるとは聞いていたけど、イメージとは真逆で人気のない山の上にその跡地はあるらしい。ところどころかけてしまった鳥居を前に、気の遠くなるほどの石段を眺め、呆然とする。石段はもちろんひび割れたところから草が生えていて、それでも原型をとどめてあることにすら感心する。

 木ででできた立て札に神社についての説明がある。

「千年まえからある……の……?」

「ちゃんと今の形かどうかわ怪しいけど、基盤みたいなのはできてたんじゃない?」

「ていうか、呑気に立て札なんて読んでる場合じゃないでしょ。あんた、なんだか知らないけど付き添ってやってるんだからちゃっちゃと用事を済ます! この見返りはちゃんと果たしてもらうんだから」

 本当にこんなところに何か手掛かりがあるのか、こんな草木しか生い茂っていない誰もいないような廃墟同然の建物に。考えが考えを呼んで、僕の足は杏奈にせかされるまでまるで脳からの信号を一切受け付けなくなったみたいにピクリともしなかった。

 僕をあざ笑うみたいに能天気な小鳥の鳴き声が明後日の方から聞こえる。

 鳥居をくぐればそこから先は神の領域。一切の殺生は禁ず。

 その傍らにきれいな花が咲いていた。思わず触れる。

「あんたその花ホントに好きだよね」

「……昔母さんの実家で見たことがあって。この花を見ると春が来たんだなって思えるんだ」

 冬も終わり春が来ようとしてる。この花の持つ意味を、瀬戸内さんは知らない。

「アスチルベ? だっけ?」

 僕は何も言わずにその花を少しだけもらうことにする。自己満足かもしれない。けど、この花を僕は彼女にあげたい。本人は意味も分からず首をかしげるだろうけど、意気地のない僕にはそれが精一杯の冒険。

 息を飲んで足を一歩踏み入れる。別段なにも変化はない、あるのは僕のそうした好奇心と畏怖の念に震える足。空からの日光を受けて濃い影を残す僕の輪郭。

 最初の数段はどうといったはない。心拍数も上がるわけではないし、足だってまだまだ。

 晴れているし日光だってさしている。でもここの雰囲気はそういった光の類をすべて吸収してしまうかのような禍々しいなにかを感じずにはいられない。だからだろう。杏奈が珍しく僕の後方からついてくる。

 最初は少しだけ視線をあげるだけで、あぁ、もう少し登れば届く距離じゃないか。なんて高をくくっていた。

 歩を進める度、けだるい足で石段を蹴る度、もう少しがいつの間にか少しだけまだかという苦悶に濁っていく。普段運動をしていない僕よりもなぜか杏奈のほうが歩みは遅く「ちょっと、どうしてそんなに早く登れるの!?」と僕でさえ知りたい質問をしてきた。

 微かに冷たい空気を吸う度、肺が悲鳴をあげて痛む。これ以上動かないでくれ、少しでいいから休ませてくれ。そう言っているような身に染みる痛みが肺を犯していく。

 ようやく最後の一段。これでようやく肺と体から矛盾する温度の条件を入れ替えることができる。はずだった。

ーーーーーーーーーーー僕はどこかで期待していた。

ーーーーーーーーーーーそこには誰かが住んでいて、その人にすこし尋ねることが出来れば答えはすぐにわかると。

ーーーーーーーーーーーだから、その光景に、僕は

 呆然、その語源がどういうものかは知らない。けど、僕の心は阿保のように空になって、目の前の土地のように荒れた更地のように荒涼とした風が流れていく。

 心臓が荒れる。暴れるようにはじけるように、体から突き抜けんとするその鼓動に血液が体を幾重にも円を描き、回る。そのたびに、熱を帯びる血管。そんな機械的な体は持っていないけど、僕が放つ熱を説明するにほかに言葉は見つからない。そんなことを考えているほど、僕のちんけな脳みそは高性能ではない。情報を処理すのに限界を迎えている。その判断を下すのでさえ、熱を上げる原因になりうる。

 後ろのほうで杏奈が土を踏む音がして、自分がかろうじて息をしていることに気が付いた。

「……グーグルだと画像までは出ないわけだ。せっかくここまで登ってきたってのになんもないって……」

 色褪せた鳥居と広がる草原。周囲には林が目立つ。

 僕は神社に参拝をするような信心深い人間ではない。杏奈もそうだろう。仮に行ったとしても正月の初もうでに友達と行くくらいなものか。僕はそれすらいけないけど。

 だから、イメージでしか想像をしていない神社に、僕は木造を想像していた。なにかしら、千年もの歴史を感じる痕跡なんかを。

 そこから先、僕になんのプランもなかった。

「何ぼさっとしてんの? あんた、ここに何かあるっていってなかった? 探すんでしょ? なんだか知らないけど」

 僕らのくるぶしくらいに生い茂る草を雑踏して、鳥居をくぐる杏奈。躊躇なく鳥居は無視する。

 何かって、何にもないじゃないか……。

「ってか、あんたが言い出したことだからね。もう、いい加減しっかりしてよ」

 手を引かれ、ようやく意識と体が一致する。探しに来たんじゃないか、ここにもしかしてこの状況でも何か、あるかもしれないじゃないか。

 探そう。

 振り払い、走り出す。

「ちょっ……。もう、さっきからなんなの!」

 絶望に視界が曇ったせいで、周囲の状況はあまり頭に入っていなかった。僕は走り出すまで、友達に遊ぶ約束をすっぽかされたときみたいに、視界が狭まっていた。

 潰された可能性にあわてていた心臓が、広がる可能性に興奮する。情報を拾おうと、目に、肌に、鼻に、耳に、血を送り燃焼させる。途中勢い余って、顔から地面に折れた。痛みより、恥じより、何より手掛かりを……。

