第22話 最後の日

 いつもの大講義室、いつもより暗い窓の外。いつもと同じ時間、いつもと違う席順。少し顔を上げて左側に目を移せば、見慣れた黒いリボンが忙しなくテスト用紙に解答を書き込んでいるのが見える。

 ――後期最後の水曜日、テストが実施されていた。

 いずみは昨日の夜とこの時間直前に脳に叩き込んだプリントの内容を必死にたぐり寄せながら、鉛筆を走らせていく。テスト開始から三十分が過ぎた頃には、いずみはすでに二度目の見直しに入っていた。しかしそれまであったはずの集中力がそこで唐突に切れた。いずみの中にはこのテストよりも大きな問題があったのだ。この後彩葉いろはと夕食を共にするという、重大な問題が。

 余った時間で、いずみはそのことについて考え始める。本当にただ一緒にご飯を食べたいだけ、なんてことはあり得ないだろう。何か話したいこと、伝えたいことがあるはずだ。だから彩葉は夕食に誘ったのだ。

 可能性はふたつ。最近は何もできていなかったから春休みには今までできなかったいろんなこと、特に恋人らしいイベントごとを経験しようと言われる。もう「恋人」なんて重たい響きを背負うのはやめて、少し前までの「普通の友だち」に戻ろうと別れを告げられる。少し考えただけでも、前者である訳がないと簡単にわかった。それなら、後者であるのならば――。

「はい、じゃあ、そろそろみんな良い頃ですかね。終わった人は手を挙げてください、回収しに行きますので」

 いずみはテスト用紙を教授に渡すと素早く帰る準備を整え、講義室のすぐ外、廊下に寄りかかって彩葉を待った。スマホを取り出して意味もなく何か検索でもしようかと思った瞬間、肩を叩かれた。

「いずみちゃん、行こ」

 そう言いながら、心底嬉しそうに、幸せそうに笑う彩葉。

「ん、テストお疲れ」

 彩葉がそんな顔をするものだから、いずみは無意識に右手を小さく差し出した。かつてのいつも通りに。が、彩葉の手がそれを掴むことはなかった。気付かなかったのかもしれないし、気付いていて無視したのかもしれない。そうだった、いずみは思う。もう、自分たちはそんなのじゃないんだ。

 外に出ると、もうすっかり冬を連れてきた空気が頬を刺す。寒くて肩が上がる。隣を歩く彩葉に目をやってみれば、こんなにも寒いのにロングコートのボタンはせずに前を開けたままだ。寒くないの、いずみはそう言おうとして口を開いたが、言うのはやめた。自分の身体を抱き締めるようにして腕を組んで、足を動かし続ける。

「あの例のイタリアンレストランで良いよね」

 彩葉は前を向いたまま、言った。

「うん、そこで良い」

 だからいずみも、小さく俯いたままそう言った。

 周りには全てを終えた大学生集団や、仕事終わりの人たちの群れがある。ざわざわと騒々しく、それぞれの世界で歓談している。それでもふたりは、ほとんど会話もないままレストランへと歩く。静かに、ゆっくりと時間が、流れていく。いつかも感じた、時間の止まっているような感覚。世界から隔離されているような感触。

 ぽた、と頬に冷たいものが触れる。空を見上げてみれば、ハラハラと雪が舞っていた。美しくて、儚くて、そして冷たい。

「雨、かと思った」

 ふと彩葉の方を見ると、いずみと同じようにして顔を空へ向けていた。ちらといずみの方に瞳を動かして、彩葉は続ける。

「あのときも、雨が降ってたから」

「降ってたのは外に出る直前まで、だよ」

「そうだけど……まったく、いずみちゃんは細かいなぁ」

 久しぶりに彩葉の本当の笑顔を見たような気がする。いずみは泣きそうになった。やっぱり予感は本当だったと確信したからだ。

 辿り着いたもはや懐かしくすら感じるレストランの内観は、全く変わっていなかった。奇しくも、あのときと同じテーブルにつき、同じメニューを選ぶふたり。再会したあの日を再現しているようでありながら、全く反対の結末に向かっている。いずみは意識して口角を上げた。

「じゃあ、後期全部終わり! おつかれさま!」

「おつかれ」

 水の入ったコップを合わせて、小さく音を鳴らす。

 何だか懐かしいね、彩葉は言った。それが合図になったのか、後期を振り返るような内容の会話に移っていった。講義のことや友人とのこと、それから大学内でのふたりのこと。会話の内容が大学の外へ出て行かないことには少し胸が締め付けられるようだったが、もしかすると何の会話もなく今日を終えてしまうかもしれないと思っていたいずみは、それが現実にならなくて良かったと安堵した。何となく、心に平穏が戻ってくるような感じがしていた。このままでいられたら、どんなに幸せだろう。そう、思っていた。

「それでね、ずっと考えてたんだけど」

 彩葉がやっとボロネーゼを食べ終え、食器をテーブルの端に寄せ始めたとき、始まった。

「いずみちゃん、私たち、別れよう――」

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