2章 光の神ルフレ
不本意な代理聖女就任の翌日。私は
──さあ、グズグズ
いつまで代理をするのかとか、神殿での生活の不安とか、悩ましいことは山ほどあるけれど、考えるのはすべて後回しだ。どうせ考えたところで、私にできることはない。
──神殿との交渉はお父様に任せるしかないもの。いくら気弱で押しに弱いお父様でも、『なんとかしよう』って言ったんだからあとは信じて待つだけよ!
それに念のため、
──だってお父様だし、強く言われたらすぐに押し負けるし。
とまあ、信じて待つと言いながら、さっぱり信じていないのは置いておいて。
──私がいくら悩んでも、代理聖女の件は解決しないわ。だったら、他の解決できそうなところに手を付けるべきでしょう!
気合を入れて顔を引き
今日から無能神──ではなく、クレイル様の聖女の、本格的な一日目。
代理とはいえ、彼の聖女となったからには、最初にやるべきことは決まっていた。
──とにかく、まずは
なにを置いても、最優先は神様の部屋の片付けだ。何年、何十年と放置され、すっかり
分厚い
──まずは埃を払って、窓を
意気込み、部屋を出ようと
思えば、神様はあの姿だ。
──聖女用かしら?
神殿には聖女用の宿舎があるものの、基本的に聖女はこの宿舎を使わない。
なんと言っても、聖女は神の
逆に言えば、宿舎に
神様とうまくいっていなかったり、神様に
そういう場所だから──。
扉を開け、部屋から外に出た
バケツをひっくり返したような大量の水に、私は
整えたばかりの
訳もわからず立ち尽くす私の耳に、どこからかくすくすと笑う声が聞こえてくる。
「見て、ほら、あれが例の『無能神』の聖女よ」
「あら、ご主人様に似て
「通り雨にでも降られたのかしら? ちょうど洗い流されて良かったんじゃない?」
頭上で
少し
彼女たちから感じる
──
「きゃっ、こっち見たわ!」
「こわーい。わたしたちなにもしていないのに」
「ねえ、もう行きましょう? 目が合ったら無能神がうつるわ」
「無能神がうつるってどういうことよ!? ──って、待ちなさい、こら!!」
残された私は、やり場のない怒りに奥歯を
──そうね、神殿ってこういう場所だったわね!
かつては私も、聖女を目指して神殿通いをしていたから知っている。
神殿や聖女を志す人間たちが、心清らかなわけでは決してない。
聖女とは神の言葉を聞き、神の力を借り受けるもの。特に、序列の高い神の聖女はその
要するに、権力を求める人間たちも、こぞって聖女を目指すものなのだ。
──ほんっと、ドロドロしていたわ! 特に女社会だから、なおさら!
悪口や
それでも、どんなに聖女候補がドロドロしていようと、最後に選ばれるのは清らかな心の持ち主だ。
聖女は神が選ぶもの。どれほど権力を求める人間が
なんて
私は少女たちの消えた方向を
「そんな性格だから、神様と
声を大にして叫ぶ私は、このときはまだ知らなかった。
こんなことをするのは、宿舎暮らしをするあの少女たちだけ。
神殿の
「──ほんっと、腹立つわ!!」
神殿の
私は部屋の中央にある朽ちかけのテーブルに、食事を
「なによここ! ぜんっぜん清らかじゃないじゃない!」
「……ど、どうかされました?」
時刻はまだ午前中。だというのに
私の
置いたばかりの食事をきつく睨みつけると、私はその目つきのまま神様に顔を向けた。
「聞いてくださいよ、神様! ここの食堂、ひどいんですよ!」
ぐっと力んで告げるのは、神様の部屋を訪ねる前に寄った食堂でのことだ。
神々と聖女の食事は、基本的には神殿内の食堂で作られる。
食事は日に三度。神や聖女ごとにそれぞれ別の食事が食堂に用意されるが、この食堂自体の利用者はそれほど多くない。普通であれば、神の食事は部屋まで運んでもらえるものだし、聖女は自分の仕える神と一緒に、同じ食事を
──普通であれば、ね!