 立ち上がると、五月の風が林から吹き抜けてきた。僕の軽い髪をいたずらに浚う風は、林と僕との間に何もないことを、信じたくない現実を突き付けてくる。

 なんだよ……何もなじゃないか。

 期待させておいて、なんなんだよ。

 あんなオカルトじみた話。信じるほうも、馬鹿だ。

 瀬戸内さんはもう戻ることはない。そもそも、いたっていう証拠なんてどこにでもあるようなあの画面の割れたスマホくらいじゃないか。

 いなかったのか、何かを欲する気持ちを誰かに認めてもらいたい自分と、自分を赦したい心が僕に見せた幻影。

 膝から力が抜けて、その場に崩れた。

 渡したかった。この花の持つもう一つの意味を。それがくしゃくしゃにちぎれようとも。

 僕の本心を。

 なのにどうして……!!

 大切に守ろうとした僕の本心は今、両手のこぶしでしおれていた。

ーーーーーーーーーーー何やってんの

 微かに笑う母さんの声が聞こえて、はっとする。祈りにも似た僕の両手の先に、草に埋もれた崩れた石造のようなものが朽ちていた。界隈の歴史的な暴動に巻き込まれて粉砕された残骸か、大きな自然災害で草に埋もれたのか、このまま朽ちるのをただ待つ人工物はもうほといてくれよと言っているかのようにやる気がない。

 上半分、右から左下にかけてボロボロに切り取られている。ちょうどその真ん中あたり。ほかの箇所とは違い、黄色く色付けされている気がして両手をほどいて近づく。

 その瞬間、何かを膝で踏んだらしく、声にならない悶絶の声を吐いて悶える。半分だけ体をのぞかせて地面に這いつくばっているので、はたから見たら草むらに隠れているようにしか見えていないはずなのに「遊んでないでちゃんと探しなよ。いい年こいてかくれんぼのつもり?」なんて冷めた声が後ろからした。

 痛みをなんとか誤魔化して立ち上がり、いったい何を踏んだのかとあたりを探すとちょうど掌に納まるくらいの大きさの石を踏んでいたことに気づく。それも何かしらの染色を施されているらしく、今度は黒く湾曲した線が描かれたいた。

「……なんかそのギザギザさ」

 その言葉を聞き終える前に試しにその石を朽ち果てた石像に乗せてみる。

 でも、その欠片はその石像のかけらではないらしくその切り口がうまくかみ合うことはなかった。

「安直すぎるよ。僕がこの石像を壊した本人なら、壊したらその辺に放ってはおかないよ。どうせならバラバラにして……」

ーーーーーーーーーーバラバラに……?。

 石造から僕に向かって長い影が伸びていた。もちろん欠けているので影の形は歪だ……でも、この感じどこかで……。

 頭の中の記憶をたどっていく。仮に、この石像がほかの誰かに何かを伝えるためにここにあるとして、そしてそれはもしかしたらこの形を生かした状態でした伝えることができないとしたら……。

 石を元の場所に戻す。と、その周囲は平らな岩盤でできていること気づく。

「ここは……もしかして」

「何? どうしたの?」

 僕の想像が当たっていれば、いや、これはもうそうじゃないと納得がいかない。

 石を影の先端に持ってくる。ちょうど太陽と崩れかけた石像と石が一直線になるように、星座の移り変わりでその土地に起こる自然災害を知るために建造されたピラミッドのように……。

「これって……」

「これがいつ頃作られたかは知らないけど、見るからにこの辺の人たちが最近作ったわけではないみたいだ」

 太陽を直接見るわけにもいかないので、角度をつけて見てみる。黄色い着色が施された場所に、大洋がある。冷静になってよく見ると、そのすぐ下に人影のようなものが掘られている。余計な偏見があるのか、僕にはそれが誰かをさらう何かに見える。塗装は曖昧だけど、信じたくはないけど、その部分も黄色くなっている。

「この黄色いのってまさか太陽のこと言ってるってこと? なんかすごくない!? 私たちなんかの文明を解き明かしているような感じ!」

「……太陽じゃない。太陽なら赤で描くはずだ。国旗だってそうだろう?」

 手に持った僕が踏みつけていた石を、影の延長線上に置いてみる。

 想像してみる。一直線に並ぶ月と石像。そしてこの石はきっと……。

「祭壇、なんだと思う。ささげるための……」

 お月見は、その年の豊穣を祝いつきに捧げる。それはもちろん取れた作物や、季節の野草なんかを。

「……ん? なんか裏に書いてある」

 僕の目からは既にそれは石ではなく、何らかの形で歪になってしまった大きな台座に見えた。何かの拍子で形が崩れた台座ならば、そこに置くという言葉じゃない。はめるという言葉が相応しい。現に、多少なずれはあるけれど、大体の凹凸が地面の凹みに無理なくあってしまった。そんなことに少しだけ興奮していると、杏奈も別な何かを発見してしまったようだった。

「月……人……?」

 反射的に僕もその文字を読みたくなり、立ち上がる。僕の動きが予想の外の行動だったようで、杏奈は少しだけ目を見開いてたじろいだ。

 そして、僕は……いや。僕と杏奈は言葉をなくした。

 丸い月らしきものの近くに、浮遊する2つの人影。それを見送るような形でもう一人。脇腹のあたりに傷がある人影。

 僕はその瞬間、古傷が痛んだ気がして脇のほうをぎゅっと押さえつけた。

ーーーーーーーーーーこれはオカルトの話なんだ。僕とは一切関係のない話なんだ。

 葉月御前。脇腹に傷のある人影の名前のようなものを、僕は認めたくなかった。


 言い伝えによると、それは暦に訪れる満月の日に起きるらしい。

 言い伝えによると、代々器となる人物が決まっているらしい。

 言い伝えによると、二人は生まれ変わる呪いを受けたらしい。

 言い伝えによると、器は人格を乗っ取られるらしい。


 水無月神社は瀬戸内さんの母方の実家だった。

 瀬戸内さんの母親は、満月の日に失踪したらしい。

 老人施設に通う瀬戸内さんのおばあさんはそう同じことを繰り返していた。

 

