神様が消した罪

「これで貴方の罪は赦されました」


 神父様は慈愛を帯びた表情で免罪符を私に握らせそうおっしゃってくださいました。


 免罪符に必要な寄附金の為に持っていた全ての財産を売却し足りない分は情状酌量の余地があるとして神父様が肩代わりしてくださいました。


 免罪符が発行されるまでは教会にお世話になりました。


 この期間に憲兵隊に捕縛されると罪として裁かれると伝えられ窓に近づく事もできずにただ怯えて過ごしていました。


 そして免罪符が私の手元に来た時点で私の犯した罪は裁かれず何も無かったとして処理されます。


「免罪符は罪が消えたと確証できるまで肌身離さず持ち歩きなさい。乱暴な憲兵隊から貴方を守ってくれるでしょう」


 私の罪が私の心から消える事はないでしょう。


 免罪符には私が犯した罪が事細かに書かれ教皇様直筆の署名がなされています。


 私は夫を殺したのですから。


「神父様ありがとうございます。しばらくは実家に身を寄せて赦された罪と向き合いたいと思います」


 普段大人しい夫はお酒が入ると性格が豹変し些細な事でも私に暴力を振るっていました。


 その日も遅くまで仕事仲間達と飲み部下の方達に支えられながら帰ってきました。


 そして私の表情に不満を持った夫からいきなり殴られました。


 私達夫婦にとっては日常的な出来事です。


 此処までは……


 鼻奥から熱い物が湧き出し堰き止める為に鼻を摘みました。


 堰き止めきれなかった物で手が赤く染まり更に溢れて床を汚していきました。


 床に染みが残らないよう慌てて布を探そうと立ち上がった時に夫と目が合いました。


 夫は悲しく泣きそうな表情を浮かべた後に激しい怒りの表情に変化し私の首を夫の大きな手で締め付けてきました。


 鼻を抑えた私が彼の何かを刺激したのでしょう。


 苦しみもがく私を床に押し付けて更に締め上げてきました。


 殺されると恐怖心を抱いてからは無我夢中となって抜け出そうと試みました。


 気がつけば私は夫を包丁で刺していました。


 馬乗りになり何度も何度も繰り返しました。


 後になって聞けば神父様に止められるまで既に息絶えていた夫を殺し続けていたそうです。


 記憶が曖昧になっています。


 自分の事ながら恐ろしいと感じています。


 感情に任せて何かを起こした事はこの事以外には記憶にありません。


 ただ包丁で何度も刺した手の感覚と目を見開き驚いた夫の表情だけ私の魂に鮮明に焼き付いています。


「何度も言います。貴方の罪は赦されたのです。全てを忘れて強く生きるのです」


 神父様は心配そうな表情で私の震える手を握り暖めてくださいます。


 その震える手は人を殺めた手であり神父様が握るべきではない物ではありません。


「ですが私の魂に刻まれた感覚を忘れる事が私にできるのでしょうか?」


 このまま全てを忘れて実家に帰って本当にいいのかわかりません。


 幸いと言えば語弊があるかもしれませんが二人の間には子供ができませんでした。


 もし子供がいたのならと想像すると恐怖を感じます。


「貴方が貴方を赦さない限りその感覚は残り続けるでしょう。ですが貴方の心を締め付ける貴方の罪は赦されているのです。神がお赦しになった以上前を向いて生きる義務が貴方にはあるのですよ」


 神父様のお言葉が全く心に響きません。


 私は赦されたかったのだろうか?


 ただ怖かっただけではないのだろうか?


 逃げて俯いて怯えて過ごした教会を去る時刻が訪れます。


 実家に帰る乗り合い馬車に乗る為にお世話になった神父様にお別れの挨拶をします。


 荷物は免罪符だけ……


 他には何も持っていないから……



 実家に帰り数年が経過しました。


 今は職場に向かう道を歩いています。


 家族に迷惑をかけないよう服飾の仕事に携わり仕事に没頭していました。


 罪の意識は消える事なく未だに免罪符を肌身離さず持ち歩いています。


 このように長く苦しむ事が分かっていれば罪を償う選択を選ぶべきだったのかをふと考えてしまいます。


 憲兵隊の拷問も痛みに鈍くなっていた私であれば然程怖いものではなかったのかもしれません。


 例え死で償う事になったとしても……


 どれほど考えてもどれほど時間を掛けても私は私を許す事ができていません。


 大通りに出た私は表情を取り繕います。


 私が生まれ育った街はボロボロとなった私を暖かく迎え入れてくれました。


 神様に赦された以上前を向いて生きるしかないのですから……


 急に後ろから声を掛けられました。


 私の魂が悲鳴をあげます。


 ありえない……


 確かにこの手で……


「よくも俺を殺してくれたな!」


 殴られた……


 鼻奥から熱い物が湧き出し堰き止める為に鼻を摘みます。


 堰き止めきれなかった物で手が赤く染まり更に溢れて大通りの地面に染みが広がっていきます。


 神様は確かに私の罪を消してくれた事を理解しました。


 大通りの真ん中で馬乗りになって私を殴る男性は私が今まで忘れようとしていた人物です。


 神様ありがとうございました。


 もう免罪符は必要ないでしょう。


 そして私は意識を失った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夕暮れの玩具箱 Sasanosuke @ssnsk

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