六十四 翠令、姫宮について行こうとする(二)

 翠令を睨みつけていた女房の表情が一変した。


「す、翠令様⁈」


 その声に呼応して母屋からぱたぱたと足音が近づいてくる。


「翠令? 翠令が来たの? どこ?」


 初めてこの御所に来た時と同じ燕服をお召しの姫宮は、きょろきょろとあたりを見回しておいでだった。しかし翠令を見つけることが出来ない。


「……翠令って呼ぶ声がしたし、翠令の声も聞こえたんだけど……」


「ここでございます」


 腰を伸ばして立つ翠令は女君の中ではかなりの長身だ。


「翠令⁈ ああ、翠令ね! 背が高いから分かったわ! でも、随分いつもと違う……。とても綺麗……」


 翠令は姫宮の前で跪きかけ、武人姿の時のように片膝を立てるわけにはいかないことに気づいて、両膝をついた。


「朗風様が女の格好を用意して下さいました。変装が出来たのでこうして御前に参ることが出来たのでございます」


 姫宮は、こんな時でもにこりと笑まれた。


「変装って……。翠令にとっては女君の格好が変装なのね。おかしいわね」


 翠令も姫宮を見上げながら苦笑した。


「真に。女君の装束がこうも重いとは思っておりませんでした。また、動きづらいこと……」


「うん。私も初めて着た時大変だったわ。梨の典侍に着せてもらって、ハクの鳴き声がしたから駆けだそうとしてけつまずいて几帳を倒して……」


「ああ……」


 そう、佳卓が、翠令の気持ちが晴れるようにとハクを連れて来てくれた日。梨の典侍が姫宮に撫子の襲を、まだ季節が早いかもしれないといいつつ着付けてくれた、あの春の終わりの日。


 女房達も、あの、騒々しくも明るい出来事を思い出したらしい。ふっと暖かな空気が一瞬流れ、続いてより一層高くなったすすり泣きの声があちこちから上がる。


 奥から梨の典侍も姫君の側まで、袖で涙を拭いながら近づいてくる。


「姫宮がこの昭陽舎にお出でになられたのは、ほんについこの間のことであられましたのに……。こんなに早く、そしてこんなに理不尽な理由でお別れ申し上げねばならぬとは……」


 姫宮は後ろを振り返って典侍にお声をお掛けになる。


「大丈夫よ。命まで取られることはないわ。近衛の人達もそう言っていたし。幸か不幸か私は小さい子供で、こんな子どもを死罪にするのは大変よ。今上帝に禍が降りかかるかもしれないし、円偉も歴史に汚名を残してしまうわ。少なくとも、徳とか仁とかが大切な円偉はそう思っているはず。だから私のことは安心して」


 典侍の側に座っていた女房が床に上半身を倒して嘆く。


「されど……姫宮はこの京から追われてしまわれる……。さらにはもっと西へと流されてしまうやも……」


 姫宮がぽつりと呟かれた。


「また、流罪人に戻っちゃったわね、私」


 まだ幼さの残る高い声には、耳にした者が心を動かされずにいられない、哀切な響きがあった。翠令が語気を強めてお答え申し上げる。


「ぬれぎぬでございます。ご安心なさいませ。翠令がどこまでもついて参り、いつかは必ず汚名をそそぎます」


 典侍が呆れ声を出した。


「翠令殿、その格好では、見送りはこの昭陽舎までででしょうに」


「その予定で朗風様も衣装を揃えて下さいましたが……。姫宮のこの姿を拝見して気が変わりました。このような仕打ちの姫宮をそのままにして、どうして私が京に残れましょうか」


 翠令は姫宮に頭を垂れた。


「どこまでもお供つかまつります」


 姫宮は、再び翠令に向き直りそして柔らかい声でおっしゃる。


「あのね、翠令はこのまま京にいて」


「いいえ! 今からいつも通り男物の服を借りてすぐに姫宮を追いかけて参ります! 朗風殿から聞くと姫宮はこれから河を船で錦濤へ下られるとか。私も馬を駆って錦濤に向かいます」


