六十五 姫宮、夜の河をお下りになる

 京の都のほぼ真南に川湊の鳥羽津がある。山崎津よりも上流にあり、京の都に最も近い船着き場だ。

 その港から、姫宮は用意されていた粗末な船に乗り込まれた。船は下流の錦濤きんとうに向けて岸を離れる。


 御所で過ごす最後の日。


 姫宮は朝の日が昇る前に叩き起こされ、慌ただしく旅の身支度を整えた。周りの者、特に翠令とゆっくり別れを惜しむ時間が欲しかったけれど、これもさっさと打ち切られた。


 朱雀大路を牛車で揺られ、そして押し込むように船に乗せられる。

 なんとしても日暮れまでに京の都から外に出したいという、円偉の意図がはっきりと感じられた。


 御所の北と東西を囲む山々は、この南に離れた地からは遠く紫色に霞んで見える。日は西に傾き、水面にちらつく光も鈍く褐色がかってきた。


 そして、出航した船は奇妙なほど静かに進む。錦濤の港で耳にしていた海の浪の音は太く大きいものだったし、そしてこの河を遡ってきたときの波も小気味いい水音を立てていた。なのに今はどうしてこんなに静かなのだろう?


 ──ああ、そうか。京から河を下っているから静かなのね。


 海に比べて河の波というものはさほど強くはない。そして、それに逆らっているわけでもない。


 ──ただ、流されているだけなのだもの……。


 船だけでなく、自分自身もまた。向かう波を乗り越えるのではなく、ただ流されていくよりない。河の水面に漂う落ち葉と同じように……。


 日が暮れる頃、船室で腹を満たすためだけの粗末な夕餉が出された。姫宮は、乳母とともに食欲がないまま他にすることなく時間をかけて召し上がり、再び外にお出になられた。辺りはすっかり夜となっており、東の山際に欠けた月が見えた。望月を過ぎ、これから月はどんどん細くなっていく。


 その月に叢雲が頻々に掛かっていた。その度に夜空は翳り、草木が茂る岸辺の影が溶け込むように夜の河の水面もまた黒くなる。


 姫宮は、船の縁から少し首を外に出して後ろをご覧になった。この船が残す航跡の波が白く現れては後方に溶けるように消えていく。

 時おり高く跳ね上がった波飛沫がきらりと光ることもあるが、それも一瞬だけのことで、夜の暗闇に何もかもが飲み込まれてしまうのだった。


 ──もう、京の都も見えない。


 自分がこれまで未来に夢を見ていられたのは、多くの大人達に守られていたからだと思う。自分には幸せになる権利があると言い聞かせてくれ、心身ともに健やかに育つよう心を砕いてくれた大人達。


 色んな珍しいものを見せてくれた錦濤の街の人、生活の細々したことの面倒を見てくれた乳母、御所での暮らしを整えてくれた梨の典侍や女房達。護衛でもあり重臣でもあり、自分に京の民の暮らしを見せてくれた佳卓。そして、翠令──。


 ──みんな、ありがとう。そして、何もしてあげられなくてごめんなさい。


 何もかも自分が円偉を怒らせたことで台無しにしてしまった。自分が色んなことを分かっていなかったせいだ。

 自分はどんな他人のことも想像できる気がしていた。誰のことも理解できる、と思い上がっていた。分からないことも分からないでいたのだ。


 ──私が生意気だから……。理屈っぽくて、はしたないほど目端が利いて、口が回る女童だから……


 大人たちにさんざん言われてきたことだった。子どもらしくない、と。貴いお血筋の姫ならもっとおっとりなさるべきだとも。

 もっと自分が小さい子どもであることをわきまえて、大人しく人の言うことを聞いていればよかった

 自分がこんなに子どもらしくない女童だから、円偉はすっかり怒ってしまったに違いない。


 あの、課税を巡る遣り取りを思い出す。別に姫宮は間違ったことを言ったつもりはない。だが、正しいと主張すること自体が、何か間違っていたのだろう。そして、何か余計なことを言ってしまったのだ。それが何か知ることはできないけれども。


