1章 醜い神様②

 少女が去った部屋で、『彼』は深いため息を吐いた。

 いいや、息をく口さえ、今の彼には存在しない。ただ、かつて存在していた肉体の名残なごりで、息を吐いたつもりになっているだけだ。

 今の彼は、ただくらやみひそみ、醜く蠢くおぞましい存在にすぎない。

 その事実を、誰よりも彼自身がよく理解していた。

 ──久しぶりに、人と話をした。

 重たく醜い体を揺らして、彼はもう一度息を吐くふりをする。

 思い返すのは、出て行ったばかりの少女の声だ。

 悲鳴とせい以外の声を聞いたのは何十年ぶりだろう。これまでおとずれた人間はみな、一声かけただけで悲鳴を上げて逃げていった。ああして人間と会話したおくも、もう思い出せないほど遠い過去のことだ。

 久しぶりの会話は楽しかった。素直にそう思う。

 だからこそ、彼女が去ったあとは、部屋の冷たさがよりきわって感じられた。

 ──人間ならば、この感情を『さみしい』とでも言うのだろうか。

 だが、今の彼はもはや、そんな感情すらも忘れてしまった。

 罵声を浴びせられることも、石を投げられることも、彼は慣れ切っていた。あるいはさげすまれ、無視をされ続けることに、苦痛をいだく心も失った。

 いかりの感情は思い出せない。おこったところで、人間たちにばつを与える力もない。

 ただ体だけが、けがれを集めて醜くふくれ続けるだけだ。

「──良いのですか。あのむすめを行かせてしまって」

 暗闇の中から、ふといんぎんな声がした。

 目すらない彼に声の主は見えない。だが、よく知った声だ。

 彼を鹿にする人間たちのものではない。れいてつな気配をまとう、神の声だ。

「どうせあの娘ももどりません。そもそもあの娘自体、聖女が立てた代理です。……聖女などと名乗りながら、一度も顔を見せることなく代理をすなど! こんな無礼を許して良いのですか!!」

「仕方ないだろう。私から強要することはできない。それだけの力もない」

おんが望めば、かなわぬことなどありません! 御身の声一つで、ほかの神々も立ち上がります! 不敬な神殿の連中に罰も下しましょう! ちり一つ残さずに消し去り、御身のだいさを人々に焼き付けましょう!」

 熱のこもった神の声に、彼はしようする。

 人々を守るべき神だというのに、言っていることはまるで真逆だ。

「私に、そこまでの価値はないだろう? 記憶を失い、元の姿も忘れ、自分が何者かさえも思い出せない。もはや、神であるかすらもわからない存在だ」

「御身は……人間たちの穢れを集めすぎたのです……! 聖女さえいれば御身の穢れを清められたはずなのに、あのアマルダとかいう小娘めが!」

 ギリ、と歯をむ音がする。

 だけど今の彼には、どうしてこの神がおのれのために怒ってくれるのかもわからなかった。

「最高神に選ばれたからと、御身の聖女をこばむとは! ここまで見えいたいつわりがありましょうか! あの『人形』が、聖女を選ぶことなどありえないというのに!!」

 怒りの声を吐き終えると、神は大きく息を吐く。

 吐き出すことで、少しは気が晴れたのだろう。いまだ怒りの気配は消えないが、続く声は先ほどより落ち着いたものになる。

「……御身には、もう時間がありません。ここまで穢れをめてしまえば、悪神にちるのも時間の問題です。あと一つ二つでも大きな穢れが現れれば、いくら御身でも身が持ちますまい」

 怒りにわって声ににじむのは、深いうれいのひびきだ。

 己の身を案ずる名も知らぬ神に、彼は内心で少しだけむ。

 ここまで穢れに堕ちてもなお、この神は自分の事を見捨てずにいてくれるのだ。

 だが──続く神の言葉は喜べなかった。

「その前に、新たな聖女を選ばせましょう。急がねばなりません。今度こそ、心の清い者を用意するようにと厳命します」

 ──だれを選んだところで、結果は見えているだろうに。

 誰も彼の聖女にはなりたがらない。みな先ほどの少女のように逃げていき、もう二度と戻ってくることはないのだ。

 これまでもずっとそうだった。この先も、変わることはない。

 長い年月の間に、彼は失望することにもいていた。人間への期待も、怒りも、悲しみも、もう彼の中にはひとつもない。ただひたすらに、冷たいあきらめが残るだけだ。

 くうきよな部屋に似合いの、空虚な感情が、彼の心をくそうとしたとき──。

「ああもう! 重っ!! なんでここ、神殿のこんなはしっこにあるのよ!!」

 ──…………うん?

