五十九 翠令、白狼の後悔を聞く

 佳卓かたくが東国に出立するのを明後日に控えたその日、彼は錦濤きんとうの姫宮の許に挨拶に来た。


 姫宮がお謝りになる。


「ごめんなさいね、佳卓。私が立太子の式のために税を上げるかどうかで円偉をとても怒らせてしまったから、佳卓が東国に行かなきゃならなくなったのよね……」


 御簾の脇に控えていた翠令が急いで申し上げた。


「姫宮が直接の原因ではありません。私が合議の場に乗り込もうとさえしなければ、佳卓様がこのようなことにはならなかった……」


 だが、当の佳卓は笑い飛ばしてしまう。


「なんの。私はこれまでも何度も東国と京を行き来しております。ご心配召さるな。向こうには私が年若い頃から世話になった者もおりますれば。旧交を温める良い機会でございます」


 佳卓のその言葉には姫宮と翠令への気遣いもあるのだろうが、それでも本人にとっても楽しみなのも事実らしかった。


「京にいる間に色々ありましたからね。都で白狼を追いかけ回した末にやっと捕らえたこと、それから、勇敢な女武人のこと、そして聡明で思いやり深い錦濤の姫宮のこと。東国に持っていく土産話にはことかきません。彼らに会うのが楽しみです」


 佳卓は翠令にも笑って見せた。


「その女武人はこの私に刀を突きつけたんだからね。東国の人々は京や西国の人間をどこかしたものだと思い込んでいる節がある。翠令の話をすれば皆きっと驚くぞ」


「はあ……」


 姫宮がおっしゃる。


「さっき白狼の名前が出たけれど……。白狼は竹の宮から京に戻ってきて、近衛府ではなく衛門府に所属することになったんですってね」


「衛門府なら近衛よりさらに目立たないかと思いまして。衛門督の朗風にも人目に付かない場所に配置するよう申しつけております」


 円偉が白狼を殺害しようとしたこと、佳卓に対して何か陰謀があるらしいこと、そしてそのために白狼が竹の宮を離れたこと──それは己の恋をあきらめるということ──それら全てについて翠令から姫宮にご説明差し上げていた。


