後編
「なあ、アイツ、家猫に好意持ってるらしいぜ。」
ある夜の小さな、野良猫の集会で突如放たれた言葉。それは、シンと静まり返った夜に溶け、波紋となって広がっていく。
「アイツって誰だよ?」
「えぇ、ボスの話だよ。なんでも、池田の家の箱入り女に一目惚れだったとか。」
「マジかよ。あれだけ家猫に恨み持ってたやつが?」
「同じ反家猫派だと思ってたんだがなあ」
「ってか、もうそれって反則じゃね?」
始まりは小さな輪にすぎない。しかしそれが広がり大きな円を形作るまで、そう時間はかからなかった。こうして少しずつ、彼への反逆心は逆撫でられていく。
「そろそろ、いい時期じゃないですか───ブチさん。」
一匹のトラネコがそう、問いかけるとブチと呼ばれた白黒の猫は「ああ」とだけ答える。その声はひどく冷酷で、夜の闇の中で一段と光る目は大きな決意を露わにしていた。
* * *
ついにこの日がきたのか、と至極冷静な俺は言う。あの女と連んでいることが露見してから、いつこの日が訪れるのだろうかと、らしくないながらもソワソワしていたこともあった。しかし来てみればこれだ。不思議と、すんなりと受け入れることができた。
「……あんた、ここんとこ家猫と親しくしてるって話じゃないか。」
「ああ、そんな噂もあるらしいなァ」
「今まであんなに家猫を嫌っていたあんたが、一体これはどういう風の吹き回しだ?」
「勘違いしてもらっちゃ困る。おれぁ、あんな奴と親しくした覚えなんてねえよ。あちらさんが勝手について回ってるだけだ。」
「では、なぜ追い払わない。昔のあんたなら、平気で腸ぐらい嚙み切っていたはずだ。」
「さァ、なんでだろうな。」
「……ここから出ていく気はあるか?」
そうら、来た。その質問と共に鋭い殺気が背後から突き刺す。ぞわり、と嫌な感覚が体全体を通して伝わった。
「いや、ないな。」
「では」
一匹がそういうのと同時に、あちこちの茂みや電柱の陰から目をギンギンにぎらつかせた野郎どもが飛び出す。殺気もさっきの何倍にもなって襲い掛かる。
おれは、その中心で静かに、目を閉じた。
「なんで、なんでだよ……」
シンシンと降り積もる雪に、紅は良く映えた。この場に立っているのは白黒の良く見知った猫———ブチだけだった。それ以外は全員、そこらで伸びてしまっていた。
「お前なら、余裕で倒せただろう。なのに、どうして……」
そうだ、おれなら息の根を止める程度容易いことだった。でも、しなかった。伸びている奴はただただ気絶しているだけだ。
「少し……違う生き方をしてみたくなったのさ。」
茨の道を抜けて、陽だまりの隣にいたくなってしまったのだ。そこにタダで行くことは許されない。「裏切者」としての報いを受けてようやく、爪の先をちょっぴり入れられるような、そんな気がした。
よっこらせ、と思い体を引きずるようにして起き上がった。少し動かしただけで体のあちこちが痛む。血を失いすぎたせいか、一瞬クラリとした。
「どこに行く。」
「出ていくのさァ。おれァ裏切り者だ。ここにいていい身じゃねえよ。」
「…お前は勝った。」
「それにしたって、おれがここらでのうのうと生きていけるほど、世の中甘くねえよ。それに、言ったろ?違う生き方がしてみたくなったって。」
「……」
それっきり、ブチは何も言わなくなった。ただじっと、おれを見つめている。黄金色に輝く瞳は何も映してはいない。その横をすり抜けるようにして、おれは銀色の世界を歩き出した。
一歩歩くごとに視界が揺れる。もう痛いとは感じなかった。その代わりに、どうしようもない寒さが襲い掛かる。それが雪のせいなのか、失血のせいなのか、はたまた別の何かのせいなのか、見当はつかなかった。
白銀の中を進んでどれほどだっただろうか。とうとうおれは動けなくなった。気づけば雪に埋もれるようにして倒れ込んでいた。
ああ、ここで終わるんだなァ。
薄れゆく意識の中でぼんやりと思い出したのは、あの女の哀愁漂う横顔だった。
