六十二 翠令、政変に直面する(二)

 姫宮は食膳を前に座ったまま、目を見開いてぽかんとその男を見上げていらした。


「な……!」


 言葉のない翠令に代わって、梨の典侍が立ち上がって問いただした。


「お前達、姫宮が竹の宮の姫君に呪詛を行ったと申すのか!」


「さよう」


「呪詛は大罪ぞ。そのような疑い、軽々に申すは無礼であろう。そもそも宮様が何故竹の宮の姫君を呪わねばならぬのか?」


「この朝廷を乗っ取ろうとするためだ。この女童は、帝にお血筋が近い竹の宮の姫君を病で臥せらせ、代わって自分が東宮になった」


 翠令がごくりと唾をのんでから怒鳴った。


「竹の宮の姫君の方が帝とお血筋が近いなど前から分かり切っていたことだ。それでも姫宮が東宮にお立ちになったのは姫君のご体調が悪かったからだろう!」


 近衛の一人が大声で返す。


「姫君の病なんてとうに治ってたんだよ」


 別の近衛も達も続く。


「ああ、俺も聞いたぜ。おそば仕えの女房が誠心誠意お世話して差し上げて近年は随分お元気だったとか」


「健康を取り戻して、京の都にお帰りになりたいと意欲をお持ちでいらした。それがこの一年、再び床につくことを余儀なくされ、その間にこの錦濤きんとうの女童が東宮に立った。これは、この女童が竹の宮の姫君に病がとりつくよう呪を掛けたからに他ならない」


 真相を知る典侍は身体を震わせる。


「な、何を申すか……! 今までの女房達がどんな仕打ちを姫君にしてきたことか……」


 翠令も呆れるを通り越して腹立たしい。


「お前たち、出鱈目を信じるのも大概にしろ!」


「いいや」と叫ぶ男の声はやけに確信に満ちていた。


「この女童はだ。快方に向かっていた姫君に呪をかけ、また悪化させたんだ」


 言いがかりにもほどがある。翠令がうんざりした声を出した。


「だったら問うが、姫宮が一体どんな術を使ったと言うんだ?」


「この国で誰も見たことがない、燕の呪法だよ」


 翠令が二の句が継げないでいると、他の者が得意げな声を出す。


「燕の術ならこの国の者にばれないと思って油断していたな。だが、燕のことは円偉えんい様が詳しいからな」


 背後から続けざまに別の男の声が上がる。


「円偉様が見破られたんだ!」


「ことは明らかだ。往生際が悪いぞ!」


 ──円偉様だと?


