2章 光の神ルフレ

 不本意な代理聖女就任の翌日。私はしん殿でん内にある聖女用宿舎で、ぱちんとほおたたいた。

 ──さあ、グズグズなやんでいるひまはないわよ!

 いつまで代理をするのかとか、神殿での生活の不安とか、悩ましいことは山ほどあるけれど、考えるのはすべて後回しだ。どうせ考えたところで、私にできることはない。

 ──神殿との交渉はお父様に任せるしかないもの。いくら気弱で押しに弱いお父様でも、『なんとかしよう』って言ったんだからあとは信じて待つだけよ!

 それに念のため、こんやくしやには私から事情を説明する手紙を送ってある。彼の方でも神殿に働きかけてくれるよう手紙に書いておいたので、父が役に立たなくとも安心だ。

 ──だってお父様だし、強く言われたらすぐに押し負けるし。

 とまあ、信じて待つと言いながら、さっぱり信じていないのは置いておいて。

 ──私がいくら悩んでも、代理聖女の件は解決しないわ。だったら、他の解決できそうなところに手を付けるべきでしょう!

 気合を入れて顔を引きめると、私はあごを持ち上げる。

 今日から無能神──ではなく、クレイル様の聖女の、本格的な一日目。

 代理とはいえ、彼の聖女となったからには、最初にやるべきことは決まっていた。

 ──とにかく、まずはおおそうよ!!

 なにを置いても、最優先は神様の部屋の片付けだ。何年、何十年と放置され、すっかりれ果てた部屋は、昨日一日の掃除できれいになるはずもない。

 分厚いほこりはらっても払いきれず、窓は日差しも入らないほど真っ黒によごれたまま。まどわくくさり、だんにはの巣が張り、家具のたぐいは完全にち果てていた。

 ──まずは埃を払って、窓をいて、それからボロボロの家具を新しいものにしないと……って、そういえばあの部屋、どうして家具なんてあるのかしら?

 意気込み、部屋を出ようととびらに手をかけながら、私はふとそんなことを考える。

 思えば、神様はあの姿だ。椅子いすやテーブルなんて、どうやって使うのだろう。

 ──聖女用かしら? つう、聖女は神様と同じ部屋で暮らすものだし。

 神殿には聖女用の宿舎があるものの、基本的に聖女はこの宿舎を使わない。

 なんと言っても、聖女は神のはんりよである。同じ部屋か、そうでなくとも同じしき内で生活するのが当然だった。

 逆に言えば、宿舎にまりする聖女は、その当然ができない存在ということだ。

 神様とうまくいっていなかったり、神様にきよぜつされていたり、様々な事情を持つ訳ありばかりなのである。

 そういう場所だから──。

 扉を開け、部屋から外に出たたん。ばちゃん、と空から水が降ってくる。

 バケツをひっくり返したような大量の水に、私はぼうぜんまばたいた。

 整えたばかりのかみから水がしたたり落ちる。しようは台無し、服はずぶれ、足元には大きな水たまりができていた。

 訳もわからず立ち尽くす私の耳に、どこからかくすくすと笑う声が聞こえてくる。

「見て、ほら、あれが例の『無能神』の聖女よ」

「あら、ご主人様に似てどろくさいこと。見てあのお顔、泥っぽさがお似合いだわ」

「通り雨にでも降られたのかしら? ちょうど洗い流されて良かったんじゃない?」

 頭上であわてて逃げていくのは、水のせいれいたる青い光のつぶ

 少しはなれてこちらをうかがう、ニヤニヤ顔の少女たち。

 彼女たちから感じるりよくの気配に、私はかたいからせた。

 ──いん湿しつ!!

「きゃっ、こっち見たわ!」

「こわーい。わたしたちなにもしていないのに」

「ねえ、もう行きましょう? 目が合ったら無能神がうつるわ」

「無能神がうつるってどういうことよ!? ──って、待ちなさい、こら!!」

 る私の声など聞かず、少女たちは笑いながら走り去っていく。

 残された私は、やり場のない怒りに奥歯をみしめた。

 ──そうね、神殿ってこういう場所だったわね!

