六十 翠令、佳卓と最後に話す

 翌晩、翠令は佳卓の許を訪れた。謹慎中ゆえ日が暮れてからの外出で、ちょうど佳卓は邸宅に帰ろうとしていたところだったようだ。部屋の入口の衝立の所で、手に包みを持った佳卓と行き会う。


「やあ、翠令」


 佳卓はいつものように声を掛けてきたが、顔には軽い驚きの色があった。姫君と翠令には昨日昭陽舎で挨拶を済ませていたので、彼にとって彼女の来訪は意外に感じているらしい。


「明日にはいよいよ出発だ。その直前にまた会えて嬉しいよ。で、どうかしたかね?」


 佳卓は部屋の中に戻り、机を巡っていつもの椅子に腰を下ろした。


「あの……。白狼から佳卓様に伝言を預かって参りました」


「へえ、伝言か。彼の様子はどうだった?」


「やはり……辛そうですね……。ただ、佳卓様の言い分ももっともだと考えを変え始めたそうです。『惚れた相手には惚れたと言うべきだ。白狼はそう考えを変えているところだ』と、そう伝えて欲しいとのことでした」


「そうか」と彼は軽く目を見開いて答えた。


 そして、彼は机に両肘をつく。そして男にしては細くて長い指を組み、暫く机を眺めてから再び「そうか……」と呟いた


 彼の机にいつも書類が山積みだが、今はほとんど何もない。いつも山積みなのは、彼以外から彼に持ち込まれる書類が多すぎたのが理由だったようだ。こうして長期不在の前に全て片付けられているのを見ると、彼自身の私物は必要最小限で、しかもきちんと整えて置かれている。佳卓は本来几帳面な性質(たち)なのだろう。


 その、やたら整然とした机の上を見て、ふと翠令の胸に寂寥感が込み上がって来る。

 この方は東国へ行ってしまわれる。翠令が足を踏み入れたことのない土地へ。彼にとっては昔の初恋の思い出が残る縁ある土地へ。


 ──佳卓様が私の知らない場所に去っていく……


 それはとても寂しいことだった。


「白狼はね……」


 佳卓が困った顔で微笑んでいた。


「気を遣ってくれたんだよ」


「は……?」


「燕弓を弾いてもいいかね?」


 佳卓は足元に置いていた包みを手に取った。


「はあ……」


 何を唐突に……と訝しく思うものの、知り合った当初の頃ほど当惑はしない。佳卓という方はこういう方だ。頃合いを見てきちんと理由を説明して下さるだろうと、もう翠令にも分かっている。


「どうして燕弓を近衛府にお持ちなのですか?」


 佳卓は包みの布を解きながら答える。


「帰りがけに、宣陽門の辺りで演奏しようと思ってね。後宮の昭陽舎に近く、中にいる人にも楽の音が届くであろうから」


「姫宮にお捧げするおつもりでも?」


 佳卓はその問いを聞いて唇を横に引いた。笑んでいるようではあるが、いつもは怜悧さが目立つその眼許の中、その瞳に、今は愛情とも慈しみとも渇望ともつかぬ複雑な光がたゆたう。

 やや間を空けてから、佳卓が答えた。


「……姫宮じゃない。翠令、貴女にだよ」


 佳卓はしなやかに姿勢を正すと、燕弓を構えて、そして弦の上に弓を滑らせる。あの望月の月光の中で見た時のように、その腕の動きは優雅な舞のようだ。


 だが、この曲はあの時のものではない。


 優しく温かな旋律に、熱っぽくも甘やかな響きがこもる。音色は、翠令のそばに濃密に押し寄せ、姿の見えない柔らかない両のかいなとなって、翠令を優しく抱きしめる。


 その楽は翠令に言葉にならない言葉を囁いているようだ。その音色はどこまでも甘いものなのに、どうしてこう苦しい思いがするのだろう。泣きたくなるほど物狂おしい気がするのは何故だろう。


