六十一 翠令、政変に直面する(一)

 姫宮が夕餉を召し上がる際、梨の典侍と翠令がお話し相手を務める。


 夏の終わり頃でもまだ日は長く外は明るいが、それでも姫宮のために灯火が供せられる。邸内は心地よい程度に華やぎ、格子も御簾も上げていると夕風が南庭の池の水面から爽やかな水の匂いを運んでくる。


 梨の典侍がにこやかに翠令に尋ねた。


「あの御酒、白狼殿の口におうたかの?」


「ええ。白狼は前と同じく『上等な酒だ』と喜んでおりました」


 典侍は意外なことを言う。


「それは良かった。いつか、私もその男君と飲み交わしてみたいもの……」


「……」


「姫君がお心を動かされた男君……。あれほど心傷ついた方が、男君に想いを寄せることがあろうとは思いもよりませんでした。また、白狼殿は姫君の御為に身を引いてくれた。ほんに有り難い方……」


 姫宮も仰る。


「うん、白狼はいい人よ。強いし、弱い者の味方だし」


 典侍はぽんと手を叩いて、「ああ」と声を上げた。


「そう言えば、宮様も白狼殿に助けられたのでございましたな。まことに、その男君は、この典侍の大事な大事な主公お二人のために力を貸して下さった御仁。一度きちんとお礼を申し上げたいものじゃ」


 翠令も笑んだ。


「さようですね。どこかでこっそり会えれば……朗風ろうふう様に頼めばそんな場を設けて下さるかと思います」


 是非お頼み申す、と典侍は真剣に言う。


「私は竹の宮の姫君が十歳の頃に御所を離れて以来、気にはかけていてもご様子を知ることがなかった。ぜひ白狼殿から姫君の様子を聞きたい。反対に、私の方からは、竹の宮の現在の様子を教えることができる……今は私が選んだ女房が竹の宮でお仕えしておりますからな」


 現在の竹の宮で働く信頼できる女房によれば、白狼が去った後の姫君は気落ちなさっているようではあるが、気丈に振る舞い、錯乱の発作もなくお過ごしらしい。


「寂しそうになさっておいでと新しい女房は申しておる。おいたわしいことじゃ……。時間が傷を癒してくれることを願うばかり……」


 姫宮も男女の恋が分からないなりにご心配なさる。


「白狼のこと、私にも何か出来るといいのだけど……。私が何かすると、姫君は差し出がましいと不快にお思いになるかしら?」


 翠令は首を横に振った。


「そのようなことはないでしょう。白狼の話では、姫君は姪に当たられる姫宮にご興味をお持ちになったとか。姫宮のお父上とは仲の良い兄妹であられたそうですから」


 翠令は姫宮に微笑む。


「大学寮にお忍びで出かけたこと。姫宮の父君様もお若い頃同じことをなさったそうですよ」


「本当?」


「竹の宮の姫君が兄君様の思い出として語られたとか」


「そうか! 姫君は私の父様を直接によくご存知だものね。是非お話してみたいわ!」


 典侍が提案する。


「お文を差し上げてはいかがでしょう? 姫君も真名を読まれますゆえ、真名でも仮名でもどちらでも」


「うん。そうね! ご体調がお悪くてもお手紙はお好きな時にお読みになれるものね。そうしてお文を交わすようになったら、白狼がどんなふうに過ごしているか私からもお知らせして差し上げられるわね!」


 あ、と姫君は何かを思いつかれたようだった。


「ご体調といえば、帝の方もいかがかしら……。私、最近お会いしていないわ。もしよかったら帝にもお文を差し上げようかしら……」


 今上帝は相変わらず臥せっていらっしゃることが多いと聞く。翠令は眉根を寄せて典侍を見た。典侍がお答え申し上げる。


「あまりご心配なさらずとも大丈夫かと。例年この時期は夏の疲れが出てご体調を崩されるものです。今年は円偉えんい殿のお薬湯で眠っておられることが多く……」


 翠令が思わず尖った声で典侍に問うた。


「円偉様が?」


 円偉は白狼に濡れ衣を着せて佳卓かたくから武人の麾下を遠ざけようとしていた。その一件は事が成る前に芽を摘んだが、まだどんな陰謀をたくらんでいるのか分からない。そう思うと円偉の名前を聞いただけで、翠令は警戒したくなる。


