先輩は有能だけれど兎に角ドライで僕に厳しい。

木元宗

「ハッピーバレンタイン」


 なんてこったい。仕事が片付かないまま、二十二時になっちまったぜ。


 壁の時計を一瞥した僕は、現実から目を逸らすように、デスクの窓から真っ黒になった街を見下ろした。

 

 僕は、映画雑誌の新人編集者だ。夢と将来への希望に満ち溢れている。嘘である。疲れたので今すぐにでも帰りたいが、担当している記事のチェックが終わらないので帰れないのだ。デスクとは日本語で牢屋である。


 新人編集者なんて先輩のパシリみたいなものだ。現場では雑用の為にこき使われ、飯を買って来いとコンビニまで走らされる。ああ、所謂いわゆるスーツや作業着を着て出社するような、一般企業に就職していった同期達が妬ましい……。締め切りがスケジュールを支配してるから、定時も休みも無いようなものだし、こんな時間まで粘っても、記事は上手く纏まらないし……。


「何かもう毎日疲れるし、生きてるだけで褒められたいなぁ……」


 …………。


 椅子にだらりと凭れたまま、ちらりと前を盗み見た。


 依然、そちらから発せられている打鍵音は激しいビートを刻んでおり、止まる素振りも減速する様子も無い。


 向かいのデスクにも、残って仕事をしている人がいるのだ。入社五年目の小谷絵瑠眞エルマ先輩が。欧州の血が入っているらしく、胸まで伸ばして縛っている髪はブラウンが混ざっており、白い肌も黄みがかっていなくて外国人ぽい。間違い無くうちのデスクで一番綺麗な人だが、間違い無く僕の声が耳に入っていない。


 先輩は僕と違って仕事を溜め込むような人では無いし、今残っているのも早く仕事を片付けたい為の筈だ。しかし、形骸化した定時は過ぎて久しいのに、その間一度も手を止めていないのだ。


 心配になったのもあって、僕は再び声を掛けた。


「そういう日ってありませんか。エマ先輩」


 やってやったぜ。


 僕はそれは自然な流れで、一部の先輩や編集長にしか許されていない小谷先輩の愛称、“エマ呼び”を達成した喜びに、内心小躍りした。


「無いね。惨めだし」


 ノートパソコンから目を離さず、手も止めずに即答された。


「…………」


 僕は傷付いた。


 ていうか最初から聞こえてたのか。聞こえていた上で、無視をすると決めたのか。


 いや、落ち着くんだ。まだ何も終わっていない。


 エマ先輩は僕と同じく二十代でありながら、我が編集部のエースと称される程バリバリ仕事が出来る上に、常に特集の立案や取材の為に飛び回っているスーパー編集者じゃないか。僕のような平凡な後輩の悩みなど、想像すら困難というものさ。


 つまり僕は別に、あんまり話した事も無いエマ先輩に嫌われている訳じゃない!


「いや、イマドキの人なら皆思いますよ多かれ少なかれ! 絶対!」


 エマ先輩はやっと手を止めると、上体を横に傾かせて、ノートパソコンの陰からひょいと姿を現した。ざっくり縛っている髪が、黒のロングTシャツの肩から流れて、灰色をしたクールな目と視線が合う。


 あら可愛い。


 表情はいつも通り乏しいから、何を考えてるのはよく分から


「多少なのか絶対なのかどっち?」


 おっと見惚れてぼーっとしていたぜ!


「ありまぁす!」


 慌てて喋り方がおかしくなった!


「へえ」


「反応薄くないですか!?」


「どうでもいいもん」


「どうでもよくないんですよ僕にとっては!」


 つまり僕とは軽んじられている!?


