最終話 雨音
「別れたらさ、全部良くなると思うんだ」
続く言葉はだいたい予想していたが、ただの談笑の中みたいな顔をして言うなんて、思ってもみなかったのだ。
「沈黙が嫌じゃなくなる。話さないといけない、なんて思わなくなるし、そのせいで苦しむことだってなくなるんだよ」
伏せられていた彩葉の瞳がふといずみに向いた。だから気付いた。
「……だからね、いずみちゃん、友だちに戻ろう」
彩葉だってこの言葉を言いたくなかったのだ、と。
いずみは彩葉から目を逸らす。行き場を失ったその視線を、結露したコップに向けた。
いずみは、きっといつかこうなるだろうと思ったあのときから、彩葉から別れを切り出されたら反対しないことに決めていた。笑顔で受け入れるのだと。だから、答えはもうずっと前から決まっていたのだ。
「うん――」
それでも、何度も練習した言葉を出すのは、酷く難しい。
「そっちの方が、良いと思う」
ふたりの間に降り出した雨は、ずっと長い間やむことはなかった。いつまでもいずみの耳には雨音が聞こえていた。あの雨が、彩葉の足跡を消していく。ふたりで歩んだ道を、帰り道を流していく。これから行くべき道すら、見えなくしている。
彩葉はふわりと笑った。それが嬉しそうであるのに、少し悲しそうでも、寂しそうでもあった。
「じゃあ、あれだね、その……また来年度同じ講義取ってたら、良いね」
レストランを出て歩き出したとき、彩葉は星を見上げるようにして言った。
「あ、でもその前に春休みかぁ。たくさん遊ぼうね!」
いずみは何も言わない。その口約束が守られる気がしていなかった。きっともうこれ以上何か起きることもないし、これ以降何かある訳もないのだ。彩葉とは反対に足元のコンクリートばかりを見つめていた。
いつの間にか辿り着いていたあの公園、視界に飛び込んできたゴミ箱の中には何ひとつ入っていなかった。
向かい合うようにして立ったふたり。彩葉の顔に、信号機の赤が浮かぶ。こんな
「……好きだったよ、いずみちゃんのこと」
彩葉がいずみの両手を包んだ。その手は冬の夜に光をもたらす街灯のように温かい。信じられないくらい温かいのに、どこか冷たい。
好きだった――過去形か。いずみは視線を落とした。今でも好きだと、嘘でも言って欲しかった。それはどうしてだろう。
「好きだよ、彩葉のこと」
彩葉は握ったままの両手を引っ張ると、いずみを力いっぱい抱き締めた。いつもはいずみの腕の中にいたはずの彩葉が、痛いくらいに、潰れてしまいそうなくらい、力の限りにいずみを包んでいる。ゆっくり、弱々しく彩葉の背に手を回そうとした。けれど、いずみの腕が辿り着く前に、ふたりの身体は離れた。
「いずみちゃんは、私の大好きな、自慢の大親友なんだよ」
彩葉はかわいらしい笑みを浮かべた。
「うん」
だからいずみも、微笑んだ。
「じゃあ、帰ろっか」
「そうだね。ちょっと暗くなってきたし――」
送ろうか? いずみは言いかけた言葉を飲み込む。
「早く帰らないと、危険だし」
「また春休み会いたいね」
「うん」
「じゃあ、ばいばい」
「じゃあね」
ふたりは手を振って、それから全くの反対方向へと歩き出す。
幾らも経たないうちに、いずみの道は滲み出した。もう耳には雨音が聞こえてこない。それなのに道が消えていく。目をこすってみて初めて、自分が泣いていることに気付いた。ふらりとひとけの薄い道端にしゃがみ込み、自分の靴を見つめる。
頭に一滴落ちてくるのを感じた。こんなに寒くて冷たくて白いのに、手のひらに着地したのは雨水だった。気付いたいずみは、膝に顔を埋めて声を押し殺すように泣き始めた。
好きだった、心の底から大好きだった。高校生の頃からずっと。何が悪かったのか心当たりがない訳ではないが、きっとどちらを責めることだってできない。きっと、そう、運命の相手ではなかった、というだけ。ただそれだけ。「大好き」だと、「自慢の大親友」だと言ってくれた。だから今は――。
いずみは空を見上げる。今日は一緒に泣いてくれるんだね。
痛くて冷たい雨の中、耳に入ってくるのは、自分の涙に濡れた声と、雨音ばかり。
サボテンは微笑まない たぴ岡 @milk_tea_oka
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