 ガチャガチャと大荷物を揺らす少女の声が、せいじやくあらあらしくき消した。


    ● ● ●


「神様! おおそうしますから、端っこに寄ってください!!」

 片手にバケツ。片手にモップ。わきに箒とはたきをかかえて部屋に乗り込んだ私は、正直に言って完全に油断していた。

 ドレスはくしゃくしゃ、そでは乱暴にうでまくり。ただでさえくせのあるくりいろかみも荒く振り乱し、「さあ今から部屋を丸ごときれいにするぞ!」と意気込んでいた私に、身だしなみのがいねんなど存在しない。

 まさか客人が来ているとは夢にも思わず、私は令嬢らしさのかけらもない姿をさらす羽目になってしまった。

「──代役のむすめか」

 あるいは、抱えた大荷物をどうにか落とさずに済んだだけでも、むしろ幸運だったと思うべきだろうか。

 底冷えのする低い声に、私は部屋に入ったその格好のまま立ち尽くした。

 見開かれた私の目に、燃えるような赤い髪が映る。

 私をえるのは、髪と同じくらいあざやかな赤いひとみちようぞうよりもなおせいこうしつな顔。

 一目で人間ではないとわかるぼうを前に、私の呼吸は完全に止まっていた。

 ──……まさか、うそでしょう?

 あいさつをしなければ、という考えも、今は頭にかばない。

 それくらい、目の前にいる人物は思いがけない相手だった。

 ──アドラシオン様! 最高神に次ぐ序列二位の神様が、どうしてここに!?

 神々の序列第二位──戦神アドラシオン。

 彼こそは、この国の祖である建国神だ。

 今から千年前。最初に天から降り立ったのがアドラシオン様だ。彼はこの地に住まう人間の少女とこいに落ち、彼女が生きるための場所を作り出した。

 それがこの国の始まり。建国の神話である。

 しかし、そんなロマンチックな神話とは裏腹に、アドラシオン様の性格は冷徹にして厳格。戦神の性質ゆえに敵に対してようしやがなく、戦いのあとは草の一本も残らない。そのことから、人間のみならず、他の神々からもおそれられているという。

 彼を止められるのは、彼がゆいいつ尊敬する兄神──最高神グランヴェリテ様のみ。

 弟神であるアドラシオン様は兄神を深く尊敬していて、例の恋人の少女と兄神以外には、絶対にひざを折らないという。

 ──そんなお方が、なんで神様の部屋にいるの!?

 仲良くお話ししていた、とは思えなかった。

 とっさに神様に目を向ければ、彼は黒い体をねとねととふるわせている。

 まるでおびえている──ように、見えなくもない。

 ──まさか……!

 怯える神様。他神にも容赦ないアドラシオン様。正直に言って、ちょっと大人しそうな最弱神と、いかにもこわそうな序列二位。

 いやな予感しかしない。

 悪い想像にこわる私を見下ろし、アドラシオン様はかいそうにまゆをひそめた。

「……ろくにりよくも持たない、こんなぼんような娘を寄越すとは。しん殿でんの連中め、おろかなことを。自らの首をめているとも知らず……!」

 そのまま短く私をいちべつすると、彼はいらたしげに首をった──次のしゆんかん

 彼の姿は、けむりのようにその場から消えていた。

 ──消え……!? い、いえ、神々ならよくあることだわ!

 ぼうだいな魔力さえあれば、人間だって瞬間移動の魔法は使えるのだ。神ともなれば、いきなり消えることもあるだろう。

 そんなことより、今はもっと気になることがある!

「──神様!!」

 アドラシオン様の消えたあと、私は掃除用具を投げ出し、あわてて神様へけ寄った。

 ねちょねちょの体にれない程度に近寄ると、黒い全身をおもむろにながめまわす。

「神様! だいじようですか!?」

「は、はい……? 大丈夫、とは?」

 そう答える神様の声には、明らかなどうようにじんでいた。

 みようにそわそわして、まどっているようで──どう考えても、様子がおかしい。

 ──やっぱり!