逆に言えば、普通ではない──『無能神』のように位の低い神様は、食事を運んでもらえない。聖女自ら食堂に食事を取りに行き、神様に
もっとも、それだけならばここまで腹を立てはしなかった。
聖女は本来、一人で神様の身の回りのお世話をするものである。聖女
でも! と私はこぶしを
「食事の内容が序列によって違いすぎるんです! っていうか、神様のは食事ですらなかったわ!」
無能神にはこれで十分だろ──と言われて、投げて寄こされたカビたパンを思い出し、私は怒りに肩を震わせる。私の握りこぶしよりも小さなカビパンをよそに、食堂の奥で作られる他の神用のフルコースが目に入ったのも腹立たしい。
──いくら神様が序列最下位だからって、これはないわよ!
さすがに
だが、無能神の聖女の言葉など、神官は聞いてもくれなかった。私の
「私の食事も、うっすいスープとパンだけ! 貧民街での
ムカムカした気持ちを
「ええと、それはお気の毒ですが……その、なにをしていらっしゃるんですか?」
神様は震えながら、泥のような体を私に向けて
ねとねとでわかりにくいが──どうやら、私の手元を
「食事でしたら、ここではなく食堂で取られた方が良いのでは? ここには私がいるので、あまり食欲もわかないでしょう」
見た目的にも
本音を言うのなら、私だって神様と食事はしたくない。食堂で食事を摂れるなら、そうしておきたかった。
でも、こうなった以上そうはいかない。
「神様に、カビたパンを食べさせるわけにはいきませんから」
「私の食事も
そう言うと、私はその場にしゃがみ込んで、トレーを神様の前に置いた。
まだ
そのまま、彼は身じろぎもしない。無言で食事を見つめている──ようにも見える神様に、私の方もまた体を
──これは……やらかした……?
もしかして、床に直接トレーを置いたのがまずかったのだろうか。
テーブルに置いても手が届かないだろうと、深く考えずに床に置いてしまったけど──よく考えると、この光景、
──お、
内心で冷や
私の視線に気付いたのだろう。
「……神は、食事をしなくても問題ありません」
彼が口にするのは、心底からの
トレーの端に手らしきものを伸ばすと、彼は
「神が死ぬ方法は二つだけ。他の神に
「…………」
「私のことは気にしなくて結構です。少ない食事なのでしょう? どうぞ、ご自分で
押し返された食事を前に、私は無言だった。
神様が
そもそも神とは、死すらも
しかし、私の頭に
「……フルコース」
「は?」
「じゃあ、なんで他の神様はフルコースなのよ!」
食堂で見かけてしまった、他の神用の
「空腹では死なないって言っても、食べる理由があるんじゃないんですか!? じゃなかったら、あの食事ぜんぶ無意味じゃないですか!」
単なる
神様に食べられることなく、フルコースまるごと
「もったいない!!」
思わず本音を
空腹で気が立っている私を
「……ええと、無意味というわけではないかと。食べなくても平気ではありますが、空腹自体は感じるので」
ほほう。無意味ではないと。
食べなくても平気だけど、空腹は感じると。
なるほど、だから
なるほどなるほど──。
「それ、平気って言いませんから!!」
押し返されたトレーをガッと押し
しかもこの神様、さっき『百年以上ものを口にしていない』と言っていなかっただろうか。そのうえで、『自分のことは気にせず食べろ』、と。
──き、聞かなきゃよかった!!
言われなきゃ気にしなかったのに、余計なことを……!
しかし聞いてしまったからにはもう
「いいから、遠慮するくらいならさっさと食べちゃってください! 今日はこのあと、大掃除をしないといけないんですから!」
それから──長い間のあとで、おずおずと食事に向かって
そういうわけで、質素すぎる食事を終えたあとは大掃除だ。
昨日のうちに目に付く
──これは気合を入れないと……!
