くすんだ匂いの中で

真花

くすんだ匂いの中で

 雨が降らなければ東京タワーが見える窓際、くすんだ梅雨の匂い、ウエイターが置いたコーヒーの香りが切り裂くように鼻に届けど、すぐに元の匂いに溶けて消える。僕は一口啜る、タバコに火をつける、また外を見る。ノノコはまだ来ない。入り口を凝視してもしなくても彼女の来訪の有無が同じなら、待っている顔を誰かに覗かれないように、濡れた景色とタバコに集中する、それよりはもう少し余裕のある顔をしていたい。でも、電話の彼女はいつもと違う声をしていた。大事な話なんて幾つかしかない。毎週会っているのにわざわざ場面を設けたのだ、別れ話しかあり得ない。

 もう一口、運ぶ、その手が震えている。僕は恐れているのだろうか。空想が現実になることを、彼女の唇から終わりの言葉が渡されることを。そんなに弱かったのかな。そんなに好きだったのかな。……体の関係がある何人もの中で、確かに彼女は特別だったかも知れない。彼女とだけにはウェットな感情が介在していた、ただセックスをして時間をやり過ごすだけじゃないものがあった。一緒に笑って、夢を見た。いつか本当のパートナーになれたらって。

「いらっしゃいませ」

 咄嗟に入り口を見たら彼女。僕の席に歩みながら小さく手を振るから、振り返す。

「お待たせ」

「いや」

 彼女が僅かに困った顔をする。

「タバコ、消して貰っていい?」

 こんなことを言われたのは初めてだ。でもタバコももう最後の方だったから、はいよ、と言って揉み消す。注文を取りに来たウエイターに、彼女はいつもエスプレッソを頼むのに、いちごジュースをオーダーした。僕は普通のフリをする、内側の鼓動を隠す、落ち着いた顔を作る。

「それで、どうしたの?」

 彼女は視線を一瞬泳がせてから、僕の目を優しく見詰める。

「怒らないで聞いて欲しいんだ」

「……怒らない」

 雨が降っている。遠くも未来も何もかもが見えない。僕たちはそれでも何かを選ばなくてはならない。彼女の微笑にはそんな覚悟が乗っていた。

「妊娠したんだ」

 穏やかな口調なのに、鋼鉄で殴られたような衝撃、ニンシン、僕は父親になる? それとも堕ろすための費用の相談? 窓越しで聞こえない筈の雨音が脳に降り注いで、僕の思考が鈍くなる。まだ十九歳だ、産むなんて言わないでくれ。金ならなんとか、なんとかするから。汗が出る、脂っぽい、さっきも震えていた手がもっとずっと強く揺れている。呼吸を整えて、それでも何か言わなくちゃいけない、僕は彼女の顔を見る、それはとても勇気が必要で、そこには平和そのものの彼女がいた。

「どう、したいの?」

「産む」

 僕は父親にならなければならない。それとも堕ろすように説得する? ノノコは説得に応じるような女じゃない。考えていることが顔に出たのだろう、彼女が、大丈夫、と声をくれる。

「トウヤは父親じゃないから。父親は別の誰かだよ」

「誰かって、誰だよ」

「お互いに何人もの相手がいたでしょ? その中の一人」

 そうなのか? 彼女はあくまで優しい表情を崩さない。だから、それが嘘だって分かる。ノノコの腹の中にいるのは僕の子供だ。そうに違いない。

「だけど」

「そうなの。私はその人の子を産むの。だからこれまでみたいに会えなくなる。今日はお別れを言いに来たんだ」

「急過ぎるよ。セックスしなくたって会えるだろ?」

「パートナーを決めたら、他の関係は精算しないと。分かるでしょ?」

 彼女は僕の子供を他の誰かの子供として育てるつもりだ。そんなことってありなのか? きっと金を持っている相手だ。僕は学生に過ぎない。今この瞬間の甲斐性では勝ち目がない。いちごジュースが来た、彼女がそれを飲む。