「お前さえいなければ……」


 おばあさんは恨めしそうに涙をためて、僕を指差した。


 僕は、葉月御前の生まれ変わり……。


欲しがることは生きる事。

 欲がないという事は、死んだも同然。

 僕は、生きててはいけないのか。

 欲しがるという事はそれに見合った対価を犠牲にするという事。

 生きるという事は多かれ少なかれ誰かを殺すということ。

 僕は、誰も殺したくなんて……。


 あの夢を見始めたのは、生まれて初めて病室の天井を眺めた日から。

 その日から僕は、味覚も嗅覚も聴覚も曖昧になった。

 何を食べても何を聞いても新鮮味を感じられなくなって、次第に興味を亡くした。

 ただ食欲に関しては、口に入れると嫌悪感が広がり、味のあるものはすべて吐き出さないと胃をひっくり返すほどの強い吐き気に襲われるようになってしまった。

 瀬戸内さんを初めて見た時、その曖昧になった感覚が一気に研ぎ澄まされる感じがした。

 心が、彼女を欲しがった。


 どうして、こんなことに…………!!

 どんなにベランダの壁を叩いても、冷たい人工物はむなしく音を鳴らすだけ。

 欲しい、欲しい、欲しいんだよ。どうしても、僕には……。

 欲しいのに、いない。欲しいのに、見れない。欲しいのに、寄り添う事すら……。

 これは僕が、僕の祖先が起こした呪いだとでも言うのか。

 今日もどこかで隕石が落ちて、今日もどこかで火事が起きる。救急車の音が、聞こえた気がする。

 そのどれもが僕のせいか……。僕は、瀬戸内さんをあきらめないといけないのか……!!

 振りかざした手から鉄の匂いがして、初めて血が出ていることを知る。もう、空腹なんて感じない。

 痛みすら鈍感になっている。それも栄養が足りていないのか。赤い血が、申し訳程度の川を掌に作って流れて滴る。いくら握りこぶしを作っても、砂時計のように落ちていく。

 僕の体を維持する赤い血液が体外に流れ出るのを改めてみると、膝から下の力が抜けてしまった。


 人は、誰かが死んだときにでも腹が空く。

 僕も漏れなくそんな非情な人間で、瀬戸内さんが消えてしまって二日立つのに僕は睡魔にベッドで飼われていた。

 もう僕にはどうしようもないというあきらめからか、僕の体はベッドの中で朝日を浴びることなく小さく丸まっていた。

 僕は知らなかった。満月というものは月に一度しか訪れない自然現象なのだと。

 たとえなんの生まれ変わりだろうが、先祖が何したって僕はただの人間だから、どうしようもない。人間、自然には叶わないことは何年も前に起きた津波で見てきている。

 考える。ということは、まだあきらめきれていない証拠なのに。現実を受け入れられない僕は、ただただ布団の中で空しく藻掻いては浪費した時間の分だけ訪れる空腹にさいなまれる。

 時間は既に十時を回っていた。

 階下で何か騒がしい音がして、その音は瞬く間に消えた。誰かが口論をしていたらしいけど、その勢いを殺したまま、渦中の一人が二階に上がってくる気配があった。

 バタンと、冷静さを感じさせるドアの締まる音が逆に怒りの感情を表しているようで、僕はそのまま息を潜めた。

 音は向かいの部屋から聞こえた。杏奈が何かで怒っているのは間違いない。

 今日は学校は臨時休業のはずだ。例の隕石が学校の校庭に飛来して、今後の状況が収まるまで避難所に待機とのことだった。幸い、東家周辺の学区はいまだに隕石が一つも落ちていないからひとまずは安心だろうなんて空気が流れているから、僕たちは避難せずに過ごしていた。でも、実際あんなもの落ちて来ようものなら地下施設でもない限り、無事では済まないからどこに居てもおんなじだ。

 バタンとまた音がして、杏奈らしい気配が階下へと消えていく。

 また、誰かと口論しているらしい。具体的にどういう会話がなされているかは階下との境界を作る床に阻まれて聞くことはできなかった。ただ、

「ちょっ、杏奈!」

 おばさんのその声と杏奈が玄関を出ていく物音だけがはっきりと聞こえた。

 こんな状況でどこに行くつもりなのか、僕には全く見当もつかない。

 ただ一つ言えることは、こんな状況でも行かなかなればいけないところが杏奈にはあるという事。

 気になった。どこに行こうとしているのか。こんな状況で出かけたところでその先にいったい何があるのか。

 ベッドを抜けて、窓際に立つ。そっとカーテンを開けると雲が低くどこまでも続いていて、少しだけ憂鬱になる。ちょうど玄関から飛び出した杏奈は、そのまま町の中心街へと走っていく。

 杏奈は、化粧をしていた。きれいに見せるため、というよりは冗談でやっているのか顔が異様に白い気がする。その姿はどんどんちいさくなって、家の塀に隠れて消えてしまった。

 同じく杏奈の動向を気にして外に出てきたおばさんと視線が合ってしまい、僕はちいさくおはようの意味を込めて会釈をしたうえで階下に降りることにした。起きていても寝ていても僕が欲しいものは既にこの世界にはいないのだから、どちらの選択も意味はない。