一日二日では終わらない
神様の部屋の大きさは、
──最高神様は、
神殿内でも特に
アマルダはそのお屋敷に、大勢のメイドにかしずかれて暮らしているらしい。聖女は一人で神様の身の回りのお世話をするもの──なんて話は、建前もいいところだ。
ちなみに、序列二位のアドラシオン様は、最高神様よりもう少し小さな屋敷を丸ごと
そして目の前の神様は、その神々の住まう屋敷にも入れてもらえず、神殿の敷地の中でも
──本当、格差社会にもほどがあるわ。人々の平等を
などと不平等への
──これなら、男の人が着るようなズボンでも良かったわ。お父様に
聖女は本来どうたらなんて、ここまで
──神殿があてにできないなら、金の力でなんとかするわよ。どうせ私じゃなくて、お父様のお金だもの!
さっさと代役の件を解消してくれなきゃ、実家の資金を使い
それから、力んだ声で神様を追い立てた。
「神様! 今日も掃除をしますから端に寄ってください!」
私の言葉に、神様が
神様の移動したぶんだけ、黒いどろどろの跡が残っているのだ。
──しまったわ。余計に汚れが……!
というかこの汚れ、そもそもなんなのだろうか。
泥──と言いたいところだけど、それにしては黒すぎである。そのうえ
──まさか、神様の体液……?
自分の想像にぞっとしつつも、私はその場に
……伸ばしてしまった。
「──いけません!」
だけどもう
指先から伝う衝撃は、
● ● ●
『どうして……どうして私ばっかり!』
『殺してやる、殺してやる殺してやる殺してやる!』
『不幸になれ。俺以外、全員不幸になれ!!』
頭の中に声が
声とともに、強くて暗い感情が心に満ちていく。
黒くて暗い、どろどろとしたその感情は──神様のまとう、あの泥にそっくりだ。
粘り気があって、
『──お前だってそうだろう?』
『お前だって──誰かが憎いだろう?』
こっちへ来い、と
──いや。
暗闇の声に頭が染まり、他のことが考えられなくなる。
──私は、そんなこと。
指先に触れた泥に──どす黒い感情に、心が
そのまま完全に黒く染まる、その
「──エレノアさん!!」
反対側から、誰かの『手』が私を掴んだ。
● ● ●
「エレノアさん!
強く呼びかける声に、私ははっと目を覚ました。
視界には、薄暗い神様の部屋の
鼻を突くのはカビの
──ええと……?
たしか私は、
でも、神様の黒い泥に触れて──その瞬間、ひどく嫌な感情が流れ込んできたのだ。そこまで思い出して、私は知らず体を震わせる。
具体的には覚えていないものの、
だけど──吞み込まれる直前に、誰かが私の腕を掴んでくれた。
私を引っ張り上げてくれた、力強くて
「……夢?」
「夢ではない」
私の独り言に、
神様の声ではない。
一つは、心配そうに
「アドラシオン様!? どうしてここに!」
「たまたま様子を見に来ただけだ」
アドラシオン様は感情のない声で言うと、私の指先を
指の先には、まだあの
「
「……穢れ?」
その言葉は、私も知っている。
穢れとは、この世にはびこる『邪悪』だ。
人が穢れに触れれば、その悪意に吞み込まれ、穢れの一部にされるという。
この国にも、建国神話の時代にはあちらこちらにあったらしい。時に神さえも吞み、人に害をなす悪神に変える穢れの
だけど現代では、そんな穢れが発生したという話は
それもこれも、すべてはこの国が特別に神々に愛され、守られているからである。
──……という話なんだけど。
無意識に、私は神様を
神様を形作る、泥の山めいた黒いどろどろ。
──もしかして、神様を
「……すみません。エレノアさんは私の穢れに触れてしまったようです。
「
神様の言葉に、アドラシオン様は無感情そうな顔をしかめ、
「穢れは人間の生み出すもの。御身はそれを引き受けてくださっているにすぎません」
──……引き受ける? あの、暗い感情を?
