六十三 翠令、姫宮について行こうとする(一)

 意識を取り戻した時、翠令は両手両足が縄で縛り上げられて床の上に転がされていた。

 どこかの小屋に監禁されているらしい。壁際に箱が積み上げられているから何かの倉庫のようだ。弓矢が置かれているから衛府のいずれかのものであろうか。


 天井近くに風を通すための小窓が開けられている。この明るさからするともうすぐ正午となる頃のようだった。


 ──一晩が経ったのか。姫宮はご無事だろうか……。


 早く姫宮の元に駆けつけなければと翠令は焦る。縄を解こうともがき、疲れて休み、そしてまたもがいている内に、ぱたんと小屋の戸が開いた。


「翠令? 目が覚めたんですか?」


 武人にしては柔らかい物腰の男がひょっこりと入ってきた。


「朗風様!」


「済みませんね。今すぐ縄をほどいてあげたいんですが、しばらくそのままで我慢して下さい。一応、私は翠令を監禁していないといけない立場なんで」


 そう言いながら、朗風は翠令の上半身を起こしてくれる。


「朗風様、何がどうなったのです? 円偉が姫宮を廃そうとして……趙元様は謹慎となって……」


「近衛府については円偉派で押さえられています。趙元様は翠令の言った通り、自邸に閉じ込められ、一歩も出ることのないよう厳しく見張られているようです」


 朗風は更に情報を加えた。


「それに、趙元様と親しかった右近衛の麾下達が全て円偉の監視の対象になっています。まあ、人質のようなものですね。趙元様も麾下を大事にする方ですから、自分の麾下に累が及ぶとなると大人しくせざるを得ない」


「それでは……今、近衛を率いているのは誰なのですか?」


「右近衛の権中将が仕切ってますよ」


「ええと……」


 朗風が笑った。


「顔と名前くらいは思い出してやって下さい。前々から佳卓様に敵愾心をむき出しにしていた御仁なんですから。権門貴族のお坊ちゃんに従うものかと喚いていた人物ですよ。まあ、佳卓様が嫌いだという以外に何か実のある発言もしたことない小物ですけどね」


 そうそう、と朗風が肩を竦めた。


「私も衛門督のまんまです。私だって佳卓様の麾下なんですから、円偉なんぞに従う気はないんですけどねえ。円偉には排斥するほどではない小物だと思われているようで。なんだか悔しいなあ」


 大げさにため息をついた朗風に、翠令もつられて苦笑を浮かべる。顔の筋肉がほぐれた分、少し気持ちが落ち着いた気がした。


「円偉は近衛府を掌握したことで、衛門府はどうにでもなると思ったのかもしれませんね。突然、あまり広範囲に人員を入れ替えるのも得策でもないでしょうし」


「そうですね。近衛をひっくり返して、そのうえ衛門督まで首を飛ばすと事態の収拾

が難しい思ったんでしょう。ま、私にだってそれなりに人望というのがありますし」


 朗風は普段から陽気な人物だが、この局面でもその姿勢を崩さないのはなかなかの胆力だと翠令は思う。一方で、既に円偉に敬称を付けず呼び捨てにしているところに表面には出さない彼の憤りが感じられた。


 朗風ははそのままの口調で「白狼も衛門府府に移っているから無事だ」と語り、そしてさりげなく切り出した。


「姫宮についてはですね……」


 翠令は思わず目を瞑った。この小屋で意識を取り戻して真っ先に考えたのは姫宮のことであり、そして今ももっとも気がかりだ。知りたい一方で、知るのが怖い。ぎゅっと瞼を閉じる翠令に、朗風は苦笑したようだった。


「安心してください。いくら何でも帝の血を引く女君を害するわけにはいかない。当面は錦濤にお戻りになる。その後は西国へ身柄を移されることになりそうですが……」


「それでは流罪ではないですか!」


 お命に危険はなくとも、これまで東宮として扱われた方にあまりな仕打ちではないか。


「そう、呪詛は大罪ですからね」


「呪詛など! でっちあげです!」


「もちろんです。でも、そうなったんです」


「……」


 翠令はがくりと項垂れた。この憤りを言葉にしても仕方ないのだ。呪詛などした事実もなく、証拠などあるはずもない。けれども、円偉がそうしたければ「そうなった」のだ。


「それから翠令も……」


「私?」


「翠令が宮中で流血沙汰を起こしたのも、悪く取られましてね……」


「流血沙汰? 相手の男も武人ですよね? ちょっとやそっとの切り傷くらいで騒いでどうするんですか」


「翠令、ここは錦濤の姫宮の私邸じゃないんです。禁裏は清浄でなければならない聖域なんですよ。血で汚したことを騒ぐ人も多いんです」


「そんな……」


 梨の典侍が金切り声で止めたのはそのためか。


「典侍殿が懇願していますが、翠令には翠令に対する何らかの処罰があります。とりあえず私が身柄を預かりましたが、今後の沙汰を待てと近衛から言われてるんですよ」


「そんな後のことはどうでもいいです。姫宮は? 私は今すぐ姫宮にお会いしたい。そして何としても、どこまでも私はついていかなくては」


「まあまあ、もう少し先々のことを考えましょうよ」


 翠令は首を激しく振った。


「今です! 今すぐ姫宮の許に馳せ参じたい! その後どうなってでも!」


 朗風がふうっと息を吐く。


「翠令はほんっとうに直情径行ですねえ……そこが魅力でもあるんでしょうけれど

も」


 ここで彼はにやりと笑った。


「まあ、私だってこのまま翠令と姫宮が離ればなれとなるのを指をくわえて見てるつもりはありませんでしたとも」


 翠令の顔がぱあっと輝く。


「何か策があるんですね!」


 朗風は我が意を得たりという風に頷いた。佳卓とは乳兄弟。どこか性格も似通うのかもしれない。


「さて、翠令。女装はできますか?」


翠令が昭陽舎に到着すると、母屋の辺りで十数名の女房達が固まっていた。姫宮はその中におられるようだ。翠令は辛うじて姫宮のご出立に間に合ったらしい。


昭陽舎の女房達は皆、袖を目許に当ててすすり泣き、口々に嘆いている。


「本当に朗らかで明るい姫様でいらっしゃいました」


「日に日にこの昭陽舎でお仕えするのが楽しみなってきたところでしたのに……」


「明るい光のような方がいらっしゃらなくなると、日が沈んだようになってしまいましょう……」


 翠令の胸も痛む。初めてこの昭陽舎に入ったときには、女房達の視線をとてもよそよそしくて冷たいと感じたものだった。それが、こうして去らねばならない今、女房達は心から別れを惜しんでくれている。それもこれも姫宮の愛らしい人柄あってこそ。それなのに、なぜ姫宮が罪人扱いされねばならぬのか。


 その姫宮に近づきたいが、廂に女房が伏せるように座っているので通り抜けられない。翠令は腰を屈めてそっと声を掛けた。


「もし……済まぬが道を空けてくれないでしょうか。母屋まで行きたいのです」


 女房は翠令に警戒心を露わにする。


「誰ぞ? 無実の罪を着せられようと、ここにおわすは本来ならば東宮であられる御方。見知らぬ女を通すわけにはゆかぬ」


「ええと……」


 翠令は女房と同じような装束を着ていた。朗風が用意してくれた五衣唐衣裳の一揃いだ。


「このようななりをしておりますが、私は翠令です」






******

この小説に関する取材記・史資料や裏話などを近況ノートに綴っております。原則として写真も添えております。

https://kakuyomu.jp/users/washusatomi/news/16817139558092592664


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