第39話 末永くあなたと
「今日が、最後の夜……」
泰然と再開し、未来を共にすると確認しあったのはつい先ほどの出来事だ。朱実が人の世を捨てるということは、それなりの代償が起きるのだ。
泰然は父に新しい人生を与えると言った。決して悪いものにはしないとも誓ってくれた。
それを信じて今夜は親子で過ごす最後の夜を迎える。
「んん? なんだか豪華な夕食だな。何かいいことでもあったかな」
「え? いいことというか、まあ……私からの感謝の気持ち? お父さん一人で頑張ってくれてるし」
「いいや、そんなことはない。朱実が家のことをしてくれるからだ。母さんの代わりをさせてしまって申し訳ないよ」
「町の人もよくしてくれるし、それはお父さんのおかげでしょう。ありがとう」
いつものように明るく振舞おうと心がけているつもりでも、ついしんみりとした気持ちになってしまう。もっとたくさんありがとうを伝えたいけれど、そうすると涙が出てしまいそうなので我慢する。
「まるで何かのお祝いみたいじゃないか。もしかして、松乃屋の女将さんに聞いたのかな? 父さんの、その……」
「うん?」
「その……隠すつもりはなくてな、実は一年前の大祭で見合いまがいなことをしてだな」
「えっ、ああうん」
「素敵な人なんだよ。だから父さんは再婚するよ! 今まで朱実に負担をかけていたけど、もうその心配はいらない。神社も継がなくていいから、おまえの自由に」
「再婚! え、あとを継がなくていいって、それって」
「あちらには息子さんがいてね。うちの神社を守れるようにと勉強してくれているんだ。朱実より三つ上かな。すまない、勝手に。朱実に異母兄ができる」
泰然が言っていた父の新しい人生なのだろうと思った。父が寂しくないように泰然は家族を与えたのだ。
(そっか、よかった。お父さんは寂しくないね)
なんだか目の奥が熱い。我慢していた涙が込み上げてくるのを、なんとか抑えこむ。
「お父さん! やるじゃない! 兄妹って憧れてたから嬉しいよ。神社を盛り上げようね。私も色々とやりたいことがあるの! 本当に安心した」
「朱実、ありがとう」
「ちょっとお父さん、泣かないでよぅ」
父の方が先に泣いてしまった。これではもう泣けないではないか。ただ、泣き笑いに似たような表情を作ることしかできなかった。男手ひとつで朱実を育てながら、今にも潰れそうな小さな神社を守っていた。愛する妻に先立たれ、苦労は多かったはずだ。
朱実は心からの精一杯の感謝とお祝いの気持ちを込めて、父に向き合う。
「お父さん、おめでとう! 幸せになってよね」
「ああ、ありがとう」
「今夜はお祝いだよ! ビール取ってくる」
椅子から立ち上がり台所へ向かった。父に背を向けた途端に涙が溢れ出た。あんなに照れて、はに噛む父は初めて見たかもしれない。
(よかった……これで私の存在が消えても、お父さんがずっと笑顔でいられる)
ふと開けた冷蔵庫を前に朱実は動けなかった。なぜならそこには朱実の好きなものばかりが入っていたからだ。父は朱実が大人になっても子供の時に好きだった物をいつまでも買ってくるのだ。そんな父を思うと、胸が張り裂けそうになる。
(もう、お父さんってば。まだ私がこのゼリーを好きだと思ってるんだから……)
父には新しい家族との幸せが保証されているとはいえ、そこに自分がいないのはやはり寂しいものだ。
その晩は遅くまで昔話に花を咲かせ、日付が変わるまで親子の会話は続いた。
「じゃあそろそろ寝るね。お父さん」
「おやすみ。朱実。明日からもよろしくな」
「うん、おやすみなさい」
慣れ親しんだ自室のドアを閉めると、朱実は大きく息を吐き出した。と、同時に再び涙が溢れてきた。
明日の朝には父の記憶から朱実は消える。自分が望み選んだ道だというのに、言葉に表せない切なさが胸いっぱいに広がっていく。
