真夏の天気雨

小西オサム

真夏の天気雨

 私はかつて足繫く通っていた喫茶店に久方ぶりだがやって来て、窓辺の席に座っている。もうすぐ夜になる。通りを歩く数人を朱色の懐かしい光が照らしている。今日はまだ居よう。そうして最後の一人になったとしても、店員の女の子たちは笑って許してくれるはずだ。


 この店に初めて訪れたのいつだろうか。おそらく五年ほど前のことだ。たしか開店記念の祝いをしていて、それに釣られて思わず扉を開けてしまったのだ。女の子がやたらと多い喫茶店に慣れていなかった当時、この店に入った瞬間に私が場違いな人間だと思ってしまったのもまだ新品の大切な記憶だ。


 「いらっしゃいませ!」


 この言葉も今でも何度も思い出す。この言葉はあの時の気恥ずかしさを晴らしてくれ、それから可愛らしい恰好をしたこの店の店員たちに飽きるほど会いたいと願わずにはいられなかった。そうして私はこの店の常連になったのだ。あの瞬間にきっとこれから楽しくなるという予感がした。


 今でもあの時働いていた店員のことを思い出せる。あの竜になりたがっていた店員は元気だろうか。あの怪しげな薬をいつも持ち歩いていた店員は元気だろうか。あの暗さを少し感じさせる笑顔をしていた店員は元気だろうか。もう時間が経ってしまったのだから、今いないのも当たり前だ。


 それでもあの頃に戻りたくなってしまう。あの頃の何も知らない私になって胸を弾ませたい。料理の選び方もおぼつかないで、緊張しながら店員に注文したあの頃の気持ちをもう一度味わいたい。その願いが叶わないことは分かっている。人は過ぎ去り、ただ胸に色を残すのだから。


 だから今を味わおう。今、夕暮れ時の店内がこんなにも私を受け入れてくれる。それだけで十分だと思えばいいだけだ。そう頭の中で繰り返しても、何度繰り返しても、私の思考は必ずこの店で体験した初めてのことを幾つも数えあげてしまった。


 そう言えば注文した後に料理を運んでくれた店員が、やたらとご飯を見ながらお米と呟いたこともあった。その時、お米が好きなのかと聞いてみて、大好きと返答されたからふっと口角が上がった。そういう些細な記憶も濃くなっていく赤の中へと混じり合っていく。


 私はこの店に感謝を伝えたいと思った。けれども本当に感謝を伝えたい店員たちはもうここにはいなかった。人は過ぎ去り、ただ胸に色を残す。分かっていながら伝えられなかった。会計を済ませて去り際に言う社交辞令のありがとうではない、すべてを込めたありがとうを伝えたかった。


 私はおもむろにペンを取り出す。それから机に文字を彫っていく。おそらく誰一人として私がこの机につけた傷を気にしないだろう。そう、今こうやって店を傷つけることすら誰も気にしないのだから。だがそれでもよかった。私はこの衝動を押し込めることができない。


 ゆっくりと辺りが暗くなっていく。時間がない。傷跡が見えなくなっていく。私は急ぎながらも慎重に深く机を痛めつけながら文字を言葉にしていく。もうほとんど見えない。やっとのことで言葉が机に生まれた。しかしその姿は暗闇に隠されている。


 差出人の分からない言葉でも残せたが、満足感は一向に訪れなかった。忍び寄ってくるのは寂寥感でしかなかった。あの日々を知る店員はもう誰一人としていない。ただ思い出を必死に抱きかかえている私がいるだけだ。人は過ぎ去り、ただ胸に色を残すと独りで小さな声を出す。


 割れた窓から冷えた風が入ってくる。机や椅子の倒されてしまった、客も店員もいない店に私は一人で座っている。もうこの店が華やぐことはない。二月二十八日にすべてが取り壊される。何もかも消え去ってしまう。その現実が受け入れられなかった私だけがここにいる。


 今を受け入れられないのは当然のことなのだろうと、ふと思った。いつも通りのひとかけらが一日で奪われてしまったのだから仕方のないことなのだ。その考えに至って、この店をひどく愛してしまっている私に気づく。私は郷愁を込めて右手の人差し指で机をさすった。


 この店のような店にはもう二度と出会わないのだと考えられるほど、私はこの店を壊されたくなかった。だから跡形もなくなると聞いて侵入してしまった。そしてあろうことか机に言葉まで残してしまった。せめて私のこの文字が今見れたならと願うが、暗がりで分かるはずがない。


 まるで真夏の天気雨だとこの店のすべてを喩えてみる。真夏の天気雨は光の下、突然降りだして蒸れた息苦しさから救い出してくれる。長くは続かないが、それでもその雨に助け出されたことを私は最期まで決して忘れないだろう。人は過ぎ去り、ただ胸に色を残すと繰り返す。


 この店が描いてくれた色が私の胸に残っている。その色を失わなければいいだけだ。私は立ち上がって、散乱した机と椅子を昔のように配置していく。夜のせいもあってか、私の目はほとんど役に立たなかったけれども、記憶を頼りにして動かした。


 昔のように整ったと気が済むまで、私は一人でこの店と夜を共にした。

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真夏の天気雨 小西オサム @osamu55

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