 ──私はとうとう大人の望むいい子になれなかった。


 理屈っぽくて目端が利いて口がたつ自分。そのことの何が大人をあれほど苛立たせるのか分からずじまいだった。いつまでも大人の言うことを理解できない悪い子ども……。


 ──だから、罰が当たったのだ。


 怒らせてはならない大人を怒らせ、自分の味方をしてくれた大人に不幸を招き寄せる。


 ──ごめんなさい、本当にごめんなさい……。


 姫宮の両の瞳から涙が溢れる。目をぎゅっと瞑ると、大粒の水滴がぽたりぽたりと頬を伝いって落ちて行く。か弱い月の光を搔き集めて淡く光るそれらは、次々に黒々とした川面に吸い込まれていく。


 悔しく、情けなく、でも、どうにもできない。自分の無力さと向き合うことがこうも辛いことだと思わなかった。


 ──翠令


 心の中に翠令の顔が浮かんだ瞬間、姫宮は思わず「翠令、助けて」と言いそうになって、慌てて両手で口を塞がれた。


 ──駄目よ、もう翠令を頼ってばかりじゃ駄目!


 今まで、怖かったり心配だったり、そして辛かったりするたびに、翠令の元に走って抱き付いて来た。翠令の意外に細い腰をぎゅっと抱きしめれば、翠令もぎゅうっと抱き返してくれる。

 そして、女君らしい柔らかい声で、だけど他のどの女君とも異なる凛とした声で「大丈夫でございますよ」と慰め励ましてくれる。そうやって翠令を頼りに過ごしてきた。


 物心ついた頃から翠令はそばにいた。自分には母も姉もいないけれど、翠令がいれば寂しくなんかなかった。

 手をつないで錦濤の街を一緒に歩き、賊に襲われれば大立ち回りを演じて斬り捨て自分を守ってくれた。幼い頃からずっと、とっても強くて優しい翠令が誇らしくてたまらなかった。


 だから、昭陽舎で翠令が刀を抜いて相手に斬りかかった時、ちょっぴり嬉しかったのだ。心の中で『やったあ』と叫びたくなってしまうほどに。だって、錦濤でそうだったみたいに、悪い人達をやっつけてくれると思ったから。


 ──でも、御所でそれはしてはいけないことだった


 そのために翠令もまた罪に問われてしまったという。翠令自身は自分の不調法だと言うだろうけれど、主である自分が御所のしきたりにもっときちんと注意していれば防げたことだと思う。


 ──私は本当に至らない主公……。


 姫宮は再び京の方角に向かって謝罪する。


 ──ごめんなさい


 私に従ってくれて、守ってくれて。でも、私からは何もして上げられなくて。


 だから、もう翠令を自由にしてあげよう。


 ──今日の女君の格好をした翠令は本当に綺麗だった。


 翠令の顔立ちが整ったものだとは知っていたが、美しいかどうかを考えたことがあまりなかった。家族がそうであるように、外見の美醜とかかわりなく翠令は親しい存在だからだ。


 美しい大人の女君の翠令に、佳卓という男性はとても似合いの相手だと思う。

 梨の典侍によれば、身分差があるから正式な結婚は難しいものらしい。だけれども、再び流罪人も同然となったこの自分に従って京を離れるより、せめて同じ都に居た方が翠令も幸せだろう。


 佳卓なら翠令の望みを聞きながら武人としての身の振り方を考えてもくれるだろうし、案外、梨の典侍が翠令をひとかどの女房にしてくれるかもしれない。いずれにせよ、同じ御所で働いていれば恋人として同じ時間を過ごせるようにはなれるだろう。


 翠令に幸せになって欲しい。けれども翠令は本人の幸せよりも、主公のことを優先させてしまう。

 それなら……。翠令に自分や自分にまつわる人々のために佳卓に会って欲しいと頼めば、翠令は是が非でも佳卓に会おうとするだろう。他人のためなら奮起する性格なのだから。


 円偉は佳卓のことなら随分と気に入っている。自分や翠令を嫌っていても、佳卓が無事に朝廷に戻れるのは確かだ。頼れるのは佳卓しかいない。


 彼が自分をどれだけ助けてくれるかわからない。助けてくれようとしてもそれは随分先のことかもしれない。でも、少なくとも翠令は守ってくれるだろう。先の見えない自分と鄙をさすらうよりも翠令にとってはずっといい。


 ──佳卓、翠令をお願いね。どうか幸せにしてあげて。


 そして、今まで自分の傍にいた守刀に別れを告げた。


 ──翠令、さようなら。今まで本当にありがとう


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