第6話 命名と真実と
結論から言うと、俺はフライパンを紛失した。
――間違えた。
正しくは、俺たちは『首なし公』を喰い逃がしてしまった。
「まったく、信じらんないよ! あそこで撤退すなんてさ!」
大聖堂への帰り道。
俺の横では、吸血鬼がぶうぶうと文句を垂れていた。
「俺はそれよりも、もっかいイングラムさんの砲撃が飛んで来なかっただけで嬉しいよ……」
あれは軽くトラウマものだった。
後で住民は大丈夫だったのかと訊ねたところ、この都市では『卿』が出現するのと同時に、地上の『生き物』は全て地下シェルターに転送されるらしく、あのアパートも無人とのことだった。
謎過ぎる技術力だが、とりあえず誰も犠牲にならなくて本当に良かった。
「キミは欲がなさ過ぎるなぁ……そんなんじゃ駄目だよ。ボクらの安全な生活のために、キミはもっと貪欲にならなくちゃ! ああ、それにしても……子爵級は惜しかった。もう少しで、狩り獲れたのに……」
お偉いさんへのアピール要素が減ってしまったことを惜しんでいるのかと思いきや、どちらかと言えば、獲物を逃してしまったことが悔しいらしい吸血鬼に、俺は「ふ」と息だけで笑った。
男の外見に似合わぬ野性味あふれる発言が、少しおかしかったのだ。
空を見上げると、夜空には月が昇っていた。そのもっと向こう。遥か遠くには、ちっぽけな青空が見えた。異界の空は晴れている。
俺はふいに瓦礫の山での一件を思い出した。
「そうだ、あんたの名前さ。他の人と一緒じゃなくても、俺が好きに呼んでも、いいんだよな?」
「何だって?」
吸血鬼は俺の言葉に目を丸くする。何だか、とても驚いているように見えた。
「勿論、いいけど……どうしたんだい急に。何か呼びたい名前でも思い付いたかい?」
改めて訊かれると何となく気恥ずかしさがある。俺は視線を逸らした。
「いや……必要な時に呼べないのは、結構堪えるなって、学んだっていうか……」
「ふぅん?」
ぴんと来ないといった表情で紅い目を眇める。
「で、どんな名前?」
しまった、実はこれといった名前の候補があるわけではない。ただ、吸血鬼という存在について、一つだけ思い当たるものがあることにはあった。
「あんた、ピアノは弾ける?」
「弾けるよ」
「数は好き?」
「研究者だからね、嫌いではないとも」
「なら決まった」
笑いながら言う俺に、吸血鬼が不思議そうに首をかしげた。思い付いた言葉は、一個人の名前というには少し味気ないかもしれないが、この男にはぴったりだと思えた。
俺は晴れ晴れとした気持ちで、名を持たぬ男のための、新たな呼称を告げた。
「
「ん?」
「俺はあんたをそう呼ぶことにするよ」
「んんん?」
吸血鬼は奇妙な顔をした。目玉を左斜め上、右斜め上と動かして瞼を瞑って考え込む。
もしかしたら嫌だと言いたいのかもしれないが、好きに呼ぶことを許可した自らの前言がある。撤回して来る可能性も考えられたが、吸血鬼はぱちりと瞼を開くと、
「領地もないのに伯爵だなんて変なの」
とだけ言った。腑に落ちていないといった様子だが、特に文句も言わないということは、この名で良いということだろう。
「
吸血鬼改め伯爵は、新たな名を体と心に馴染ませるように、声に出して繰り返した。
俺は何となく、バイト先でよく合う野良猫に大福と名付けた時のことを思い出していた。同じ大学生バイトの三好さんが力強く「うちで飼う」と言っていたので、おそらく大福は幸せになるに違いない。
――俺が、千野の家に迎えられて幸せになれたように。
「領地なら、俺の中にあるじゃないか」
口から出た言葉は取り消せない。
だが、「はあ?」と伯爵が柳眉を顰めた瞬間、俺は今言ったことを取り消したくなった。
いかん。自分らしくもなく感傷的になってしまった。何故かこの男の姿が月子さんに重なるのがいけない。
