第3話 ヴォイスレコーダー 《遺品整理シリーズⅢ》
(病院の一室にて)
野川「先生、それでは、この手術を受けると、50%の確率で記憶をなくす可能性が
あるという意味ですね。
院長「はい。これは欧米人の調査結果なので、日本人にそのまま、置き換えられない
部分もありますが、目安になる数字ではあります」
野川「先生、私は記憶を失くしたくないんです。
夫が不慮の死を遂げ、今の私に残されたのは彼との思い出だけなんです。 二人
で築くはずの未来は、私にはもうないんです。記憶がなくなるくらいなら、腫瘍
が大きくなっても、かまいません。
そうすれば、早く夫の元へ行けます。 その方が、ましです」
院長「野川さん、もう少し整理して考えましょう。確かに、あなたの旦那様との思い
出を忘れてしまう可能性は、否定できませんが、それでもあなたは未来に向かっ
て生きているのですよ。過ぎた日々の中に自分をとどめておくのを、あなたを愛
してくれた人が望むとは思えません」
野川「分かっています。先生がおっしゃっていることのほうが、正しいのだと。
でも、たとえ正しくても、私の心が悲鳴を上げているのです。
私にとって、この世で一番大切な時間を、取り上げないで欲しいと」
(泣き崩れる声)
(カチッ。 ヴォイスレコーダーを切る音)
医師「今聴いて頂いたのは、先日院長先生が亡くなって、書類の整理をしている時に
出てきたヴォイスレコーダーです。院長は、ご存じと思いますが、私の母です。
母は、非常に現実的な考え方をする人でしたが、だからと言って決して、人の心
に対してドライだったわけではありません。むしろ、感情が豊かで、患者さんに
寄りそうタイプの医者だったと思っています。 その母が、この録音をわざわざ
残しておいて、もし、野川さんが必要であれば、お渡しして欲しいと手紙と一緒
に保管していたので、今日出向いて頂いたと言うわけです」
野川「この声は、20年前の私なのですね。こうやって聞いても、思い出せません
が、当時の私の夫に対する思いが、痛いほど伝わってきます」
医師「当院では、手術のご説明をするときに、患者様の了解を得てヴォイスレコーダ
ーを用意し、内容に間違いや、誤解が生じないよう必ず確認を取るようにしてお
ります。
殆どの場合は、治療が終了すると一定の期間保存した後、データを破棄するので
すが、このヴォイスレコーダーの録音だけは、母が、院長が保管していたようで
す。もしかしたら、必要になる時が来るかもしれないと思っていたのでしょう」
野川「有難うございます。 私は、未だに取り戻せずにいる記憶に苦しんではいます
が、でも、それよりも、もっとたくさんの喜びを知る幸福を得られました。
その選択をさせて下さったのも院長先生です。このレコーダーに残っているよう
に、当時の私は、将来を悲観していたのでしょう。
この時、もしお腹に子供がいなかったら、手術をしなかったかもしれませんね。
夫が私に、生きてくれと、まるで願いを託すように、新しい命を授けてくれたの
ですものね。このレコーダーお借りしてもよろしいですか?」
医師「これは、母からの野川さんへの形見分けですので、どうかお持ちになって下さ
い」
野川「有難うございます。 今夜、娘と一緒に聞きたいと思います」
アプリspoonのキャストに、音声化したものを上げております。(多少の加筆、訂正がございます)
https://www.spooncast.net/jp/cast/3235171
遺品整理シリーズ 欠け月 @tajio10adonis
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