ルジャウッド

城島まひる

本文

昨夜ベットで身体を求めあった女子大生をアトリエから見送り、私はキャンヴァスの前に腰掛けると、絵画の制作に取り掛かった。


女性の美しさをテーマに絵を描いているが、本当の私は女性との濡れ事を楽しみたいだけで、絵には全くと言っていいほど興味がなかった。


昨夜は過剰なまでに実った胸に惹かれ、名も知れぬ女子大生に絵のモデルを頼んだが失敗だった。


表向きは画家であり、それで収入を得ているのにも関わらず、私は湧き上がってくる情欲に負け、彼女と日が暮れる前から求めあったのだから。


今はただ一人静かな早朝のアトリエで、あの揺れる乳房を思い出しながら絵画を描いていた。



 *



性の情熱が燃え尽きないうちにと必死になって絵画を描いていた私は、微妙に色が異なる肌色の絵の具を切らしたことに気づき筆を止めた。


彼女の乳房を描くには影を使い、その豊満さを表現するため、暗い肌色の絵の具がどうしても必要だった。


ため息をつき、未完成の絵画を眺める私にノック音が愛しい彼女の到着を伝えた。


万が一、彼女に誘い込んだモデル役の女性との行為を見られては目も当てられないため、私のアトリエを訪れる際は必ず2・2・3回ノックをする様にと彼女と取り決めていた。


最初はいぶかしがられたものの、教会からの宗教勧誘のせいで集中できないのだ、と言うと納得してくれた。


私は愛しい彼女をアトリエへ招き入れた。無論、先ほどの未完成の絵画にはビロードを被せておいた。


「リアン、髪の毛が跳ねているわよ。さては貴方寝起きだったでしょ?」


「いやそんなことはないよ。今日は早く目が覚めてね。それで朝からご飯も食べずにずっと絵画の制作をしていたんだ」


そして私はビロードを被せた未完成の絵画を指さした。


「ほんとね!もしかして私お邪魔だったかしら」


「ミシェル、そんなことはない絶対にない。君より大切なものなんてあるものか」


上辺だけの言葉を述べ、私はミシェルと熱い口づけを交わした。


「それで今日、貴方のアトリエを訪れた理由なんだけど、近くで風景画の画廊が開かれているの」


「それは知らなかった。なんせ作品に集中していたからね」


「そうだと思った。貴方のことだし少し強引に連れ出さないと、外出すらしそうにないんですもの」


「ミシェル、君は気づかいのできる素晴らしい女性だ。実はちょうど絵の具を切らしてしまってね。画廊に行くついでに買っていっても良いかい?」


「もちろんよ」


それから30分後、広場の噴水前に集合すると約束し、身だしなみを整えた。


遮光カーテンを閉め、日光による絵画への被害を抑える。湿気もあるため本当は窓を開けておきたいが、無人のためあまりにも不用心だ。


それから私は約束の時間から5分ほど遅刻して、噴水の前にたどり着いた。



 *



ミシェルの専門は風景画だった。特に彼女の書く落葉の絵画は高く評価されており、高額で取引されている。


なんでも彼女の描く落葉の絵画は、まるで世界を切り取り保存された様に、実際に木々から葉が落ちていくのを見ているような錯覚に陥るらしい。


そんな彼女だからこそ、今回の風景画の画廊には絶対入場したかったに違いない。


あわよくば展示品の落札まで考えているのか、アトリエに来た際には持っていなかったキャンヴァスを持ち運ぶためのバックを肩に背負っていた。


一方、私は風景画などにはまったく興味がないため、ミシェルがこちらを見たときのみ感嘆の表情を演じていた。


しかし画廊の中で唯一、カーテンで区切られたスペースがあった。


そこは追加で料金を払えば入場できるスペースで、そこそこの値段がしたがミシェルはなんのためらいもなく支払いを終え、私もそれになくなく続いた。


私はため息を吐かぬよう気を引き締め、彼女の後に続きカーテンをくぐった。


───そこは別世界だった。


さすがの私もこれには本当の意味で、感動を覚えずにいられなかった。人間の手で、絵画でこれほどまでに美しいものが制作できるとは!


