ここは、春の国。

まふ

第1話 かげ





 帝都某所。

 都会の喧騒から少し離れた場所にある、煉瓦造りの洋館。明治に建てられ、改築をしながら時間を重ねてきた建物は、威厳を感じさせる佇まいだ。その広い館内の一室、当主の執務室の中で、とある親子が対面していた。







「弱者は淘汰される。」


 声を発したのは、壮年の男だった。白いものが混じり始めた髪を後ろに撫で付け、鋭い眼光を目の前に立つ人物に向けている。


「力こそが全て。」


 男は、徐に椅子から立ち上がると、少年の……彼の息子の前に立ち、見下ろす。その視線は、およそ血の繋がった息子に向けるとは思えないほど、温度がなかった。


「勝つことが出来ない者は、この家に必要ではない。」


 その様子を少年は、静かに、見つめていた。


「わかっているな、    。」


 決して大きな声ではないのに、身のうちに、深く深く響き渡るような、力のある声だった。


 



「はい、父様。」



 少年はつとめて平静に、そう応えた。苛烈な眼差しと、感情を読み取れない、静かな……いっそ、静かすぎるほどの眼差しが交差する。数秒の後、視線を逸らした男は、少年に背を向けて離れた。



「……下がれ。」

「失礼します。」



 少年は一礼すると、踵を返し、ドアノブを掴んだ。部屋から出る瞬間、こっそりと父親を盗み見る。秘書を呼び、「仕事」の話を始めた父は、少年への興味を失ったようだ。いや……もともと興味など……。



「……。」



 ガチャン、

 静かに閉めようと思っても、年代物の扉ではそうもいかない。誰もいない、人の気配もしない長い廊下に響き渡ったその音を聞くと、まるで締め出されたようだ、と少年は思った。


 ふと見上げた大きな窓からは、燦々と春の陽気が降り注ぐ。桜の蕾が膨らんで、そろそろ花がほころびそうだ。


 けど、


 美しい光景のはずなのに。胸が締め付けられるような虚しさを感じるのは何故だろうか。気がついたら、いつもいつも苦しくて、毎日、息をすることに全力を注いでいるような気がする。そんな風になったのは、いつからだっただろう。



(ああ……けれど、こんな感傷、父様が一番嫌うものだな。)



 ――選んだのは自分だ。父の息子であることを。父の息子の     になることを。そうだ、俺は、     になりたいのだ。そのための努力を惜しんではならない。



 全てに勝ち続けて、自らの価値を証明し続けなければ、父の息子ではいられない。






■■■






「そこまで。」




 ぴた、と相手の眼前で木刀を止めた瞬間。声が掛かった。途端に沸き起こる歓声。麗かな陽気の中、園庭で行われていたのは、春の観賞会のメインとも言える、剣術の御前試合だ。勝ち上がり制での最終試合。思ったより、時間が掛かった。



「……あり、がとう、ございました!」

「ありがとうございました。」



 試合の相手は分家の歳下の少年だった。「神童」と名高い彼の名は、ほまれという。目線を上げると、きらきらと輝いた瞳が少年を見返していた。



「あ、の!……若様、本当に、ありがとうございました!僕、もっともっと、精進いたします!」

「……こちらこそ。」



 微笑みにながらそう伝えると、誉は嬉しそうに仲間の元へ帰っていった。向かった先では、おそらく両親であろう男女が、彼を暖かく迎えていた。その様子をちらりと視界のふちに入れ、場に一礼をしてから踵を返す。



「お疲れ様でした、若様。」

「ああ。」



 側仕えの男から差し出されたタオルを受け取り、汗を拭う。



「本日はこの後、会食の予定となっております。」

「分かっている。それまで時間はあるだろう?」

「二時間ほどですが。」

「道場に行く。時間になったら会場に向かう。」

「承知しました。」   



 男と離れた瞬間、待ち構えていた親族たちに囲まれる。



「若様、流石でございます。あの神童と名高い分家の子息を打ち果たすとは。」

「これで最近調子に乗っていたかの家も部を弁えるでしょう。」

「いやはや、流石は宗家のご嫡男。宗家は益々の発展を見せますな、ははは。」

「ありがとうございます。皆様のご指導の賜物です。」



 にこり、と微笑みを顔にのせる。分家の当主たちはその様子にたいそう機嫌を良くしたようだった。その後に続けられた会話の内容は、年頃の娘がいる家は、娘の器量の良さを。息子のいる家は、その有能さを。親の口から自分の子どもの「褒め言葉」が飛び出す様子を見て、少年は居心地の悪さを感じた。下心があるのは十分、分かるのだが、それでも「親が自らの子を褒める」という行為に慣れなく、胸の内がいやにざわつく。



「素晴らしいご子息とご息女ですね。皆さまの未来も明るいものとなるでしょう。それでは続きは会食で。この後、準備がありますので。」

「おお、ご多忙の身を拘束してしまい、申し訳ない。」

「若様、後の会を楽しみにしております。」

「はい、それでは失礼します。」   



 小さく頭を下げ、また誰かに捕まる前にと足早に会場を抜け出した。館の裏にある道場へと続く道を黙々と歩き、目的地に着くやいなや、何かを振り払うように素振りを始めた。



(流石は「神童」と呼ばれるだけある。)



 ――先程の試合、分家の当主たちが言うほど、実力に差があるわけではなかった。



(才能がある人間が好きで努力するものほど、恐ろしいことはないな。)



 ――きらきらとした瞳や、紅潮させた頬。誉は少年よりと思っていた。それが勝敗を分けた大きな原因だと、少年は自覚していた。



(彼に勝てる、と思われたら……少し、厳しいか。)



 木刀を振り下ろした衝撃で、腕や首筋から汗が飛び散り、それが陽の光を浴びて輝く。



(…………それでも、俺が勝つ。)