「白狼、元気を取り戻しているかしら?」


 佳卓が顔を曇らせた。


「私も竹の宮から帰京してから顔を合わせておりませんので……」


 翠令も首を振る。


「私も表向きは未だ謹慎中です。外に出られず、まだ白狼に会えていません……」


 佳卓が翠令を見る。


「それならちょうどいい。今夜、白狼は建春門の警護のはずだ。少し顔を見て来てやってくれないか?」


 建春門は後宮の昭陽舎から比較的近い。日が暮れたらこっそり行って戻って来れそうだ。


 確かに翠令が会いに行くにはよい機会だ。だが……。


「佳卓様ご自身ははお会いにならないのですか? このままでは東国行までに一度もきちんと話ができないままでは?」


 佳卓は肩を竦める。


「会いづらいんだよ。向こうが避けているし」


 佳卓が竹の宮の姫君との別れを説得する中で、白狼が佳卓の胸ぐらを掴むような険悪な場面があったと聞く。


「白狼の頭も冷えた頃でしょう。一度、私が会って佳卓様のことも含めて話して参ります」


 その夜。建春門の陣所の奥、外から目につかないところで白狼は壁に凭れて座っていた。隣に燭台を持ち込み、片手に書物を読んでいる。


 翠令は思わず驚きを口に出した。


「白狼が本を読むのか……」


 その声に白狼が目の前に立つ翠令を見上げた。その容貌を見て翠令は更に驚く。


「白狼……痩せたか?」


 竹の宮に出立した頃からぐっと面窶れしている。いや、それだけでなくその玻璃のような彼の碧い瞳には、これまでにない憂愁の色が浮かんでいた。

 朗風が帰京した白狼を見て「何だか、色っぽいというか艶っぽい男になりましたよ」と評していたのも頷ける。


「翠令か。久しぶりに会う気がするな。ああ、俺の方は少し痩せたようだ」


「……」


「心配は要らない。必要な飯は食うようにしているから。あの女も俺が元気でいることを望んでいるだろうしな」


 翠令は少し言葉を探した。


「竹の宮の姫君のことは……残念だった……。姫君もお辛いだろう……」


 白狼が目で隣を指し示す。


「少し話せるか?」


 翠令は頷いて白狼の隣に腰を下ろした。


「何をどこまで聞いている?」


「佳卓様がご存知のことはほぼ全て。姫君が生れて初めて恋をなさり、そしてその相手の白狼に感謝していることも聞いた。辛い話だ……」


 白狼は暫く黙ってから、地面を見つめてぽつぽつと話し始めた。


「あの女が俺を信頼するのは俺が異性を感じさせないからだと思っていた。いや、最初は確かにそうだったんだろう」


「うん……」


「あの女のためにはずっと父や兄の代わりでいてやりたかった。だから俺に男としての感情が芽生えてきたのを『まずい』と思った」


「白狼がそう思える男だから、姫君も好きになったんだと思う」


「そうか……」


 灯火の揺らめきが、白狼の透明感のある瞳の表面に映る。彼がぽつりと尋ねた。


「どう思う?」


「どう……って?」


「俺はあの女は誰かに惚れない方が幸せだと思ってた。惚れたところでどうにもなりはしないんだから。ただ、あの女が俺に惚れていたなら、俺の方も惚れていたんだと告げておいた方が良かったのかもしれない。つまり……佳卓の言い分が正しかったんじゃないかと思っている」


「難しいな……」


 姫君が誰かに恋をしても叶うことなどない。それなのに恋心を知らせるのは残酷だ。それが白狼の主張だったし、翠令も分からないでもない。反対に、姫君は自分が確かに恋をしたのだという思い出をお持ちになった方がいいという佳卓の主張も分かる。


「私は……佳卓様とは少し違う理由で、姫君が白狼への気持ちを自覚されたことを『これで良かった』と思う」


「ほう?」


「姫君は白狼を愛おしく思い、そしてその白狼を手放すことで白狼を守った。このことをきっと誇らしくお思いだろう」


「……」


「私の話になって悪いが……。私は錦濤の姫宮をお守りしてきた。武芸の技量ではお前には敵わないが、錦濤の街の賊なら切って捨てることが出来た」


「ああ、翠令ならそうだろう。俺や佳卓に及ばなくとも、その辺のごろつきよりずっと腕が立つからな」


「うん。白狼や佳卓様並みの賊はいなくて助かった。そして、自分の腕で姫宮をお守りするたび、私は自分に自信が持てた。姫宮のお役に立てたという実感が持てることは、私にはとても幸せなことなんだ」


「翠令らしい言いようだな」


「だから……姫君もそうでいらっしゃるのではないかと思うんだ……。姫君は他人の欲望に流されてばかりの痛ましいご境遇だが、白狼のことは我が手で守られた。この点については達成感がおありだろう。この先も、白狼を思い出しながら、自分で成し遂げたことに自信をお持ちになれるんじゃないかな」


「……そうか……なるほどな……」


 白狼はしばらく燭台の火影を見つめて黙った。


「そうだな……あの女に必要なのは、自分で自分の人生を切り開けるのだと実感することだ。翠令が言うよう、自分が誰かを守ったという手ごたえを感じられたのはとてもいい」


「うん……」


「あの女は、本当は心の奥底に気概を秘めた女だ。それがあれば強くなれる。俺はそう期待している」


 白狼は苦い顔をし、自分のことを悔いた。


「それなら、俺が惚れているとあの女に知らせておけばよかった。その方が、あの女が俺の命を助けたことに誇りを持つのに役立っただろうに。俺は……」


「白狼……。過ぎたことをあまり悔いるな。その気持ちはきっと姫君にも通じているから……」


 白狼はふと翠令を正面からまじまじと見つめ始めた。


「あんたは、いい人間だな」


「な、なんだ? 白狼?」


「いや、これまでの話を大雑把に言えば、惚れたら惚れたと相手に告げた方がいいという話だ」


 乱暴なまとめ方だが、そこが彼らしい。


「で、翠令。あんただ。佳卓に何も言わないのか?」


「……は? 私が何か……」


 唐突に話題が自分のことになり、翠令は戸惑う。


「佳卓はあんたに惚れてるし、あんただって佳卓に惚れてるだろう」


「いや、そんな……」


「俺は、自分が上手くいかなかったからと言って他の奴らの恋路を妬むほど器の小さい男じゃない。あんたたちは上手くいって欲しいと願っている」


「だから、私と佳卓様の間には何もない……」


「佳卓はいい男だ。惚れてないのか?」


 白狼の視線はまっすぐだった。翠令は息を吐く。別に打ち明けなければならない義務はないが、自分の方はここまで白狼の胸の内を知っておいて、何も明かさないのも気が引けた。


「心惹かれる御方だと思う……。そう、白狼が『いい男』と言うとおりだ。ただ、今の時点で何かを申し上げようとは思わないな……」


「身分がどうこうとか言うなよ。あいつはそんなことでお前を見下しはしないんだから」


「確かにそんな方ではない。変わり者に見えても、佳卓様は相手の身分の高低に関わらず、他者に対してとても誠実に関わる方だ。だからこそ麾下に言い寄られては気を遣わせてしまうだろう……」


「……」


「私も鄙育ちの若い女で、都の貴公子に単にのぼせ上っているだけかもしれないし。何せ東国行を控えて心身の緊張を抱えていらっしゃる佳卓様に、これ以上余計な負担はかけたくない」