そこは四方の壁すべてに樹海が描かれている展示スペースだった。色濃い様々な緑だけではなく、足元の立ち込める霧をも繊細に描かれている。


ミシェルは抑えきれない興奮を私に使えようと、口を開いたが画廊でのルールを思い出してか、口を閉じどこか残念そうに俯いた。


「なに、少しくらいの声量なら外に漏れませんよ」


私でもミシェルでもないどこか虚ろな声のする方に顔を向けると、長い白ひげを生やした長身のスーツ姿の男が経っていた。


「はじめまして、私はヤミュレー・ロッド・カシューと申します。この画廊の作品はすべて私が描いたものです」


「なんですって!この部屋もヤミュ…失礼なんと言ったかしら」


「ヤミュレー・ロッド・カシューです。ユダヤ人とドイツ人のハーフなのです」


「だからややこしい名前なのか」


ちょっとリアン失礼でしょ、と背中をミシェルに叩かれたが、当のヤミュレー氏に気にした様子はなくむしろ愉快そうに笑っていた。


それからヤミュレー氏とミシェルは風景画に関する議論をはじめてしまい、一人になってしまった私は壁に描かれた樹海の鑑賞を始めた。


木々一本一本、サイズも距離感も異なり、本当に奥行きがあるのではないかと錯覚してしまいそうになる。


それからこの樹海の世界を半分ほど歩いたとき、ふと樹海の奥に人影が見えた気がした。


私はそんな馬鹿なことがある筈がないと一笑し、ただの絵画だと自身に言い聞かせもう一度人影が見えた方を見た。


背筋に冷たいものが走る。ちょうどその瞬間、ある筈のない人影もまた、こちらへ顔を向けようとしていたからだ。


「絵はお気に召しましたか」


急に掛けられた声に、一瞬飛び跳ねそうになったが、その声の主がヤミュレー氏だとわかると私はホッとし、絵画に背を向けた。


ふとこの部屋には私とヤミュレー氏しかいないことに気づき、あたりを見回す。


「彼女なら先に部屋を出ていきましたよ。貴方がずいぶんと熱心に樹海の絵画を見ているものですから、気を使われたのでしょう」


「それはどうも御親切に。それでは私もこれで」


私はミシェルに置いて行かれまいと或いは、先ほど見た人影から逃げるように、カーテンで仕切られた出口へ急いだ。


「…あまり絵はお好きではないようですな」


私はヤミュレー氏の言葉に足を止めた。


「女遊びをするなと若い貴方に言うのは酷でしょうが、少なくとも絵画のモデルを理由にアトリエへ連れ込むのはよろしくありませんな」


「貴方が私の何を知っていると?」


ヤミュレー氏の言葉に感情的になった私は気づけば彼のネクタイを掴み、怒鳴り散らしていた。否、怒鳴ろうと怒りをぶつけようとしたがそれは叶わなかった。


四方の壁に描かれた樹海の木々の影という影から、たくさんの人影がこちらを楽しそうに見ていたからだ。


笑っている。直感的に私はそう思った。


私がヤミュレー氏に図星を突かれたことも、理不尽な怒りでヤミュレー氏を怒鳴り殴ろうとしたことも、まるでそれが見物であるかの様に人影たちは笑っていた。



 *



広場の噴水前でミシェルと別れた私は、絵の具を買い忘れたことに気づいた。 


しかし先ほどの体験もあり、今日はもう絵画を描く気にはなれなかった。


アトリエの鍵を開け、玄関の扉をくぐり、ふと顔を上げると未完成の絵画に掛けていたビロードが風に靡くところが目に入った。


窓が開いている?誰かが侵入したのか?いや閉めてから出て行ったはずだ。鍵だって掛けたではないか。


少し過敏になりすぎているようだ。


今のだって玄関から入ってきたそよ風の仕業に違いないと、自身に言い聞かせながら油断なくアトリエ中の影という影を見回す。


特に異常がないことを確認すると私はそっと未完成の絵画の前に腰かけ、半ば無意識に掛けておいたビロードを取り払った。


「…………」


もはや言葉は出なかった。ヒュー、ヒューと開いた口から息が漏れていく。未完成の筈であった絵画が完成していたのだ。


一瞬誰かが勝手に完成させたのかと思ったが、筆使いは確かに私自身のものであった。


ただ一つ違和感を挙げるとするならば、私が描いたところに比べ描き足されている部分が美しすぎるのだ。


まるで師と弟子が共同で作品を描いたようなアンバランスさがある。


しかし筆使いは確かに私のもので、私より繊細に筆のタッチを操っているのが見て取れる。


しばらく唖然として絵画を眺めた後、私は絵画を売りに出すため防腐処理に取り掛かった。


作業中、絵画に描かれたあの女子大生と目が合った気がしたが私は冷静を装い続けた。



 *



女子大生をモデルにした絵画は予想以上の値段で売れ、私は何もしなくても数か月は食いつなげるだけの金を得ることが出来た。