 かつては私も、聖女を目指して神殿通いをしていたから知っている。

 神殿や聖女を志す人間たちが、心清らかなわけでは決してない。

 聖女とは神の言葉を聞き、神の力を借り受けるもの。特に、序列の高い神の聖女はそのえいきよう力も計り知れない。下手をすれば、並の大臣よりも発言力を持つこともある。

 要するに、権力を求める人間たちも、こぞって聖女を目指すものなのだ。

 ──ほんっと、ドロドロしていたわ! 特に女社会だから、なおさら!

 悪口やかげぐちはもちろんのこと、足の引っ張り合いもとし合いも日常はん。陰湿さに心折れ、何人もの少女が泣きながら神殿を去っていったものだ。

 それでも、どんなに聖女候補がドロドロしていようと、最後に選ばれるのは清らかな心の持ち主だ。

 聖女は神が選ぶもの。どれほど権力を求める人間がさつとうしたとしても、神には関係ない。神も認めるだけの、心根の美しさを持つ者だけが聖女になれるのだ。

 なんてあわげんそうは、このしゆんかんくずれ落ちた。

 私は少女たちの消えた方向をにらみつけ、濡れたドレスのすそをぎゅっとしぼり上げる。

「そんな性格だから、神様といつしよに暮らせないのよ!!」

 声を大にして叫ぶ私は、このときはまだ知らなかった。

 こんなことをするのは、宿舎暮らしをするあの少女たちだけ。

 神殿のほかの場所は、もっと清らかなのだ──と、かんちがいしていたのだ。


「──ほんっと、腹立つわ!!」

 神殿のはしの端にある、神様の住む小さな部屋。

 私は部屋の中央にある朽ちかけのテーブルに、食事をせたトレーをあらあらしく叩きつけた。

「なによここ! ぜんっぜん清らかじゃないじゃない!」

「……ど、どうかされました?」

 時刻はまだ午前中。だというのにうすぐらい部屋の、さらに薄暗いかたすみで、泥の山こと神様がおびえたようにふるえた。

 私のけんまくにおののいたのか、神様は心地ごこち悪そうにかべに張り付いている。とつぜんのことにまどい、しゅんと身を縮めている気の毒な神様は、しかしづかってはあげられない。

 置いたばかりの食事をきつく睨みつけると、私はその目つきのまま神様に顔を向けた。

「聞いてくださいよ、神様! ここの食堂、ひどいんですよ!」

 ぐっと力んで告げるのは、神様の部屋を訪ねる前に寄った食堂でのことだ。

 神々と聖女の食事は、基本的には神殿内の食堂で作られる。

 食事は日に三度。神や聖女ごとにそれぞれ別の食事が食堂に用意されるが、この食堂自体の利用者はそれほど多くない。普通であれば、神の食事は部屋まで運んでもらえるものだし、聖女は自分の仕える神と一緒に、同じ食事をるのが当たり前だからだ。

 ──普通であれば、ね!

 逆に言えば、普通ではない──『無能神』のように位の低い神様は、食事を運んでもらえない。聖女自ら食堂に食事を取りに行き、神様にはいぜんする必要があった。

 もっとも、それだけならばここまで腹を立てはしなかった。

 聖女は本来、一人で神様の身の回りのお世話をするものである。聖女しゆぎよう時代には掃除も配膳も自分でしていて、私も一通りはこなせるようになっていた。

 でも! と私はこぶしをにぎり締める。

「食事の内容が序列によって違いすぎるんです! っていうか、神様のは食事ですらなかったわ!」

 無能神にはこれで十分だろ──と言われて、投げて寄こされたカビたパンを思い出し、私は怒りに肩を震わせる。私の握りこぶしよりも小さなカビパンをよそに、食堂の奥で作られる他の神用のフルコースが目に入ったのも腹立たしい。

 ──いくら神様が序列最下位だからって、これはないわよ!

