エピローグ
凪砂と香りは雨音を家に送り届けると、河川敷に向かった。
「あの、話って……」
香りがおずおずと訊ねると、凪砂は川面を見つめながら話し出した。
「……雨音、最近落ち込んでたんだよ」
「え? 雨音ちゃんが?」
香りは目を見開く。香りにはいたっていつも通りに見えていた。
「ノアがいないって」
「ノアが……そっか」
この時代に戻ってきて変わったことは色々あった。だが、その中でも雨音にとっての一番の大きな変化は、ノアと出会っていないことなのだろう。
「ノアを見つけた日に学校の木を眺めても、烏どころか、巣もなかったって」
凪砂の話に、香りは猫娘であった頃の記憶を辿る。そのときのことで、どうしても凪砂に訊ねたいことがあったのだ。
「……あのときの話になるんですけど」
箱船がいよいよ沈み始めたときのことだ。あのとき、黒いなにかが頬に触れた。
「誰かが、ありがとうって言ったんです」
「え?」
凪砂が驚いたように香りを見た。香りはその表情に確信を持つ。
「やっぱり、黒中さんじゃなかったんですね」
「……あぁ。俺も聞こえた。あのとき、あなたを抱き締めたとき……どこかから。それと、これ」
凪砂はポケットから黒い羽根を取り出した。
「……それってもしかして、あの団長の羽根?」
「あぁ、多分」
凪砂は、少し傾いた太陽にその羽根を透かした。その瞳は懐かしそうに細められている。
「……あの箱船はなんだったのでしょう。それから、あの団長も」
香りの呟きに、
「最後の瞬間、あの男の顔を隠していた仮面が少しだけ欠けたんだ」
濁流に呑み込まれるあの瞬間、団長の仮面が割れ、片目と額が凪砂の目に映った。
「え? そうだったんですか?」
「額に、ひどい傷跡があった」
真っ黒な瞳と、額にあった傷跡。
「傷跡? じゃあ仮面は、それを隠すために?」
「どうだろうな……分からないけど」
あの箱船には、事件の関係者しかいない。あの団長もまた例外ではなかった。
「団長の正体は、多分ノワール。ノワールは巣から落ちたときに怪我をしてるんだ。目も悪いし、額にもそのとき切った痕があった。雨音を守って熊野に殺された烏……ノワールだ」
「ノワール……」
雨音はノアと呼んでいた。まさしく、あの箱船はノアの箱船だったというわけだ。
「アイツはすごく可愛くて、優しい奴だった。雨音によく懐いてたしな」
「か、可愛い?」
香りは、凪砂の予想外の言葉に驚いた。
「意外です……黒中さんがそんなこと言うなんて」
「……可愛いよ。雨音も、あなたも」
凪砂は嬉しそうに口元に弧を描いている。
香りの頬が一瞬にして朱に染まった。それを見た凪砂はさらに口角をあげた。
どうやらからかわれたらしい。香りが恨めしそうに口を尖らせて凪砂を見ると、凪砂は手の中の黒い羽根に視線を落としていた。
「ノワールともう会えないとしても、アイツを愛してることだけは変わらない。これからもずっと一緒だ」
凪砂は、寂しくはないのだと言って笑った。その眼差しを見て、香りは思った。凪砂のノワールへの想いは、この先何年経とうと色褪せないのだろう。
香りだってそうだ。ノワールは、あの箱船に乗った人間全員の恩人だ。凪砂は親愛の意味を込めて羽根にキスを落とした。
その仕草に、香りはドキリと胸を鳴らす。凪砂の艶っぽい仕草に、染まった頬を見られないよう、サッと目を逸らした。
「神条さん」
不意に名前を呼ばれ顔を上げると、凪砂の顔が思ったよりもすぐ近くにあり、ぶつかりそうになる。香りは染まっていた顔をさらに赤く染め上げて、息を呑み固まった。
「な……な、に……?」
「抱き締めてもいい?」
凪砂は真っ直ぐに香りを見つめて言った。
「えっ……」
凪砂は硬直する香りを優しく抱き締めた。柔らかいシャンプーの香りが凪砂の鼻を掠める。
体温が伝わり、凪砂はより強く香りの細い体を抱き締める。
「ありがとう……。俺、刑務所の中ではもう諦めてたんだ。でも、死ぬ直前、あなたのことが頭に浮かんだ。できることなら、あなたにもう一度会いたかった。ノワ……団長に、箱船に乗ればあなたに会えるっていわれて縋る思いであの箱船に乗った」
「嘘……私に、会いたくて?」
香りの瞳がうるみ出す。凪砂は香りを見て微笑んだ。
それは香りが初めて見る凪砂のちゃんとした笑顔で、痛いほど柔らかい笑顔だった。
「あなたのおかげで、生き直したいと思えた。あなたがいたから、あなたが信じると言ってくれたから、俺は救われた」
凪砂は香りの首元に顔を埋め、想いを伝える。
「好きです。神条香りさん」
香りは衝撃のあまり凪砂の背中に腕を回すこともできず、瞳を瞬かせてまごついている。
そして、
「あの……こういうとき、どうしたらいいんですか」
恋愛ものの本だって数え切れないほど読んできたはずなのに、まるで思い浮かばない。
「ははっ……あなたらしいな」
凪砂は肩を揺らした。その振動が抱き締められている香りにも伝わってきて、鼓動が大きく鳴った。
「あ……の」
「返事を聞かせてくれればいい」
凪砂は真剣な瞳で、けれど蕩けそうなほど優しい顔をして香りのことを見つめていた。
凪砂の甘い声が、香りの耳の奥で何度も響く。
「……私も、好きです」
カラカラになった唇で、香りも凪砂への想いを伝えた。凪砂は満足したように、頬を染める香りの唇に自身の唇を押し当てる。
「あ……あの……黒中さん」
「……ん?」
距離を詰めたまま、二人の視線が絡み合う。
「ここ……そ、外です、よ?」
顔を真っ赤にして凪砂の胸を押す香り。
「うん?」
凪砂は、だから? とでも言いたげな顔だ。
「……えと、人が」
香りは目を逸らし、俯いた。
「周りなんて気にしないで。今はこっちに集中して」
凪砂は香りを抱き寄せ、かまわずキスをする。
夕陽が二人の影を長く伸ばしていく。そのとき、香りの隣に置かれていたカバンが倒れ、中から一冊の本が出てきた。
『新約聖書・ノアの箱船とは』
夕陽は二人の影をひとつにしたまま、長く伸びた二つの影は、いつまでも重なっていた。
どこかで、烏の仲間を呼ぶ声が響いていた。
ノアの箱船 朱宮あめ @Ran-U
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