六十六 翠令、失踪する

 錦濤の姫宮が京の都から追われたその夜、女武人翠令が失踪した。


 そして翌朝。


 左京三条京極の貴族の邸宅にて、一人の新参の女房がこの邸の女君に挨拶をしている。その場にはその女君のもとに通う婿君も同席していた。左大臣家の嫡男、佳卓の兄である。


 この夫婦がそれぞれに新参の女房に声を掛ける。

 佳卓の兄が微笑んだ。


「翠令もこうしていると普通の女君に見えるね。少し背が高いくらいで」


 女君も扇を口元に当てて微笑まれる。


「その、深縹に海賦模様の袿。きりりとした貴女の雰囲気によく似合っていること。佳卓様が翠令殿のために見立ててご用意されたものとか。相変わらず趣味の良い方ですわね」


「左大臣邸の佳卓の部屋に置いてあったよ。佳卓の方こそ翠令が着た姿を最初に見たかったであろうに、兄の私が先に見てしまって……後で怒られてしまうかな」


 翠令が何かを答える前に、女君がころころと笑う。


「ただ、元が美しい女君ゆえ装束はよく映えますが、いかんせん立ち居振る舞いが男君のよう。こちらでお預かりしている間に女君らしい淑やかな身のこなしを教えますから、それも身に着けて佳卓様にお会いなさいな」


「よろしくお願い申し上げます」


 朗風の手配で翠令は女の格好をし、佳卓の兄の妻に匿われることになった。

 しかし、女物の衣に慣れず、大股で歩こうとしてつんのめったり、男言葉で話しかけて一緒に寝殿に侍る女房達を唖然とさせたりしている。


 女に変装して生きていくなら、ここの女君の言うように女らしい身のこなしを習得すべきだろう。


「多少時間がかかるかもしれませんが、励みます」


 ところが、佳卓の兄は「幸か不幸か、そのような時間はなくてね」と穏やかでないことを言い始めた。。


「翠令には御所にて竹の宮の姫君にお仕えしてもらいたい」


「竹の宮の姫君……。やはり円偉は姫君を都に戻すのですね。姫君はまだ療養が必要な御身。大丈夫でいらっしゃいましょうか……」


「『静養先の竹の宮を離れたくない』と姫君もかなり抵抗されたようだが……。いかんせん後ろ盾のない身でいらっしゃるのでね。どうしようもない」


「……」


 翠令は姫君を痛ましく思う。幼い頃に先帝の慰み者にされ、御病気になり、今、また臣下の男の勝手で東宮の地位に担ぎ上げられる。どれもこれもご自分の意思ではない。ただただ人の手に弄ばれてしまうばかりの境遇が気の毒だった。


「竹の宮の姫君は三日後に京へお越しになる。翠令には姫君のお側に上がって欲しい」


 翠令は小首を傾げた。


「私は武人として姫君をお護りするのでしょうか。それとも、このような格好で女房としてお傍に上がるのでしょうか」


 佳卓の兄が笑って首を振る。


「おやおや、女武人翠令は行方知れずということになっているんだよ? もちろん竹の宮の姫君のもとでは女房として過ごしておくれ」


 女君も少し意外そうな顔を夫君に向ける。


「貴方……。翠令殿は確かに美しゅうございますが、女君の中に混じって動くとやはり男のような言動が目立ってしまいます」


「うむ。そこを上手く誤魔化して欲しいのだよ」


 翠令が尋ねた。


「何故、まだ女房らしく振る舞えない私が竹の宮の姫君の元に行かねばならないのでしょう?」


 佳卓の兄はここで真面目な顔をし、言葉を選びながら話を進める。


「右大臣が、正式に円偉に家督を譲ろうとしている。円偉自身はあまり権威を欲しがらない性格で今までも固辞してきたが、今回は右大臣就任を引き受けるつもりらしい」


「……それは……?」


「竹の宮の姫君が円偉に会おうとなさらない」


 翠令は間髪入れずに答える。


「もっともなことです」


 竹の宮の姫君はこのような帰還を決して望んではいらっしゃらない。円偉に拝謁を許す理由などない。


「そう、竹の宮がお怒りなのは当然だ。私が思っていたよりもご自分の意志をはっきり外に出す御方であられるようだね。ご幼少時は先帝に囲われ、その後は竹の宮でお過ごしだったので、私もお人柄を存じ上げる機会がなかったが……どことなくやわやわした方だと思っていたので毅然とした態度が意外だ……」


