ブラインドタッチ・ダイニング

麻根重次

ブラインドタッチ・ダイニング

 あの事件が起きたとき、我々夫婦は夕食の真っ最中だった。


 美しい妻が丹精込めて手作りしてくれた、見た目も味も抜群の料理。

 俺の好物である煮込みハンバーグはまだふつふつと湯気をあげ、付け合わせのジャガイモに添えられたバターがとろりと溶け出している。茶碗によそったご飯はつややかで、日本人にはたまらない芳香を俺の鼻孔へと届けていた。


 清潔なテーブルクロス。花瓶に生けた、小さいながらも鮮やかな花束。グラスにはよく冷えたビール。


 そして目の前で微笑む愛する妻。結婚した途端にパートナーに対して興味を失ってしまう男もいる、というが、全く自分には信じられない。交際を始めてからも、結婚してからも、日が経つごとに妻への愛情は増すばかりだ。


 今日は我々二人の結婚記念日だった。新婚2年目の夫婦の食卓としては、文句のつけようがないほど完璧なはずだった。



 ――ほんの数分前までは。



 今、俺は立ち上がって目の前を睨み付け、妻は酷く怯えている。

 最初は何かのサプライズかと思った。俺は大いに驚き、そして次にやってくる展開を身を固くして待った。しかしそれは訪れなかった。サプライズではないことを認識した俺は、思わずうめき声をあげた。


 テーブルの上では俺の振り回した手が倒したグラスからビールが飛び散り、折角の記念すべき食卓を台無しにしていた。


「どういうことだ!」


 俺が声を荒げたが、妻は何も返そうとはしなかった。静寂が疎ましくて、俺は益々苛立った。


「どうなってる!」


 俺はもう一度怒鳴ると、テーブルを離れた。どうにかしなければならない。こんな状況にはとてもじゃないが耐えられない。


 すぐ横にあった椅子を思い切り蹴り飛ばし、俺はまたしても悪態をついた。向こうずねがずきずきと痛む。いや、今のは俺のせいじゃない。こんなところにある椅子が悪いんだ。


 しばらくの間屈んで痛むすねをさすりながら、そうやって自分を無理やり納得させると、俺はまた立ち上がってクローゼットへと向かった。

 頭の中はほとんどパニック状態である。そんな俺の状況を察して、妻が、


「ねえ、そんなに動き回らないで、少し落ち着いてよ」


 と声を掛けてきた。


 だがその声は俺の耳にはほとんど入っていなかった。この事態を打開する方法を思いついたのだ。

 そうだ、電話だ。スマホを、早く――。


 しかしポケットを探ってもそこにはスマートフォンは見当たらない。ああ、そうだ、折角のディナーに邪魔が入らないようにと寝室に置いてきたのだ。

 俺は自分の不運を呪った。どうしてこんなときに、という後悔が胸の中を去来する。だがともかくなんとかしなくては。


「ねえ、聞いてる?とにかく――きゃっ」


 妻が床に倒れ、小さな悲鳴が響く。

 ああ、なんということだ。俺はついに妻を突き飛ばしてしまったのか。自分で自分のしたことが信じられない。妻は床に尻もちをついたまま、


「だから言ったのに、もう」


 と不貞腐れるように言った。

 俺はその言葉を聞きながらもクローゼットに向かう。確かあそこにある筈だ。あと少し、あと少しで――。

 



 その時だった。


 起こったときと同じように、この事態は唐突に終焉を迎えた。


「あ、ほら点いた。ね、やっぱり一時的な停電だったのよ。だから動かないで待ってればって言ったのに。まあ、あなたが暗闇が苦手なのは知ってたけどさ……」


 妻はぶつかって転んだときに打ったのだろう腰をさすりながら立ち上がると、呆れた様子で俺に向かって言った。

 俺はといえば、暗闇の中でようやくたどり着いたクローゼットから取り出したばかりの懐中電灯を手に、呆然と立ち尽くしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ブラインドタッチ・ダイニング 麻根重次 @Habard

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