 高く低く続いていくその音楽。甘くて苦しいこの時間。翠令はいつまでも演奏が続いていて欲しいと心底願った。


 その願いを聞いたかのように、佳卓は最後の一音に長く余韻を持たせて終わらせた。


「これはね、翠令」


 翠令はまだどこか胸の奥の痺れにぼうっとしたまま佳卓の声を聞いた。


「竹の宮で、御簾の中の姫君と庭に立つ白狼とに聞かせた曲だよ。私がこの世で最も美しいと思う恋歌だ」


「恋歌……」


 佳卓は燕弓を机に置き、やはり再び肘をついて指を組んだ。


「以前、翠令には男を慎重に選べと言った。どんな男か私たちに知らせるように、と。翠令に相応しい男かどうか調べてやりたいからね」


「はあ……」


 確かに以前、そんな軽口を口にされていたと思うが……。


「私は私が納得する男でなければ、翠令の隣に立つのを許せないと思ってる」


 翠令の心臓はその言葉に跳ね上がる。動悸の音が早くなり、翠令の耳にうるさい程に大きく聞こえる。


「もちろん、どんな男を選ぼうとそれは翠令の自由だ。私は翠令の何も縛る気はない。ただ……」


 佳卓は卓から翠令を見上げる視線を強くした。


「もし翠令さえよければ、翠令の恋人の立場を私のために空けておいてくれないか? そうしてくれれば、私はとても嬉しい」


 翠令は言葉を失う。


「……」


 その彼女の沈黙をどう受け止めたのか、佳卓は少し悲し気な顔を見せた。


「もう一度言うが、私は年若い翠令の自由を奪う気は全くないんだ。翠令が誰を恋人にしようと構わない。私が不在の間に翠令が良い男君を見つけたというなら、それはそれでいい。ただ、私にも上官としての心配くらいはさせてくれ」


 翠令は慌てて「いえ」と声を上げた。さらにその言葉を重ねる。


「いいえ、いいえ!」


 佳卓が翠令を見つめる。翠令もその視線に真っ向から応える。


「お待ちしております。お待ちしておりますとも!」


 佳卓は微かに目を見開いて、少し照れ臭そうに笑う。


「別に今私を選べと言っている訳じゃない。私は立場やらなんやらややこしい男だからね。ただ、隣の席を空けて、私がそこに座るのが相応しいかどうかを見定めて欲しいんだ。まあ、今度の東国行が終わってからの話だね」


「はい。あの……御無事で、そして出来ればお早くお戻りください」


「うん。もちろんだ。無事かどうかは心配いらない。私も武芸には些かの自信があるからね。翠令こそ元気で。謹慎が空けても、あまり無茶なことをしないように」


「はい」


 佳卓は背もたれに身を預けた。息を吐いたその仕草からすると、彼はこれまで彼なりに緊張していたものらしい。気がかりが一つ解決して、寛いだ様子だ。


「私が京に戻ってきたら二人で何をしようか。また姫宮と行ったときのように市にも行きたいね。姫宮もお連れしたいが、たまにはご遠慮いただこう」


 佳卓が微笑んでいた。いつもの人を食ったような様子がなく、素直で、少年のような顔だった。

 翠令は佳卓のそんな顔を見るのが嬉しい。


「市も楽しみですが、騎射をまた拝見したいと思います」


 佳卓は得意げに相好を崩す。


「ああ、いくらでも見せてあげるよ」


「ええ」


「だが、翠令も見ているだけではないよ。秋になる頃には弓の上達にある程度目途が立つようにしておくように言ったろう?」


「はい」


「弓の次は馬だ。そして、いずれは騎射もできるようになって欲しい」


「私にできましょうか?」


「大丈夫だ。前に弓を教えた時に、翠令はとても飲み込みが早いと思った。私が弓を射る動作についてかなり細かく教えたが、どうだね、最近は?」


「謹慎中で昭陽舎から出られませんが、梨の典侍に事情をお話して、弓を引く練習は欠かしておりません。そのたびに佳卓様のご指導を繰り返し思い出しています」


「翠令は飲み込みも早いが、粘り強く鍛錬を重ねていく姿勢もいい。真っ直ぐな気性、努力する才能。これらがあればどんな困難も乗り越えられるよ。私が帰京する頃の上達ぶりが楽しみだ」


