伝染する最上の幸福
マルヤ六世
伝染する最上の幸福
「刑事さん、ここです」
空き教室の扉を開いてまず目を引くのは、水族館のふれあいコーナーのような大きめのプール。そこは絶えず水が流れて波を作っており、ビート板が浮かびながら揺れている。
部屋の明かりは淡く赤く、魚のいない水槽にポンプが空気を送り込んでいる。水泡のリズムは一定で、どこか眠りを誘う音に聞こえた。床には柔らかい素材のマットが敷かれ、クリーム色のビーズクッションや、砂嵐を映し続けるテレビ。それから、音楽プレイヤーからは音量を絞られた女性の歌声が聞こえる。
てっきり、もっとゲーム機や漫画雑誌が並んでいるのだと思い込んでいた。もしくは怪しげなピアノやオルゴールが鳴る、淀んだ部屋だとばかり。
「生徒たちはここに屯していた、と」
「はい。空き教室に家具などを持ち込み、自由に利用していることには目を瞑っていました。居心地のよい空間を学校に作ることは反対しません。しかし、室内がこうなっているとは……」
校長は訝しむ顔をしている。所謂、学生が日常から逸脱した行為を楽しむ場所とはイメージが違うと感じているのだろう。
「不幸なことがあったばかりの子供たちだから、許していたんですか」
「それもありますが、子供同士で癒せるものならばと思ったのです。立ち入った教師も危ないものは持ち込んでいないと言っていましたので」
校長先生には悪いが、それが一因になってしまった可能性もある。この学校には心に悩みを抱えた遺族の少年少女が通っていたはずだ。子どもたちが互いの痛みを増長し合ったり共鳴し合ったりした場合に、どう心が動いていくのか。過ぎ去ってしまった大人たちには思い出せない、特別な結束があったりする。
赤ん坊の連続変死事件──当初、署は監督不行き届きによる事故、もしくは過失致死の線で当たっていた。赤ん坊の死因は様々だ。
一件目は転落死。階段を上る母親の手から垂直に石畳に落下して、転がっていったらしい。二軒目は橋の上から池に落ちて、藻掻いているうちに池の中心付近に到達しての溺死。三件目はベビーベットの柵に腕が絡んだまま捥げてしまい、失血による臓器不全。四件目は突然暴れ出したことによりベビーカーのストッパーが外れ、車道に突っ込んでいき轢死。五件目は──毛布が器用に首に巻き付いての縊死だ。
赤ん坊の死亡事故は、市内で既に十六件。そして、母親は皆「まるで子供が自ら死んだかのように見えた」と口を揃える。もちろん、そんな証言を信じているわけではない。ただ、短期間に連続して事故が起きすぎている。それに、故意の事件にしては母親同士の面識がほとんどない。母親たちが共通の場所に出入りしていた情報もなければ、付近にカルト教団があるわけでもない。
強いて繋がりがあるとすれば、赤ん坊たちには兄や姉がいた。十六件を小分けにしていくと、兄や姉は市内の五つの小中学校に通っている。ただ、事件発生時刻は兄や姉は決まって授業中だった。母親以外の家族には第三者の目撃情報つきのアリバイがあり、捜査は難航していた。
刑事生活三十五年と少し。酷い現場をいくらでも見てきたつもりでいるが、今回のヤマはあまりにも惨い。なんと今度は、その兄や姉が揃って溺死する事件が起きたのだ。もちろんどの家も二人っ子というわけではない。赤ん坊のきょうだいの内、小中学生だけが後を追っている。
最初の赤ん坊が死んでから兄が溺死するまではわずか一週間。間隔はどんどん狭くなっている。ただ、こっちに関しては自殺の方向で捜査していて、これは確証もある。集団で水死しているからだ。この学校でも既に六人の生徒が入水自殺をしている。他の小中学校を含めてきっかり十六人。赤ん坊と同じ数だ。
感受性の豊かな年頃の子供たちが、弟妹を失う空虚感や悲しみは想像を絶するものだろう。しかし、全員が全員死を選んだことも、同じ死に方をしたというのもどうにも引っかかる。何体もの遺体が川を順番に流れていると通報した目撃者の衝撃も計り知れない。一刻も早く、この事件を解決しなければならない。
あまりにショッキングだとして、報道が一部規制されているほどだ。生徒のほとんどは自主的に気分を紛らわせたいからと登校しており、半ば、校内で教師が監視している現状だ。それでも六人、この学校から自殺者は出てしまった。
同じ苦しみを分け合うこと自体はいい。ただ、その結果がこれとは。
携帯が震える。
「ちょっと失礼」
十七件目の事件の知らせだった。家族構成を手帳に記入していると、横で校長が息を呑む。
「ああ……そんな……うちの生徒です……!」
携帯が震える。加えて赤ん坊の変死事件が一気に十一件。隣の市でも赤ん坊の突然死が九件。続いて赤ん坊の変死がうちの市でまた三件。合同捜査本部を立ち上げるから戻って来い、と班長ががなり立てる声がする。
