夜を歩く
三角海域
夜を歩く
何年か前に、縄を買った。
自殺用の縄だ。
けれど、僕はいまもこうして生きている。
それは、この縄があるからだ。
矛盾している。けれど、そうなのだ。
夜、部屋の明かりを消して、縄を眺め、撫で、掴む。そうすると、安心できた。もし、突発的に死にたくなっても、この縄があれば、いつでも死ぬことができる。そう思うと、安心して眠ることができた。
縄を抱き、短い睡眠を経て、僕は夜勤のため職場へ向かう。
冷たい風が頬を締め付ける。不愛想だと言われる顔。冬の寒さで表情が凍ってしまったんですと答えたら、納得してもらえるのだろうか。
通用口を通り、更衣室で着替えをすませ、職場へ。
「おはよう」
「おはようございます」
「聞いた?」
「何をです?」
「やめるんだって、菅生さん」
菅生さんは、僕がここへ就職するずっと前から働いているベテランだ。だが、定年にはまだ早い。どうしてやめるのか。
「田舎に帰るんだって」
「突然どうして」
「どうしてかなぁ。全然そんな素振り見せなかったじゃない? ため込んでたのかなぁ」
同僚の三木さんは、冬の空気を多分にため込んだ、冷たい廊下の先を見る。僕も釣られてそちらを見るが、何もない。
三木さんは、じっと廊下の先を見つめたまま、呟くように言う。
「疲れてたのかもね」
そう言う三木さんの言葉からも、どこか疲労が感じられる気がした。
みな、疲れているのだ。
仕事かもしれないし、人間関係かもしれない。菅生さんは何に疲れたのだろう。
三木さんは小さく息を吐き出す。
「行こうか」
冷たい廊下に、三木さんの声が響く。発した声が妙に大きかった。
三木さんの言葉は、僕に向けられたものだったんだろうか。
それとも、自分自身を鼓舞するものだったのか。
どちらかはわからないけれど、僕はただ「そうですね」とだけ答えた。
菅生さんがやめてから、二か月ほど経ち、今度は三木さんが辞めた。伝染病のように、職を辞すことが蔓延してきている。
アルバイトも数人辞め、職場は大慌てだった。
忙しない日々が続くが、僕の日々は変わらなかった。
起き、働き、食べ、眺め、眠る。
少し変わったのは、縄と共にいる時間が増えたことだろう。
食事の時、茶碗の傍らに縄を置く。
脱衣場に縄を持ち込み、軽く撫でてから風呂に入る。
本を買いに出掛ける時も、僕は鞄に縄を入れていた。
縄が僕の日常に絡みついてきているように思えた。
縄を持つということが心の安定となっていたはずなのに、いつからか、僕は縄にとらわれている。
ゆっくりと、僕という存在を締め付ける縄。
不穏さは感じていた。けれど、絡まった縄はもうほどくことはできず、きりきりとその締め付けを強めていく。
そうして、ある夜。
いつも通りに縄を眺めている時、ふと思った。
死ななければ。
死のう、だとか、死にたいだとかではない。
まるで使命感のように、死ななければいけないと思った。
不思議だった。憂鬱さのようなものはない。ただ、急かされる。
縄に? わからない。
けれど、不思議に思う。
僕は、いつから死にたかったんだろうか。
縄を持ち、外へ出ると、冷たく強い風が吹く。
その風の中に、三木さんの声が聞こえた気がした。
「行こうか」
僕は夜の中へ歩みを進める。
部屋ではない、どこかで死にたい。
迷惑なやつだと自分でも思う。
けれど、僕はもう、それしか考えることができなかった。
コンビニの前を通りかかる。
あたたかい飲み物が欲しくなった。
買ったことのない、コーヒーメーカーで淹れるタイプのカフェオレを買う。
外に出て、ガラスを背にカフェオレを飲む。あたたかい。
「そこの人」
声。それが自分に向けられていると思わず、反応が遅れる。
「僕、ですか?」
「そうそう。他にいないでしょ」
確かにそうだ。
声をかけてきたのは、新聞配達員の青年だった。
頭にタオルを巻き、片手にスマートフォンを持ち、もう片方の手には缶コーヒー。