「はい……」


「騎射が出来れば、二人で狩りにでも行こうか」


「は?」


「止まっている的を射ることができるようになったら、次は動いている的だ。そうだね、京の近郊でもいいが……」


「そうだ!」と佳卓がばりと椅子の上で身を起こした。


「東国に行こう! 翠令!」


「はあ……」


「今回の東国行は急に決まったことだし、翠令がお守り申し上げる錦濤の姫宮はまだ幼くていらっしゃる。それに翠令本人も謹慎中だ……いや、命じたのは私だが」


 佳卓は少し興奮気味で早口だ。


「次に行くときには翠令も一緒に行こう。この宮城から見える東山を越えてその先に……」


「ああ、あの山ですか? 私に登れるでしょうか……」


 佳卓が彼にしては珍しく、きょとんと翠令を見つめる。


「……?」


「錦濤は海に面した場所で、広大な平野が広がっています。私は山を見たことがほとんどありません。まして登ったこともないのです」


 佳卓は思いがけないことを聞いたと少し驚いた風だった。


「ほう……。では坂道らしい坂道も登ったことがない?」


「ありませんね……」


「そうか。それならいきなり東国行は難しいかもしれないね。ここから見える東山よりずっと険しい山々を越えるし、坂道を歩く日数も多いから。まあ、これもしばらく近くの山で足を慣らしていけばどうにかなるよ」


 少し先の話でも、佳卓と東国に行くことができるのは嬉しかった。これまでの佳卓を形作ってきたその土地に、自分が立ち入ることは、佳卓の心の内に入ることのようにも思われる。


「楽しみです……」


 その言葉に佳卓が笑む。その顔を見れば翠令も嬉しい。それからも浮き立つような気持ちで話が弾む。


 翠令が昭陽舎に戻ったのは随分と夜が更けてからになってしまった。もう姫宮はお休みの時刻を過ぎている。案の定、母屋もやの明かりは消えていた。


 簀子すのこに梨の典侍が座っている。こちらに気づいて顔を向けたので、翠令も姫宮をお起こし申し上げないよう足音を忍ばせて近づいた。


「遅くなり申し訳ございません。姫宮は健やかにお休みになられましたでしょうか?」


「それは大丈夫じゃ。ただ、『翠令はまだ?』と気にされておられはしたが」


 翠令はしまったと思い、ため息をついた。その翠令の胸の内は顔にはっきりと出ていたらしい。


「いや、これは姫宮がお悪い。もう御年も十歳なれば、お気に入りの従者一人にべったりと甘えてお過ごしになるのはそろそろお控えになるべきお年頃」


「……」


「翠令殿とて妙齢の女君。かような女君の行動を逐一縛るようでは、良き主公とは申せません──そう、姫宮には申し上げておきましたぞ」


「あの、佳卓様とは仕事の話をしておりまして……」


 騎射や狩り、それから山登りの話は、武人としての仕事の話でもあるのだから、全くの嘘ではないだろう……。


 翠令よりずっと年上の典侍は、心得顔で頷く。


「分かり申した。ただ、明朝は姫宮にはかなりからかわれることになりましょうから、お覚悟を」


「……」


 翌朝、確かに姫宮は「佳卓とお喋り楽しかった?」とのご質問を皮切りに、翠令を冷やかすようなことをおっしゃった。ただ、翠令が予想していたより短い時間で姫君は話を終えられる。


「私とこんな話で時間を無駄にしてる場合じゃないわ。翠令、今から佳卓を見送っていらっしゃい」


 翠令が驚いて首を振った。


「いえ、出立は威儀を正して行われるもの。私がお声がけするようなものではありません」


「でも、その姿を見送りたいでしょう? 私の分もきちんと見て来て」


 さあさあ、と背中を押し出されるようにして、翠令は後宮を後にした。


 朱雀門で待ち構えていると、朝堂院から馬に乗った佳卓が供の者達を連れて出て来た。大内裏はその中を馬で歩くことなど原則として許されていない。帝の、というより、その代わりを務める円偉の佳卓に対する特別扱いであろう。