 これは一部の近衛の勘違いや暴走ではなく、円偉が仕組んだことなのか……? もしそうであったら、翠令の手に余る事態だ。翠令の頭の奥が冷たく強張って行く。


 近衛達の後ろの方から若い男が前に出て来て、姫宮を指さした。


「俺はずっとおかしいと思ってたんだよ。錦濤なんて異国に近い場所から、突然、前の前の帝の孫なんて胡散臭い女童が来てから、妙なことばかりだ」


 他の者達も賛同する。


「そうだ! この女童は異国の怪しい術でこの御所のしきたりを破壊し、そして朝廷を乗っ取ろうとしている!」


「だから、あってはならないことばかり朝廷で起こるんだ!」


 翠令が首を傾げた。


「あってはならないこと?」


 近衛達は口々に不満をぶちまける。


「なんでこの間まで賊だった白い妖が近衛に召し抱えられるんだよ?」


「俺たちに追われる盗賊だった奴が、だぜ?」


「しかも俺たちより、左大将や右大将に目をかけられてるじゃないか。なんでだよ?」


 その気持ちは翠令にも分かる。しかし……。

 翠令が説明する前に、一層尖った声がする。


「しかも、そいつ、竹の宮の姫君と通じてるって言うじゃないか!」


「俺は白い妖が襲い掛かったって聞いたぜ」


 翠令が慌てて言い返す。


「白狼は襲ってなんかいない。姫君をお助けしたんだ。お傍に置いていたのも姫君のご意向だ」


「じゃあ、姫君は誑かされてたんだ!」


「なっ……!」


「ここの女童が授けた燕の呪法を、白い妖も使ったんだ。そうして高貴な姫君を誑かした!」


「高貴な女君を野良犬からお救いせねば!」


 興奮する男たちを翠令は宥めようとする。


「白狼は竹の宮から都に戻ってきている……」


「そう聞いたのに俺は姿を見かけないぞ? まだ竹の宮にいるんじゃないのか?」


 それは円偉の目につかないよう衛門府に配置替えをしたからなのだが……。


 しかし、彼らは口々に「高貴な姫君を魔の者からお救いしなければ」と言い募る。自分たちの言葉に興奮し、そして収まる気配がない。


 そのうち、翠令自身にも火の粉が飛んできた。


「誑かしたと言えば、お前だってそうだろうが、この女!」


「私……?」


「女のくせに武人気取りで近衛に入り込んできやがって!」


「弓だって下手くそもいいところじゃないか。だのに、それを咎められるどころか近衛大将自ら練習に付き合ってやっている」


「お前は一見何の色香もないが、きっとその女童の呪法で佳卓を誑かしたんだ!」


「そんな……。佳卓様と私には何のやましいところもない……」


 だが、誰も翠令の反駁など聞きはしない。


「呪法だ呪法、錦濤の女童の燕の呪法だ!」


「この女童が来てからおかしくなった!」


「賊が近衛に、女が男に立ち混じる。本来ならあってはならぬことのはずだ」


「あの女童が世の中をおかしくしている」


「子供のくせに、円偉様に盾突いたそうじゃないか。生意気なんだよ」


 翠令は唇を噛んだ。

 佳卓と趙元も言っていた。姫君が御所に上がられると同時に色んな変化があった。それが、御所に住む人々を様々に刺激してしまっていたのだ。


 賊のくせに、妖のくせに、女のくせに、子どものくせに──。変化を厭う人々にすれば、忍耐の限界を試され続けてきたと思っているのかもしれない。素朴で単純な嫌悪感は、それだけに根深く堅牢だ。


 その苛立ちや恐怖が溜まっているところに、それは誰かの陰謀なのだと囁かれれば、人々はそちらを信じてしまうだろう。不快な現象の全てが、その背後にいる見知らぬ女童の異国の呪のせいだと焚きつければ、人々は納得してしまうのだ。そして、油の中に火を投じるように怒りは一気に燃え上がる。


 さらに言えば、生意気で可愛げのない少女東宮を廃し、美貌で名高い竹の宮の姫君を栄えある東宮にお迎えすること、これも男たちの心を妙に昂らせるのだろう。


 事実や真相を丁寧にかみ砕いても意味はあまりない。彼らは信じたいものを信じているだけなのだ。


 男たちの口は騒々しい。


「徳ある円偉様が煙たいのか、女童は佳卓ばかり贔屓していた」


「あの女童が来てから、お前たち胡散臭い者が朝廷をうろつくようになった。近衛大将ってのは怪しい者から内裏を護るのが仕事のはずだ。なのに、佳卓は職責を果たしていない」


「佳卓や趙元など近衛の上層部は、この女童の術で取り込まれてしまっている!」


「近衛は腑抜け揃いかと他所の者から馬鹿にされて、俺たちがどんだけ恥ずかしかったか!」


「佳卓に反感があっても主流派から外されるのが落ちだったからな」


「だが、こうして名誉挽回の機会が巡ってきた」


「俺たちの名誉だけじゃないぞ? 歴史と伝統ある近衛府が異国の呪に操られていたという恥を雪ぐんだ。俺たち心ある人間がな!」


 ひときわ高らかな声が響いた。


「これで何もかもが正される!」


 翠令は尋ねてみた。


「……佳卓様はどうなる?」


 趙元は謹慎させられたと聞いた。では、佳卓は? 東国から帰ってきた後を、円偉はどう考えているのだろう?