「常に勝者であれ」という家訓。

 今までずっとそうしてきた。そして今後も譲る気はない。そうあるためには、何も惜しまない。そのための覚悟は、とうに決めている。



 久我    。

 この帝都で、一番のの一族として知られる、久我家。次期当主となる者に代々繋がれてきた名であり、今はであるその名前。


 久我の歴史は古く、辿ればこの国最古の歴史書にも名を連ねる。異能の力を持ち、太古よりこの国に災いをなす、「影」と呼ばれる怪異を祓ってきた。


 「影」はその名の通り、全身がかげのように光沢のない黒い化け物だ。大きな胴体に、足が四つ付いている。闇に蠢き、蜘蛛のように動き回る。大きさは小さなものだと赤子ほど。大きなものだと車ほどの大きさになる。


 この国の、いや、この世界は常に、「影」と闘ってきた。「影」は神出鬼没であり、見鬼の才が無いものには見えない。「影」が暴れ回り、周りに被害が出て初めて「そこに何かがいる」と分かるのだ。


 そして、「影」は人を好み、喰らう。大きなものはともかく、小さなものも、口を大きく開けて捕食すると、そのまま沈むように地面に消えていく。とは言っても地に埋まるわけではなく、沈んでいるときに地面が黒く波打っている様子から、どこか異空間に繋がっているのではないか、というのがの見解だ。


 全世界で起きる「行方不明」「神隠し」の原因の多くは「影」による被害であると言われ、この国では特に昨今、被害が多い。いや、逆に言えば今までは被害が少なかったのだ。特に帝都の周辺は皆無とも言ってよく、何故この国のこの地域だけ被害がないのか、世界的に注目されていたほどである。


 久我家は代々、時の権力者の守護者として、遷都が行われるたびに付き従ってきた歴史を持つ。江戸に幕府が開かれた時も京の都を後にし、現在も館を構えるこの地に一族で移ってきた。


 多くの「影狩り」を輩出し、国の守護を司ってきた久我家。この国の「影狩り」を生業とする者の中で、「久我」と関わりの無い家はない。家系図を辿れば、必ずどこかで繋がるのだ。


 国の中枢と密接に関わり、数多の分家を従える久我宗家の当主ともなれば、国内や世界情勢にも精通し、政界や経済界の重鎮とも渡り合っていかなくてはならない。しかし職業柄血気盛んであり、強者に従う性質の「影狩り」たちをまとめるためには、やはり「実力」も兼ね備えている必要がある。


 十五歳の少年に求められることはとても大きかったが、彼はその全てに完璧に応えてきた。剣術では幼い頃より才能を開花させ、それに奢ることなく、文字通り血反吐を吐くような修練を重ねた。学業でも、帝都有数の進学校で常に首席を保ち続けている。そして、家業に置いては、すでに実践の場に何度も立ち、討伐数は同世代の中で群を抜いていた。



 まさに、完全無欠。非の打ち所がない久我宗家の後継者として、期待を一身に背負った存在だった。



 ――――しかし。



(……まだ、足りない。父様のようになるためには、まだ……。)



 空間を割くように、手に持った木刀を振り下ろす。まるで、自らの迷いを断ち切ろうとするかのように。



「…………。」



 目を瞑り、先程の試合の光景を脳裏に映し出す。


 久我ほまれは、少年より二つ歳下の十三歳だ。分家の中でも「穏健派」と呼ばれる、つまり、主流ではない方の家に生まれた神童。剣術の腕前は勿論のこと、異能の才にも非常に恵まれ、特に身体強化の術に優れていると言う。


 真っ直ぐで曇りのない瞳を向けてきた、まだ幼さが残る顔の少年。しなやかな筋肉のついた手足は、この先の成長で太く逞しいものになるだろう。彼の剣は、鋭く、容赦のないものであったが、それでもどこか、本人すら気づかないところで、があった。自分しょうねんに対するものなのか、久我宗家に対するものなのかは分からない。しかし、彼がその甘さを捨てたとき、その時は……。



(……父様、)


「俺は、父様のように…………」




 広い道場の中に、少年の声が寂しく響く。それがなんとも子供っぽく、誰かの憐れみを誘うように聞こえ、少年は唇を噛み締めた。




 ――甘さを捨てるべきは、久我誉だけではない。






■■■




「若様!任務でご一緒できるなんて、本当に光栄です!本日はよろしくお願いします!」



 誉との再会は意外と早かった。二週間ぶりに会ったのは、帝都各地にある「影狩り」のための詰所だ。神出鬼没の敵に対応するため、影狩りたちは三交代制で勤務している。一族の少年少女たちも小学校卒業後は、「見習い」として大人たちに混じって勤務していた。誉はこの四月から中学に上がった。つまり、今日が初陣だ。


 誉は、全体的に色素が薄い。薄い茶色の瞳をきらきらと輝かせ、勢いよく頭を下げた誉を見て、少年はつい、笑ってしまった。



「?若様?」



 きょとん、とした顔で見上げてくる誉は年相応のあどけない顔をしていた。「弟がいたらこんな感じだろうか」と想像してみる。



(……いや、もしそうだったら、お互い憎み合っていただろうな。)



「ふふ、何でもないよ。今日は宜しく。頼りにしてる。」

「……!はい!」



 影狩りは基本、二人一組ツーマンセルで行動する。今夜の哨戒任務の組み分けは、誉とであった。



「わ、若様とですか……?!」



 伝えられたとき誉は純粋に喜んでいた。しかし少年は無表情の下で考えを巡らす。



(……俺が宗家嫡男で、誉が「神童」だなんて呼ばれていても、所詮は見習い。この組み合わせには何の意図があるんだ?)



 組み分けを発表した男をじ、と見つめると居心地が悪そうに視線を背けられた。並大抵のことでは動じないこの男がこうも動揺するならば、この組み合わせを男に伝えたのは……。



(……父様、か。)



 す、と胸の内が冷え切っていくのを感じる。



(父様の意図は何だ?いくら誉といえど、初陣相手に俺が遅れをとると?)