一体なにがどうなっているというんだ! もしもこの事件が繋がっているなら、赤ん坊の兄や姉がこの先また死ぬということなのか。二十三人も! と、背後に気配を感じて振り向けば男子生徒が立っている。校長はすぐさま駆け寄った。
「金澤くん! 落ち着きなさい……!」
生徒は夢遊病患者のような足取りで、水槽に向かって歩いていく。嫌な予感がして止めに入ろうとすると、別の教師が駆けこんできた。
「校長先生……! 一年二組の前田と二年三組の原田が急に教室を出て、トイレや池で溺れ死のうと……! それから、一年四組の静岡と三年三組の後藤がまだどこに行ったかわからなくて……!」
「わかりました! 刑事さん、金澤くんをお願いします……!」
「お願いされなくても止めますよこんなもん!」
すぐさま金澤という生徒を羽交い絞めにするが、暴れる素振りはない。大人しく掴まれているということは、発作的な感情だったのだろうか。それにしても、不可解なことがあった。
「おい、君。どうしてこんなことを」
この生徒には、弟妹はいない。さっき名前が挙がった四人は確かに報告があった変死した赤ん坊と同じ苗字だった。しかし、金澤という名前には聞き覚えがない。少年の頬は赤く、ほろ酔いのような表情をしていた。
「どうしてって、幸せになりたいからです。だって、早く死なないと勿体ないでしょう」
「なに……?」
「昨日、後藤の家に遊びに行ったんです。かわいかったなあ、礼音くん。礼音くんが教えてくれたんです。早く死んだ方が得だって。子供のうちに死んでおくと、生まれ変わるまでが四年で済むんだそうです。でも僕はどうかな。多分おじさんよりは早いと思うけど」
後藤礼音。母親が目を離した隙に、テーブルに喉をぶつけて窒息死した子供だ。つい、先ほどのことだ。
「生きてる間はずっと業が溜まっていくんだって言ってました。だから、早い方が死んだ後の清算がスムーズなんだそうですよ」
趣味か、お気に入りのスポーツ選手の話でもするように金澤は語る。眠そうな瞳以外は普通の生徒だ。うちの二番目の息子とそう変わらないように見える。なにかそういうオカルトでもテレビで流行っているのかもしれない。
「赤ん坊が喋ったっていうのか?」
「信じてませんね。でも、喋ったんです。後藤も聞いてましたよ。ほら、どんな生き物だって生き残るために突然力が湧いたり、起死回生のアイデアが思いついたりするでしょう。それの逆で、最適化された死のために早回しの学習をしているんです。こっちも死ぬのに必死ですから」
この子供の言葉を鵜呑みにするわけではないが、慎重に話を聞き出さなければいけない。なにせ、こっちはここ二か月程度の間、パニックになった母親からしか話を聞けていない。後手後手はもうたくさんだ。
「それじゃあなにか。こんな人生嫌で、未来にも希望が持てなくて、次に期待して……そう言いたいのか?」
「ちょっと違います。これは人生の中で一番幸福だった時間を目指す、旅なんです」
まるで詩でも朗読するかのような言葉選びだ。この年頃特有のそれか、大人を馬鹿にしているのかいまいち測りかねる。
「絶対的な愛を享受できるのは胎児のうちだけです。やわらかいベッドと、余計な音が入ってこない部屋。ゆったり眠っている間に栄養は運ばれて、くるくる回って。ああ、幸せじゃないですか。ずっと生を望まれている。あの生の幸福は生きている限り二度と味わえない」
一瞬、呼吸が止まる。希死念慮ではない。胎内回帰願望にしても、記憶がはっきりしすぎている。
「生まれてきて、悲しいと思うのか? 今、親御さんの愛を感じられないのか」
「いえ、僕……両親のことは大好きです。喧嘩もするけど、あの二人の子供で良かった。だから、できればもう一度二人の子供になりたい。お腹の中もだけど、生まれてくる時の、あの光に導かれる感じ。あれが、言葉にできない感動を伴っていて」
「だったら!」
金澤少年はうっとりした笑みを浮かべる。
「みんなが悲しむことはわかっているんです。でも、抗えない。お母さんが眠るなと言えば何日眠らないでいられます? 父に食事を禁止されたら? そのうち、おじさんも虜になってしまいますよ。逃げられないんです、幸せな時間に帰還したい病からは。みんな同じです。みんなあの場所を求めて、あの時間に戻りたくて、ただそれだけなんです。それって、いけないことなんでしょうか」
行き詰っているわけではない。辛いことがあったわけでもない。未来のまだ見ぬ幸福の希望よりも、一度経験した栄光の時代へ。誰でも、あの頃は良かったという自慢を聞いたことはあるだろう。しかし、これは常軌を逸していた。まるで憧憬と癒着している。