懐がふくらんだことで気分が良くなった私は、そのままトレンチコートを手に取りアトリエを後にした。


普段であればこの時間も収入を得るため、絵画制作に精を出している時間だが、今日はその必要が無いのだ。


特に目的もなく昼のロンドンの街を歩き、あわよくばルックスの良い女性はいないものかと物色していると、視界にある人物が映った。


ヤミュレー・ロッド・カシューだ。


私は彼から目線を外しさっさとその場を去ろうとしたが、運悪くヤミュレー氏に気付かれ声を掛けらた。


「これはこれはリアン殿、外で会うのは初めてですな。・・・ミシェル嬢は一緒ではないのですか?」


「今日は私一人ですよ、ヤミュレー・ロッド・カシューさん」


ほほうとヤミュレー氏は感心したと言わんばかりの態度をとると、私を散歩に誘ってきた。


散歩はハブウストーン公園を目的地とし、それまではヤミュレー氏の絵画を描く際の筆遣いに関する指導を受けた。


本当は絵画を描くのが好きではない私でも、ついつい話に聞き入ってしまう程の話し上手で、この時はじめて彼が饒舌で愉快なユーモアをもつ老人だと知った。


「実はですなリアン殿、私は悪魔に魂を売ったのです」


「ほう?」


何かの比喩表現か、その話の導入は私の好奇心を擽るのに充分だった。


「ルジャウッドという悪魔、正確には神格なのですが...私は彼に永遠の奉仕を誓ったのです」


私はヤミュレー氏の独白を黙って聞く姿勢を取り、続きを促した。


いつの間にか日が暮れ始めていることにさえ気づかずに。


「私はルジャウッドに仕えることを誓った代わりに、風景画に対する天賦の才を賜ったのです。


そして今日が、かの悪魔との誓いの日なのです...」


そこでヤミュレー氏は黙ってしまった。


「その誓いの日に何かあるのですか?」


私は話の続きが気になり、問いかける。ヤミュレー氏の纏う雰囲気が先程と異なることに気付きながらも。


「今日、日が完全に沈むと同時に私は絵画の世界へと取り込まれるのです」


そう言ってヤミュレー氏はじっと私を見つめた。


瞬間、彼の画廊にあった樹海の絵画に潜む、影たちの姿が脳裏に浮かんだ。


直感ではあったが、ヤミュレー氏もあの影の一体になってしまうのだろうと理解できた。


「リアン殿、貴方は...」


貴方は絵画に住まう影たちが見えていたのでは?とヤミュレー氏が私に問う。


私は見えていたと頷き、強く肯定した。


するとヤミュレー氏はベンチから腰を上げ、ガス灯に照らされた薄暗いロンドンの街を眺めた。


「リアン殿、お願いがあります。どうか私の姿を絵画に残してはもらえないでしょうか?」


私の方に向き直り、礼儀正しく懇願する彼の願いを断る事は私には出来なかった。



 *



それから私とヤミュレー氏はいそぎアトリエに戻り、絵画制作の準備を進めた。


完全に日が沈むまで1時間をきった今、私は今までで一番集中して制作に取り込むことが出来た。


何かに導かれる様に私は黙々と筆を進め、驚く事に完全に日が沈む10分前には絵画を完成させることが出来てしまった。


ヤミュレー氏もあまりの速さに驚き、絵画をまじまじと見つめたが文句の付けようのないと頷いた。


それからヤミュレー氏は私に礼を述べ、謝礼だと言い50ポンドを置いてアトリエから出ていった。


一つ安堵のため息をつき、冷静になった私はヤミュレー氏に担がれたのではと思い始めていた。


だいたい悪魔などいるわけがない。しかし彼は自身の絵画を私に描かせ、報酬を払った...なら何もいう事は無い。


そう整理を付け、私はヤミュレー氏を描いた絵画に防腐処理を施すべく、先程完成させたばかりの絵画を見た。


そして半ば反射的にキャンヴァスを殴り飛ばした。


本来なら木製の椅子に姿勢よく座っているヤミュレー氏が描かれている筈の絵画。


そのヤミュレー氏の後ろ、壁と天井の影から伸びる青黒い触手が彼の肩に乗り、首元へと更に伸びている。


そして当のヤミュレー氏の表情は、穏やかな笑顔から恐怖に歪んでいた!


その後、私はキャンヴァスを燃やし、ヤミュレー・ロッド・カシューなる老人の事を忘れようと決意したのであった。


そう次の日、ヤミュレー氏の水死体が発見されたとロンドンの街で騒ぎになっても。



─ 完 ─

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ルジャウッド 城島まひる @ubb1756

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