 自分に対してのなのだろうか。



(そんなことをせずとも、家訓を忘れたことはない。もし、俺が誰かに負けることがあれば、その時は……。)



 少年は静かに息をついた。



(やめよう、任務の前だ。今は目の前のことに集中するべきだ。)



「誉。もし影と遭遇しても、深追いはしないように。」

「……!でも!」

「お前は今日初陣だろう。」

「…………けど、僕は現役の影狩りにも試合で勝ちました。影ごときに遅れはとりません!」

「駄目だ。これは仕事だ。従えないなら詰所に残れ。」



 意図して冷たい眼差しを向けると、誉は押し黙った。



「……わかり、ました……。」



 いかにも不満です、と言いたげな表情で見上げてくる誉を見て、少年は内心驚いていた。



(認識が甘すぎないか……?誰だ、初陣を許可したのは。)



 哨戒中に「影」と遭遇する確率は高くない。しかし高くはないだけだ。遭遇してしまえば、途端に命のやり取りをする場に変化する。しかし誉の言動から察するに、物見遊山というか腕試し感覚というか……ともかく、嫌な予感がした。



(何事もなく終われば良いが……。)



 懸念など全く感じさせない足取りで少年は詰所の門をぐぐり、外に出る。時刻は夜十時をまわっていた。本日割り当てられた地区は、夜間操業はしていない工場地帯だ。人を喰らうために現れる「影」は、当たり前だが人が多い場所に出現する。そのため、詰所からは遠いが、比較的安全な地区とも言えた。



「――――」



 『夜目』のまじないを唱え、一度目を閉じる。再び開いた視界は真昼のように鮮明に見えていた。



「行こう。」

「はい!」



 同じようにまじないを唱えた誉は、浮き足立っているようだ。



(……大丈夫だ、何かあればフォローすれば良い。)



 少年が現場に出始めて二年が経つ。それなりに修羅場も潜ってきた。だから誉が、初陣らしい無謀な行動に出ても、意識を向けていれば大丈夫だと、そう判断した。



 しかし、その判断は……予想外の方向で覆されることとなる。





■■■


 



「へへへ、だから言ったでしょう?若様、心配しすぎなんですよ。」



 事切れた「影」の身体に日本刀を突き刺しながら、誉が言う。それを無表情で見やりながら、近づく。



(驚いたな、ここまでとは。)






 哨戒を始めて一時間ほど経った時、「影」が出現するときの、独特な空間の歪みを感じた。場所を特定するために逆探知を行おうとした瞬間、誉が駆け出したのだ。



「誉!」

「若様ー!こっちですよー!」



 無邪気な声を出して、誉が抜刀する。



(もう場所が分かったというのか??)



 驚きつつ誉を追う。とてつもない足の速さだった。おそらく、霊力で身体強化をしているのだろう。少年も同じように術をかけるが、距離を縮められないばかりか、徐々に引き離されていく。



(………なるほど、「術師としても一級」か。)



 そうして追いついたときには、誉はすでに「影」を討伐していた。猪ほどの大きさの個体だ。誉は刀を刺して地面に縫い止めた影を、片足でげしげしと蹴っていた。



「誉、やめろ。」

「ええ?なんでです?」



 意味が分からない、という顔を向けられる。本意を説明しても理解しては貰えないだろうから、少年は別の理由をつけた。



「じき、身体が崩れる。近くにいるとがつくぞ。」

「ええ?……わっ、なんだこれ!?」



 誉が片足で踏んでいた身体が、ぼろぼろと砂のように崩れていく。細かくなったところから空間に溶けていき、じきに何もなくなった。残ったのは、地面についた黒い染みだけ。



「わ!靴裏に黒いものが!」

「だから言ったろう。影の身体が崩れるときに近くにいると、スミがつくんだ。教わらなかったのか?」

「へへ……あんまりそーゆーの、興味がなくて。」



 興味がない、で済ませていい問題ではないが……。それでここまで来てしまったということは、誉は案外、が上手いのかもしれない。



「若様!」

「なんだ?」



 戦闘後の興奮が尾を引いているのか、誉は頬を蒸気させたまま、ずい、と顔を寄せてきた。



「ね!どうでした?僕、強かったでしょう?」

「お前は何か勘違いしていないか?」



 きょとんとした顔の誉に、少年は心なしか頭が痛くなる。



「任務はツーマンセルで行うものだ。単独行動は認められていない。結果的に何事もなかったから良かったものの、「影」が格上だったらどうするつもりだったんだ。突っ込んでいって犬死か?それに民間人や仲間も巻き込むつもりか?全然覚悟が足りていない。訓練所からやり直せ。」 



 少年の突き放した物言いは、誉の自尊心を大いに傷つけた。

 

 ――宗家の「若様」は、一族の少年たちにとって特別な存在だった。剣術や異能の才にも恵まれ、学業も優秀。その上人格は、外柔内剛で温厚篤実。凛とした清涼な雰囲気は、他者を惹きつける魅力があった。血の気の多い一族の青年たちでさえ、「若様」には一目置いていた。


 「神童」と呼ばれていようが、誉も13歳の少年だ。「憧れの人」に冷たくあしらわれ、悔しさや情けなさや、恥ずかしさで胸がぐちゃぐちゃになる。自分の心を守るため、相手に攻撃をしてしまったのも、致し方ないことではあった。

  


「でも!影の気配は強いものではありませんでした!……まさか若様、分からなかったんですか?」

「なに?」


 

 一度言い出してしまえば、止められなくなってしまう。



「それに、ツーマンセルじゃなくちゃいけないなら、僕に追いつけば良かったじゃないですか!」

「誉、そういうことを言っているのではない。」

「何がですか??若様、そんなに言うなら、僕ともう一度勝負をしてください。」

「………。」

「何ですか?僕に負けるのが怖いんですか!?」



 誉は、戦闘後で気が立っていたこともあり、その場で思いついたことを並べ立てただけだった。だから、思いの外、相手に痛みを与えていることに気づかない。どんなに泰然とした雰囲気を持ち合わせているといっても所詮、「若様」も15歳の少年に過ぎないのだ。……ただの15歳の少年として生きることが許されていないだけで。




