第1話 彼女の話は今日も難解
「この前、市村弘正の『「名づけ」の精神史』を読んだのだけど、その中に倫太にも読ませたい一遍があったの」
消え入りそうなか細い声が耳元で聞こえる。僕は電車の固いシーツの上ですぐに目を覚ます。周りを見渡して、中央保安委員(中保)の姿を探そうとするが、一般の乗客と区別がつかない。
依然として腰には拳銃が突き付けられている。
手は後ろに縛られたままだが、マスクに見せかけたさるぐつわは外され少し楽になった。
自分の状況をあざ笑うかのように、穏やかな日の光が部屋に差し込む。
薄く開いた窓からは、少し肌寒い隙間風が入り込んでくる。
もうすぐ春、だったかな。久しぶりに外に出ると、季節感が狂う。今となってはどうでもいい。青森駅に着くまでに雪子から逃げなければ、僕は死ぬ。
雪子は評論の話を始めた。懐かしい感覚だ。高校の古書研究会に所属していた時を思い出す。なぜ今のタイミングで昔の記憶なんて思い出すのだろう。
評論どころか、本自体に興味がないといつも言っていたのに、雪子は何度も僕に向かって難しそうな題名の評論の話を吹っ掛けてきたものだ。
「水俣病の患者が甘夏を無農薬で作る話」
それだけじゃ全然分からん。
「あとは自分で読んで感動してもらいたいところだけど。どうせあんた読まないから」
お前みたいに読書家じゃなくて悪かったな。活字が嫌いな僕が入りたくて読書サークルに入ったわけがない。会員になれば国会図書館の本を無制限に閲覧できると聞いて入っただけだ。
「ほんと、どうしてあんたは本を読まないくせに古書研究会に入ったのかしらねぇ」
自分で答えが分かっているはずの質問を嫌みみたいに僕に投げかけてくる。古書研究会なんぞに入ったのがそもそもの間違いだったのが今になって分かる。
例の書物は見つからなかったし、まさか同じサークルの雪子が中保の一員だったとは愚かにも全く予想していなかった。
雪子に情報管理法違反で現行犯逮捕され、最悪の結末として今があるわけだ。
「まあいいわ。話を戻すと、水俣病の患者たちが無農薬で甘夏を作るの。あ、甘夏ってミカンの一種ね。でも、作っている人がもともと漁師だったために、毎日の地道な農作業にすぐに根を上げる人が出てきた。農作業を面倒に思った人はこっそり農薬を使って手間を省くわけ。みんなで決めたはずの約束を破り一人だけラクをする。無農薬で一生懸命育ててきた人は当然怒るわよね。」
耳元で話すのをそろそろやめてほしいが、今日の話は具体的で分かりやすい。
「すったもんだの挙句の果てに和解して甘夏を出荷する算段がつき、話は終わる。何が言いたいか分かる?」
やはり難解だ、というか話が下手だ。和解するまでのすったもんだの部分が大事に違いないのだ。意図的かアホなのか、彼女の話はいつも大事な部分がすっとばされる。変な能力だが、僕は何が話の本質か逆算できるようになった。
評論なんて今はどうでもいい。とにかく逃げなければ。少なくとも逃げるための手段を見つけなければならない。
「つまり、あれだろ。ズルした人も許してあげないといけませんよって趣旨だろう」
かろうじて答えるも、かすれてうまく声にならなかった。
「当たらずとも遠からず。倫太は鋭いけど、残念ながら80点。不十分よ。確かに甘夏の生産者は農薬を使った者たちを許せたわけだけど、なぜそれが可能だったと思う?」
何も知らない状態で雪子の適当な説明だけを頼りに、本質の八割を理解しただけでも褒めてほしいものだが。
「この話の重大なポイントは、甘夏の生産者が他者の失敗を許せたのは、まさに自らが水俣病患者によるところが大きいということよ」
何を言っているのかさっぱり分からない。
「あとは自分で考えなさい」
唐突に話し始めた彼女は、やはり唐突に話を終わらせる。
週末のリンゴ @tatamarin
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