野良猫物語

@pianono

前編

 ああ、情けねえなあ。もう、そんなふうに自嘲の言葉を発することさえ、オレにはもうできなかった。徐々に白んでゆく視界の中に、艶やかな漆黒を見た様な気がした。


***


 思えば、本当にらしくないことをしたものだと思う。その日はたまたま、散歩のコースに車通りの多い交差点を選んだだけだった。その端っこで怯える女がいるなんて、予想だにせずに。


 女は漆黒の毛を持つボンベイだった。あれほどまでに美しく艶やかに光る毛並みを、見たことがない。しばらくの間、目が離せなかった。


 どれくらいたっただろうか。彼女が身じろいだことで、その呪縛から解放された。それと同時に足はもう動き出していた。車の通りが落ち着くその一瞬を見計らい、ついて来いと視線だけで促すと、女はそれに素早く勘づき、どうにかその場を脱することに成功した。あの女はそう、馬鹿ではないらしい。


 大通りを抜けて、細いわき道を通り、角を三つ曲がると、小さな原っぱに出る。幸い、人も、仲間もいなかった。そこでようやくほっ、と息をついたボンベイはおもむろに口を開いた。

「さっきはありがとうございました。普段はあんまり外に出ようとしないんだけれど、今日はなんとなく知らない道を歩いてみたい気分で。まさかあんなことになるなんて思わなかったんです。」


 話し方の上品さと、「あまり外に出ない」という節から、こいつが飼い猫であることがうかがえる。それにしたって、あれは慣れていなさすぎだ。あんなところで怯えるなんざ、ネズミの子供でさえないだろうに。よほど人間様様にかわいがられているんだろうな。


「ああ、まだ名前を言っていませんでしたね。私は『みい』といいます。三丁目の池田家で飼われているんです。」


 ほうら、な。思った通りだ。

 三丁目の池田といったら、人間のジジイとババアが住んいるところだったはずだ。だいぶ家も大きかった。


「ああ、そうかい。あいにくだが、おれぁ家猫は好かないんだ。礼はいいからさっさとおれの前から失せな。」


 そう、ぶっきらぼうに突き放すと、女は少々残念そうに「そうですか、では」と行ってしまった。ふん、そうだろう、所詮はそんなものだ。家猫なんかにおれら野良の気持ちなんてわかるか。いや、わかられてたまるかってんだ。


 おれの縄張りであるここら一帯は、家猫を好まないやつが多い。なんせこの辺りはメシをやってくれる人間が少ない。というか、今どきはどこでもそんな感じなのだと、風のうわさで聞いたことがある。そんなわけで、安全地帯でメシ三食を保証されてのうのうと生きている奴らが腹立たしくてならない。


 ごろり、と寝転んでみれば、太陽と芝生の絶妙なバランスの香りが鼻をくすぐる。気持ちがいい。この幸せは、奴らには決してわかるまい。

 そんな風に思いながら、細めていた眼をふと開けると、遠くに、黒い影が見えた。いや、影ではない。あの艶めきをおれはついさっきまで視界いっぱいに入れていたのだから。


「なにやってんだ、あいつ。」


 あの女はきょろきょろとあたりを見回しながら右往左往を繰り返す。まさか、とは思うが。


「おまえさん、本当に土地勘ないんだな。」


 そっと傍によって低い声でそう問いかけると、女は「ひっ」と喉の奥で小さく悲鳴を上げ、それから泣きそうな声で「はい」とかろうじて返事をした。


 おれは「ちっ」と小さく舌打ちをした。


「仕方ねえからお前さんの『家』の近くまで送ってやらあ。んなとこでウロチョロされたら昼寝もろくにできねえ。」


「っ、ありがとうございます。」


 今にも泣きそうな声は変わらない。だが、その声も、向けられる瞳も、どうしてだか温かい。「どうにも、こそばゆくていけねぇな」と女に聞こえないようにひとりごちた。


 

 あれ以来、女はおれをめざとく見つけては、奇遇ですね、だなんてほざいて近寄ってくるようになっていた。そして、どうでもいい世間話なんかを女が一方的に話す。そのたんびにおれは適当に相槌を打ってやり過ごしている。それについて、あいつは何も咎めなかった。


 妙に、居心地が良かった。だがそれは多分、太陽に照らされた屋根が心地よい温度だったとか、ちょうどすっきりとしたそよ風が吹いてきたとか、そのせいだ。そんなふうに思うが、自分の奥深くでそれだけじゃないだろう、と呼びかける声がある。それは仲間の声だったり、自分の声であったり、はたまたあの女の声であったりもした。まあ、誰の声であろうが、その声を肯定したことなんて一度もないが。


「お前、あの子にベタ惚れなんだって?」

 どこで聞いてきたのやら、おれの唯一心の許せる野郎──ブチがニタニタと薄気味悪い笑みをしながらこちらにやってくる。そして断るとこもなく隣にどっかり腰を下ろした。

 ブチはおれがここらにくる前からずっといたらしく、交友関係も広い。どこに行っても友達とやらがいやがる。

「んなわけあるか。付き纏われて迷惑だってんだ。」

「そうか?その割にはだいぶ気を許してるような気がするけど。ほら、お前基本的に仲間であろうと関係なしに殺気振りまくじゃん。でもあの子には全くと言っていいほどない。」

「……」

 殺気を振りまいているとは。なかなか言いえて妙ではないか。しかし、おれは他猫を信用していないだけで会って殺気を振りまいていると思ったことは一度だってありゃしない。

「ただ、あまり近づきすぎないほうがいいと思う。」

 ブチは、先ほどの茶化すような口調とは全く反対の、緊張した声音で言う。その瞳は、まっすぐにあの女の美しい漆黒の体をとらえていた。

「最近、反家猫の過激派が動きを始めている。ここら一帯を締めるボス猫が家猫に好意を抱いているなんて知れたら、ただじゃすまなくなる。」

「だから、おれぁ好意なんて寄せていない。」

「そんなに維持張らなくたって。大丈夫、おれにはわかってるから。」

「だから———」

「別に、おれだってその思いを今すぐに断ち切れなんて言わないさ。そこまで鬼じゃない。だが、本当の気持ちを彼女に伝えるということがどういうことか、それを考えてから行動しろってことを伝えたいだけだ。」

 こいつは昔からそうだ。相手の言うことを一向に聞きゃしない。そして思い込みが激しい。

 おれが何も言わないとわかると、ブチは小さく肩をすくめ、じゃな、と立ち去っていった。

 ったく、あいつはどんな勘違いしてやがる。ため息をつきながら、再び池田の家の庭へと視線を戻す。女はもういなかった。

——本当の気持ちを伝えるということがどういうことなのか、それを考えてから行動しろ。

 ……んなの、言われずともわかってらあ。おれの存在をよく思わねえ輩がいるのも、いつだってこの地位を下ろされる状況にあるってことも………関係ねえ奴を巻き込む可能性があるってのも、全部。

「わかってらぁ」

 ぶおっ、と強く吹いた風に乗って、おれのつぶやきはどこかもわからぬ果てまで飛ばされていった。

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