「お前はいいな。黒は太陽の陽を集める。」
いつだったか、珍しくおれから話しかけたことがあった。吹き付ける風が冷たく、冬の訪れを予告するようなそんな時期で、急激に迫ってきた寒さから出た言葉だった。
「・・・・・・そんなこと、言わないでください。」
おれの呑気な声とは裏腹に、女の声は硬い。この日おれたちはあべこべだった。きっと寒さがそうさせていたのだ。
「私は、この色が嫌いなんです。あまりにも真っ黒だから、人間からは不吉だってよく言われるんです。おかしいですよね、大昔は縁起の良いものだって担がれていたのに。」
この女は人間なんぞの言うことを気にして生きているのか、と驚いた。飼い猫にはありがちな傾向だろうか。おれたちはそんなの気にしない。むしろ敬遠されてなんぼだとすら思っている。
この時は特に何も言わなかった。別段おれが気にすることでもなかったからだ。しかし、チラリと見やったあいつの哀愁感の漂う横顔の儚さがどうにも脳裏に焼き付いて離れなかった。
あの時、どうしてなにも言わなかったのだろう。いや、あの時だけじゃねェ。おれァ何時だって、何も言ってこなかった。そのたんびになんとも言えないモヤモヤとしたもんが残って消えなかった。
ああ、情けねえなあ。もう、そんなふうに自嘲の言葉を発することさえ、おれにはもうできなかった。再び開いた、霞がかった瞳に映るのは痛いほどにまぶしい白だった。
ああ、叶うならもう一度、あの艶やかな漆黒のあいつに、陽だまりのようなあいつに会いたい。
「……会いてえな・・・・・・」
「・・・・・・それは、私にですか。」
絞り出した細い声は静寂の中に溶けて消えていく。もう、何も見えない。体がピクリとも動かない。そんな中、頭上から声が降ってきた。沈みかけていた意識がゆっくりと浮上していく。まるで、水中でぷかぷか浮き沈みを繰り返しているようだ。
「・・・・・・な、んで、いる。」
「ブチさんが教えてくれました。」
そう言って女はおれの体を舐め出した。やめておけ、汚いぞという言葉を出せるほど余力はない。
「あなたはいつもいつも、何も言ってはくれなかったですよね。ただ黙ってそっぽを向いているばかり。・・・・・・でも、決して追い払ったりはしなかった。それが嬉しくて、いつかこちらを見て欲しくて、私はあなたを見つけては、勝手に腰を下ろしてどうってことのない世間話をしていた。馬鹿な話ですよね。」
ふふ、と力なく笑う声が微かに震えていた。
「ばかな、もんか。」
掠れた声でそう言うと、女のハッと息を呑むような気配が伝わってきた。
「おれは、きらいじゃ、なかった。お、たがい、ひねくれ、て、やがんなァ」
そうだ、何時だって、おれは嫌いじゃなかったのだ。むしろ、どこかで今日は来るだろうかと待ち望んでさえいた。それを言葉として伝えようとしなかっただけで。
「すきだ」
この三文字を伝えるのに命一つかけた。そうでないと伝えられないとは、おれもとんでもない意気地なしだ。
「もう、おれにゃ、なにも、のこっ、ちゃいねェ。あんのは、この、さんもじだけ、だ。これでもう、からっぽになっちまった。」
「・・・・・・本当に、馬鹿な猫(ヒト)。空っぽなんてこと、ありますか。」
女は、おれに負けず劣らず、消え入りそうな声を出す。
ほんの一瞬の沈黙の後、おれの冷たい唇に、暖かいものがおちた。それが何かを理解するのに少々時間がかかった。
「私が、溢れ出てしまうくらい、沢山の愛を注ぎます。注ぎ続けます。だから、空っぽなんて、言わないでください。」
「ああ」
──これが、この温かいものが、愛というものなのか。
おれは再度、ごぽりと意識を沈ませた。「愛」という名の深く、暖かな水の中に。それっきり、寒いと感じることはなかった。 〈完〉
野良猫物語 @pianono
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