(でも、これでいい。これが私が選んだ道だもの)
別れは誰にでも平等に訪れるものだし、その時期や形が違うだけだ。それに朱実の場合、別れたあとの彼らの安寧が約束されているのだ。
「うん、大丈夫。私には泰然さまがいる」
大丈夫とおまじないのように声に出して言い聞かせる。部屋を見渡せばたくさんの思い出がよみがえる。机に無造作に置かれた筆記具や、読みかけの小説、クローゼットにしまったままの卒業アルバム。初めて身につけた狐のお面。そして、当たり前のように毎日身につけた巫女装束。
何か一つ思い出に持っていこうかとも考えた。
でも、なにも手にせずベッドに入った。
「バイバイ、賢木朱実」
これまでの自分にも別れを告げた。朝になれば多田羅の町から跡形もなく消えるのだ。
息をすうっと吸って吐くと、緩い眠気が朱実を包みこむ。この世界に別れる時が来たのだ。
「おやすみなさい」
閉じたまぶたの端から流れる涙は、拭わずそのままにした。
◇
東の空が白く染まり始めた頃、朱実は静かに身支度を整えて部屋を出た。
目が覚めてから、昨日と今日で明らかに違うことがあった。それは、朱実の起こす動作全てに音がしないことだ。ドアの開閉も廊下を歩く音も、顔を洗うために流した水の音さえもしない。水は流れているのに、蛇口もシンクも乾いたままだ。
この世に存在しないモノとなってしまったかのようだ。
そして、境内に出て砂利を踏みしめた。靴底に伝わるはずの感覚はなく、音もしなかった。
それを知った瞬間、ひゅんと心臓が小さく跳ねる。
「そうか、やっぱり私はもうここに存在してないんだ」
地面を踏みしめる感覚も、砂利を蹴る感覚もない。まるで宙を浮いて移動しているようだった。
「ふ、ふふっ。変なの」
「朱実」
足元を見つめる朱実にどこからともなく泰然が現れ声をかける。声のする方へ顔を向けると、狩衣姿の泰然がそこに立っていた。
「泰然さま」
「心の整理はついたようだな」
「はい、お陰様で。これでわたしも泰然さまと同じですね?」
朱実がそう問いかけると、泰然は口元を綻ばせながら頷いた。
「朱実は神としては赤ん坊の状態だ。慣れれば人と同じように気配を現したり、消したりと制御できるようになる」
「もしかして、瞬間移動も?」
「おそらくな。だが、一人ではどこにも行かせぬ。もう片時も朱実と離れたくない」
泰然はそっと背を屈めて両手のひらで朱実の頬を包み込んだ。潤んだ瞳でそう言われると、胸の奥がキュッと切なく鳴った。
「無理に笑わなくともよい。辛ければ父親との記憶を消すこともできる」
どこまでも優しい泰然に、朱実は微笑みながら首を振る。そっと胸に手を添えながら、泰然を見上げた。
「いいえ。父との思い出は忘れたくないです。父あっての今のわたしだから」
「む……、そのような表情をされるとこのまま部屋に籠りたくなるではないか」
「え……っ」
我慢ならないと呟いた瞬間、泰然の唇が重なった。触れるだけの節度のある口づけだった。顔を離した泰然の眉間にはなぜか皺がある。
何かに対して不満を抱いているのだ。
「……はぁ。大国主の所へ行くとしよう」
「大国主様の所って、まさか出雲へ⁉︎」
「朱実と祝言を挙げるためだ。その見届け人が大国主なのだ。朱実を神にすることを許した張本人だからな。それに、朱実に会いたいと首を長くして待っている者たちもいる」
「神様のトップに見届けていただけるなんて恐縮します」
「朱実ならば大丈夫だ。さあ、参ろう」
「ひゃっ、泰然さまっ!」
泰然は朱実を軽々と抱き上げると、小さく言葉を唱える。すると、景色は一変して黄金色の世界が広がった。もう出雲に着いたのだろう。
泰然がゆっくりと朱実を下す。朱実は恐る恐る辺りを見渡した。
「気分はどうだ?」
(すごい、前みたいに気絶しなかった!)