 馬上の佳卓は翠令を認めると、ニコリと笑んで片手を振って寄こした。翠令もぺこりと一礼を返す。


 朱雀門を越えて、佳卓は大路を南下する。翠令がその背中をずっと見つめていると、「こっちこっち」と朗風の声がした。朱雀門の楼上から翠令を手招きしている。

 翠令も急いで朗風に呼ばれるまま階段を上った。

 楼門の上からは、羅城門まで続く朱雀大路が眼下に伸び、何にも遮られることなく佳卓の一行を見ることが出来る。

 高い所から遠くに見える彼の背は、小さいはずなのに自然と目が吸い寄せられた。柳の並木の中に、その姿が点となって溶け込んでしまいそうになっても翠令はじっと見つめ続ける。


 朗風とは別の、太い声が翠令に話しかけてきた。


「佳卓はあんたに惚れてるってちゃんと言ったか?」


「白狼!」


 白狼は腕を組んで楼閣の柱に凭れ、首だけを巡らせて佳卓を見送っていた。朱雀大路を見つめたまま、翠令に問いを重ねる。


「俺はあの女に惚れていると告げなかったことを後悔し始めている。そう、あんたはちゃんと佳卓に伝えたか?」


 翠令も白狼の視線を辿って、再び佳卓の姿を捕らえた。


「あ、ああ……」


 遠くに霞む羅城の門の影にとうとう佳卓の姿が見えなくなってから、白狼が笑い含みの声を出した。


「で?」


 翠令が白狼を見た。


「で……とは?」


 白狼も翠令に目を向ける。


「俺は暗に『惚れた女にはちゃんと言っとけ』と伝えたんだ。俺がそう思うようになったのは佳卓自身のせいなんだからな。佳卓もきっちり言うべきことは言うべきだ」


 白狼は再び問う。


「それで? あいつはあんたに何て言ったんだ?」


「な……」


 翠令は頬が熱くなるのを感じる。


 朗風の笑い声が聞こえた。


「あーあ、翠令が真っ赤になってますよ。白狼、これは今夜にでも飲みに誘って聞き出すしかなさそうですよ」


「ああ、また梨の典侍から上等の酒を貰っておいてくれ」


 翠令は二人を睨みつけた。


「何で私が……」


 白狼は真面目な顔をする。


「あの女の暮らしが落ち着いたものに戻るのを見届けたら、俺は都を離れるつもりだ。餞別くらいくれてもいいだろう? 都にいる間に後宮に秘蔵されているような美味い酒を味わっておきたい」


「……」


 翠令はしばしの無言の後、低い声で問いかけた。


「……白狼、お前、自分の傷心ぶりをダシにしていないか?」


 白狼は笑う。一方、白狼が何かを言う前に朗風が指を突き出した。


「翠令、恋人と別れた男をそんなに無碍に扱うもんじゃありません。我らの親愛なる仲間を慰めるのに酒の一瓶や二瓶が何だって言うんですか!」


「朗風様……」


「いやあ! 白狼が京を去るなんて! 盗賊として追いかけ回してた頃からの長い付き合いを思うと寂しくってたまらない」


「……」


「さあ、これから毎晩、この宮中でも滅多に飲めないような最上級の酒で宴会です!」


「あの……」


 白狼がにやりと唇を広げると朗風の話に乗った。


「おう。俺もずっと追いかけっこをしてきた近衛の連中と別れるのは残念だ。これは互いに飲み交わして、別れを惜しみたいところだな」


「おい……御酒は典侍殿が大事に取って置かれたものだぞ……」


「ですからね、翠令殿、それを頂けないかお伺いを立ててきてくださいよぅ」


「典侍殿に聞いては見ますが……」


「よし。翠令ならきっと入手してくるだろう。うん、さすがは佳卓が惚れるほど情の濃い女だ」


「……ほざいてろ」


 この話を聞いた梨の典侍は手元にあった酒瓶を全て翠令に手渡してくれただけでなく、内裏の酒を造る内酒殿に白狼たち三人が訪れれば最上級の酒を渡すよう依頼してくれた。

 白狼と朗風が小躍りして喜んだのは言うまでもない。





*****

この小説に関する取材記・史資料や裏話などを近況ノートに綴っております。原則として写真も添えております。

https://kakuyomu.jp/users/washusatomi/news/16817139557973059788 


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