「あんた、死にたいって人でしょ」
こちらに視線を向けているが、スマホの操作はやめない。器用な人だ。それに、面白い言い回しをする。
「どうしてそう思うんです?」
「こんなド深夜に、一人でそんな生き生きとした顔してるのなんて、酔っ払いか死にに行く人くらいでしょ」
そうなんだろうか。僕はよく夜を知らないから、わからない。
「で、あんた酔っ払いじゃないでしょ?」
「ええ」
「じゃあ、死にに行く人だ」
若者はスマホをしまい、缶コーヒーを開ける。ひとつひとつの動作が妙に洗練されていた。
「別に止めたりはしないけど、どうせ死ぬなら、ちょっと歩いてみたらどう?」
「歩く?」
「そう。どこでもいいよ。思いついたとこに向けて歩いてく」
「なんの為に?」
「意味はないよ。でも、どうせ死んじゃうんなら、意味なんて必要ないんじゃない? 死んだら意味も何も関係ないんだからさ。思いついたところで死ぬっていうのでもいい。好きなようにすればいいよ。これはあくまでもアドバイスだから」
「どうして、僕にアドバイスを?」
「善意だと思う?」
「わかりません。僕を止めはしないから、善意とは違う気もします。でも、優しいと思います」
「優しい?」
「はい」
「そんな風に思ってもらえるとは思わなかったな。けど、うん。嬉しいね」
若者は笑う。結局、僕に向けた言葉が、どのような感情から湧いたものなのかを若者は語らなかった。
「さて、俺はそろそろ行くよ」
若者は立ち上がる。
「あんたはどうする? ちょうど、信号も青になるけど」
若者は、バイクに乗って走り去る。会釈もなにもなかった。
信号が点滅する。
飲み終えたカフェオレのカップをゴミ箱に捨て、なぜか僕は駆け出していた。
どこへ行こうかなんて思いつかない。
けれど、思い出したことがある。
学生時代、よく出掛けていた公園。
高台で、大きな木のある場所。
学校生活で息苦しくなった時、僕はそこでよく本を読んでいた。
あの公園は、どこだったか。
駅からバスに乗り、五番目の停留所の近く。
あの頃とは住んでいる場所も違う。歩くとなると、それなりに距離がある。
ちょうどいいかもしれない。あの大きな木で首を吊る。
目的地がきまると、少し早足になった。
不思議だ。とても体が軽い。
工業地帯を抜ける途中、たむろしてる若者たちがいた。普段の僕なら大回りして避けるのだが、いまはそんなことは気にならなかった。
「どっかいくの?」
若者の一人が、茶化すように言う。
「公園に行くんです」
「公園? どこの? てかこんな時間に?」
「ええ」
他の若者がひそひそと何か言っている。
「あのさ、あんた、頭おかしい系?」
「どうでしょう。ちょっとおかしくなってるかもしれません」
「なんだよそれ」
若者が笑う。
「で、公園ってどこの?」
僕は目的地の公園について説明する。
「遠くない?」
「そうですね」
「そうですねって。おもしろいなあんた」
若者は立ち上がり、スマホを取り出す。
「ラインやってる?」
「一応」
「じゃあさ、連絡先交換しようよ。夜道だし、変なやつに絡まれたりしたらさ、呼びなよ」
「助けてくれるんですか?」
「暇だったらね」
「ありがとう」
僕がそう言うと、若者は照れくさそうに笑う。それを他の若者が茶化し、怒り、また笑う。
「じゃあ、僕はそろそろ」
「気を付けていきな」
若者と別れ、また僕は歩き出す。
お礼の言葉が、あんなに自然に出たのはいつぶりだろうか。
夜がどんどん更けていく。
暗い道をひたすら行く。
闇が心地よい。そろそろ、いつも家を出る時間になる。
確実に、仕事には間に合わない。
少し息が上がり始める。かなりのペースで歩いていたらしい。
少し歩く速度を落とす。
少し先に、明かりが見えた。二十四時間開いているドラッグストアの明かりだった。
その駐車場から、小さな影が飛び出してくる。
慌てて立ち止まると、その影が子どもであることに気が付く。
どうしてこんな時間に?