「死の間際に、胎内と似たような自我のほつれを感じることができるのだそうです。でも、到底敵わないとか」
全部、人づてから聞いた風に金澤は語る。赤ん坊が知識を得たと、そんなファンタジーを仮定したとしても、死の間際のことを生きている赤ん坊が知っているはずはない。なにかの薬物による幻覚か、なんらかの創作からの引用だろうか。
「集合的無意識とは違うんですよ。僕たちは偶然アーカーシャの地層にアクセスしたり、そういう人から言葉を聞いたりしただけで」
「なんだ、そういうホームページがあんのか?」
「あは。でもそんな感じです。どうして僕たちは赤ちゃんの時の記憶が乏しいのか考えたこと、あります? 多分ね、そんなことを覚えてたら、あの心地よさを欲してしまったら、人類の繁栄は止まっちゃうからなんです。悲しいことに、これは窄まっていく人類史なんです。だって、みんながみんな戻りたいと思ったら結果的に、生まれてくるはずの母親がいなくなるんです。成熟できないで死に続ける時代に突入するじゃないですか。だから僕たち、急ぐんです。まだあの感動を味わえるうちに生まれ変わるために」
言葉が通じる分、余計に厄介な思想の違いだった。真実を見ているようなまっすぐな目が、こっちが間違っているとでも言いたげだ。
「今に理屈は必要なくなります。ほら」
少年が窓の外を指差す。校長が中庭を歩いている。鎌を手に、女教師を追いかけていた。
「おい、おい……! アンタ、何してる! 行方不明の生徒はどうした! おい……っ、やめろ!」
校長は悲鳴を上げる女の腹を掻っ捌くと、両手で皮膚をこじ開ける。その動きに迷いはなく、内臓を引きずり出すと、そこに頭をぐいぐいと突っ込み始めた。三階だ。声が届かない。駆け寄って行きたいが、唐突に金澤が拘束を振りほどこうと暴れ始め、応援も呼べないまま叫ぶことしかできない。この手を離せば間違いなく金澤は自殺する。
「やめろ! どうしちまったんだ! おい!」
「港先生も僕たちのお母さんになるかもしれない人だったのに。勝手なことして。だから大人は業が深いんだ。そんな短絡的な方法じゃ帰れないよ」
「ふざけるな! 別にお前らの快感のために、母親をやるわけじゃねえだろ!」
「わかってる。正論ですよ。でもおじさんの子供もこうなるよ。どんなに酷い仕打ちを受けた子も、どんなに愛情をかけて育んだ子も」
金澤を抱えながら、水槽やプールをひっくり返す。飛び降りて池やトイレに行けないように窓に鍵をかける。仕方なく手錠をかけようとジャケットを捲ったのが間違いだった。
「あは、おじさん。ありがとう。おじさんのこと、忘れない」
金澤はどこからか取り出したカッターで瞬時に躊躇いなく首をかっ切ると、自らの血液に溺れだす。止めても止めても溢れてくる血液は、これ以上押さえても結果的に首を折りかねない、明確な死を予感させる。
「待て! おい! やめろ!」
「が……じぶ、じぶ……んが、とけ、で、じ……あ……わ、ぜ……」
「くそ! 金澤……!」
救急に電話が繋がらないなんて初めてだった。何が、何が起きているんだ。温い血が、シャツに、スラックスに染み込んで行く。膝に体重がかかって、命が失われていくのがわかる。
ああ、この死に顔は誰も見ない方がいい。こんな幸せそうな顔で死ぬんじゃ、本当に、誰もが思ってしまうじゃないか。死ぬことは、希望なのだと。
──あの事件は、金澤を含む二十四人の学生。そして、校長と女教師の死亡によって幕を閉じた。光を求める蛾のように、最上の生を求めて死に吸い寄せられていった、あまりにも多すぎる犠牲者たち。証言を元にサイバー課が検索するもそのような主義のホームページは出なかった。
ただ、部下の森本が言うには、アーカーシャという言葉自体は存在しているらしい。世界の全てを記録するとかいうそのよくわからんものに、彼らは何を願ったのだろう。
市内からは子供が急激に減るも、人類は存続を諦める気はなく、その後に生まれた赤ん坊たちが不審死するような事件は起きていない。
「お父さん、おとうさぁん!」
娘の呼ぶ声に室内に滑り込む。森本の代わりに非番だからと付き合うことになったが、昨日の晩から廊下を何回往復したかわからない。
「どうしよう、泣かないの……!」
生まれたばかりの赤ん坊をのぞき込むと、ぱ、と口を開いた。
「おじさん、ひさしぶりですね」
奇妙に捻じれながら分娩台から転がり落ちようとする乳児を、あの場の誰が受け止められたというのだろう。
伝染する最上の幸福 マルヤ六世 @maruyarokusei
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