 リビングではおじさんが外行の服装に着替えていた。僕を見るなり少しだけ険しい表情で挨拶をしてくれた。

「杏奈が急に白塗りの格好で外に出てしまったんだ……!……こんな大変な時に……心当たりはないかい? 杏奈は何も言わなかったけど、きっと何か事情があるに違いない。ちょっと探しに行ってくる。連君も何かわかったら連絡してほしい」

 僕を見て、その次に視線をテレビに向けたおじさんは僕の横をすり抜けて玄関へと向かう。

 杏奈が白塗りで出て行った……。

 はっとした瞬間、背筋に冷たいものが一筋流れていく感覚があった。

ーーーーーーーーーー白雪姫症候群の患者は皆、肌が白い。

 急いでスマホを取り出して検索する。が、あわてた拍子に床に派手に転げた。椅子の真下に移動したそれを拾おうとかがんだ時、お守りのように持ってきてしまった瀬戸内さんのスマホがタイミングよく光っているのが分かった。

 誰かからの連絡……?いや、これは……。

 本日、五月二十五日月曜日は見る人を幸せにするブルームーン。大切な誰かを誘って二度目の満月を眺めてみては?

 ブルームーン……、二度目の満月……。

 思わずその文面を読みながら小さくつぶやいてしまった。

 最初その言葉の意味がよく呑み込めず、数舜の間をおいてようやく僕の脊髄が思い出したように僕の僕の体に命令を下しだした。

 すぐさまスマホを拾い上げ、受話器のアイコンに軽く触れる。そこに現れる東杏奈にカーソルを合わせてもう一度受話器に触れる。

 思えばスマホなんて名前で呼んでいたけど、電話なんだなとその瞬間気づく。今月、もう一度満月がある。もう一度、チャンスが訪れる。それ以外情報はないし、もしかしたらただの満月で、僕が期待するような出来事は起きないかもしれない。でも、これはチャンスなんだ!

 淡い期待が希望に変わり、希望がそのうち願望に変わり、杏奈が電話に出るころには興奮に変わっていた。

「今どこ!?」

「……どこって、モール。……神隠しだかなんだか知らないけど、見つけたらぶっ殺してやる」

「記憶、戻ったの……?」

「そんなわけないでしょ。でも、あんた。私を頼ってくれた。こんだけ長い間幼馴染やってて初めて私を頼ってくれた。何やっても私にはなんの興味も示さないあんたが、私をようやく認めた。……信じてあげる。その代わりその犯人が見つかってことが解決したら、タピオカごちそうしてよね。全く、こんな田舎じゃまともなカフェもありゃしない」

 協力はありがたい。……でも。

「いいから、そんな事より早く戻って! こんな状況だし、犯罪なんかも起こってもおかしくない!」

 津波の時は、世紀末みたいな空気が漂っていて明日の生活の保障もわからないような生活をしていた。テレビでは報道されていない犯罪のようなものも耳にした。

 でも、今は……。

 雨が、降りそうだった。さっきまで薄い雲どこまでも空を覆っていたのが、今はそれがさらに厚みを増して灰色から黒に近いような雲が重たく漂ってる。今にも降るのではないかと、窓から様子をうかがう。

 この世界から水を奪おうとしている。そう話していたのは瀬戸内さんのお父さんだ。

 戻ってなんて頼んだとしても、杏奈はきっと戻らない。僕と違って昔から意志が強くて、決めたら必ずやる気るタイプの人間だから。だから面倒なクラス委員なんてものも、頼まれた部活の掛け持ちもできるやると決めたらどこまでも。

「今度は心配? あんた本当にどうしたの? 昔はもっと淡白で人間関係に興味なさそうだったのに」

 僕が、人の心配……?

 言葉にするには曖昧で、とっさに出た感情なのでその感情に何か名前を付けられることに何も発せなくなった。

「もしかして、私がわすれたって娘、あんたの彼女だったりして」

「馬鹿じゃないの?!」

「おやおや、ずいぶんあわてたご様子で。やっぱり図星かぁ。先越されたなぁ」

 僕の心境を逆なでするような笑いを受話器越しでする杏奈に、僕は話す気分をなくしてしまう。

「通り魔かなんかでもさ、何かあったら近くの駐在所入るし大丈夫。それより、あんたその子見つけ出したらこんどはちゃんと紹介しなさい。なんなら禊のタピオカの時にでも」

 緊張感のなさと受話器から洩れる周囲の音に気が抜けた瞬間だった。

 ぶつり、と電話が切れた。なんの前触れもなく、あたかもその続きの会話でもあるかのような不自然な区切り。

 何かが起こったことは分かった。冗談やジョークではない空気が受話器から伝わってくる。僕はどうしても通じることのない呼びかけをせずにはいられなかった。

「杏奈……?杏奈……?!」

 何度も、何度も。繰り返すたびに繰り返される無音の返事は、僕の頭にある到底理解できないことへの確信へと変わっていく。

 月人。そんな連中が実際いたとしたら、これはあいつらの仕業なのか?