「白狼が『気概のある女君』と申しておりました」


 佳卓の兄は息を吐いた。


「しかしながら、相手が右大臣ともなると、さすがに姫君も円偉の訪問を拒み通すことはお出来にならなくなる」


「そんな! 円偉は右大臣になるならない以前に、姫君に迷惑をおかけしていることを詫び、そして何もかも元に戻すべきでしょう!」


「円偉の頭の中では元に戻したつもりだ。円偉にとっては、竹の宮の姫君を東宮にすることの方が正しい順番なのだよ」


「ですが!」


「円偉は、理は自分にあると思っている。『姫君が何か誤解なさっているので、それを解きたい』と言っているんだ」


「誤解ではなく!」


 女君がそっと口を挟んだ。


「声が大きすぎます、翠令殿。女君はかような話し方を致しません」


「……申し訳ありません」


 佳卓の兄が少し視線を下げた。


「実はね、翠令。姫君から内密に便りが来てね。右大臣となる円偉に対抗するため、左大臣家を頼って来られた」


 翠令は期待を込めて佳卓の兄を見た。だが、佳卓の兄はこれも首を振る。


「父上からはお返事差し上げないことにした。つまり、左大臣家はこの件に関して無関係だという立場を崩すことはない」


 翠令は思わず再び叫ぶ。


「なぜです? 姫君をお助けしようとしないのですか? 間違っているのは円偉……」


 ここで女君に「静かに」とたしなめられて、慌てて声を落とす。

 女君は微笑み、そして静かに「声の大きさだけではありません。内容も大声で話すには憚られる政治的なお話でしょう?」と諭した。


 佳卓の兄が頬に手を当てた。


「では、反対に翠令に聞くが、左大臣家はなぜ姫君を助けなければならないのかね?」


「それは……。円偉が間違っているのですから……。誤りは正さなければなりません」


 佳卓の兄は冷徹だった。


「そんなことをして左大臣家に得になる点が、今のところ見当たらない」


「な……!」


「このままでは円偉が朝廷の中心となるだろう。今上帝に頼りにされているし、東宮である姫君とて他に後ろ盾もないお立場。円偉を憚って誰も姫君のお世話など差し上げないだろうからね」


「ですから、そこを左大臣家が後見なさってはどうなのですか?」


「それでは円偉と真っ向から対立することになる。もともと円偉は極めて有能な文官だ。朝廷の者は皆尊敬している。今回の強引なやり方に多少眉を顰めはするが、誰も円偉を排そうと思っていない。翠令に向かってこう言うのも何だが……」


 佳卓の兄は少し言い淀んだ。


「厳しい言い方だが、朝廷の者は錦濤の姫宮にあまり愛着がない。見知らぬ土地から来た少し風変わりな女童でしかないんだ。対して、竹の宮の姫君は悲劇の女君で、しかも十年も竹の宮で女房に大切にされてきたのだからもう治癒していると思い込んでいる」


「姫宮は愛らしい御方。時間さえあれば朝廷の者もその良さが分かるはず。そして、竹の宮の姫君の真相とていずれ明らかになりましょう!」


「だが、時間がなかった。これが現実だ」


「……」


「しかも、円偉は佳卓への反感を上手く掬い取って近衛の武官も掌握した。この円偉とこの時期真っ向から対立するのは避けたい。これが左大臣、つまり父上の判断だ」


「ひどい……」


「これが政治というものだよ」


 翠令は無言で立ち上がった。頬が熱く火照っているが、頭の奥には冷たいものがある。ここにいても、姫宮のために何もならない。左大臣家が冷たく姫宮と竹の宮の姫君を切り捨てるのなら、この翠令もまたこのご縁を切って捨てるまで。


 女君が驚く。


「まあ、女君はそのようにすくっと立ち上ったりしないものですよ」


 翠令は佳卓の兄を睨みつけた。


「左大臣家の方々と私とでは歩む道が違うようです。ならばここにいる理由もありません」


 佳卓の兄はふふっと笑う。


「本当に翠令は直情径行だね。さっきのは父上の見解だ。私は別の考えを持っているんだがね。聞きたいかい?」


「伺いましょう」


 翠令は左大臣家の嫡男を見下ろすのをやめ、腰を下ろした。


「左大臣家が表立って姫君を支援すると円偉と対立する。だが、円偉をこのままにすれば右大臣家が権力を握り、左大臣家は埋没してしまう。何しろ嫡男の私は凡庸な人間だからね」


「……」


「竹の宮の姫君のご意向を全く無視するのではなく、陰ながら姫君と通じて次の一手への布石を打つべきだと父上に申し上げた」


「次の一手。具体的には、どのような……」


「申し訳ないが、今の時点でこれという案はない。だが、姫君とつながりを保っておくことで見えてくるものもあろう。そこで、だ」


「そこで?」


いつの間にか、翠令は話に聞き入っていた。


「実は梨の典侍に相談していてね。梨の典侍が新たに女房を募っているということにした。そして、その話をたまたま耳にした私──左大臣ではなくその息子が、たまたま妻の家に良い女房がいるのでお貸しするということにした」


「……」


 翠令は当惑する。自分の役割はなんだ?