と、その子どもを追いかけるように、母親らしき人が僕の前に立つ。
「すいません」
夜の闇。そこにうっすらと光るドラッグストアの照明。それが照らし出すその人の顔は、とても白かった。その白さは、光のせいではないだろう。
「いきなり飛び出しちゃ駄目でしょ」
女性は子どもの手を取り、ぐっと引き寄せる。
そうして、軽く頭を下げ、その場を去ろうとする。
「あの」
どうして僕は、この親子を呼び止めたのだろう。よくわからない。
親子が振り向く。
「どこに行かれるんですか?」
母親が困惑する。いや、警戒しているのか。
「僕もそっちの方向に用があるんです。途中まで一緒に行きませんか? えーと、こんな時間ですし、危ないかもです。あの、僕、もしもの時にはって、ちょっとヤンキーっぽい人と連絡先交換してて。僕は頼りないかもしれないけど、その人なら守ってくれると思うんで、だから、その……」
しどろもどろになりながら、言葉を絞り出す。なんでこんなに必死になっているんだろう。
子どもが、そんな僕を見て笑った。
母親があわてて諫めるが、僕もなんだか焦る自分が面白くて笑ってしまう。
「本当に、たいした意味はないです。歩きませんか、途中まで」
子どもが母親をじっと見る。
「わかりました。じゃあ、途中まで」
僕らは夜道を並んで歩く。子どもは小声でヒーローソングらしきものを楽しそうに歌っている。
「どうしてこんな時間にってお聞きにならないんですね」
「無理やりご一緒させてもらってるのに、さらに踏み込むなんて、図々しいですから」
母親は申し訳なさそうに薄い笑みを浮かべる。
「不思議です。初対面の人と、ただ一緒に歩いているだけなんて」
「僕もです。家を出た時には、こんなことになるなんて思わなかった」
「疲れてたんです、とても。どうしようもなく疲れてしまって。この子が走って行くのも見えてたんですけど、追いかけていく力がわかなくて」
その会話を最後に、僕らはただ黙って歩いた。静かな夜に、小声の歌声だけがしみ込んでいく。
「ここを曲がります」
「じゃあ、ここまでですね。僕はまっすぐ行くので」
「ありがとうございました。少しだけ、救われた気分になりました」
何が救いになったのかとは訊かない。なんとなく、僕にもわかるから。
「それじゃあ」
「ええ。それじゃあ」
手を振る子どもにこたえる。二人の姿が完全に見えなくなるまで、僕はその場に立っていた。
親子と別れ、僕はさらにペースを早める。
そろそろ公園に着く。
坂をのぼり、公園に入る。大きな木は変わらずそこにある。僕は鞄から縄を取り出し、木に向かって歩き出す。
と、その木の近くに人影があることに気が付く。
「珍しいね、こんな時間に」
その人影が言う。黒づくめの男だった。全身が黒。まるで夜の一部のようだ。
黒づくめの男は、僕が握っている縄を見た。
「なるほど」
何度か頷くと、黒づくめの男は僕を手招きした。
「別に何かしようってわけじゃない。ほら」
僕は黒づくめの男の隣に立つ。
「座らないかい?」
言われるがまま、僕は木の近くにあるベンチに、黒づくめの男と並んで腰掛ける。
「君、ここら辺に住んでる人?」
「いえ」
「じゃあ、なんでわざわざここで……」
黒づくめの男は言葉を切り、縄を指差す。
「死ななくちゃと思ったんです。急に、そうすべきだと思って。それで、なんとなく立ち寄ったコンビニで、新聞配達員の人と話して」
「その人に、何か言われた?」