「だがな……」


「白狼、お前も知っている通り、円偉様の動向が今一つ予測がつかない」


「何でだ? 俺に濡れ衣を着せて趙元を失脚させるという話は潰したぞ」


「ああ、それは白狼のおかげだ、うん。ただ……大元の話として、佳卓様から武人の麾下を遠ざけたいという思惑が消えたわけではない。なら別の手段をこれから取るんじゃないだろうか……」


 白狼は鼻を鳴らし、心底呆れた風を見せた。


「円偉って奴は、まだ何かしでかしたいのか。しつこい奴だな」


「円偉様が佳卓様を賞賛する場面を実際に見たり、佳卓様とお二人で話す場面に居合わせたりするとよく分かると思う。円偉様は本当に、自分に似て優秀な佳卓様と交友を深めたいと熱望されている」


「円偉ってのは本当につまらん奴だな」


「……?」


「似ていることが、相手に好意を持つとっかかりになるのは確かだ。だが、だからといって自分と似てるばかりじゃ飽きるだろう? 他人ってのは自分と違っているから面白いものじゃないのか? 俺の手下はそれぞれに個性的で、まとめるのにそれなりに苦労もしたが、活気のある集団で楽しかったがな」


「そうか……」


「円偉は佳卓の似たところを気に入って、さらに佳卓と自分が違っているところ──武官であるところを無くそうとしているだと? どんだけ他人を自分に似せれば気が済むんだ? そんな奴は家から出ずに鏡に映る自分の影とでも喋ってりゃいいだろうが」


「そう……だな……」


 そうか。円偉の佳卓によせる愛情を見聞きしていて感じる重苦しさは、ここに原因があるのかもしれない。円偉は佳卓という他者に興味があるわけではなく、自分自身を愛しているだけだ。そう、あの紀行文の中で、どんなに多様な土地を回ろうと、旅する円偉自身の好悪ばかりが目立っていたように。


「白狼の言うとおりかもしれない。不毛だな……」


「そんな器の小さい男なんぞどこかで自滅するさ。そうなりゃ佳卓が抱えているものも減るんだろ。そしたら翠令も遠慮なんかする必要はない。惚れたら惚れたと言ってやれ」


「だが、相手はあの佳卓様だ。本人は気になさらなくても、あれほど高いご身分なら周囲の目というのものがある。それにあれほど何事にも優秀な方だから、生半可な女君で満足なさることはあるまい。私など……」


 白狼はからからと笑った。


「その近衛大将様を刀で脅した女が何を言う」


「……」


「俺からは、佳卓もあんたに惚れていると言っておく」


「……」


 白狼が静かに笑った。豪快な盗賊というより、思慮深い青年という雰囲気がして、思わず翠令は彼を見つめ直す。


「俺は、今、惚れているなら相手に言っておいた方がいいんじゃないかと考えを変え始めている。ああしておけばよかったと思った時から始まる後悔と言うのは、なかなか辛い」


「白狼……」


 確かに、しばらく白狼にとって苦しい物思いは続くだろう。


 だから……と白狼は続けた。


「佳卓にも謝った方がいいかどうか迷ってる」


「……」


 白狼は少し悪戯めいた笑みを口元に浮かべて翠令に言った。


「伝言を頼まれてくれないか、翠令」


「え……? ああ、いいぞ」


「佳卓の方が正しかったのかもしれん。佳卓に伝えてくれ、『惚れた相手には惚れたと言うべきだ。白狼はそう考えを変えているところだ』と」


「佳卓様が東国に発つ前に自分で言ったらどうだ?」


 白狼は笑みを深くした。


「顔を合わせづらいんだ。子供じみた八つ当たりがちっとばかり恥ずかしい」


 それくらい我慢しろ、と言いかけた翠令に白狼が言葉をかぶせた。


「佳卓の顔を見るとまだあの女を連想する。だから直接に会いたくない。俺の勝手だと分かっているが」


「いや、そうか……。分かった。無神経なことを言って悪かった」


 そうなのだ。白狼は傷つき、そしてその傷はまだ生々しく血を流しているばかりで塞がるめども立っていない。


「だから俺の代わりに翠令、明日の夜、佳卓に会って俺からの詫びを伝えてくれるか?」


 白狼の笑みはとても柔らかかった。彼のこんな顔を見るのは初めてな気がする。竹の宮で過ごす前と比べて白狼は随分変わった。それほどまでに、白狼の姫君に対する想いは深かったのだ。


「ああ、明後日の朝、佳卓様は京を離れられるから。ぎりぎりだな。うん、白狼の伝言しかと預かった」


「よし。翠令が佳卓に会ってそう言ってくれ。頼んだぞ」



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