「言いたいことは、それだけか?」

「……っ……。」



 絶対零度の瞳で睥睨され、誉は勝手に後退りしようとする足をその場に縫い付けるので精一杯だった。



「お前の言いたいことは分かった。いつでも挑んでくるといいよ。逃げも隠れもしない。けど、」



 と、言葉を続けようとしたその時、誉の後ろの空間に歪みが生じたのを少年は見逃さなかった。誉の襟元を掴んで後方にぶん投げる。



「うわあ!な、なにす…………!?」



 怒りに顔を赤く染めた誉が振り返った先には、「影」の大きな鉤爪を、間一髪で抜刀した少年が防いでいるところだった。


 ぞわり、


 遅れて誉に走った悪寒は、死の恐怖だ。どうして気づかずにいられたのか分からない。圧倒的な威圧感。大きさは車どころか、重機並みだ。そして、赤黒く底光りする瞳。口と思われるところからは、ぼたぼたと何か黒い液体のようなものが忙しなく落ちてくる。手足が異様に大きく、先端は鋭く尖り、全身はじゅうじゅうと煮えたぎるような、靄のようなものに包まれている。



「誉!立て!」

「……っ」



 少年が怒声を浴びせる。



「応援を呼べ!今すぐ!」

「は、はい!!」



 物陰に転がり込み、震える手で端末を手に取る。連絡を入れる間が、いやに長い。どうにかこうにか、場所と状況を伝えて通話を切って様子を伺うと、少年は「影」と対等に渡り合っていた。



(す、すごい…………。)



 少年は、刀で巨体から繰り出される攻撃を後方にいなしつつ、隙があれば斬撃を繰り出していた。すでに足が一本、吹き飛ばされている。



(僕は、ただ逃げるだけだったのに……。)



 あれだけ大きいことを口にして、このざまとは。強く食いしばった唇から血が滲む。



(……くそ!くそ!!)



 誉は、睨みつけるように「影」と少年の戦いを見つめた。






 しかし少年の方も、そう余裕があるわけではなかった。



(……一撃が重い。受け間違ったら刀が折れるな。)



 いなしているだけでも、腕にびりびりとした痛みが走る。


  

(応援は……しばらくかかるだろうな。誉だけでも逃すべきか……。)



 負けるつもりは毛頭ないが、死の恐怖に支配された誉は使い物にならなそうだ。いても足手まといなら、逃げてもらう方がいい。万が一ということもある。



「誉!」

「は、はい!」



 がつん!と鈍い音を立てて地面が割れる。突き下ろした腕が刺さったのだ。抜けずにもがく影から視線をそらさずに、息を立て直す。



「この場を離れろ。応援と合流して状況を伝えてくれ。」



 一息にそう告げると、少年は影めがけて走り出した。この時、彼は判断を誤ったのだ。いや、逃す、という判断のほうではなく、扱いしたことである。もう少し少年に余裕があれば、せめて誉の顔を一瞥していれば、また違う未来があったのかも知れないが……所詮、後の祭りだ。



(さて……どう切り抜ける?)



 「影」の爛々と輝いた瞳は、少年を標的に定めたようだ。「影」は霊力ちからの強いものを好む。「強力な影」にとって影狩りは餌同然らしい。



(倒すまではいかずとも、耐えるだけならなんとかなる、か。)



 幸いにも、民間人は誰もいない。自分の身だけ気にしていれば良いのだから、感謝するべきだ。カチリ、と刀を青眼に構える。――その時、「影」がにんまりと嗤った。



(っ!)



 ブクブクと身体の表面が泡立ち、足が増え、丸みを帯びていた身体が、甲殻類のような角張ったものへと変化していく。



(形態変化だと!?そんなもの、未だ確認されていないはず……!)



 同時に考えたのは、見た者は全員「連れ去られた」か「死んだ」のどちらかだ。

 


 ビュ、と飛んできた物を咄嗟に刀で後方に去なす。「影」の腕だった。一瞬で距離を詰めてきたのだ。



(くそっ、)



 身体強化の呪歌しゅかを唱えるが、焼石に水だ。ほぼほぼ勘で攻撃を去なす。攻撃が単調であったのと、ここまでの経験、それから弛まぬ努力を積み上げてきた結果だった。しかし、いつまでも耐え切れるものではない。



(…業腹ではあるが、一度体制を立て直そう。)



 撤退出来るかは、分からない。しかし、出来なければになるしかない。脚に力を込めて後ろへ跳躍する。予想に反して「影」は追ってこない。赤い眼を半月型に歪め、口からはじゅうじゅうと泡だった黒い液体を溢している。



(……馬鹿にされてるな。良かった。)



 少年は道具入れの中から、紫色の丸薬を取り出す。無造作に五つほど投げると、手印を組み爆破させた。目眩しだ。その隙に身代わり人形――事前に自分の霊力を記憶させていたものだ――を起動させる。手のひら大のものだが、「影」は眼が見えているわけでない。霊力を追っているため、ある程度は時間を稼げる。起動させた身代わり人形を残し、離脱しようとした、その時。少年の脇をものすごい勢いで通り抜ける何かが……いや、がいた。



「誉!!!」

「若様!逃げるなんて臆病者ですよ!」



 口では悪態を吐きながらも、誉は内心、感動していた。



(すごい!やっぱり若様はすごい人だ!)



 形態変化する「影」など見たことがない。未知の存在にも冷静に対処し、に渡り合う姿を見て、誉は感化されていた。正常な状態なら、現状をもう少し正確に測れていたのだろうが、気が大きくなり過ぎてきたのだ。血の気が多い「影狩り」の性ともいえる。一族全体の悪癖だ。



(僕のことを足手まとい扱いしたこと、後悔させてやる!)