 然しエマ先輩は動じない。その姿勢のまま、言葉を探すように天井へ視線を泳がせると口を開く。


「ああ、そう……。なら、誰か出勤して来たら頼んでみたら? 生きてるだけで偉いって褒めて下さいって」


「職場でそんな事言い回ったら社会的地位が終わるじゃないですか!」


「確かに……。もし私が頼まれたら、断る上に君の事が嫌いになる」


「何で自分がされたら嫌な事を人に勧めたんですか!」


「君と私って感覚が違うし」


「それは確かに! いや、そういう話じゃないんですよ僕がしたいのは……」


 落ち着け。粋な男とはクールなものだ。


 そしてエマ先輩とはこの性格から、多分うるさい人は好きじゃない。どうでもいいとか言われたし。いや、別に落ち込んでなんかいない。僕のハートは鋼さ。


 言い聞かせながら、咳払いをして切り出す。


「こう、褒められたら嬉しいじゃないですか。仕事って褒められる事より、疲れる事の方が多いし……。評価もされない努力を皆支払って、日々頑張ってる訳ですよ! そこをこう、頑張ってるねって言って貰えたら、嬉しいじゃないですかッ!」


 クールに決めるつもりが、つい熱弁を振るってしまった。何故なら僕は疲れていたから。


 だって二十二時を回っても仕事をしているのだ。それだけでも褒められたっていいだろう!? 僕は百パーセントの力で日々働いているのに、全然仕事が片付かなくて疲れたんだ! 文句を一言も零さない奴の方がどうかしている!


 エマ先輩は僕をじっと見たまま、考え込むように八の字を寄せた。


「……自分とは仕事で評価されない人間だから、誰かに手放しで褒められて慰められたいって事?」


「何でそういう言い方するんですかァ!!」


 デスク一仕事の出来る先輩を怒鳴ってしまったが図星だった。僕は見返りが欲しいのだ。


 矢張やはりエマ先輩のようなパーフェクトヒューマンに、僕みたいな凡人の悩みなど分からないのかもしれないな……。


 項垂れて、コーヒーを淹れたマグカップに手を伸ばした。とっくに飲み干して空っぽだった。


「でも、評価されてない事は無いよ。私ちゃんと、君が残業してる時の勤務態度、編集長に報告してるし」


「えっ!」


 顔を上げると、ノートパソコンを脇に置いて、休憩がてら頬杖を突いているエマ先輩と目が合った。可愛い。


 確かに僕は、教育担当の先輩に叱られて残業する事もあるけど、自分から残る事が多い。そして残業中はほぼ毎回、エマ先輩も残っていた。いつも忙しそうだから、声をかける事はあんまりしてこなかったけれど……。


「君が私のいない所で、残業中の私をどんな風に周りに話してるかも、全部編集長から聞いてるし」


「ェエッ!?」


 鳥類みたいな奇声が出た。


 まずい、エマ先輩は残業中疲れがピークになって来ると、大声で般若心経を唱え出す癖があると話したのがバレてしまったのか!?


 エマ先輩は、頬杖を突いたままで言う。


「随分私について面白おかしく話してるんだね。嫌われてないようでよかったけれど」


「ああ、それは、ハイ……」


 それはエマ先輩が、黙っていられないぐらい面白おかしい人だからだと思う。


「それでも今の待遇が不当だと思うなら、転職するか、私より仕事が出来るようになるしか無いよ」


 そこまでの覚悟も能力も無い僕は、半笑いで目を逸らした。


「いや、それはぁー……」


 絶対無理。


「じゃあ褒められる回数は今のままだね」


「いやそーいう真面目な話じゃなくて! もっとこう、ユルい話ですよ! ほら、ネットとかで見るじゃないですか! “生きてるだけでえらい”とか! これはあくまで、そういう事言われたいなァーっていう願望ですよ!」


 エマ先輩は頬杖をやめると、珍しく困った顔になる。


「……生きるのは生き物の本能じゃんか。偉いとか偉くないとか、そもそもそんな物差しでする話じゃないよ」


「何でそんなに理詰めなんですか!」


 この人実はアンドロイド!?