撤回しようかとも考えたが、俺は踏み止まることにした。そうしたいと感じるのは、瓦礫の山の前で男の姿を見失った際の絶望感とも寂寥感とも付かない感情が関係しているように思えた。
「えっとさ……侵食が世界の間で起きるなら、一人で侵食できる俺は世界ってことにならないかな。喰った卿も俺の中に居るんだから、この世界みたいな空間が俺の中にも存在してる可能性はあるだろ?」
「……独裁者の理屈?」
「違うわ!」
俺はきっぱりと否定した。が、確かに言われてみると、そういう風に聞こえたとしてもおかしくない。
「あはっ、分かってるよ。なら、一等地を頼むよ」
ひらひらと手を振って伯爵は注文を付けた。俺は何となく嬉しくなって言葉を加えた。
「希望は? 今なら選び放題だけど」
神経を使う戦いから解放されたせいで、俺は少しハイになっていた。
「海が見える高台の一番上かな」
「容赦なく一等地だな」
「あと、近くに図書館とカフェとパン屋と映画館と温泉施設と……」
「待った待った待った……」
それからも俺たちは歩きながらくだらない話をした。
やがて、大聖堂のドームが見えて来たあたりで、男が急に足を止めた。着ていた筈のマントがいつの間にか消えているのに、俺はようやく気が付いた。あれも影から作られていたのだろう。
「どうかした?」
訊ねなながら、俺は少し気が急いていた。
他の防衛隊員たちは、既に大聖堂に着いただろうか。インカムを外す前、ガンマンのオッサンは一先ずは帰還するように言っていたから、かなりの人数が集まっているに違いない。
一刻も早く、戦いが終わって喜ぶ人たちの顔が見たかった。そうすることで、自分の中の興奮を鎮めたかったのだ。
伯爵は静かな面持ちで佇んでいた。
「称号と領地をくれたキミに、隠し事はフェアじゃないかなって」
「……それ、俺が聞いても大丈夫なやつ?」
暗に、既に共有されている秘密について揶揄すると、伯爵は肩を竦めた。危険、ということだろうか。紅い瞳がこちらをじっと見つめる。
キミが選べ。
透徹な目がそう語り掛けているようで、俺は覚悟を決めて口を開いた。
「フライパンのことだろ?」
相手が息を呑んだ音が聞こえた。
してやったりと俺はほくそ笑んだ。初めて先手を取って驚かすことに成功した。
「……気付いてたのかい?」
「ああ」
俺は頷いた。これで、もう引き返せはしない。誰かが聞いてた時のことを考えて、出来るだけ声を潜めて核心に触れる。
「俺の侵食は、この世界にも働く。フライパンは俺に喰われたんだ」
おかしいと思ったのはフライパンが消えていたことに気付いた時だ。あの時、不安から俺は万力を籠めてその柄をずっと握ってた。なのに、いつフライパンは消えたのか。エルナトの対物ライフルが弾着した時。もしくは、首なし騎士から逃げて地面を転がった時。――これが最も可能性がある。
けれど、あんな大通りであんな鉄の塊を落とせばすぐに見つかる筈なのだ。なのにフライパンは影も形もなかった。
無意識のうちに侵食していた馬や騎士の一部。見つからないフライパン。
こんなもの、子供にでも推測が立てられる。
「昼間の話どころじゃない。こんなことがバレたら、俺は間違いなくテロリスト候補の危険人物だ。違う?」
「……違わないね。キミは、世界にとっての救世主であり、獅子身中の虫であり、扱う者にとって諸刃の剣となるだろう」
「あんたが見張りの塔でこの話をしなかったのは、俺が裏切った時のリスクを減らしたかったから?」
言いながら、それは違うだろうと俺は思っていた。リスクを考えるのなら、全て先に説明しておく。そのついでに脅しの一つでもしておけば、チキンな俺には効果的にいうことを聞かせられただろう。
案の定、伯爵は「いいや」と首を横に振った。
「ボクが言わなかったのは、その事実が重すぎるからだ」
伯爵ははぁ、と息を吐いて観念したように話し出す。その横顔は疲れ切った老人のようにも見えた。