「とりあえず、歩いてみたらどうかと。意味なんか考えず、とりあえず歩いてみる。どうせ死ぬなら、意味なんか必要ないだろうからって」
「いいね」
「それで、歩き始めました。そしたら、初対面の若者と連絡先を交換したり、ドラッグストアで親子連れに会ったりして」
「なるほど。それで、そうしたものを経て、君はここに辿り着き、私と会った」
「はい」
「君は、まだ死ぬべきだと思っている?」
「……わかりません」
「迷っている?」
「わからないんです。歩いてみて、なんだか、おかしな気持ちになりました。ただ寂しいだけだと思っていた夜の中にも、誰かの生活があって。そういうのを見ていたら、自分がどうしたいのかわからなくなってきて」
「生きたいのか、死にたいのかわからない?」
「そう、なんだと思います」
僕はどうしたいのか。なんのためにここまで歩いてきたのか。
「少しだけ、私の話も聞いてくれるかい?」
黒づくめの男が言う。僕は頷いた。
「私はね、詩を書いてるんだ。趣味の枠をでないけれど、私にとって詩はすべてでね」
「素敵な趣味だと思います」
「ありがとう。いつも、私は詩を探してる。特に、浮かぶのではなく、湧いてくる詩をね」
「どこが違うんですか?」
「浮かぶのは、私の体と心を通して感じたものが言語化されるもの。湧く、というのは、ただ自然にそこにあるもの。それは別に言語化されている必要はない。現象であってもいい」
「言葉でなくても詩なんですか?」
「私はそう思ってる」
黒づくめの男は小さな鞄から、ノートを取り出した。
「私は不眠症でね。現実と夢の境が曖昧なんだ。時々、その曖昧さがどうしようもなく嫌になってしまう時がある。そんな時は、ここに来るんだ。ここでただ夜明けを待つ。そうして、のぼってきた朝陽を見ながら、詩を思い、日の光を照明にして、ノートに詩を書いていく。そうすると、気持ちが安らぐ。歪んでいた景色が、静かに凪いでいく」
「お邪魔でしたね」
「いいや。むしろ感謝したいくらいだ」
「感謝?」
「ああ。君は、私に詩を運んできてくれた。君という現象が、私に詩を湧かせてくれた」
黒づくめの男は立ち上がると、僕にノートを差し出した。
「これは君にあげよう」
「いや、でも……」
「君にもらってほしいんだ、この詩集を」
僕は差し出されたノートを受け取り、開いてみる。ノートは白紙だった。
「これは君の詩集だ。実際に言葉を書かなくてもいい。君がこのノートを、なんらかの意思で所持している。それが、このノートを詩集として定義する」
黒づくめの男はゆっくりと後ずさる。
「すべての物語は、白紙から始まる。君もここから始めてみないか?」
「何をですか」
「君自身を」
「よくわかりません」
「いつかわかるさ。きっとね」
「まだ夜が明けてませんよ」
「いいんだ。もう詩は湧いたから。今日の朝陽は君に譲ろう。ほら」
黒づくめの男が、空を指差す。
「もう夜が明ける」
そう言い、手を振って黒づくめの男は去って行った。
公園に一人残された僕は、縄を強く握りしめ、空を見た。
闇に染まっていた空は、青みがかっていて、その青の向こうに、淡い光が見えた。
綺麗だな。
そう思った。
ただ、純粋にそう思った。
そう、思えた。
僕は縄を公園のゴミ箱に捨て、ノートをしっかりと握りしめ、公園を後にする。
夜が、明けた。
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