 「若様」が放った爆薬は、自身の霊力を込めて作る独自の呪具だ。今まで見たことがないほど威力が高かった。「影」も無事ではいないだろう、と誉は思った。



(若様は、少しばかり心配性だ。)



 こんな勝機を逃すなんて――と微笑んだ口元は、白い煙の中から現れた鈍く、赤黒く光る鋭く尖った刃が……いや、「影」の腕が胸元まで伸びてきているのを見て、凍りついた。



「え……」



 その瞬間、時が止まる。



(え?あ……は?え、これは何だ?回避を……いや、無理だ。間に合わない。心臓の上だ、突き刺されたら、即死―――)



 誉は、胸元に数センチと迫った「影」の腕をまじまじと見やる。実際には刹那の間の出来事だ。死を予感した誉の優秀な脳が、どうにかそれを回避しようと高速で回転していることによる、一種の走馬灯。



(嫌だ!嫌だ!!死にたくない!!死にたくない!!!)



 けれど、どうやっても迫り来るを回避する未来が視えない。そう思った瞬間、止まっていた刃がじわじわと動き出す。



(嫌だあああ!!!あ、あああああああ!!!)



 そうして、ゆっくりと、ゆっくりと刃が胸に到達し、ぷつん、と肌が切れる感触がした。痛みは、ない。誉は発狂しそうな心地だった。やるなら一思いに、と思うのに、世界はスローモーションになったままだ。



(あ、ああ、あ、だ、だれか、た、たすけ……)



 どん、と鈍い衝撃が身を貫いて、誉の意識は暗転した。








「……ぐぅ!!」



 身体が勢いよく吹き飛ばされた。全身に痛みが走り、誉は目を白黒させた。一緒、意識が飛んだようだ。しかし、生きている。五体満足で、胸に風穴も空いていない。一体どういうことだろうか……と顔を上げた時、上からぼたぼたと落ちてきたものを見て、誉は、固まる。



(え、え、血…………?)



 自身のものではないし、「影」は血など流さない。誉の脳は既に答えを出していたが、他でもない心が否定する。信じたくはない。けれど。



「わ、若様!!!!!」



 悲鳴を向けた先にいるのは、腹部を串刺しにされた少年の姿だった。



「…ぅ、」



 がらん、と音を立てて刀が地面に転がる。手に力が入らなかった。刺された部分も、痛いというより、熱い。熱いのに……他の部分はどんどん冷たくなっていって、凍えそうなほど寒かった。



「ほ、まれ……おれが、庇ったとは言うなよ。」

「……え」



 血の気の引いた顔で後ろを振り返る少年の瞳はうつろで、失血のためかろくにみえていないようだった。



「おれが、判断を誤り、格上の相手に挑んでいったのだと、そう言え……。」

「な、なんで、なんでそんなこと……。」 



 誉は理解出来なかった。ただただ、流れ落ちていく生命と少年の顔を交互に見やるばかり。しかし、ついに理解してしまった。少年は、自分の死後の話をしているのだ。自分が死んだ後に、誉が苦しい立場にならないように。死の淵に立たされていても、自分のことではなく、のことを考えているのだ。



「あ、あ、あ、わ、わかさま、ご、ごめんなさ、ごめんなさい、あああ、ああ……ああああ」

 


 誉の絶叫を背中で聞きながら、少年は誉が「影」に向かって走っていったときのことを思い出していた。










 ――誉が何事かを叫んだ瞬間、「影」がまた嗤った。確かに、嗤った。「影」にそのような感情があったとは。今日は本当に、驚くことばかりだ。頭の片隅で誰かがそう呟く。「影」が形態変化することもそうだ。一族の誰も、父様も知らなかったのだろうか。それに、誉と組まされたこともそうだ。父様は、誉と自分を組ませて、どうしたかったのだろうか。



(……何で今、こんなことを考えているんだ……。)



 そうは思いつつ、少年の足は全力で前に進んでいた。「影」が腕を振り翳した。誉は気づかない。



(父様は、俺と誉をしようとしたのか?)



 今も居間の暖炉の上に置かれた写真立ての中からは、父と母に挟まれ、幸せそうに笑う幼い、久我    が、こちらを見返している。少年の父ではあるけれど、少年の「おかあさん」ではない。写真に写るのは、一つ前の、久我    だ。久我   は一度、交換されている。けれどおそらく、それは昔から繰り返されてきたことなのだ。もしかしたら、「父様」もそうだったのかもしれない。



(違うな。誉は、確かに「神童」ではあるが、それだけだ。)



 まだ、深い苦しみも痛みも、憎悪も知らない。いたいけな、うつくしい子ども。それでは久我    は務まらない。では、何故。そう思ったとき、父の低い声が脳内で再生される。

 ――全てに勝つことが出来なければ、久我    ではいられない――

 そうだ、その通りだ。だから、俺に負けたから、は………。

 ――「あの子」に勝つということ、お前にその覚悟はあるか?――

 ある。あるさ、そうでなければ、俺のが、あんな風に死んだ意味がない。今更、綺麗なふりなんて……………………………………………………………………………………………………………………………………    ……ああ…………そういうことか。




 答え、にたどり着いた時。既に少年の身体は貫かれていた。







 ずりずりずりずり、

 串刺しにされた状態で、「影」に引きずられる。一瞬、意識が遠のきかけて……しかし、痛みに強い身体はすぐに正気を取り戻した。けれど身体はびくびくと痙攣するばかりで、自由に動いてくれなどしない。



「――ま!――あ!――てく――れ!!」



 誉が、何かを叫んでいる。けれど、何を言っているのかがわからない。聞こえているのに、聞こえない。しばらく引きずられてると、「影」が唐突に止まる。そうして、が開く気配がした。「影」は一度につき、一人しか連れ去ることが出来ないのだ。どうやらこんな死にかけの身体でも、誉の盾とはなれるようだった。気が抜けて口元が緩む。そろそろ、何も考えられなくなりそうだ。



 ずぶずぶ、と何かに沈んでいくような感触がする。誉が何か叫んでいる。赤黒い瞳が嗤っている。母がこちらを睨んでいる。あの子が、涙を浮かべてこちらを見ている。「おかあさん」が胸から血を流して倒れている。父様が冷たい瞳で見下ろしている。



 どぼん

 