 肌が白いという理由だけで瀬戸内さんと一緒に、ここではないどこかへ連れ去り、完全なかぐや姫を蘇らせようとしている。

 そんな妄想が、そんな空想が、そんな空論が色を帯びて熱を帯びて頭を埋め尽くす。

 寒気がした。病気でもないのに……。

 つながることないスマホをポケットにしまうと、僕はおじさんの後を追うように玄関から外へと走り出していた。

 遠雷が聞こえている。まるでこれから先には近づくなと警告しているみたいな音だった。


「ちょっと行ってきます!」

 行ったところで何ができるのか、何をしようとしているのかさえ分からなかった。でも、何とかしなきゃという気持ちだけは自分でもどうにもならないほど熱をもって、僕の足を前へと動かして、玄関をでたところで前のめりになりすぎて危うく転びかける。

 鼻につくコンクリートの匂い。いやに熱を帯びた風。もうすぐ雨が降り、そして梅雨も始まる。五月が、終わる。満月も今日だけ。

 だから、なんとしてもいかないと。

 背後でおばさんが傘を持って行けと声をかけた気がするけど、気づいた時には家を角を曲がっていた。

 月人なんてそんなオカルトじみたそんざいがいたとして、昔、僕の先祖がそいつらの怒りを買ったとして、僕のことをまだ覚えていたとしたら、僕はもしかしたらこの家には戻れないかもしれない。

 返事くらいはするべきだった。少しだけそんなことを考える。

 もう、いつ降り出してもいいくらいの薄い雲がどこまでも続いている。

 見上げる頬に、一滴雨が落ちてきて、僕はさらに足を速める。

 場所ならもうすぐ、きっとおじさんも同じところにいるはずだ。


 町に隕石が降り注いだというのにも関わらず、それがやむと購買意欲がわくのか、平日だというのに家族連れが多い。

 二階フロアから流すように視線を運んで、杏奈を探すも見つからない。

 家族連れに紛れているのか、店の中に紛れているのか、もしくはすでに……。

 暗い考えが頭をよぎりそうになる、でも、とにかく探さないことには。

 僕がショッピングモールにつくころには、すでに日没していて遠くの家屋からもう少しで例の二度目の月が見えてきそうな気配があった。

 時間にしてきっと20分ないだろう。本来なら来るはずのない二度目の満月が夜空の頂に移動するとき、何かが起こるはず。

 僕の意識の届かないどこかで、僕の目の前で消えてしまった瀬戸内さんに何かが起きて、それを助けようと家を飛び出した杏奈にもきっと……。

「連君。やっぱり来てくれたのか……」

 おじさんは二階のベンチから身を乗り出して僕を見ていた。表情を見るからに、杏奈はまだ……。

 まばらに階段を下りてくる家族の群れを縫うようにさかのぼり、おじさんの座るベンチのところまでやってきた僕に、おじさんは薄く笑った。

「ずいぶん探したんだけどね、まだ見つからないんだ。全く困った子だ……。変な輩につかまってないといいんだが」

 周囲を見回してももちろん杏奈と思われる人影はいない。それどころか、隕石が落ちてきたテナントを見ようと奥の野次馬がひしめき合っていて、その中から一人の人間を探すのはとても骨が折れることを視覚的に認識させられて少し足元がおぼつかなる感覚に陥る。探せるのか……この中から、たった一人の人間を……?!

 妙なタイミングで電話が切れた。頭の中でそのことは広告塔のような目立ち方で鮮やかに存在感を出しているけど、目の前で狼狽しているおじさんを見ているとそんなことはとても言える事じゃない。叔父さんもそれなりに現実と戦っているはずなんだ。目の前の息が詰まるような人だかりと、いまだに黒い煙を薄く上げる建物に。

「もうすぐ雨も降るってのに、今頃何してるんだか……。連君傘は?」

ーーーー雨が降る……?

 ぽつっ……と一粒。冷たい何かが頭上に落ちてくるのを皮切りに、一斉に滝のような水がモールを包んだ。

 嘘だろ……!?そんなの?!

「本格的に降ってきたねぇ。連君も立ってないで、ほら」

 差し出される隣の席と傘のとって。叔父さんは何も知らない。だからそんなに安直な笑いを出せるんだ。

 その傘の中に入ってしまえば、僕はこのまま何も知らないふりをして、誰かがこの問題を解決してくれることを願いながらいつか止む雨を待つことができる。

「どうしたの? ほら。杏奈のことならきっとすぐに表れるから。じたばたしたって見つかりっこないだろ? いつもの連君ならそう……」

ーーーーー僕は。

「どうしたの? ほら、風邪ひいちゃうから」

「すいません。待ってるだけなんて、もう嫌なんです。もし見つからなかったとしても、見つかったときに杏奈の奴に笑われたとしても今行動しておきたいんです」

 二人とも、必ず見つける。たとえ無駄に終わったとしても、この足だけは止めたくない。

 だから、

「俺、行きます。叔父さんは待っててください」

 振り返る視線の先の、例の人だかりは似たようなことを口にして、四方に霧散していった。テナントからもう煙が上がることはない。


 杏奈の電話はぶつりと切れた。直前まで電話していたのだから、どこかに電話が落ちているのかもしれない。血眼になって路面を探すも、それらしいものはない。

 後悔するもの遅すぎるくらいに僕は雨に打たれすぎていた。うつむく姿勢の僕の顔からいくつもの水滴が無数に落ちる。寒気が絶望に変わるのも時間の問題だった。絶望が孤独に変わるのもそう時間のかかることではなかった。

 降りしきる雨の中、泥まみれになりながら路面を探す僕。探して見つけたとしてもそれがいったい何なのか。それで杏奈も、瀬戸内さんも助かるわけもあるまいし。

 それがいったい何だというのだ。

 おじさんの元を離れてちょうど化粧品販売店の前に差し掛かった時、僕の足はいう事を聞かなくなった。

 それが、いったい、なんだと……。

 泣いたところで何も解決しないことは百も承知なのに、自分の無力さを嘆いたところで二人は戻ってこないのに。

「どこまで行っても何にもないよ。まったく葉月の人間はどうしてこうも欲に忠実なのか、せっかく楔を打ってやったっていうのに」

 振り返ると叔父さんが立っていた。傘もささず、服も濡れていない。まるでなにか透明な、ごく透明な空気の層でもまとっているような。

「どうしたらあきらめてくれる? 葉月連。僕はお前の半生を見てきたから少しは期待できると思ったんだけど、やっぱり血筋か……」

「叔父さん……?」

「この会話を聞いてもまだ僕をそんな目で見るなんて、君は一体普段から何を読んでいるんだ? 教養にと僕が小説を読むことだけは許してきたっていうのに、ほんと期待外れ」

「月……」

「おっと、それは他言厳禁だ。僕が実は千年も前から地球に移り住んだ。……住むことを義務付けられた宇宙人だなんて話されたら、僕は恥ずかしくて会社も辞めなくてはならない。君はともかく、授かった娘は飢え死にさせるわけにはいかないからね」