「ううん、翠令は御所にいて。そして佳卓に会って頂戴」


 姫宮は、翠令が想う相手と再会できるよう配慮して下さっているのだろう。だが、翠令にとってあくまで大事なのは姫宮だ。


「姫宮! 私のことなど二の次でよろしゅうございます!」


 姫宮は微笑まれた。


「翠令と佳卓を会わせてあげたいというのもあるけど、他にも理由はあるわ。色んなことを佳卓にお願いしないといけないのだから」


「色んなこと……?」


「私が罪人となってしまったことで、私に優しくしてくれた人達まで辛い目に合わせたくはないの。梨の典侍にもずっと御所で元気で働いて欲しい。ここの女房達もね」


 それに、と姫宮は壺装束で階に立つ女君を見やる。翠令も視線を送ると、それは姫宮の乳母だった。


「乳母は錦濤にもついて来てくれるけど。錦濤より西には行かずに済むと助かるわ。乳母は元々京の生まれですもの、京から離れたくはないわよね」


「姫宮……」


「それから竹の宮の姫君も。本当はもっと長くご静養なさるべきなのに……。こんな政変に巻き込まれてしまって申し訳ない事をしたわ……」


「姫宮は何も悪くはございません!」


 姫宮は悲しそうに、そして静かに俯かれた。


「ううん……。私が生意気な女の子だから、円偉がすっかり怒ってしまったのよね……」


「悪いのは円偉でございます!」


 姫宮は小さく頭(かぶり)を振られた。


「これまでだって、私は言葉が過ぎるところがあったわ。”はしたないほど目端が利いてお口が回る”って他人(ひと)から何度言われたか分からない。その言葉って純粋な褒め言葉ではないわよね。私はもう少し口のきき方に気を付けておくべきだった……」


「ですが!」


「私が痛い目に遭うのは自業自得だと思うの。でも、そのとばっちりは最小限にしたいわ。かといって、私に出来ることはなくて佳卓が頼りなのだけど……」


「……」


「円偉は佳卓が大好きだもの。佳卓が取りなしてくれれば色んなことが助かるでしょう? 典侍を中心とするここの女君達も守られるし、竹の宮の姫君のご負担も軽くなるかもしれない」


 それから、と姫宮は翠令に微笑まれた。


「私の罪も軽くなって、西国に行かなくて済むかもしれない。錦濤にしばらく居て、佳卓が口添えしてくれれば、ほとぼりが冷めた頃にまた京に遊びに来られるかもしれないわ」


 姫君は翠令の手を両手で取り、そしてポンポンと叩いて下さる。まるで大人が子供にするように。これまで翠令が姫宮をあやしていたのと同じように。


「みんなが無事で落ち着いたら……そうしたら、また佳卓と翠令とで市に行きましょう? ね? 佳卓によろしく言っておいて。みんなのことをよろしくって。そして、またいつか市に翠令と一緒に連れて行ってって伝えて」


「姫宮……」


「そうそう、佳卓の騎射は凄かったわよね。でも、翠令もあれが出来るようになるんでしょう? 二人が技を競う場面、私も是非見たいわ。楽しみね」


 この状況でそんな呑気なことを考えられるには、姫宮は聡明な方だ。意図して場を和ませようとなさっているのは翠令をはじめ誰にも分かることだった。


 そして、そのような姫宮の姿勢を大事にして差し上げたい。


「分かり申しました。ともあれ一度佳卓様にお会いいたします。そして姫宮のこと重々お頼み申し上げますとも」


 佳卓と誼を結ぶことが出来たのは、翠令が武人で彼の身近な存在だったからだ。

佳卓はこれからだって姫宮を見捨てはしないだろう。これから円偉と佳卓、そして姫宮の間で微妙なやりとりが交わされることになる。その都度、姫宮のご意向を正確に伝えられるように、京の都で誰かが佳卓と姫宮との間を繋いでおかなくてはならない。


 姫宮が「私だけでなく、皆のことも佳卓に頼んでおいてね」とおっしゃっている最中に、外から男の無慈悲な声がかかる。


「そろそろ外へ出て来い! 船が出られないだろうが!」


「ではね、翠令、元気でね」


 そして、典侍をはじめ女房全員を見渡しておっしゃった。


「短い間だったけど、ありがとう。色んな綺麗な衣を着せてくれて。それから、私がお忍びでお外に出るのも見逃してくれて。何より、私と翠令を好きになってくれてありがとう」


 そして、最後に翠令をもう一度ご覧になってから、姫宮は昭陽舎から去られた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る