 目は開いているはずなのに。真っ暗だ。何も視えない、聞こえない。世界に一人きりになってしまったみたいだ。ああ、でも、それはずっと同じか。誰とも繋がれないのなら、それは一人きりと同じこと。父様が、父様だけが、俺のことを見ていてくれたのに、期待、してくれていたのに。でも、それも、もう終わりだ。父様の思う通り動けなかった。俺は父様に、試されていたのだろう。自分の立場を脅かしてくる人間を、きちんと消すことが出来るか、試されていたのだ。



 けれど、俺は出来なかった。何度同じ場面になっても、何度だって誉の前に飛び込むだろう。でもそれは「正しくない」。父様が求める「正しさ」ではない。父様の期待に沿うことが出来ない。それではもう、生きている価値がない。



 いたい。

 胸が、ひどく、苦しい。

 必要とされないことが、どうしてこんなに、虚しく、つらいことなのだろうか。



(……父様……僕は……あなたの、息子に…………)



 惨めだろうと、最後には父様に笑って欲しかった。良くやった、と頭を撫でて、褒めてほしかった。そんなことは、一度もなかったのだけど。



 真っ暗な空間に、手を伸ばす。薄ぼんやりと、真っ白な腕が浮き上がるように見える。じき、それも視えなくなるのだろうか。伸ばされた手は、誰にも届かない。




 はずだった。







 ぐい、と掴まれた手首。

 え、と思った時には、周りの景色がぐるぐると移り変わっていく。原色で彩られたキャンバスの中のように忙しない光景。それに気を取られているうちに、いつの間に、誰かに抱きしめられていた。



「だ、……」



 誰だ?と問いかけられなかったのは、肩を濡らす温かな感触に気を取られたからだった。少年の肩に顔を埋めて、抱き込むように抱えられている。まるで、逃がさないとでもいうかのように。高い位置で結い上げた、豊かな白銀の髪が、小さな嗚咽に合わせて微かに揺れていた。


 いつの間にか、辺りは一面の雪景色だった。果てのない銀世界。不思議と冷たさは感じない。縋り付くように泣いている、この人の体温だけが感じ取れる全てだった。何と声をかけようか迷っているうちに、しんしんと降り続く雪が、二人の身体の上に積もっていく。



(人……ではないのか?)



 荒唐無稽な話に聞こえるだろうか。それでも、「人」ではないと思ったのだ。では何かと問われると、答えようがないのだが……。「影」のようなモノもいるのだ。この世界に、まだ知らないことがあったとしても、驚くことではない、と少年は思う。彼か、彼女か、それともどちらでのないのか分からないが、少年を抱きしめる人物は、どこもかしこも真っ白だった。どこまでが雪で、どこまでが身体なのか分からないくらい。存在が空間に溶け込んでいた。上背が高く、少年より頭一つ分以上ありそうだ。大きな身体を小さく丸めて縋り付いている。見知らぬ、人ならざるものに抱きつかれているなんて、恐怖を感じてもいいはずなのに、どうも危機感が生じない。ついにおかしくなってしまったのかもしれなかった。



「大丈夫か?」



 そ、と折り畳まれた腕を動かし、背に回す。広いのに薄い身体だった。病的なものを感じさせるほど。その背中を優しく、優しく撫でていく。人を慰めたことも、慰められたこともなかったから、全ては想像なのだけれど、こうすると安心するのではなかっただろうか。



「…………はあーーーーーー。」



 随分と大きなため息をつかれ、驚いて、びく、と震えてしまう。すると、ぎゅう、と身体を抱き締める両腕に力が込められ、少し苦しい。いや、さっきまで少し苦しいどころの騒ぎではなかったはずだが、身体に風穴は空いていなかった。そもそも、痛いところも苦しいところも無くなっていた。これはとうとう死んだのかもしれない。そうなれば、ここは、死後の世界なのだろうか?随分優しい死神もいたもんだ。生きている中で、初めて抱きしめられたかもしれない。ああ、もう死んだか。とかなんとかつらつら考えていると、腕の力がどんどん強まっていく。嫌な予感がした。



「俺の心が読めるのか?」

「……。」

「……。」



 沈黙は肯定とみなそう。後ろめたいことがあるからだまるのだ。はあ、いつから、読んでいたのだろうか。まあ、でもどうでもいいか……別に読まれて困るものでもないし。



「ねえ、落ち着いたら離れて欲しいのだけど。」

「嫌です。別に嫌じゃないのでしょう?ならしばらく抱き枕になってて下さい。」



 思ったよりキッパリとした否定が返ってきて面食らう。声は高くもなく低くもなく……やっぱり性別が分からない。というか、まだ顔も見ていない。誰なんだ、お前は。



「私は……まだ、どちらでもないですよ。」

「まだ???」



 答えが返ってきたと思えば、余計に混乱に落とされる。ああ、考えるのはよそう。とりあえず、だと思っておけばいいのだ。と、自分を納得させる。しかし、なんとも釈然としない心持ちでいると、くすり、と軽やかに笑う声が肩口から聞こえてくる。少し、腹が立った。



「……ほら、もう、いいだろう?」



 ぐい、と薄い身体を引き離した先、顔を見た瞬間、少年は、見たことを後悔した。美しい顔立ちの若者だった。その顔をくしゃくしゃに歪めて泣きながら、微笑っている。涙や鼻水やら涎やらでひどい有様だ。けれど、そんなことよりも、その目だ。美しい黒曜石のような瞳の奥に、じりじりと灼かれるような熱をはらんでいる。どういう感情なのか、少年には分からない。その双眸が、少年を捉えて離さない。目を逸らすことも、出来ない。



「ふふ、酷い人。数百年ぶりの再会だと言うのに。」

「……は?」



 誰だ、危機感がうんぬん言った奴は、と少年は後悔をし始めていた。



「……お前のことなど知らない。人違いだ。」

「私が、貴方の魂を間違えるはず、ないでしょう?」



 す、と人差し指で心臓の辺りを撫でられる。ぞくぞくと背中に怖気が走る。



「ひどい……ふふ、でも、貴方はそういう人でしたね。あ、はは、そうだった……あははは。」



 綺麗な顔を子供のように破顔させて無邪気に笑う様子は可愛らしいとも言えるのだが…………どこか、歪だ。



「ねえ、もう、どこにもいかないで下さいね?私、一生懸命探したんですよ。ずっとずっとずっとずっと、貴方のことだけを。」



 両手で頬を挟まれる。その両手は、見た目に反して、やはり温かい。



「ふふ、とうとう、連れてきちゃいました。あは、我慢してたのに。あはは、だって、だって……貴方、また死にかけてるんですもん。それに、全然幸せそうじゃないし。ねえ、どうして、幸せになってくれないんですか?連れてきちゃったじゃないですか。の方が、安全な世界のはずなのに。の世界に、連れてきちゃったじゃないですか…………。」