「その子は僕の子だよ」

「違う。私の子で、別の誰かの子だよ」

「苦労するかも知れないけど、僕と育てないか?」

「他人の子供を育てたいの?」

「違うよ。僕の子だ」

「だから違うって」

「僕の子だと言ってくれ」

 気付けば涙声になっていた。情けない愁嘆場に見えるのだろうな、でもそんなことは関係ない、僕はその子を離したくない。違う。ノノコと別れたくない。そのためにはお腹の子が僕の子じゃなくちゃならない。でも他人の子は育てたくない。だから僕の子じゃなきゃならない。

 ノノコは小さく息を吐く。そして、震えて置き去りになっている僕の手をそっと握る。

「トウヤの子じゃ、ないよ」

「そうだと言ってくれよ!」

 彼女の手に力が入る、手が潰れそうな程に強く。

「しっかりしてよ。いつものトウヤはどこに行ったのよ!?」

「だって」

「だってじゃない。私たちはパートナーになれなかった。私だってトウヤのこと好きだよ。特別だった。未来を夢見られるのはトウヤとだけだった。でも、今は現実なの。私は産みたい。だから、ね? 諦めて」

 言い終えて、彼女の力が抜ける。手にじんわりと血が通う。僕はまだ泣いている、ナプキンで涙を拭う。突きつけられ続ける刃がついに胸の最深部にまで到達した。僕は大きく息を吸って、吐く。胸の中が壊れそうなくらいにぎゅっと締め付けられる。僕はノノコを諦めなくてはならない。彼女が盾にしている現実はあまりにも強固で、僕の想いくらいじゃ決して崩せそうにない。こんなんなら、もっとずっと前に、他の関係をきれいにして彼女だけにすればよかった。……だとしても彼女が同じことをしてくれる保証はなかったけど。僕はもう一度深呼吸をする。下がっていた目線を上げて、彼女を見据える。彼女はやはり穏やかな顔をしている。それは絶対に覆らない顔だ。

「僕は、ノノコのことが好きだ。今からすぐにでも他の関係を終わらせていい。それでもダメ?」

「もう手遅れだよ。命の存在は、強い。精算するのは私だけで十分だから」

「どうしても?」

「どうしても」

 僕は天を仰ぐ。論理的には詰んでいる。感情が落ち着くまでは時間がかかるだろう。ああ、僕はもう認めてしまっている。敗北を受け入れてしまっている。でも何に負けたのだろう。あの子は僕の子だ。ノノコは僕の子を育てるんだ。それなら、僕は本当には負けてはいない。むしろ勝っている。でも、ノノコ自体はすり抜けてしまった。彼女を失うことが、この敗北感の正体だ。彼女の手がまだ僕の手を握っている、呼吸が出来る。本当は僕たちこそがパートナーになるべきだった。でももうそれは叶わない。それなら、せめて。

 彼女の目を見る。じっと、慈愛を込めて見詰める。

「その選択がよかったって思えるように、願わくば幸せになってくれ」

 彼女は黙って、手に力を入れて、それはさっきよりずっと優しい力で、仮面になっていた穏やかな表情がはらはらと崩れて、涙ぐむ、そして柔らかく微笑む。

「ありがとう」

 僕も黙って、顔を無理矢理笑顔にする。涙が止まっていないから、きっと歪な顔をしている。見詰め合って、彼女がゆっくりと瞬きをする。僕も頷く。彼女が息を吸って、ちょっと止めてから吐き出す。

「私、行くね」

「気を付けて」

「じゃあね」

「じゃあ」

 彼女は出入り口まで歩いて、そこで振り返る。小さく手を振るから、僕も振り返す。取り残された僕は、何事もなかったかのように窓の外を見る。雨が止んで、陽光が射し込んでいる。彼女の姿を探したけど見付からなくて、虹もない。それでも少しだけ遠くが見えるような気がする。僕はタバコに火をつけて、たった今終わったノノコとのことを思い出す。僕たちは二人の未来を夢見るには乱れ過ぎていたのだろう。それを教訓にしたところで、ノノコは帰っては来ない。彼女は僕の子と一緒に生きてゆく。僕は何と一緒に生きればいい。吐き出した煙、くすんだ匂いだけが変わらない。


(了)

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