「……神様」
「はい?」
「……私、さっき穢れに触れて……その」
指先にほんの少し触れただけなのに、心を塗りつぶすほど強い
重たく暗い、底のない感情を思い出し、私は知らず
「
そんな私をいたわるように、神様は優しい言葉をかけてくれる。
「あなたはとても心の強い方です。普通なら、吞み込まれていてもおかしくありませんでした」
「あ、いえ、それは助けていただいたからで……ありがとうございます」
暗い感情から、誰かが私を引き上げてくれた。アドラシオン様の言葉からすると、あれはたぶん神様がしてくれたことなのだろう。
「いいえ。私の方こそ謝らなければいけません。穢れは本来、私の中だけに押し
──押し止める……。
その言葉に、私は神様の姿を見る。
彼の体全体を覆う黒い泥は、私が触れた指先の比ではない。
「神様は……もしかして、ずっとあんな感情を引き受けているんですか……?」
おそるおそる
それから、小さく息を吐き──。
「……慣れていますから」
恩に着せるでもなく、自負するでもなく、ただ
今日はもう休んだ方がいい──ということで、その後は早々に神様の部屋を出ることになった。
薄暗い神様の部屋を出て、
私は外の空気を大きく吸い──そのまま、ため息として吐き出した。
頭には、
神様はあれを、ずっと身にまとい続けているのだ。
──なにが『無能神』よ。
「……ぜんぜん、無能じゃないじゃない」
「当たり前だ」
「ほあっ!?」
予期せず割り込んできた声に、私は
おそるおそる振り返れば、予想通り。本日二度目のアドラシオン様が、冷たい
──ま、まったく気配がなかったわ……!
さすが神。心臓に悪い。驚きのあまり心臓がバクバク言っている。
そんな心臓に、アドラシオン様の
「無能神などと、よくも言えたものだ。この国にはびこる穢れを一身に受けてくださっているとも知らず。人間どもめ、恐れ知らずにもほどがある」
「ご、ごもっともで──うん? 恐れ知らず?」
アドラシオン様の言葉に
穢れを引き受けてくれる神様を、無能神呼ばわりなど
どういう意味だろうかと首をひねる私に、しかしアドラシオン様は答えない。言いたいことだけ言うと、彼は無言で片手を持ち上げる。
その手のひらに魔力が集まっていくのを見て、私はぎょっと目を見開いた。
──まさか、
心当たりは──ある。しかもいっぱいある。
神様のことを無能神と呼んだし、聖女になるのも
それとも、アドラシオン様を前に礼を
昨日は
──アドラシオン様にこんな態度……許されるはずがないわ……!
どんどん大きくなる魔力に、私の目もどんどん遠くなる。
これは終わった……と身を
彼の手の中には、丸い果実のようなものが
「くれてやる。食べ物に
「……ど、どうかご
──……えっ?
予想外の言葉に、一瞬理解が追い付かない。
どういうことかと
「そのまま食べられる。本来、神は
「あ……ありがとうございます……?」
手の中の重みに
疑問形になってしまったのは仕方ない。むしろ天罰ではないことが不思議だった。
思わず見上げるアドラシオン様は、果実を投げたあとも変わりない。
だけど手元には果実がある。食事に困っているなんて、話した覚えはないのに。
──……意外に、親切?
「礼は
「い、いえ、私はなにも……」
「あのお方は、神からはなにも受け取らない。お前のおかげだ」
私の
迷いない彼の言葉は、それこそ畏れ多すぎた。
──だ、だって別に、本当に大したことしていないのに……!
アドラシオン様から感謝されるなんて、光栄を通り
そんなことを考えながら、アドラシオン様をちらりと
「な、なんでしょう……?」
「いや」
アドラシオン様はそう言いつつも、ぎくりとする私を容赦なく
顔から体、足元まで
失礼な。
「……
「はい……?」
首を
私から目を
「お前にもう少し魔力があればな。あのお方の穢れを清め、元のお姿を取り
そして、そう言った次の瞬間には、最初からそこにいなかったかのように姿を消していた。
聖女様に醜い神様との結婚を押し付けられました 赤村 咲/角川ビーンズ文庫 @beans
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