 叔父さんは人差し指を立てて、口元にあてがう。

 飢え死にさせるわけにはいかない。叔父さんはその言葉を口にした瞬間片側の口角を上げて薄く揶揄しているような笑みをこぼして僕に一歩ずつ近づいてくる。足取りは軽く、なにかものでも拾いに行くかのような気安い動きで。

「だったら杏奈はどこに? 瀬戸内さんだって」

「君もうすうす感づいているんだろう? 肌が日に日に白くなる病。ある日突然人が消える現象。確かに飢え死にされると困るが、何もそれは愛情などと目にも見えない軽薄な感情からくる心理ではない」


「生贄だよ。瀬戸内雪菜は杏奈や、その他大勢の人間から採取される月の因子をもってかぐや姫に生まれ変わる」


 …………今、何が起きた?!


「驚くのも無理はない。僕は月からの使者。自らが映るものであればなんでも出入りすることができる。こんな水たまりがあるところなんかだと、瞬間移動に見える」


 一歩ずつ近づいてきても、まだ十メートルは感覚があったはずだ。一呼吸して瞬きをした瞬間、鈍い音がしたかと思えば、目の前に叔父さんがいた。

 息が、できない……。緊張なんかじゃない、恐怖なんて身近に感じる安い危機的感情なんかでもない。僕がいま感じているこの焦燥感と、絶望感の原因は得体のしれないものを目の当たりにした畏怖の念。体に力が入らない。でも、その場にへたり込むような真似もできない。

「他に何か質問は?」

 息の詰まるような距離まで迫られたうえに、言葉とは裏腹に質問を一切受け付けない態度。僕の視線数センチから重たい視線で見降ろされている。

「当ててやろう。何を聞きたいのか。どうせ君のことだ。私の本性を知って何も言えなくなるほど緊張しているのだろう」

「……どうしたら瀬戸内雪菜をこの場所に呼び出すことができるのか? だろ?」

……違う。僕が本当に聞きたいことは、もっと。

「残念ながらここに呼ぶことはできない。もし仮に呼び出したとしても、君は彼女に呼びかけることもできない。彼女には一切の情報が入らないようにあらゆる感覚を断絶している状態にしてある。月の因子を取り込んでもらうには、それなりの体力も必要でね」

「そんなっ、事のために。杏奈にも嘘ついてきたのか……」

「……口が利けるのか。驚いたな」

 それまで僕の顎に手を添えて、見下すような態度だった叔父さんは、僕が言葉を発することが思いのほか驚愕だったようでその姿勢から半歩ほど下がった位置に背を向ける形に逃げた。

 そしてあざ笑うかのように両手を軽くあげて、僕の言っていることがまるで分らないといった調子に「嘘なんてついてないさ。僕なりに愛情をもって育ててきたし、その存在は今後かぐや姫の中で生きる。私のいう事は何でも聞いたし、気立てもいい。私が作り上げてきた素材の中では例を見ないほどに最高傑作だ」

「あいつは、杏奈はあんたを信じてこれまで生きてきたんだぞ!? 今まで過ごしてきて」そこまで言い切って僕は自分がしていることに一瞬青ざめる感覚になった。

「なんだ? まさかこの僕に君の父親を重ねているのか?」

 僕は振り返る叔父さんの胸倉をつかんで、表に出すことのなかった怒りの感情を出していた。

 そしてそれに気づくのと同時に、

「そうだな。種明かしと行こうか。……たしかこんな顔だったか」

 しわが伸び、髪も伸び、目は細く鋭いものになり、気づけば肉付きもよくなっていく。

 この顔は、こいつは……。

「久しぶり……だよな? この顔は」

 名前なんてとうに忘れたはずなのに、この顔を思い出すたびに、父親という存在がいたことを思い知らされる。

「実のところ上の方でも人間のサンプルとしての葉月の人間には愛想をつかしていてね。呪いもいつしか呪いと認識されることもなくなり、災害なんて自然現象みたいな名前に変わってしまった。だから僕は人類に対して楔を打つのではなく、個人に対して楔を打つことに決めた」

 それが、母さんの死……。

「そうとう応えたとは思うんだけど、やっぱり足りないようだったね。ほんと残念に思うよ。でも、それも今日までだ」

 今日まで……。目の前で起きている現実とその言葉の意味が頭の中でないまぜになっていた。目の前が真っ白になるにつれて、腕から力が抜けて、怒りが絶望へと染まっていき、やがて胸倉をつかむ手を放してしまっていた。

「今日をもって人間に対する欲望の耐性実験は終了だ。人は欲望には抗えない。君の欲しがっていた瀬戸内雪菜は次期かぐや姫の器として完成する。葉月の人間よ。自分を呪うことはもうしないでほしい。いずれこの星は消えてなくなる運命だったのだから」