「円偉殿は今上帝の傅育官を務めた方。素直に学ばれる今上帝を大切になさっておいでじゃ。帝に対して何か害をなすということは疑わずとも大丈夫であろう」


「されど……薬湯とは……。一体どのようなものを差し上げているのですか?」


「眠りやすくされるためのものと聞いておる。例年、帝は疲れで床に臥せられるものの眠ることもお出来にならず、もどかしく夜を過ごしておいでじゃった。きちんと睡眠が取れた方がご回復に繋がろう」


 翠令は息を吐いた。


「それも……そうですね……」


 なるほど、ご健康に良さそうな薬湯らしい。


「帝がご政務にあたられない分、円偉殿が政を取り仕切られるゆえ、随分とご多忙でおられるようじゃな……」


 姫宮がこそっと呟かれた。


「最近、円偉は昭陽舎にも来ないわよね。実を言うと私、ほっとしてるの」


 典侍も翠令も苦笑する。


 昭陽舎で姫宮の立太子の費用について話し合った際、財源を巡って姫宮と円偉が意見を異にした。

 それ以降も円偉は姫宮に時折会いに来ていたものの……。

 あからさまではないにせよ、どこかひんやりとした態度であった。


 白狼が竹の宮に居られるように円偉との関係の改善を目指したが、はかばかしくはない。白狼のことがなくとも朝廷の重臣である円偉の機嫌を損ねたままとはいかないが、相手に取り付く島もないのでどうしようもなかった。


 一方で、彼は何事かを企てている。それが何かわからないままでは迂闊な真似も出来ず、円偉が来るたびに、彼の言葉尻一つにも何か隠れた思惑がないか姫宮をはじめ昭陽舎の者達は緊張して受け止めざるを得ない。


 翠令もため息をついた。


「私も正直なことを申せば、円偉様の言動に神経を尖らせるのに疲れていたところです。息が詰まるような気がしておりました……。ここのところお越しにならないので、のびのびとした心持ちです」


 典侍が二人に慰めるような言葉をかける。


「もめ事というのは顔を合わせるがゆえに拗れることもあるもの。こうして距離を置いていれば、時間が解決してくれることもありましょう」


「そうですね……」


 典侍は翠令に気の毒そうな視線を向けた。


「翠令殿は佳卓殿に早く再会したいとお思いじゃろうが……。今しばらく大人しくするよりないかと思う」


「……」


「佳卓殿が東国に赴かれ、姫宮と佳卓殿とでやり取りもせず、そして幾月か過ぎれば、姫宮が佳卓殿だけを依怙贔屓するというような風評も消える。円偉殿も朝廷も疑心暗鬼を捨てて落ち着くことであろう」


 姫宮も頷かれた。


「そうね……。佳卓が旅行中どうしているかちょっと心配だけど、でも、変に疑われては困るから、便りを出すのは控えないといけないわね。翠令は佳卓と文で遣り取りしたいでしょうけれども……」


 姫宮が翠令を慮って下さるのは有り難いが、翠令とて近衛大将に色仕掛けで近づいたという下衆の勘繰りが朝廷に広まってしまっている身だった。佳卓と接触は避けなくてはならない。


「姫宮と佳卓様を私が結び付けているという根も葉もない噂を、佳卓様が払拭されようとなさっているところです。私も佳卓様と連絡など慎まなければ……」


「でも……」


「佳卓様は鬼神の如しと呼ばれるほどの武芸の達人。道中の無事をご案じる必要はございません。それに必要な知らせは公の使者が右大将趙元ちょうげん様に届きますから……」


「ええと、趙元の所に不鹿の関を越えたって便りが来たのが何日前だったっけ……」


「十日前です。京から二十日ほどかけて、日立国ひたちのくにまで進まれます。そこから一月ばかり道奥みちのくを巡り、そこから遅くとも冬が来る前に不鹿の関の近辺までお戻りにる。そして、朝廷からの帰京の許しを待つことになっています」