「かつて、師匠が召喚した少女は心優しくてね。三つ目の世界を侵食する度にいつも気に病んでた。そしてある日、キミと同じことに気が付いた時から……その重さに耐えきれず、徐々に心を壊していったんだ」
「先に言っておくけど、多分、俺は壊れないと思うから安心してくれ」
俺は思わず口を挟んだ。寂しそうな顔が見ていられなかったのだ。伯爵は眉をひそめた。
「当たり前じゃないか。キミみたいな図太い子の心配なんてしてないよ。重いってのはボクにとってだ」
――言うんじゃなかった。
変人を慮ってしまったことを、俺は盛大に後悔した。
「彼女の名前はク・ォ・ザィーナ」
伯爵は大聖堂を見上げて言った。
「ボクが神の座に押し上げてしまった哀れな女の子だ」
ザィーナ教。それはエルナトたちの信仰してる神の名だ。俺の背中がぞわりと震えた。
男の抱えた一万年という時間の重さが、畏れとして、肩にのしかかる。
「ボクがキミを召喚した本当の理由は、彼女の分もかつての師に復讐をするため。ボクはね、あの子を利用した癖に、今も尚、異界でのうのうと玉座に座っているアイツを引き摺り落としてやりたいのさ」
そう語る瞳は火のようだった。
ゆらゆらと、怒り、憎しみ、悲しみ、後悔、やるせなさ――様々な負の感情を燃料に燃え上がる瞳。
俺は雷に撃たれたように動けなかった。
そこには、月子さんに出会う前のかつての俺が立っていた。
俺の親は――ロクでもなかった。
三十を越えても子供の分別で、自分の機嫌も自分で取れず、八つ当たりのようにガキの俺に手をあげた。騙して、馬鹿にして、責め立てて、飯だって満足に食わしてくれなかった。
そんな化け物が部屋の中に二人も居た。
そうじゃない人間が、お隣さんに一人居た。
そのお陰で、俺は千野のお父さんとお母さんに出逢い、こうして今も生きている。
俺は「そっか」と頷いた。
この男は月子さんだけじゃなくて、俺にも似てるんだ。
俺はあの人のお陰で、あの地獄から抜け出せたが、こいつは未だにその師匠とやらに囚われている。
もしかしたら、一万年以上も、ずっと――。
「協力するよ」
その言葉は自然と口を衝いて出た。
「共犯者なんだろ? なら協力するのが筋だ」
伯爵がぽかんとした表情で俺を見る。
この馬鹿は、何を言ってるんだ――と言わんばかりだ。
俺はその気持ちが分かる気がした。
かつの俺も、初めて月子さんに逢った時はそう思ったものだった。まったく人が信じられなくなっていたのだ。
だから、昔の俺も、きっとこんな馬鹿面を彼女の前に晒していたに違いない。
後から考えてみれば、きっと、俺の人生が変わったのはこの瞬間だった。この世界に召喚された時ではなく。まさに、この瞬間。
月子さんに出逢って、助けられて、それから無為に過ごした時間。
何であの人は俺を助けたのか。どうしたらあの人のようになれるのか。そんな返事のない自問自答を繰り返して、人生を浪費ばかりして、焦燥感が募った日々。
そんなものの集大成が――理由が――ここにあった。
俺を救い出してくれた彼女のように俺も――だなんて格好いい理由じゃないけれど。
迷っていた俺の前に転がり込んで来てくれたこの大粒の紅玉を、俺は勝手に自分の人生の理由にすることにした。
これが、俺の
「よろしく、共犯者殿」
そう言って、今度は俺から手を差し出した。
――こんな人外相手に正気じゃない。
――いつか酷い目に合うかもしれない。
どこか冷静な俺の心がそう叫ぶ。それは正しい。自分でも分かってる。ただ、
(きっと、フライパンは飛んでこない)
そんな確信と共に、異世界の奇妙な空の下にて、俺はにっかりと笑った。
ゲネシスの共犯者…END?
ゲネシスの共犯者 イヅミ衛 @iduei
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