白髭ちゃんSS

@jagjagsuke

辜月祭 前日

「位置について」

 両足をスターティングブロックつける。

「よーい」

 腰を上げる。

 号砲が鳴るまでのコンマ数秒、トラックは静寂に包まれる。スターターの呼吸だけが聞こえる。

 ―――ッパン

 号砲が聞こえる。ブロックを蹴る。瞬間、世界は私だけのものになる。ただ地面をけり、前にすすむ。私はこの瞬間が大好きだ。隣を走る選手も、応援する観客も、周りを認識できないほど走ることだけに集中する。そこにはほかの何人も介在せず、まるで地球と自分ひとりだけになったような感覚になる。

 白線を超える。

 着順はいくつだろう?


――――――――――――――――――


 目が覚めるとよく見慣れた、自宅のではない部屋だ。どうやら、若歌ちゃんの家で寝てしまったらしい。久しぶりに料理がおいしくて気が良くなってしまったのだろうか。彼女の小説再現料理がアタリだったのは久しぶりな気がする。ここのところはずればかりでもうアタリレシピはないのかと思ってたけど、案外まだまだあるようだ。少し煙草臭いブランケットをどけ、伸びをするとベランダに人影がみえた。

 彼女は、茅場若歌子。この部屋の家主で煙草が趣味の啓啓都大学文化研究学部 2年生だ。私たちが出会ったのは大学の入学式、それも道に迷っていた時だった。二人で迷った末何とか式場にたどり着くと、同じ授業クラスなことが発覚した。その奇妙な縁が存外に切れないまま今日まで至っている。

 彼女を一言で説明するなら女にもてる女といったところだろう。そのボーイッシュな見た目とハスキーな声、さらに料理もできると来たら思春期未だ抜けきらぬ女子の心など、簡単に奪われてしまうだろう(私も似たようなものなのだろうが)。

 しかしながら彼女が少々厄介な趣味を持っていることはあまり知られていない。それは料理再現会、まさに今夜催されていた夜会だ。内容はいたってシンプルで、本の中に出てきた料理を再現して皆で食べるというもの。彼女が再現する料理はジャンルを問わない。現代伝奇を読めばラーメンを作るし、ファンタジーを読めばステーキを作る。当然古典文学を読めばその料理を作るのだ。よくないのは彼女が味を忠実に再現してしまうことだろう。世界観にあった素材や味付けをした結果、薄かったり濃すぎたり、謎の苦みがあったりといわゆる不味い料理になることは多々ある。体感では、はずれ確率60%といったところだ。ではなぜ私が参加しているのか、今日のように当たるときは当たるからなのだ(それに宅飲みもできるし)。

 そんなわけで、おいしく料理を食べ、寝落ちして今に至る。

「もう起きたんだ、優夏」

 いきなり、目の前に美形が飛び込んできた。私が起きたのにはとっくに気付いていたようだ。

「うん、ブランケットありがと。でもちょっと煙草臭かったから洗濯したほうがいいと思うよ」

「わたしのだし、それはしょうがないでしょ。やだったら今度から兄貴のやつにしようか?」

「ん、大丈夫。そもそも寝落ちした私が悪いわけで。今日のやつは久々においしかった。ありがと若歌ちゃん。」

「どういたしまして。しかし、明日の辜月祭ほんとに行くの?正直まだ気乗りがしてないんだけど。」

「え~まだ言ってる……去年いかなかったんだし今年こそいこ~よ~~~。私たちが大学生なもあと2年とちょっとだけなんだよ。」

「わかったわかった。今回は私が折れるよ。ところで、そんな明日が楽しみな優夏さんは、認知言語の課題には手を付けなくていいのかい?さんざん重いって愚痴ってたけれど。」

「あっっっ!!忘れてた!なんで早くいってくれんのよ?どうしよう……明日は辜月祭だし……明後日は……」

 不味い不味い。ひじょ~にまずい。まだこっそり録音したこの前の講義も聴いていないのに……

「ごめん!ちょっとヤバそうだから帰るわ!ご飯ありがと。明日絶対行くからね!!!!」

「はいはい。家まで送ってこうか?」

「や、だいじょぶ。ありがとね。じゃあまた明日。」

「うん。また明日。」

 どうにか彼女を説得出来てよかった……。そう思いながら、暗い京都の街へくり出すと、肌寒い風が私を出迎える。冬は近いようだ。

「とりあえず、この前の講義を聴かないと……」

 講義の録画を必死になって聴くなんて、だいぶ不真面目な学生になったものだ。まあ、今更どうしようもないのだが。イヤホンを取ろうとバッグに手を伸ばすが、しかし何も見つからない。

「もしかして若歌ちゃんの家において来ちゃった!?」

 戻ってもいいが、あんなに急いで帰った手前バツが悪い。ここはさっさと帰宅して家で聴くとしよう。

 暗い京都の街を走る。競技陸上から離れた今でもランニングは欠かさずやっている。体型やスタミナを維持したいというのもあるが、そもそも走ることが好きなのだ。特に夜はいい。静寂に包まれた街を走ると、自分だけがこの世界にいるようで気持ちがいい。

 若歌ちゃんは、物理的なパーソナルスペースには一切気を使わないのとは裏腹に、精神的なパーソナルスペースにはかなり気をつかってくれる。私が踏み込んでほしくないところでは踏み込まない優しさを持っている。私と若歌ちゃんとの関係は、実際のところ、私が若歌ちゃんに甘えすぎているだろう。でも、それでいいのだ。と最近は思うようになった。

 一人で走るのが好きな私と、若歌ちゃんとだべるのが好きな私、どちらが本当の私なのか悩んだ時もあるけれど、どちらも私なのだ。甘えたいときに甘えて、ひとりになりたいときにひとりになる。そんな都合のいい関係でいられるうちはこのままでいよう。就活もあるしゼミもある。こんな日はそう長くは続かないだろうけど、せめてこの、都合のいいの束の間の日々を大切にしよう。


「こんな日々がずっと続けばいいのに……」

 かなうはずもない願い事は街の闇に消えた.

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