 空に浮かぶ青くない月は、ただ漫然と輝くだけで僕を救おうとはしてくれない。幸せの青い月だなんて、嘘っぱちだ。

 祈りや願いでは望みは叶えられないのを瀬戸内さんは教えてくれた。

 でも、もう何を行動すればいいのかもわからない。

 力なく膝をついていた。

 胸倉をつかんでいた手は空をさまよい、さみしさからか二つ寄り添う形でとどまった。

 祈ってしまった。どうか最後に一度だけでいい。瀬戸内さんと会いたい。会って気持ちを伝えたい。

「祈ったって行動に移さないと何も変わらないって普通わかるでしょ? もうじき隕石がまた降ってくる」

 道端にできた水たまりにはきれいな満月が浮いていて、憎たらしいほどに輝いていた。湿り気を含んだ風が通り過ぎる瞬間、その月はさざ波を立てて揺らいだ。

 叔父さんの体も、それに共鳴するように波打った。

「世界の終焉くらい家族で見届けよう。連」

 雨は止んでいた。見上げる雲のすき間にいくつもの光の筋が孤を描いて消えていく。これからこの光の筋が世界に甚大な被害をもたらす。森は焼け、ビルは崩壊し、海は煮えたぎる。

「母さんが死んだのは計算のうち……?」

「いつの間にか死んだことになっているのか。あれは殺したんだろう? 欲望の業を背負った人間が」

 もう、何もする気が起きなかった。叔父さんが目の前にしゃがみこんで口を開くまでは。

「……やっぱり最後くらいは願いを叶えてやろう。家族なんて言っても葉月の人間はもうお前しかいないわけだし、今まで惨めな思いをしてきたのは事実。僕もなんだかんだ言いながらここに長くいすぎた」

 立ち上がると同時に、視界の隅で丸い球体が水たまりからぬっとあらわれるのが映った。淡い光を放つそれは、月を手のひらサイズに収めたような物体で、少し目を凝らせばクレーターのようなものが見える気がした。

 クレーターがいそいそと動き出し、どかで見かけたような抽象画を描いていくのにそう時間はかからなかった。

 こんな時にでも、かわいいと思えるその寝顔。ぼんやりと光る球体にラフ画で現れたのは僕が欲していた人だった。

 気づくのが先か、動いたのが先か。僕は衝動的にその球体を腕の中に収めていた。

「時間をあげよう」叔父さんは腕時計を確かめるそぶりをする。

 球体は暖かかった。まるで瀬戸内さんの体温をそのまま腕にくるんでいるみたいに、甘い体温を上半身で味わっているみたいに。

「僕が、欲しがったばっかりに。……ごめん」

 球体は何も返してはくれない。

 球体の中でも、眠っているのかもしれない。僕の隣の席の白雪姫は。誰の邪魔もされず、何人も彼女の妨げにはならない。

 僕はそのことを思い出し、まだ雨雲が残る満月を見上げた。

「さぁ、もういいだろう」

 願いなんて祈ったって叶いはしない。

ーーーーーーーー今日、初めて私の自殺騒動に関して止もしないありえない人が現れた。

 まるで遠く彼方から自分の意識が瞬時に戻ってくる感覚だった。

 今のは、瀬戸内さんの……記憶?

ーーーーーーーーもう自殺なんてしない。だってそんなことをしなくても生きているっていう実感を与えてくれる人に出会えたから。私は、生きている。

「見よ。この満天の星空を。このすべてが地上に降り注ぐ!」

ーーーーーーーーびっくりしたぁ! まさかその人から遊園地に誘ってもらえるなんて思ってもみなかったから。いやぁ、これまさか帰り道に告白なんてされたらどうしよう!

 遠くのほうで火柱が上がった。轟く残響は周囲を巻き込み、僕の目の前の水たまりに波紋を広げ、また月が波打った。

 瞬間、また叔父さんが顔を中心に波紋を打つようにゆがみを生じて揺れた。

 こんなものがあるから、こんなもののために何人もの人や、杏奈や、瀬戸内さんが……。

 右腕を振り上げて、そのまま水たまりの丸いそれに振り下ろす。

「お、おい……! 何を考えている? よせ!」

 肉と骨と皮とがすりあわされる鈍い音と、拳から滴る赤い体液をみるなり、叔父さんは悶えた。

 栄養素のあまりない僕の血液が、黒いアスファルトを伝い、黄色く丸いそれを犯していく。

「汚れる! 私が人間ごときに……!」

 顔面を抑えて燃えだる叔父さんは、直立不動の人型から形を変えて、獣のような姿でのたうち回る。月の使いだなんていうくらいだから人型でなんなら光すら放つ存在だとばかり思っていた。率直な感想は月の裏側の影。

 波紋が波になり、もう姿も判別できないほど大きなうねりになっている。

 叔父さん。いや、月人の存在が危ういせいなのかもしれない。僕の周囲の水たまりから次々と丸い球体が現れる。その中にまた、僕が昔から知っているなじみのある寝顔が垣間見れる。

「僕は確かにおろかかもしれない。でも、僕はそのおろかな僕のせいで先に逝った母さんのためにも正直に生きる」

 最後にもう一振り加えようと拳を振り上げた瞬間、叔父さんは消え、腕の中の球体は天使のような寝顔の瀬戸内さんが月明かりに照らされていた。

 隕石は、流れ星に変わった。

 なんだか気が抜けて、振り上げた拳の痛みが鮮度を増して存在を伝えてくる。

 もう、終わったんだ。瀬戸内さんも戻って、杏奈だって……。 

 僕を中心に円を描くように色白の女性が横たわっていた。その垣根の向こうで、人影がむくりと起きてこちらを見るなり、

「ゆ、雪菜ぁぁぁぁっ!」と駆け寄ってきた。

「あんた、なんでこんなとこに雪菜がいるのよ?! 病院は?!」

「……終わったんだよ、全部」

「終わったって……。雪菜、起きないじゃん。息は? 脈は?」


 体温なんて、こんなに濡れそぼっていれば冷たいに決まっていたし、てっきりまたねむているものだとばかり思っていたから僕はそんなことに気を払いもしなかった。


 僕はほんとうにおろかだった。

 戻ってきた安堵から何も確認をせず、生きていると勝手に思い込み、少しだけ泣いてさえいた。

 瀬戸内さんは、息をしていなかった。



 どうしても欲しいと願った人は僕の手の中にいるはずなのに。

 あんなに見とれていた寝顔が僕の腕の中にあるというのに。

 水面から現れた瀬戸内さんは、冷たい。人としてのぬくもりをどこかに置いてきたみたいに、まるでそもそも熱というものがもともとなかったかのように。この状況に、僕は名前を付けることがどうしてもできなくて……。