 ここで姫宮は袖を口元に運ばれた。明らかに笑いをこらえていらっしゃる。


「翠令ったら……」


 そして、典侍に目をお向けになった。それを受けた典侍も一つ頷き、翠令に微笑みかける。


「翠令殿は佳卓殿のご予定をすっかり頭に入れておいでじゃの。立て板に水のようにお話しになる。一日千秋の思いで佳卓様のお帰りを待っておられることがよく分かる……」


「それは……」


 翠令の頬が熱くなった。確かに、何度も何度も聞かされた予定を反芻し、時間があれば東の空を眺めて「今頃どこまで行かれただろう」と思いを巡らせているのは確かだ。


 翠令はコホンと咳ばらいをした。


「……私もお待ちしておりますが、姫宮にとりましても佳卓様が早くお戻りの方が心強くお思いでしょう。円偉様が何をお考えか全ては分かりませんが、一つだけはっきりしていることは、佳卓様についてはとても好意的だということです」


 だから、佳卓はきっと京に帰って来る。そして、あの方なら円偉と渡り合い、事態を良いように打開してくれるだろう。


「いずれ佳卓様が戻ってくれば……」


 佳卓が無事に帰りさえすれば、全てはそこから始まる。今はただ、それを待つしかない。

 その翠令の言葉に姫宮が微笑まれた。


「佳卓が早く帰ってくるといいわね、翠令」


「ですから、私のことだけではありません」


 少し頬を膨らませて翠令はそっぽを向こうとした。そこで、ふと姫宮のご膳が全て空になっているのに気づく。姫宮は既にお食事を終えていらっしゃるのだ。


「ああ、姫宮、お話が長くなってしまいましたね。そろそろ夕餉を終えましょう」


 典侍も膳を下げるために女房達を呼ぼうと外に身を反らした──その時だった。


 どすどすと木の床を踏み鳴らす乱暴な足音がする。複数のものだ。しかも、がちゃがちゃと金属の音が混じっている。


 翠令はこの御所に来て半年も経っていない。何の事情があってのことか分からないので、後宮の最高女官にどういうことかと目だけで問うてみた。が、典侍もまた見開いた目で縋るように翠令を見ている。


 ──この典侍殿にとっても驚くようなことなのか


 そう翠令が思った瞬間、「きゃああ」と女の甲高い悲鳴が耳に突き刺さった。昭陽舎の入り口付近にいた女房の挙げたものようだ。だが、後宮の女房があのような動転した声を上げるなど……ただ事ではない。


「何事か見て参ります!」


 翠令は傍に置いてあった刀を掴むと駆け出した。


 翠令は昭陽舎の母屋もやを抜け、簀子すのこを走る。

 一方で荒々しい足音と金属音も、そして物々しい緊迫した空気も翠令に近づいてくる。

 まるで武装した集団のようだ、いやそうだとしか思えない。だが、どうして? ここは禁裏の奥の奥、賊など押し入るはずもないものを……。


「何者か!」


 そう鋭く叫んだ翠令は簀子の角で腰の刀の鯉口を切る。ここを曲がれば相手とぶつかるはず。


 相手はのそりと姿を現した。走ってきた翠令は機敏に動きを止めて腰を落とした。いつでも刀は抜くことができる。


 翠令の眼前には巨躯の男が一人。その背後にも十数人。皆揃って武装している。


「……!」


 翠令を見下ろしながら、巨漢が口にする。


「近衛である。女の分際でいきがらず、大人しく控えていろ」


「お前は……」


 確かに近衛府で見かけたことのある顔だ。しかし、ただの近衛に姫宮のおわす殿中に上がることなどできはしない。


「いったい何の狼藉か。左大将佳卓様はご不在でも右大将が留守を預かっておられる。趙元様に申し上げるぞ」


 ふふん、とその男はせせら笑う。


「趙元は此度のことに責がある。処分が下るまで自邸に監禁だ」


 ──どういうことだ?


 呆然と立ち尽くす翠令の脇を、巨漢がその腹を押し出すようにしてすり抜け姫宮の御座所に向かい、十数名の武人達もそれに続く。


 慌てて翠令は姫宮に駆け寄り、姫宮と梨の典侍を背にして彼らの前に再び立ちふさがった。


「どういうことだ? 趙元様が責を負うという此度のこととはなんだ?」


 しかし、彼らは翠令には答えない。巨漢の側にいた、金壺眼の貧相な男が耳障りな濁声で姫宮に一方的に通告する。


「錦濤の女童、お前が竹の宮の姫君に呪法を用いたこと、全て事は明らか。大人しく処分を受けるが良かろう」


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