 さすがにまんできず、食堂に出向いたその足で神官に告げ口をしに行ったくらいだ。

 だが、無能神の聖女の言葉など、神官は聞いてもくれなかった。私のうつたえを鼻で笑い、『本来、神に食事は必要ない。不満があるなら食べなければいいだろう』と切り捨てるだけ。私は小さなカビパンを手にすごすご退散する他になかった。

「私の食事も、うっすいスープとパンだけ! 貧民街でのき出しの方がもっとマシなものが出るわよ! こんなのでおなかふくれるわけないじゃない!」

 ムカムカした気持ちをき出しつつも、私はパンを半分に千切る。続けて、どうにかゆずってもらえた空のうつわにスープを注いでいると、神様が不思議そうに体を震わせた。

「ええと、それはお気の毒ですが……その、なにをしていらっしゃるんですか?」

 神様は震えながら、泥のような体を私に向けてばしてくる。

 ねとねとでわかりにくいが──どうやら、私の手元をのぞき込んでいるらしい。

「食事でしたら、ここではなく食堂で取られた方が良いのでは? ここには私がいるので、あまり食欲もわかないでしょう」

 見た目的にもきゆうかく的にも食欲のわかない神様が、申し訳なさそうにうなだれた。

 本音を言うのなら、私だって神様と食事はしたくない。食堂で食事を摂れるなら、そうしておきたかった。

 でも、こうなった以上そうはいかない。

「神様に、カビたパンを食べさせるわけにはいきませんから」

 げんなまま、私は半分にしたパンとスープをトレーに載せる。

「私の食事もまつなので申し訳ないんですけど──どうぞ。こっちの方が、まだ食べられるはずですよ」

 そう言うと、私はその場にしゃがみ込んで、トレーを神様の前に置いた。

 まだそうもままならず、黒くよごれたゆかの上。目の前に差し出されたトレーを前に、震えていた神様の動きがぴたりと止まる。

 そのまま、彼は身じろぎもしない。無言で食事を見つめている──ようにも見える神様に、私の方もまた体をこわらせた。

 ──これは……やらかした……?

 もしかして、床に直接トレーを置いたのがまずかったのだろうか。

 テーブルに置いても手が届かないだろうと、深く考えずに床に置いてしまったけど──よく考えると、この光景、いぬねこあつかいに見えるのでは?

 ──お、おこっていらっしゃる……?

 内心で冷やあせをかきつつ、私はおそるおそる神様の様子を窺い見る。

 私の視線に気付いたのだろう。こおり付いていた神様が、ようやくねとりとれた。

「……神は、食事をしなくても問題ありません」

 彼が口にするのは、心底からのこんわくの声だ。

 トレーの端に手らしきものを伸ばすと、彼はえんりよがちに押し返す。

「神が死ぬ方法は二つだけ。他の神にたれるか、自ら神の力を捨てるかです。空腹で死ぬことはありませんし、実際に私は、もう百年以上、ものを口にはしていません」

「…………」

「私のことは気にしなくて結構です。少ない食事なのでしょう? どうぞ、ご自分でし上がってください」

 押し返された食事を前に、私は無言だった。

 神様がしないことは、さすがの私でも知っている。

 そもそも神とは、死すらもちようえつした方々だ。神官の言う通り、彼らに食事はひつではない。

 しかし、私の頭にかぶのはそんなことではなかった。

「……フルコース」

「は?」

「じゃあ、なんで他の神様はフルコースなのよ!」

 食堂で見かけてしまった、他の神用のごうせいな食事である。食べ物のうらみは深いのだ。

「空腹では死なないって言っても、食べる理由があるんじゃないんですか!? じゃなかったら、あの食事ぜんぶ無意味じゃないですか!」

 単なるこう品だろうか。それともまさか、お供えのためだけに作っている?