 もう枯れたと思っていたのに、また美しい瞳からぼたぼたと涙が溢れてくる。



「……だいたい、どうせ、こっちに戻ってくることになるなら、なんで、もっと、早く、助けを求めてくれないんですか。ぎりぎり、ぎりぎりですよ。肉の器と魂が分かたれた瞬間、掠め取ってここまで連れてきたんです。私が、見てなかったら……どうなっていたか…………。」



 話している内容が、突拍子も無さすぎる。まとめるとこうだろうか。俺は前世か何かで、この人と知り合い…(知り合いで収まるのかは分からないが)で、生まれ変わった俺を探していた?話しぶりからは、しばらく様子を観察されていたらしい。一体いつからだろうか。特に何も感じなかったのだが……。でも、そうか。



「俺は、死んだのか。」

「死んでません。私がここに連れてきましたから。」

「ここは……どこなんだ?」

「アワイと呼ばれる。世界の境界ですよ。」



(……死んだのと、大差ないような気がするんだが。)



「だから、死んでませんって。」



 ぎゅ、と掴まれたままの腕に力が入る。痛いようで……何も感じなかった。



「では、俺の身体は?今の俺は、魂みたいなものだろう。」



(自分で言っておいて何だが、ゾッとする話だな。)



 よくよく自分の身体を見てみると、どことなく透けているような気もする。



「……確かに、今の貴方は、魂魄だけの状態です。けど、貴方の身体は無事です。」

「あの状態で助かったのか……?」

「………………はい。」

「そうか。なら、帰してくれないか?」

「嫌です。」

「……。」



 またも抱きつこうとするので、無言で引き離した。



「……ひどい……。」

「助けてもらったことには感謝するが、俺はまだ死ぬわけにはいかないんだ。」

「それはどうして?」



 どうして?

 …………どうして、か。黒い瞳でじ、と見つめられ、少しだけ、動揺した。すぐに答えが思い浮かばなかった。死んではいけない理由…………?しばし考え、なんとか見つけ出した答えを舌に載せる。



「…置いてきた後輩や、家に、迷惑がかかる。」



 そう、だ……あのままだったら、誉に大変な重責がかかる。一応釘をさしてはきたが、罪悪感に駆られて真実を口走らないともかぎらない。誉は多分、そういう甘さを捨てられない人間だ。



「…………。」

「おい!」



 ぎゅう、とまたも抱きしめられる。今度は、わりと本気で苦しい、気がした。



「ぜったい、嫌だ。あんな……あんなぽっと出の奴を憐れむくらいなら、私の方を憐れんで下さいよ!ぜったい、ぜったい、私の方が可哀想だ!!」

「は、はああ??」

 


 ぎりぎりと背中に立てられた爪が食い込む。絶対、跡になってるだろう……と、眉を顰める。



「……でやる。」

「な、なんだ?」

「一緒に来てくれないなら、死んでやる!!!」

「はあ?????」



 え、ちょっと本当に、大分やばい奴に捕まってしまったらしい。誰だ、危機感がどうのこうの言った奴は……きちんと仕事をしてほしい。切実に。



「とりあえず、離れろ!」

「嫌だ!」

「っ……!!!」



 全力で押し返してもびくともしない。ぐいぐいぎゅうぎゅう全身を使って格闘すること数分、いやもっとだろうか。時間の流れがいまいち分からない。二人の周りの雪がどんどんぐちゃぐちゃになっていく。



(……俺、何してるんだ……?)



 ついさっきまで、命のやりとりをしていたというのに。今は子どものように雪の上で戯れあっている。知らない誰かと。ものすごく滑稽で、この上なく馬鹿馬鹿しくはないだろうか。



「……お前は……前世がどうの言っていたが。覚えていなければ、別人と同じだろう。お前の期待には応えられない。」



 取っ組み合っているうちに、いつの間にか仰向けになってしまっていた。見上げる空からは未だに延々と雪が降り続いている。まぶたに落ちた雪が、溶けて水になり、頬をつたう。



「それはそうですよ。」



 ぐ、と上体を持ち上げたその人で、視界が覆われる。



「あの人とあなたは違います。あの人は、もう……帰っては、こない。」

「…………。」

「ふふ、そんなこと、気にしていたんです?」

「訳が分からない。」

「そうですか?よく言われるんですよね、それ。」

「…………。」



 周りにいる者からもそう言われているならば、出会ってちょっとの自分に分かるはずがない。ああ、やけに疲れたな、と少年は全身の力を抜いた。



「なら、どうして、俺に……執着、するんだ。」

「貴方が大切だからですよ。」

「…………。」



 理解が出来なすぎて、だんだんと苛々してくる。誰に向けてか分からない怒りや、泣き出したいような虚しさで吐きそうだった。



(くそ、こんなの……俺らしくない。)



 家では、常に感情を支配下に入れるように訓練されてきたのだ。感情に振り回されるなんて、未熟者だ。未熟な者は、生存競争で生き残ることができない。勝つことが出来ないならば、生きている意味はない。



「……殺してやりたい。」



 呪詛のように低い声が突如聞こえて、つい顔を見てしまった。そして、またもや後悔する。何人か殺してきたような顔だった。



「貴方にそんなことを考えさせる奴、貴方に自分を大切に出来なくさせた奴、貴方を苦しめた奴、みんなまとめて殺してやりたい。」

「…………いや、やめてくれ。」

「どうしてですか?」

「…………。」



(この話、まだ続けなくてはいけないのだろうか。)