「梨の典侍の希望でもあるんだよ」


「典侍殿が……?」


「後宮にて典侍は再び竹の宮の姫君をお世話申し上げるが……気まずいことこの上ない。典侍がそれを厭うているだけでなく、姫君も気づまりだろう。また、姫君にはあの後宮で襲われたというあまりに辛い記憶がおありだ。また、過去の心の傷が蘇って錯乱なさるやもしれぬ。白狼がいれば最善だが、もちろん男君をお傍に近づけるわけにはいかない。そこで、だ。武芸もこなせる女君の翠令が側にいることがお心に良いのではないかと考えた」


「なるほど……」


「翠令にとっても一度は竹の宮にお会いして、錦濤の姫宮が呪詛などしていないと無実を直接訴える機会が欲しいのではないかと思ったのだがね」


 翠令は身を乗り出し、食いつくように答えた。


「それはもう!」


 佳卓の兄はにこりと笑んだ。弟、佳卓の人を食った笑みにどことなく似ている。


「では、決まりだ。翠令一人だと目立つから他にも二人、この邸から竹の宮に差し出すことにする。牛車を仕立てるからそれに乗って御所においで。そして、私と梨の典侍と揃って、竹の宮の姫君にお会いしよう」


「分かりました……」


 女君が声を掛ける。


「さあ、そうと決まれば急いで女らしい所作を習得しなければなりません。頑張りましょうね、翠令」


「……はい」


 女君は朝から晩まで翠令に付き合ってくれた。言葉遣いに課題は残るものの、身のこなしについては褒めて下さる。


「翠令殿は上達が早い。武芸が得意と聞いていますが、体の動かし方について飲み込みが早いのでしょうね。結構です、これくらい出来ればそれなりに淑やかに見えましょう」


「ありがとう存じます」


 その日は朝から雨だった。

 竹の宮が京の都にお入りなるのに合わせて、翠令を含む女房が参内することとなった。四人乗りの牛車に先に二人の年かさの女房が乗り、最後に翠令が乗り込む。

 御簾の側に座りながら揺られていくうち、前方から馬の蹄の音が近づいて来た。


 牛飼童の怒鳴り声が聞こえる。


「こら! 何用だ! あっちへ行け!」


 翠令のよく知っている、太い男の声が返ってきた。


「俺はこの中にいる女に用がある」


 翠令は思わず叫ぶ。


「白狼!」


「いたか、翠令」


 馬の吐息が御簾のすぐ外に聞こえたと思った次の瞬間、その御簾がばさりと持ち上げられた。


 牛車の奥では女房二人が慌てて扇で顔を隠して後ずさる。翠令だけがまるで男のように顔を上げて御簾に近寄った。


 白狼もまた礼節に囚われることはない。馬を降りることなく、馬上から自分の太刀を棒代わりに御簾を持ち上げている。

 そして翠令を見て軽く口笛を吹いた。


「翠令のそんな格好は初めて見るな。へえ、ちゃんと女のように見えるもんだな」


 翠令は苦笑する。


「馬を降りたらどうだ、白狼」


 白狼自身も目立つ風貌だし、馬に乗ったまま牛車の御簾を上げて話しかけるのも人目を惹くだろう。さらに、話の内容も大声で話せるものではあるまい。


「大した話じゃない。いちいち下りるのも面倒だ」


 白狼は片手の太刀で御簾を支えたまま、馬を寄せてきた。翠令は唸る。相当に馬の扱いが巧みだ。さすがは盗賊として馬で近衛を蹴散らし、大路小路を駆け回ってきただけのことはあると言えようか。また、馬の方もよく馴れている。盗賊時代の馬を返してもらったのかもしれない。


 白狼は声を低めた。


「あの女に会うそうだな」


 白狼にとって「あの女」とは竹の宮の姫君のことだ。翠令が彼の目を見ると、その碧い瞳は複雑な陰影を湛えていた。そして、熱っぽいような、どこか苦しそうな声音が続く。蓬髪の髪が水を含んで重たげで、彼特有の玻璃のような碧い瞳にも微妙な翳がある。


「あの女に伝えてくれ。あんたと同じ街に俺がいる、と。あんたが助けを呼べば駆けつけてやる、と。俺はあの女に約束したし、それを違える気はないからな」


「白狼……」


「じゃあな」


 白狼は翠令の返事も聞かずに馬の首を返した。ばさりと御簾が落ち、それを透かした向こうで白狼が馬を易々と操って去っていく。


 その遠ざかる背中を眺めながら、翠令はため息をついた。

 白狼の気持ちは痛いほどわかるが、後宮に白狼が入り込むことなどできはしない。白狼の伝言は、竹の宮の姫君に申し上げる意味があるだろうか……。


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