【残酷な運命なんてぶち破れ】天津陽高 神木船 波路道行

猫目少将

第一部 「扶桑出帆」編

前章

前章 五十年前の邂逅

 春。好天。海風。


 江戸から廻船かいせんが着いた昼、草いきれに満ちた山道。すすけた鶯茶うぐいすちゃの三つ身を着たわらべが、歩いていた。背の丈もある岩を避けるように、息を切らし上ってゆく。


 母ちゃん待ってろ、きのこの場所はおいらが知ってる――。そう考えながら。


 山道は突然行き止まりになった。鬱蒼うっそうとした樹々の中、海に向かい、そこだけ奇跡のように開けた一角。丈の短い草が密に覆う。陽に暖められた大地から、濃密な土の香りが立ち込め、むっとするほどだ。ことさら太い樹木が幾本も、絡み合うように周囲に力強く枝を伸ばしている。そこを地元では「舞台」と呼んでいる。理由わけは誰も知らない。


「わあ……」


 ようやくそこまで辿り着くと、童は思わず溜息を漏らした。遥か下に、瀬戸内の海が広がっている。海霞うみがすみけぶる島々は、不思議な生き物の群れが海から立ち上がろうとしているかのようだ。


 子供心にも神聖なものに思えたのか、しばらく黙って見つめている。熱せられた海風が頬をなぶり、優しく髪をそよがせた。潮の匂いと草いきれ、土の香り。大きな海鳥が、頭の上を通り過ぎてゆく。


「美しかろう、童よ」


 声がした。


 振り返ると、風変わりな白い装束をまとった女が、背後に立っていた。髪は長く、見慣れぬ形に結い上げ、花の枝で留めている。


「ねえちゃん、誰」


 それには答えず、細く伸びた指で海を差した。


「あの海を見よ」


 ひなには稀なほど、白く滑らかな肌だ。


「あの海から生まれ、あの海に還ってゆくのだ、全てのものは」

「……還って、ゆく」


 不思議そうな顔で見上げられると、女が瞳を細めた。


「お前の名は」

ひで。ああ、今は陽高ひだかか、母ちゃんが言ってた。すぐ忘れちゃう」

「そうか。名を変えたばかりか。幾つになる」

「四つだっ」


 指を四本立てて突き出す。と、そのとき、はるかかにのぞむ港で、急を告げる鐘が鳴らされた。不吉を知らせる鐘の音は残酷なほど神々しく澄み切って、瀬戸内の島々、安芸あきの山々に響き渡っている。


「陽高よ」


 前に回ると、女は童の顔の前に腰を落とした。瞳を深く覗き込んでいる。


「なんだ、ねえちゃん」

「今の鐘で、お前の運命さだめは大きく変わった。だが、悲しむ暇などない。……強く、生きるのだぞ」


 童は鼻水を拭った。


「ねえちゃんもなっ」

「わしか。……そうだな、わしも強く生きるとするか」


 愉快そうに笑う。


「じゃあな、ねえちゃん。そろそろ戻らないと、母ちゃんがうるさいから」


 女を残して、童は駆け出した。


「まあ待て、陽高よ。茸を採るのではなかったかな。……ほれ」


 いつの間にやら手にしていた茸を見せる。


「忘れちゃった。有難う、ねえちゃん」

「陽高よ、いつかまた会おう」

「うん、またねっ」


 もらった茸を握り締めると手を振って、菜の花咲き乱れる山道を、陽高は脱兎だっとの如く駆け下りていった。



★次話から新章、50年後。おっさんとなった陽高が女奴隷と共に、とてつもないクエストに挑む!


■注(これら用語の意味がわからなくとも、雰囲気で楽しく読めるよう配慮しています。注は飛ばして頂いても構いません)

廻船かいせん 輸送船

三つ身 日本古来の幼児用着物

ひな 田舎

安芸あき 現在の広島県西部

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