 欲しかった。

 初めて会ったとき、僕の世界を止めるほどの安らかな寝顔が。

 欲しかった。

 次にあったときの屋上の縁で、死をももてあそぶかのような自由な足取りの彼女が。

 どうしても、欲しかったのに……。

 なんでも素直に欲しいと願う彼女の純粋さが、僕にはどうしても欲しかった……!!

「う、うぁああぁあぁぁぁぁああぁぁっぁぁあっぁぁあああああああああああ!」

 いくら声を振り絞ろうとも、この僕の駄々には神様は頷いてはくれない。

 こればかりは、どうしても僕の頑張りではどうにもならなんだよ。だから、お願いだから手を貸してよ……!神様……!

 雨は、鈍い空からまっすぐ降下して、何もできずに口を開けて泣き叫ぶ僕の口に入っていく。

 僕は泣いている。今までなんで泣いてこれなかったのかわからないほど、涙腺が決壊していた。杏奈も見ている。どうして泣いているのかなんてわからないのだろう。全身ずぶぬれで呆然と僕を見ている。恥じらいなんてそんなものは何も感じない。ただひたすらに悲しい。悲しんだ。

 手に入らなかったことが。

 歪んでしまったことが。

 何かできる気がしてこの場所にきたはずなのに、そんな小さな自信も今やなんの価値も見いだせないくらい見えなくなっていた。

 ……何かを欲しがるには同等の何かをささげるのがこの世の定め。

 僕が瀬戸内さんにしてあげれることなんて、ない。

 もし、この命をささげることで僕の一族の罪が浄化できるとして、まだそれが間に合うとして……。

 臀部に転がったガラスの破片を手に取ることになんの躊躇もなかった。それを何に使おうかなんて考えるまでも。

 手に取り、形状を確かめ、ようやく掌に納まるそれだと認識して心から安堵する。これを一突き喉に刺しこむことで、僕の汚れた血が僕から消えていく。流れた血は地球の浄化作用で霧散する。

 僕はその現象についても名前を付ける気にはなれなかった。

 ただ、それが当たり前の現象みたいにすっと喉元に鋭いそれを突き立てる。

ーーーーーーーーーーーテンテテテンテンテンテレテレテレテレテテテレテテレテテン。

 雨の音の中に微かに、どこかで聞いた間の抜けたメロディが鳴っている気がした。

 その音に、なんだか気が抜けてそのまま元の位置にガラス片を置いてしまう。

 同時に、僕の右ポケットから明滅する瀬戸内さんの壊れかけたスマホがしきりに何かを誇示しているのが目についた。視覚情報は感覚器官で膨張し、驚いた皮膚感覚は過敏にスマホのバイブレーションを僕に過剰に伝え、結果的に数年ぶりに目を見開いたうえで、絵にかいたような驚きの表情を作らざるを得なかった。

 お父さん。

 雨粒が躍る画面にははっきりそう記されていた。

ーーーーーーーーーーー娘は無事か?

 スマホをタップして出た相手は不愛想な声で僕にそう言った。現実をその目で見て、伝えろと。

「すぐに答えないところを見ると、娘の意識はないのか……」

「僕が、欲しがったから。瀬戸内さんを欲しいと思ったから、だから……、こんな……、でも……、僕はどうしても」

「泣き言をいう暇があるなら、少しでも現状を報告しろ。欲しいものを欲しいときに欲しいだけいうなら子供だってできる。お前は五歳児か。……息はあるんだろう? 確かめろ」

 水たまりから現れた冷たい体の彼女の運命を僕は勝手に脳内で決めつけていた。

 死んでいるものとして脳内でかたずけていた。

「電話しながら聞け。あの後念のためお前の唾液も検査してみたら興味深いことが分かった。……お前の唾液に含まれる成分は、白雪姫症候群の因子を中和する働きがあるらしい」

 そういえばあの時、胸倉をつかまれたのに驚いて持っていたペットボトルを落としてしまってたことに今更気づく。

「よく聞け小僧。一回だけだ。だからと言って今回の件をゆるつもりなんて毛頭ないが、娘をお前に」

 言葉を遮るようにスマホを耳から放す。例の銀縁眼鏡の瀬戸内さんのお父さんの声が遠ざかり、最後に小さくキスという単語が聞こえて、僕はうれしくなる。

 気づけば雨は止んでいて、雲の切れ目から例の幸福の二度目の月が僕らを見ていた。

 幸せの青い月。

 もしかしたら後で怒られるかもしれないけど、その時は勘弁してね。

 小さくではあるけれど、僕は瀬戸内さんにそう告げる。

 白雪姫の毒リンゴを取り除けるかは知らないけれど、うわごとを言うように小さく動く瀬戸内さんの小動物みたいに小さくかわいらしい唇に、僕はそっと唇を重ねた。


 

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白雪姫の眠りのように 明日葉叶 @o-cean

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