 神様に食べられることなく、フルコースまるごとはいされるだなんて──。

「もったいない!!」

 思わず本音をさけんでしまえば、神様が困ったようにねとっと震えた。

 空腹で気が立っている私をなだめようというのだろう。彼はひかえめに、じゆうでも宥めるかのようにそっと口を出す。

「……ええと、無意味というわけではないかと。食べなくても平気ではありますが、空腹自体は感じるので」

 ほほう。無意味ではないと。

 食べなくても平気だけど、空腹は感じると。

 なるほど、だからしん殿でんの料理はちゃんと他の神も食べていて、にはならないと。

 なるほどなるほど──。

「それ、平気って言いませんから!!」

 押し返されたトレーをガッと押しもどし、私は神様を𠮟しかりつけた。

 しかもこの神様、さっき『百年以上ものを口にしていない』と言っていなかっただろうか。そのうえで、『自分のことは気にせず食べろ』、と。

 ──き、聞かなきゃよかった!!

 言われなきゃ気にしなかったのに、余計なことを……!

 しかし聞いてしまったからにはもうおくれである。私は問答無用とばかりに立ち上がると、いつまでも遠慮する神様に向け、ビシッと指をきつけた。

「いいから、遠慮するくらいならさっさと食べちゃってください! 今日はこのあと、大掃除をしないといけないんですから!」

 かすように神様をにらめば、彼はすっかりおびえ切ったようにふるえあがった。

 それから──長い間のあとで、おずおずと食事に向かってどろの手を伸ばした。


 そういうわけで、質素すぎる食事を終えたあとは大掃除だ。

 昨日のうちに目に付くほこりはらっておいたものの、やるべきことはまだまだある。

 ちた家具。すすけただんくもった窓ガラス。くさってボロボロのじゅうたんに、神様の体で汚れた泥の床。

 ──これは気合を入れないと……!

 一日二日では終わらないさんじように、私は気持ちを引きめる。せめてもの幸いは、神様の部屋がさほど広くないことだろうか。

 神様の部屋の大きさは、はくしやく家にある私の自室より少し小さいくらい。せまいとまでは言わないけれど、神の住む場所としては破格のきゆうくつさである。

 ──最高神様は、きゆう殿でんみたいなおしきに住んでいるのにね。

 神殿内でも特にごうな最高神様のお屋敷を思い出し、私は「はん」と鼻で息を吐く。

 アマルダはそのお屋敷に、大勢のメイドにかしずかれて暮らしているらしい。聖女は一人で神様の身の回りのお世話をするもの──なんて話は、建前もいいところだ。

 ちなみに、序列二位のアドラシオン様は、最高神様よりもう少し小さな屋敷を丸ごとあたえられている。三位、四位とその屋敷が少しずつ小さくなり、さらに下の序列の神々は、同じ屋敷の中で部屋を分けて暮らしているという。

 そして目の前の神様は、その神々の住まう屋敷にも入れてもらえず、神殿の敷地の中でもはしの端にある、ほとんど物置みたいなボロボロの小屋に住んでいた。

 ──本当、格差社会にもほどがあるわ。人々の平等をうたう神殿なんだから、神様も平等に扱えないものかしら!

 などと不平等へのいかりを込めて、私はきつくぞうきんしぼり上げた。すいてきが服にねても気にしない。どうせ汚れると思って、最初から安物を着てきている。

 ──これなら、男の人が着るようなズボンでも良かったわ。お父様にたのんで送ってもらおうかしら。

 聖女は本来どうたらなんて、ここまでたいぐうに差があれば知ったことではない。

 ほかの神がフルコースを食べる横で、こっちはパン一つを分け合っているのだ。

 ──神殿があてにできないなら、金の力でなんとかするわよ。どうせ私じゃなくて、お父様のお金だもの!

