1章 醜い神様②
少女が去った部屋で、『彼』は深いため息を吐いた。
いいや、息を
今の彼は、ただ
その事実を、誰よりも彼自身がよく理解していた。
──久しぶりに、人と話をした。
重たく醜い体を揺らして、彼はもう一度息を吐くふりをする。
思い返すのは、出て行ったばかりの少女の声だ。
悲鳴と
久しぶりの会話は楽しかった。素直にそう思う。
だからこそ、彼女が去ったあとは、部屋の冷たさがより
──人間ならば、この感情を『さみしい』とでも言うのだろうか。
だが、今の彼はもはや、そんな感情すらも忘れてしまった。
罵声を浴びせられることも、石を投げられることも、彼は慣れ切っていた。あるいは
ただ体だけが、
「──良いのですか。あの
暗闇の中から、ふと
目すらない彼に声の主は見えない。だが、よく知った声だ。
彼を
「どうせあの娘も
「仕方ないだろう。私から強要することはできない。それだけの力もない」
「
熱のこもった神の声に、彼は
人々を守るべき神だというのに、言っていることはまるで真逆だ。
「私に、そこまでの価値はないだろう? 記憶を失い、元の姿も忘れ、自分が何者かさえも思い出せない。もはや、神であるかすらもわからない存在だ」
「御身は……人間たちの穢れを集めすぎたのです……! 聖女さえいれば御身の穢れを清められたはずなのに、あのアマルダとかいう小娘めが!」
ギリ、と歯を
だけど今の彼には、どうしてこの神が
「最高神に選ばれたからと、御身の聖女を
怒りの声を吐き終えると、神は大きく息を吐く。
吐き出すことで、少しは気が晴れたのだろう。
「……御身には、もう時間がありません。ここまで穢れを
怒りに
己の身を案ずる名も知らぬ神に、彼は内心で少しだけ
ここまで穢れに堕ちてもなお、この神は自分の事を見捨てずにいてくれるのだ。
だが──続く神の言葉は喜べなかった。
「その前に、新たな聖女を選ばせましょう。急がねばなりません。今度こそ、心の清い者を用意するようにと厳命します」
──
誰も彼の聖女にはなりたがらない。みな先ほどの少女のように逃げていき、もう二度と戻ってくることはないのだ。
これまでもずっとそうだった。この先も、変わることはない。
長い年月の間に、彼は失望することにも
「ああもう! 重っ!! なんでここ、神殿のこんな
──…………うん?
ガチャガチャと大荷物を揺らす少女の声が、
● ● ●
「神様!
片手にバケツ。片手にモップ。
ドレスはくしゃくしゃ、
まさか客人が来ているとは夢にも思わず、私は令嬢らしさのかけらもない姿を
「──代役の
あるいは、抱えた大荷物をどうにか落とさずに済んだだけでも、むしろ幸運だったと思うべきだろうか。
底冷えのする低い声に、私は部屋に入ったその格好のまま立ち尽くした。
見開かれた私の目に、燃えるような赤い髪が映る。
私を
一目で人間ではないとわかる
──……まさか、
それくらい、目の前にいる人物は思いがけない相手だった。
──アドラシオン様! 最高神に次ぐ序列二位の神様が、どうしてここに!?
神々の序列第二位──戦神アドラシオン。
彼こそは、この国の祖である建国神だ。
今から千年前。最初に天から降り立ったのがアドラシオン様だ。彼はこの地に住まう人間の少女と
それがこの国の始まり。建国の神話である。
しかし、そんなロマンチックな神話とは裏腹に、アドラシオン様の性格は冷徹にして厳格。戦神の性質ゆえに敵に対して
彼を止められるのは、彼が
弟神であるアドラシオン様は兄神を深く尊敬していて、例の恋人の少女と兄神以外には、絶対に
──そんなお方が、なんで神様の部屋にいるの!?
仲良くお話ししていた、とは思えなかった。
とっさに神様に目を向ければ、彼は黒い体をねとねとと
まるで
──まさか……!
怯える神様。他神にも容赦ないアドラシオン様。正直に言って、ちょっと大人しそうな最弱神と、いかにも
悪い想像に
「……ろくに
そのまま短く私を
彼の姿は、
──消え……!? い、いえ、神々ならよくあることだわ!
そんなことより、今はもっと気になることがある!
「──神様!!」
アドラシオン様の消えたあと、私は掃除用具を投げ出し、
ねちょねちょの体に
「神様!
「は、はい……? 大丈夫、とは?」
そう答える神様の声には、明らかな
──やっぱり!
「神様、
思わず前のめりに
そのまま
「…………はい?」
短い
それから。
「私が……いじめられている……それでそんな、慌てて……」
今日一番に混乱したあと、神様は今日一番に笑い続けていた。
「どうしてそんな
「で、ですよね……!」
笑いをかみ殺す神様に、私はそう答える他になかった。
アドラシオン様といえば、恐ろしいけれど公正で、不正や悪を
この部屋に来ていたのも、
──し、失礼すぎる勘違いをしてしまったわ!
うっかり本人の前で余計なことを言わなくて良かった。危ないところだったと内心で
「……だって神様、なんだか動揺していらっしゃったようですし。ちょっと話しただけですけど、ぽやっとした
人間に石を投げられても、聖女に
そんな神様が、容赦ないと評判のアドラシオン様と並んでいて、平和な想像をする方が難しい。
「……私を心配してくださったんですね」
ふう、と笑い
「そんな方ははじめてです。みんな、この部屋を出たら
「どうして、って……」
「このまま戻って来なくても、
神様の声は、相変わらず静かで
やわらかく、
「こんな
「なぜ……?」
神様の言葉に、私は眉をひそめた。
醜いと言われればその通り。事実として神様は目を
大人しい神様のことだから、咎めないのも本当なのだろう。他の神の聖女になれるのなら、その方が良いに決まっている。
それでも、私の中に『戻って来ない』という
「……聖女なら、神様のお世話を投げ出したりはしないでしょう?」
もちろん、私は単なる代理の聖女。一時的な身代わりであり、いつかはアマルダに押し付け返したいと思ってさえいる。
だとしても──今は、私が神様の聖女なのだ。
「私、これでも聖女を目指した身ですもの。そりゃあ、美形の神様に選ばれたいとは思っていましたけど」
序列が高くて顔が良くて、そのうえ性格も良い神様だったらもちろんうれしい。逆に、無能神だけは絶対に嫌だと、他の聖女見習い同様に思っていたのも事実だ。
だけど嫌だと思ったところで、自分を選んでくれる神様を、自分では決められない。
それをわかったうえで、私は聖女を目指していたのだ。
「どんな神様でも、選んでくださる方がいるのなら、誠意を持って仕えるだけの
「エレノアさん……」
黒い泥山のような神様の体が
「エレノアさん、ありがとうござ──」
「それなのにみんな逃げ出すなんて! そんな人が聖女に選ばれて、私が選ばれなかったなんて
ぐっとこぶしを
たぶん、怯えて震えているだろう神様は、しかし私の目には入らない。負けん気だけを握りしめ、私は
「こうなったら、意地でも聖女をやり通すわ! 逃げたり押し付けるような連中に負けるもんですか! まあ、アマルダの代理期間中だけですけど!」
ふんす! と鼻息を吐く私に、神様は
それから少しの間のあとで、彼は先ほどよりも
「それなら、これからよろしくお願いしますね、エレノアさん」
「ええ!」
私が大きく
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