「そう思うなら、諦めて私と一緒に、帰りましょう?」



 じい、と真っ黒な瞳で見つめられると、落ち着かない気持ちになる。



「……それ、どうにかならないか。考えていることが勝手に伝わってしまうのは、あまり良い気分ではない。」

「そうです?なら、私の心の中も見てみますか?おあいこでしょう?」



 そういうことでは……と続けようとした瞬間、胸を締め付けるような、強い強い感情が怒涛のように流れ込んでくる。これは…………憎悪だ。真っ黒な憎しみだ。憎しみばかりが押し寄せてくる、これが、この美しい人の心の中だというのだろうか。変なことばかり言うが、印象としては一貫して変わらない。繊細で、儚く、淡雪のようなこの人の。



「……ぐ、…ぅ……。」

「ふふ、可愛い。」



 いや、苦しんでいる相手に向かって言うことか……?!と睨みつけるが、にこり、と微笑まれてしまう。



「あははは、あは……あ、あれ?何で、私、貴方を苦しめているんでしょうか……。」



 そんなつもりじゃ……とまたもめそめそと泣き出した相手を見て、少年は思った。ああ、病気なんだな、と。先程から気分の浮き沈みが大きすぎる。けれど、それを「感情に振り回される未熟者」と判断するには、悲しみが多すぎた。



 ぐすぐすと肩に顔を埋めて泣く人の背を撫でる。困った。ものすごく、困った。なんだかもう、他人には思えなくなってしまった。たくさんの、たくさんの憎しみの奥には、どろどろになった執着心と、一欠片のきらきらと輝く美しい心のかけらがあった。すり減って、ぼろぼろになった心が、『また会えて嬉しい』と泣いていた。少年には、それが「愛」に思えた。そんなものは「愛」ではないと、満たされた人間ならば言えるのかも知れない。けれど少年は、伸ばした手を振り払われる悲しさをよく知っていた。だから……判断を間違えてしまったのだ。




(…………なんて、未熟なんだろう、俺は。)



 こんな風に、目の前のものに、すぐに惑わされてしまう。流れ込んできた、感情の名残が邪魔をしてうまく頭が働かない。だから、自分でもどうしてそんなことを言ってしまったのかよく分からない。けれど、この時の一言で……少年の、運命は変わったのだ。



「いいよ。」



 どちらにせよ、もう、死んだ様なものだった。あんな無様な姿を見られたのだから。父様は容赦のない人だ。俺は次の久我    と入れ替えられる。そうしたら、父様に会うことはもうない。父様だけを支えに生きてきた。父様に見捨てられたら、もう、死んだも同然だ、少年はそう考え、ため息をついた。



「いいんですか?」

「はあ、早くしないと気が変わるよ。」

「……嬉しいです。ありがとうございます。一生、大切にします。」

「……そこまで面倒見なくていいよ。」



 これは、プロポーズか何かをされているのだろうか。だなんて場違いなことを考えて少し、可笑しかった。



「……そっか。……そうですね、確かに。……なるほど……。」



 ぶつぶつと何事かを呟いているが、とりあえず、体勢を何とかして欲しい。



「ねえ、そろそろ退いてくれないか?上から見下ろされているって、あまりいい気分ではないのだけれど。」

「……さっきまで可愛かったのに……。」

「はあ?帰るよ?」

「……。」



 睨みつけると、やっと身体を横に避けた。すばやく上体を起こしてさりげなく距離を取る。

 


「で?お前、名前は?」

「え、」

「流石に名前も知らない奴の世話にはなりたくないんだけど?」

「……何というか、いきなり割り切り過ぎません?ちょっと私、ついていけてないのですけど……。」

「ついてこい。出来ないなら帰らせろ。」

「……ついていきます。」



 またも口の中でぶつぶつと何事かを呟いている相手を、もう一度観察する。身体は痩せて薄いくせに、なんとも底知れない力を秘めているような気がした。力の入れ方も、よく鍛えられた者のそれであり、おそらく刀を使うのだろう。かなりの実力があるように思える。仮に刀を持って対面したとしたら、瞬殺されそうだった。白銀の髪に、真っ白な肌、真っ黒な瞳、赤い唇。一面の銀世界を背に背負っていると、一枚の絵画のように美しい。中身はだいぶ残念そうだが。



「名前、なんだと思います?」



 にこり、と微笑まれながら言われて、込み上げてきたのは苛立ちだった。



「知らないから聞いてるんだが。」

「当ててみて下さいよ。」

「そんなことできるわけないだろう。」



 め、面倒くさい!



「ふふふ、じゃあ、次までに答え合わせしましょう?」

「次?」

「次に会う時、ですよ。」



 そう言って両手を掴まれると、ここにきた時と同じように、周りの景色がぐるぐると周り始める。最初に見た時は、ぐちゃぐちゃになったキャンパスのようだと思ったそれは、よくよく見てみると様々な景色の集合だった。一面黄金色の麦畑、清水が涌井出る祠、焼け野原に逃げ惑う人々、雲海の上の城、何もない部屋、そして、開け放たれた小さな堂の扉の中で横たわる……どんどん場面が切り替わっていき、まともに見ることは出来なかった。 



「そうだ。向こうに行ったら、多分、しばらく会えないと思うのですけど、心配しないで下さい。貴方には、とっても優しい家族がついてますから。」

「……は?」



 にこにこ、とこれ以上ないというほどに極上の笑みを浮かべた美人が言う。一瞬、見惚れそうになって……それどころじゃない一言に眉を顰める。



「家族?」

「はい。だって、貴方はもともとこちらの人なんですから。言ったじゃないですか。『帰る』んですよ。」



 理解力はある方だと思っていたのだが、どうやら違ったらしい。何を言っているのか、だいたい分からない。



「じゃあ、また、会いましょうね。千賀弥ちかやくん。」

「ちょっと待て、それはどういう……」



 しかし、無常にも、意識は暗転した。



 …………話、聞かなすぎじゃないか……?






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ここは、春の国。 まふ @uraramisato

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