「円偉様は寛容であられる。佳卓は呪で操られるような情けない武人だが、文官としての道は残しておいておられる」


「佳卓は学問が出来るんだから、円偉様の元でせいぜい役に立つよう励めばよかろう」


「女童と武人の麾下から切り離しさえすれば、佳卓殿だって文官としてやっていける──円偉様がこれほど情けをかけてやっているんだ。佳卓も感謝してそれに応えるべきだ」


 翠令は天井を仰いだ。


 ──ああ……、円偉様はこうして思い通りに佳卓様を手に入れようとしているのか


 一方で典侍は竹の宮の姫君を案じる。


「竹の宮の姫君はまだご静養が必要な御身……。このように都合良く担ぎ出して無体なまねなどしてくれるな……」


 男達は取り合わない。


「もう治ってらっしゃるんだよ。だから御所にお迎えする」


「この昭陽舎の正当な主だ」


「ちゃんとした方だと聞いているぞ。そこの女童と違って真っ当な女君だ」


 まるで姫宮が真っ当ではないかのような言い草に、翠令が反射的に応じる。


「ちゃんとした……? 真っ当……?」


「その姫君は貴婦人らしい貴婦人で、円偉様の差し上げた本をちゃんと読んでる」


「わきまえた方だ」


「女ってのは、長い衣装を着て御簾内で大人しくしておくもんだ。政なぞ難しいことは男に任せるしかないだろうに。女がしゃしゃり出てろくなことになどなりはしない」


 彼らは姫宮に目を向ける。


「女で、しかもこんな小さい餓鬼じゃねえか。よく円偉様ほどの大人に盾突こうって気になったもんだ。ほんっとうに生意気だなあ」


「今上帝は大人しい方だ。そして、淑やかな竹の宮の姫君が東宮になれば、朝廷が落ち着く。その女童が異質で邪魔で面倒なんだよ」


「こまっしゃくれていても、徳や仁には興味ないそうじゃないか。馬脚を現したな」


「円偉様のような重臣をないがしろにして……。どこまで朝廷の威信を傷つける気でいたんだ」


「そんな勝手が通るとでも思っているのか!」


 姫宮は顔面を蒼白にされていらっしゃる。ご自分が円偉に口答えしたことが今の騒ぎを引き起こしているのだと理解なされて、自分を責めておられるのだろう。


 男達は錦濤の姫宮に近づく。


「さあ、女童にはこっちに来てもらおうか。そもそも叔母上を差し置いて帝になるってのが変だったんだよ」


「円偉様もおっしゃっていた。順番は守られなければならない、とな」


「こんな子供が帝だと? 馬鹿馬鹿しい」


 一人の男が姫宮の前に屈みこみ、お手を乱暴に掴んだ。


「さあ、立て。子供は子供らしく大人の言うことを聞け」


 翠令の顔がかあっと燃えた。


「姫宮に何をする!」


 この人数、そして相手は男。

 まともにやり合って血路は開けない。

 翠令は剣を鞘から抜いた。そして、もう片方の手で姫宮に触れている男の襟首をつかんでて後ろに投げ捨て、姫宮から引き剥す。

 そうして翠令は姫宮の前に立ちはだかり、男達に刀の切っ先を突きつけた。


「この……!」


 姫宮に再び手をかけようとした男の腕に、刀を払って切りつける。腕だけだ。切り傷ができたところで命に別状などあるはずもない。


 しかし梨の典侍が金切り声を上げた。


「翠令殿、なりません!」


 野太い声が交錯する。


「この女、禁中で刀を使ったぞ!」


「血が! 内裏が血で汚された!」


 翠令は混乱する。自分は何かを間違えているだろうか。梨の典侍に視線を向けると、典侍自身もどうしていいのか困惑しきった視線を向けてきた。


「どういうことだ……?」


 集中力の切れた翠令を、男が数人がかりで取り押さえにかかる。


「この……!」


「女ぁ! よくも!」


「力で男に勝てるわけないだろ!」


 足を払われ、よろけたところを後ろから羽交い締めにされた。その相手が翠令の体ごと地面に膝をつくので彼女もしりもちをつくように座らざるを得ない。その周りを、剣を構えた男達が取り囲む。


 床に座る翠令を取り巻く何本もの剣。しかしそのどれもが鞘に覆われたままだ。


「それ!」


 男の一声でそれらが一斉に振り上げられた。これから棒のように翠令を打ち据えようとするのだろう。


 その時、よく通る少女の声がした。高くて澄んだ、そして凛とした声。


「やめて!」


 姫宮の小さな体が、大人の男達の脇をすり抜け、翠令の目の前に立った。


 翠令を背中でかばいながら、十歳の少女が十数人の男を見上げている。尻を床につけたままの翠令はそのお背中を見上げて、「ああ、姫宮は背丈がお伸びになった」と場違いなことをふと思った。


「翠令に何もしないで! 私が貴方達について行けばいいのでしょう?」


「姫宮!」


 姫宮は翠令に振り向かれた。座ったままお見上げする翠令に微笑んでお見せになる。


「翠令がどうこうできる状態ではないわ。無理しないで」


「しかし……しかし! 私は姫宮の守刀でありますれば……!」


 翠令は渾身の力を振り絞って身をよじった。相手が驚いて腕を緩めたのを振りきり、立ち上がろうとした瞬間。


 頭に強い衝撃を覚えて、ここで翠令の意識は途切れた。



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