「正しい事が好きだから」


「お、おおう……」


 即答されて怯んだ。


 自分の主義についてこうもはっきりとした答えをすぐに返せる人って、多くないと思う。


 エマ先輩は涼しい顔で、マグカップでとっくに冷え切っているコーヒーを呷った。


「人間が持ち得る機能美のゴールだと思うけどね。理性的って」


 超然が過ぎる。


「エマ先輩が動揺してる所を見た事無い理由が分かりましたよ……」


「そうかな。まあ、世の中色んな人がいるし、息をしてるだけで褒められたいと思う人だっているんだろうね。それこそ人間ならではの驕りみたいで、面白いんじゃないのかな。命の尊さと承認欲求を混同してて」


「いやエマ先輩そういう事言う人絶対に嫌いでしょ」


「プライドの無い人間嫌いなんだよね」


「嫌なんじゃないですかやっぱり!」


 そして僕はもうおしまいだ!


 エマ先輩は僕に目も合わせず、空になったマグカップを置く。


「そういう事を言う人の人生が充実していないのは、自分の能力に対し、過剰な賞賛を求めてるからだよ」


「ウギャーッ!」


 鋼のハートを蜂の巣にされた僕は、頭を抱えて絶叫した。


 エマ先輩はそんな僕にやっぱり一瞥も投げず、ノートパソコンを引き寄せながら続ける。


「だから人に認めて貰うには、口じゃなくて手を動かさないと駄目なんだよ。人って皆、他人には無関心なんだから、気を引くには自分に価値を付けるしか無い。つまり、何もしてないのに褒められたいなんてチョコレートみたいな甘い考えに浸かってる暇があるのなら、出来るものからでいいから、目の前の事に一生懸命取り組むのが一番なんだよ。昔から、どこの世界でも、真面目な人が好まれる理由とはここなんだから」


 エマ先輩は言い終わらない内に、仕事を再開した。


 ぐうの音も出ない正論をぶつけられた僕は、ティースプーン一杯分ぐらいの寂しさを胸に、自分のノートパソコンを見下ろす。


 ……でも、そうだよな。僕がぐちぐち言っている間もエマ先輩は、仕事の手を極力止めなかったし。


 成果を出している人とはそれだけ、人並み以上の努力をしているんだ。こんな時間まで残業をしているように。


 仕事は辛いなんて皆知ってるんだから、そんな事で嘆いてちゃ進めない。正直エマ先輩はメンタルが強過つよすぎて、参考にならないけれど。


 僕は、眉をハの字にして苦笑した。


「……そうですね。頑張ります」


 仕事を再開しようとキーボードへ目線を下ろすと、何かがデスクをるような、すーっという音が近付いて来てピタリと止んだ。


 何だろう? エマ先輩がやっていたみたいに、上体を横に倒してノートパソコンの向こうを見る。


 デスクに伏すように上体を倒したエマ先輩が、猫みたいに伸びていた。伸ばした片手には小さくて高そうな紙袋を提げており、僕のノートパソコンの脇でぷらぷらと揺れている。


 エマ先輩は伸びたまま、目を丸くしている僕を見上げる。


「甘い考えとはさっさと切り落とすべきだけれど、得手不得手があるからね。それこそ色んな人がいるんだから、当然考慮しないといけない。同時に努力とは、何らかの形で報われるべきだ。だからこれをあげよう」


 エマ先輩はアピールするように、紙袋をガサガサ揺らす。


「……何ですかこれ?」


「チョコレートだよ。昨日バレンタインだったじゃん。君は取材で殆どデスクにいなかったから、社内の人から貰い損ねる破目はめになってたけれど。不平等だから今朝買っておいたんだ」


「えっ?」


「甘いのは嫌いだからね」


 エマ先輩はふにゃっと笑う。


「これを食べて、そんな考えは切り落とそう。糖分なら脳を回すから邪魔にならないし、私は生きてるだけで偉いなんて絶対に思わないけれど、努力している人間とは、誰よりも偉いんだから。さっきも言ったけれど、君の努力は把握するたび編集長に伝えてるから、無駄になんかなってないよ。直向きな人も好きだ。尊敬に値する」


 色々な感情が一気に押し寄せた僕は、上手く言葉が出せないまま、ニヤニヤしてしまっているんだろう。


 パーフェクトなエマ先輩にこの機微は分からないようで、訝しむように眉を曲げた。


「……何? 私何か、面白い事言った?」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

先輩は有能だけれど兎に角ドライで僕に厳しい。 木元宗 @go-rudennbatto

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