 さっさと代役の件を解消してくれなきゃ、実家の資金を使いつぶしてやる──と内心でじやあくなことを考えつつ、私は固く絞った雑巾をにぎりしめる。

 それから、力んだ声で神様を追い立てた。

「神様! 今日も掃除をしますから端に寄ってください!」

 私の言葉に、神様があわててねちょねちょと移動する。なおで大変よいことだけど、その動いたあとには顔をしかめてしまった。

 神様の移動したぶんだけ、黒いどろどろの跡が残っているのだ。

 ──しまったわ。余計に汚れが……!

 というかこの汚れ、そもそもなんなのだろうか。

 泥──と言いたいところだけど、それにしては黒すぎである。そのうえねばつき、いだことのないあくしゆうまで放っている。

 ──まさか、神様の体液……?

 自分の想像にぞっとしつつも、私はその場にかがみこみ、われながらゆうかんにも手をばした。

 ……伸ばしてしまった。

「──いけません!」

 れる寸前、神様が慌てたように声を上げる。

 だけどもうおそい。黒いものが私の指の先に触れてしまった。

 しゆんかん、痛みにも似たしようげきが体に走る。

 指先から伝う衝撃は、うでい、体をめぐり──頭の中を真っ黒に染め上げた。


    ● ● ●


『どうして……どうして私ばっかり!』

『殺してやる、殺してやる殺してやる殺してやる!』

『不幸になれ。俺以外、全員不幸になれ!!』

 頭の中に声がひびわたる。

 声とともに、強くて暗い感情が心に満ちていく。

 だれかがにくい。誰かが恨めしい。自分だけが可愛かわいい。

 黒くて暗い、どろどろとしたその感情は──神様のまとう、あの泥にそっくりだ。

 粘り気があって、からみついてはなれない。

『──お前だってそうだろう?』

 くらやみの底から声がする。

『お前だって──誰かが憎いだろう?』

 こっちへ来い、とさそっている。

 ──いや。

 いやだと思っても、止められない。

 暗闇の声に頭が染まり、他のことが考えられなくなる。

 ──私は、そんなこと。

 こばむ心さえも、どこか遠い。

 指先に触れた泥に──どす黒い感情に、心がりつぶされていく。

 そのまま完全に黒く染まる、そのぎわ

「──エレノアさん!!」

 反対側から、誰かの『手』が私を掴んだ。


    ● ● ●


「エレノアさん! だいじようですか!」

 強く呼びかける声に、私ははっと目を覚ました。

 視界には、薄暗い神様の部屋のてんじようが映っている。

 鼻を突くのはカビのにおいだ。どうやら朽ちた家具の一つ、カビだらけのソファに横たわっているらしい。

 ──ええと……?