「なんともないです!」
何度か瞬きをしていると、清々しい畳の香りが鼻をつき、目の前には立派な松が描かれた扉が現れた。泰然は躊躇うことなくその扉を開けた。
するとそこには、朱実の見知った顔がある。
「轟然さま、龍然さま、それに蒼然さまも……」
「おお! 朱実殿! 美しゅうなったな!」
轟然が大きな声で言う。その声の大きさに、龍然がほんの少し眉を顰める。蒼然は穏やかな顔でうんうんと頷いている。
「あの者たちの目に朱実の婚礼衣装は眩しいようだな。まあ、当然だ。朱実は誰よりも美しい」
「あっ、いつの間に!」
気づけば朱実は純白の白無垢を身につけていたのだ。
頭には綿帽子を被り、金の刺繍が入った白い帯には扇子がさしてある。
「朱実ちゃん、綺麗よ。さあ、大国主様にご挨拶をしましょう」
「お母さんも!」
「さあ、手をここに」
ここは人間の世界とは乖離された神の住まう場所だ。同じ出雲の地でも空間そのものが違うという。
母に介添えされながら、神殿の中を進む。朱実の前にはこれまたいつの間にか正装した泰然が歩く。
神の結婚式は人間のする神前式とは異なり、祝詞奏上や三献の儀はないそうだ。
前を歩く泰然が立ち止まる。前には大きな御簾が下がっている。おそらくその御簾の向こうに大国主がいるのだろう。
朱実は泰然の隣に導かれ、静かにその時を待った。
シャン、シャンとどこからともなく鈴の音が鳴り響くと、ゆっくりと御簾が上がり始めた。まさかその尊い御身を現す気なのだろうか。
自然と朱実の手に汗が滲んだ。
「そう、気を張ることはないぞよ。賢木朱実」
「っ……」
天から注ぐようにその声は朱実の身体に響いた。耳にではなく、脳から全身を通過するような清涼感のある声色だった。その声に返事をするのは
「朱実とやら、顔をあげよ」
顔をあげてよいと許可を得たので、恐る恐る正面を見た。御簾は半分ほど上がった状態で止まっている。
朱実からは大国主の姿は見えない。
ほっとしたような、がっかりしたような複雑な気持ちだ。
「ほほ、正直な娘は好ましいぞよ。我はそなたの表情、姿、心の中まで見えておる。我の姿をそなたに見せてもよいが……まだその精神が耐えきれぬであろうから、いずれの機会にとでもしておこう」
朱実は自分に話しかけていると分かっていても、どうしたらよいか悩んでいた。軽々しく口を開いてよいものかと考えあぐねているのだ。
すると、それを知ってか泰然が先に言葉を発した。
「
「ふむ、全く泰然は何をしておったのだ。まさか今日まで純潔のままとはさすがに我も思っておらなんだ。朱実と早う契って、我と茶を交わせるよう神力を注いでまいれ」
朱実はまだ力不足なため、大国主の姿を拝むことも言葉を交わすこともできないらしい。大国主という神の力に朱実の身体が耐えられないと言っているようだ。
しかし泰然から神力を注いでもらえば、叶うのだそうだ。
泰然は慌てて、一つ咳払いをした。
「主人様っ、このような神聖な場で契るだの神力を注ぐだの言葉は控えていただきたい。それよりも、朱実に命名をいただきたく存じます」
「おお、そうであったの。朱実、前へ」
大国主が神となった朱実に名前をつけてくれるというのだ。戸惑う朱実の背中をそっと泰然が押す。朱実は促されるままに一歩前に歩み出た。
「神への転身を歓迎する。賢木朱実はこれより、
朱実の心には驚きと喜びが湧き上がった。神として生きることを大国主なら許されたのだ。そして、神としての名前まで授けられた。思わず閉じていた口を開く。
「ありがとうございます!」
その一言がやっとだった。言い終わった途端に膝から力が抜けて崩れそうになった。幸い、隣にいた泰然が腰を抱き止めてくれたおかげで倒れることはなかった。
「うむ、なかなかの度胸の持ち主じゃ。器量も良しとみた。朱実よ泰然と末永う暮らせよ。早く朱実と面と向かって話がしたいものじゃ。泰然」
「はい」
「とっとと帰って神力を」
「主人様⁉︎」
「ほほほほほ」
二人の会話の意味を分かっていない朱実は、首を傾げながら微笑むだけであった。
多田羅にもう一人の神、南天乃命朱実が誕生した。
【了】
千里香の護身符 佐伯瑠璃(ユーリ) @yuri_fukucho_love
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