「神様、ほかの神様たちに、いじめられていませんか!?」

 思わず前のめりにめ寄れば、神様はぎょっと身を強張らせた。

 そのまままばたきでもするかのように、どろのような体を小さく震わせて、少しの間。

「…………はい?」

 短いちんもくのあとで、神様は今日一番、最高に混乱した声でそう言った。


 それから。

「私が……いじめられている……それでそんな、慌てて……」

 今日一番に混乱したあと、神様は今日一番に笑い続けていた。

 ねんせいの体が愉快そうに震える横で、当の私はずかしさに震えている。

 しゆうと気まずさに顔は赤く、冷やあせなのかなんなのか、変な汗が止まらない。

「どうしてそんなかんちがいなんて……。彼はそんなことをする神ではありませんよ。私に、とてもよくしてくれています」

「で、ですよね……!」

 笑いをかみ殺す神様に、私はそう答える他になかった。

 アドラシオン様といえば、恐ろしいけれど公正で、不正や悪をきらう正義のお方だ。弱い者いじめをするはずもなく、逆に誰かがいじめられていたら、守ってくれるほうだろう。

 この部屋に来ていたのも、かえりみられない神様を心配して、様子を見に来てくださっていたのだそうだ。

 ──し、失礼すぎる勘違いをしてしまったわ!

 うっかり本人の前で余計なことを言わなくて良かった。危ないところだったと内心であんしつつ、私は言い訳を口にする。

「……だって神様、なんだか動揺していらっしゃったようですし。ちょっと話しただけですけど、ぽやっとしたふんがおありだし……」

 人間に石を投げられても、聖女にげられてもおこらないような大人しい方だ。

 そんな神様が、容赦ないと評判のアドラシオン様と並んでいて、平和な想像をする方が難しい。

「……私を心配してくださったんですね」

 ふう、と笑いつかれたように息をくと、神様はみをふくんだ声で言った。

「そんな方ははじめてです。みんな、この部屋を出たらもどってくることさえないというのに。……エレノアさん、でしたか? どうして、またこの部屋に戻ってきたのです?」

「どうして、って……」

「このまま戻って来なくても、とがめないと言ったはずです。これまでの聖女も、みんなそうしてきました。神殿とこうしようしたのか、他の神の聖女になった者もいます」

 神様の声は、相変わらず静かでおだやかだ。

 やわらかく、やさしいひびきなのに──同時に、どこかほのぐらさがある。

「こんなみにくいモノの相手をしなくても良いのに──なぜ、あなたは戻ってきたのですか?」

「なぜ……?」

 神様の言葉に、私は眉をひそめた。

 醜いと言われればその通り。事実として神様は目をらしたくなる姿をしていて、相手にするどころか近づきたいとも思えない。

 大人しい神様のことだから、咎めないのも本当なのだろう。他の神の聖女になれるのなら、その方が良いに決まっている。

 それでも、私の中に『戻って来ない』というせんたくはなかった。

「……聖女なら、神様のお世話を投げ出したりはしないでしょう?」

 もちろん、私は単なる代理の聖女。一時的な身代わりであり、いつかはアマルダに押し付け返したいと思ってさえいる。

 だとしても──今は、私が神様の聖女なのだ。

「私、これでも聖女を目指した身ですもの。そりゃあ、美形の神様に選ばれたいとは思っていましたけど」

 序列が高くて顔が良くて、そのうえ性格も良い神様だったらもちろんうれしい。逆に、無能神だけは絶対に嫌だと、他の聖女見習い同様に思っていたのも事実だ。

 だけど嫌だと思ったところで、自分を選んでくれる神様を、自分では決められない。

 それをわかったうえで、私は聖女を目指していたのだ。

「どんな神様でも、選んでくださる方がいるのなら、誠意を持って仕えるだけのかくはしていました。美形の神様でも、クレイル様でも、聖女になった以上は全力をくします。……聖女って、そういう人のはずでしょう?」

「エレノアさん……」

 黒い泥山のような神様の体がれる。多くの聖女が投げ出した、醜い神様の姿に、私はにこりと目を細め──。

「エレノアさん、ありがとうござ──」

「それなのにみんな逃げ出すなんて! そんな人が聖女に選ばれて、私が選ばれなかったなんてくやしいじゃないですか!」

 ぐっとこぶしをにぎる私に、神様はまた別の意味で震えた。

 たぶん、怯えて震えているだろう神様は、しかし私の目には入らない。負けん気だけを握りしめ、私はせまい部屋でこわだかさけんだ。

「こうなったら、意地でも聖女をやり通すわ! 逃げたり押し付けるような連中に負けるもんですか! まあ、アマルダの代理期間中だけですけど!」

 ふんす! と鼻息を吐く私に、神様はぜんとした様子でだまり込む。

 それから少しの間のあとで、彼は先ほどよりもひかえめに──だけど、やっぱり愉快そうに笑った。

「それなら、これからよろしくお願いしますね、エレノアさん」

「ええ!」

 私が大きくうなずけば、神様の体がねちょりと、少しはずむように揺れた。

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