 たしか私は、そうをしていたはず。

 でも、神様の黒い泥に触れて──その瞬間、ひどく嫌な感情が流れ込んできたのだ。そこまで思い出して、私は知らず体を震わせる。

 具体的には覚えていないものの、き気がするほど強い感情だったことだけは頭に焼き付いている。暗く、冷たく、どす黒いその感情に、私はみ込まれそうになっていた。

 だけど──吞み込まれる直前に、誰かが私の腕を掴んでくれた。

 私を引っ張り上げてくれた、力強くてやさしい、あの手は──。

「……夢?」

「夢ではない」

 私の独り言に、かんはつれずに誰かが答える。

 神様の声ではない。おどろいて飛び起きれば、ソファの横に立つ二つのかげに気が付いた。

 一つは、心配そうにれる神様だ。もう一つは──。

「アドラシオン様!? どうしてここに!」

「たまたま様子を見に来ただけだ」

 アドラシオン様は感情のない声で言うと、私の指先をいちべつした。

 指の先には、まだあのどろのようなよごれが付いている。だけど先ほどまでとちがって粘りつくことはなく、かわいた泥のようにくだけて指からがれ落ちていく。

けがれに触れたな、人のむすめぜんが助けなければ、そのまま穢れにちていたところだ」

「……穢れ?」

 その言葉は、私も知っている。

 穢れとは、この世にはびこる『邪悪』だ。

 ねたみやうらみといった人の悪意から生まれ、くなればものさいやくを生み出すもの。

 人が穢れに触れれば、その悪意に吞み込まれ、穢れの一部にされるという。

 この国にも、建国神話の時代にはあちらこちらにあったらしい。時に神さえも吞み、人に害をなす悪神に変える穢れのおそろしさは、神話の中でもたびたび語られていた。

 だけど現代では、そんな穢れが発生したという話はいつさいない。

 それもこれも、すべてはこの国が特別に神々に愛され、守られているからである。

 ──……という話なんだけど。

 無意識に、私は神様をうかがい見た。

 神様を形作る、泥の山めいた黒いどろどろ。ねんちやくしつで底知れないどす黒さは、あのとき私の心に満ちたものを連想させた。

 ──もしかして、神様をおおうこれは……。

「……すみません。エレノアさんは私の穢れに触れてしまったようです。だんなら、こんなことはないはずなのですが」

おんの穢れではありません」

 神様の言葉に、アドラシオン様は無感情そうな顔をしかめ、とがめるように首を横にる。

「穢れは人間の生み出すもの。御身はそれを引き受けてくださっているにすぎません」

 ──……引き受ける? あの、暗い感情を?

「……神様」

「はい?」

 えんりよがちに呼びかける私に、神様はいつもの調子で返事をした。

 おだやかで、少しぽやっとした、やわらかな声だ。

「……私、さっき穢れに触れて……その」

 指先にほんの少し触れただけなのに、心を塗りつぶすほど強いえんの声を聞いた。

 重たく暗い、底のない感情を思い出し、私は知らずぶるいをする。

こわかったでしょう。無事でよかった」

 そんな私をいたわるように、神様は優しい言葉をかけてくれる。

「あなたはとても心の強い方です。普通なら、吞み込まれていてもおかしくありませんでした」

「あ、いえ、それは助けていただいたからで……ありがとうございます」

 暗い感情から、誰かが私を引き上げてくれた。アドラシオン様の言葉からすると、あれはたぶん神様がしてくれたことなのだろう。

「いいえ。私の方こそ謝らなければいけません。穢れは本来、私の中だけに押しとどめていたはずでしたのに……なぜかれてしまって」

 ──押し止める……。

 その言葉に、私は神様の姿を見る。

 彼の体全体を覆う黒い泥は、私が触れた指先の比ではない。

「神様は……もしかして、ずっとあんな感情を引き受けているんですか……?」

 おそるおそるたずねれば、彼はしようするように静かに揺れる。

 それから、小さく息を吐き──。

「……慣れていますから」

 恩に着せるでもなく、自負するでもなく、たださびしそうにそう言った。


 今日はもう休んだ方がいい──ということで、その後は早々に神様の部屋を出ることになった。

 薄暗い神様の部屋を出て、とびらを閉めたあと。

 私は外の空気を大きく吸い──そのまま、ため息として吐き出した。

 頭には、いまだに悪意の感情がこびりついている。耳に残る、冷たくねばつく怨嗟の声をはらうように、私は重たい頭を振った。

 神様はあれを、ずっと身にまとい続けているのだ。

 ──なにが『無能神』よ。

「……ぜんぜん、無能じゃないじゃない」

「当たり前だ」

「ほあっ!?」

 予期せず割り込んできた声に、私はせいを上げてしまった。

 だれかと思うまでもなく、感情のうすい声には聞き覚えがある。

 おそるおそる振り返れば、予想通り。本日二度目のアドラシオン様が、冷たいひとみで立っていた。

 ──ま、まったく気配がなかったわ……!

 さすが神。心臓に悪い。驚きのあまり心臓がバクバク言っている。

 そんな心臓に、アドラシオン様のくような視線が追いちをかける。

「無能神などと、よくも言えたものだ。この国にはびこる穢れを一身に受けてくださっているとも知らず。人間どもめ、恐れ知らずにもほどがある」

「ご、ごもっともで──うん? 恐れ知らず?」

 アドラシオン様の言葉にうなずきかけ、私は頷ききれずにまゆを寄せた。

 穢れを引き受けてくれる神様を、無能神呼ばわりなどおそれ多い──とは思うけれど、恐れ知らずは少し意味が違って聞こえる。

 どういう意味だろうかと首をひねる私に、しかしアドラシオン様は答えない。言いたいことだけ言うと、彼は無言で片手を持ち上げる。

 その手のひらに魔力が集まっていくのを見て、私はぎょっと目を見開いた。

 ──まさか、てんばつ!? 私に!?

 心当たりは──ある。しかもいっぱいある。

 神様のことを無能神と呼んだし、聖女になるのもいやがった。それ以前に、代理聖女なんてそれだけで天罰ものだ。

 それとも、アドラシオン様を前に礼をくせていなかったことが悪いのだろうか。

 昨日はあいさつする前にアドラシオン様がいなくなって、今日はきの対面。思えば、ろくな挨拶をわせていない。

 ──アドラシオン様にこんな態度……許されるはずがないわ……!

 どんどん大きくなる魔力に、私の目もどんどん遠くなる。

 これは終わった……と身をかたくした、次のしゆんかん

 彼の手の中には、丸い果実のようなものがにぎられていた。

「くれてやる。食べ物になんしているのだろう」

「……ど、どうかごを──えっ」

 ──……えっ?

 予想外の言葉に、一瞬理解が追い付かない。

 どういうことかとまばたく私へ、アドラシオン様はようしやなく手の中のものをほうり投げた。

 あわてて受け止めたそれは、みずみずしくて少しやわらかい、見たことのない果実だ。

「そのまま食べられる。本来、神はおのれの聖女以外に直接手出しができないが──俺は例外だ」

「あ……ありがとうございます……?」

 手の中の重みにぼうぜんとしながらも、私はどうにか礼を口にした。

 疑問形になってしまったのは仕方ない。むしろ天罰ではないことが不思議だった。

 思わず見上げるアドラシオン様は、果実を投げたあとも変わりない。ふるえるほどのあつかんに、こおれる表情。視線はするどく、まるで感情が見えない。

 だけど手元には果実がある。食事に困っているなんて、話した覚えはないのに。

 ──……意外に、親切?

 こんわくする私に、アドラシオン様は眉一つ動かさない。

「礼はらん。あのお方が、久しぶりにものを口にしてくださった。礼を言うなら、こちらの方だろう」

「い、いえ、私はなにも……」

「あのお方は、神からはなにも受け取らない。お前のおかげだ」

 私のけんそんこばみ、アドラシオン様が断言する。

 迷いない彼の言葉は、それこそ畏れ多すぎた。

 ──だ、だって別に、本当に大したことしていないのに……!

 アドラシオン様から感謝されるなんて、光栄を通りして怖くなる。この先、よほどのしっぺ返しがあるのではないだろうか。

 そんなことを考えながら、アドラシオン様をちらりとうかがい見たとき──ちょうど、彼の冷たい視線と目が合った。

「な、なんでしょう……?」

「いや」

 アドラシオン様はそう言いつつも、ぎくりとする私を容赦なくえる。

 顔から体、足元までみでもするようにながめてから、最後に彼はため息をいた。

 失礼な。

「……りよくはくじやくだ。よくけがれにまれずにすんだものだ」

「はい……?」

 首をかしげる私に、アドラシオン様は相変わらず答えない。

 私から目をらすと、ただしむように首をった。

「お前にもう少し魔力があればな。あのお方の穢れを清め、元のお姿を取りもどせたかもしれぬだろうに」

 そして、そう言った次の瞬間には、最初からそこにいなかったかのように姿を消していた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

聖女様に醜い神様との結婚を押し付けられました 赤村 咲/角川ビーンズ文庫 @beans

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