ものすごくけたたましく、遠いようで近い

飯塚摩耶

息子からの電話

 平和な昼下がりを、けたたましい音楽がぶち壊したのは、幸三が和室の畳の上に横たわり、日向で午睡をむさぼりかけていた時だった。


 音の出どころは幸三のスマートフォン。ちゃぶ台の上に放り出した板切れの内臓スピーカーから発されたエレキギターの音は、機銃の掃射がすべてを粉々にするように、彼の眠気を粉砕してのけた。


「かあさん」


 叫んだあとで、そうだ妻は買い物に行ったのだと思い至る。

 すこし待ってみたが、騒音が鳴りやむ気配がないので、幸三はため息をついて端末を手に取った。


「電話か」


 液晶画面には、息子である巧の名前と、その写真が表示されていた。


 巧は実家から独立し、都会にマンションを借りて暮らしている。晩婚の末に授かった子供でまだ二十代半ばと若い。定年退職を迎え、今年から平日も休日もない生活を送っている幸三と違い、今頃は仕事中のはずだが……いったい何の用だろうか?


「ええと……」


 どうするんだったか。

 幸三は、キズひとつない、つやつやした液晶画面に、かさかさの指先を、おっかなびっくり近づける。だが、緑色の丸マークを、何度トントン叩いてみても、通話が繋がる気配はない。


 幸三は舌打ちをした。

 なんだ、どこもかしこも平坦で、少しの引っ掛かりもない。触るべき場所に、タッチできているのかいないのか、まるで分からんじゃないか。どうしてどいつもこいつも、こんな不便なものを使おうなんて思えるのだ?


「クソっ、ダメだ。とんだ不良品を押し付けおって……あっ」


 そうだ、スライド。

 指を滑らせるとか何とか、巧が言っていたはずだ。

 試してみる。

 すると、どうやら電話を受けられたらしい画面に切り替わり、幸三はホッと息をつく。


「もしもし、巧か。あのなぁ、この新しいケータイだがな、どうもいかんぞ。まったく、店頭で俺に応対した、あの若い兄ちゃんに、まんまと騙されちまった。最近は、みんなスマホを使うのが常識だとか言って、いいというのに勧めるんだからな。そもそも俺は、こんなもんじゃなくて、前とおんなじパカパカのを買いに行ったんだし、そう言ったんだ。だっていうのに、いえいえ便利だからとか、すぐ慣れるからとか、いろいろ聞こえのいい文句に乗せられちまって、しまったよ、ほんとに。お前もな、うまい話には気をつけろよ。俺だったからケータイみたいなもんで済んだが、お前は俺ほど頭の出来がよくないんだ、もっと大きな詐欺とかに――」


『お父さん? もしもし、お父さん』


 と、若い男性の声にさえぎられた。

 ややくぐもってはいるが巧の声だ。幸三は、そこに若干の震えを聞き取って、言葉を呑み込んだ。


「なんだ、お前。どうかしたか」

『それが……ちょっと、大変なことが起きてしまって』

「金の話か?」

『違うよ、金の話なんかじゃない。部屋にタランチュラが出たんだ』

「……ああ?」


 タランチュラ?

 タランチュラって、あのタランチュラか?


「毒蜘蛛か? 毛むくじゃらの」

『そう、それだよ。とにかく大きいのがいて、部屋から出られないんだ』

「部屋から出られない? 部屋って、どの部屋だ。お前、いまどこにいるんだ?」

『自分の部屋だよ。マンションの』

「仕事は?」

『行けるわけないじゃないか。タランチュラがいるんだよ。ちょうど、玄関に向かう狭い廊下の入口に、陣取るようにうずくまっているんだ』

「出社してないのか?」

『だからタランチュラがいるんだってば! 窓から出ようにも、ここ六階だし……』

「蜘蛛なんぞが怖くて、お前、会社に行かないっていうのか」

『普通の蜘蛛なら怖くないさ! でも、タランチュラなんだよ!』

「いいかげんにしろ。ただのマンションの部屋に、そんなものが出るわけないだろう」


 なんて情けのない奴だ、まったく。

 幸三は、ため息をついて、いらいらと首を振る。


 はっきり言って、音楽の正体が電話の着信と気づいた瞬間は嬉しかった。これまで共に生活するのが当たり前だった巧と離れ離れになり、寂しさがないわけはないのである。着信画面に息子の姿と名前が見えた時には、あっと思ったし、声を聴けたときには、胸が温かくもなった。

 しかし、たかが大きな蜘蛛に怯えて、仕事に向かうことを断念したばかりか、親に電話で泣きついてくるとは、何事だろうか。そんな電話と知っていれば受けなければよかったと、幸三は思った。


「ん? いまの音は何だ」

『写真を撮ったんだ。いま送る』

「確認しろっていうのか? じゃあ、いったん電話は切ればいいんだな?」

『繋げたまま見られる。電話をスピーカーモードにして、いったんホーム画面に戻って……』

「なに? なんだって? どうするって?」

『だからさ、電話の画面を見てみてよ。スピーカーっぽいマークがあるだろ。それをタップしてさ、それからホームのアイコンをタップして……』

「わかった、わかった。もういい、もういい」


 やれやれ、わけのわからない国の言語でも、聴かされているみたいだ。

 やはりこんなスマホなんてものに替えるんじゃなかったと、幸三は思った。パカパカでよかった。あれなら、ちゃんと使えたのに。新しい機能がついてるだかなんだか知らないが、別に、何も足したり引いたりする必要なかったんだ。本当に、誰が、そんなことをしてくれと頼んだというんだ。要らんことをしてくれおって、どこのどいつか知らんが。


『いま、たぶん気づかれた』

「気づかれたって?」

『あいつに。写真を撮るとき、こっちを向いたような気がしたんだ。僕がここに隠れてるって、バレたと思う。ううん、ぜったい見つかった。だって、お父さん、タランチュラって目が八つもあるんだ。そのこと、知ってる?』


 幸三は、巧が塹壕のような場所で膝を抱え、必死に小さくなっているさまを想像した。その遥か後方では、巨大な蜘蛛が瞬きもせず、獲物が土壁の陰からひょっこり身を覗かせるのを、息をひそめて待っているのだ。ライフル銃のスコープを覗き込む、スナイパーのように。


 ばかばかしい。


 幸三は首を振った。窓の外から、極右団体の走らせる車が、軍歌を大音量で流しているのが聞こえていた。


『ねぇ、お父さん、どうしよう。どうすればいいと思う?』

「決まっているだろう。仕事に行くんだ。今すぐに」

『でもタランチュラ――』

「タランチュラなぞじゃない。タランチュラであるはずがない。ただの蜘蛛だ。アシダカグモとかジョロウグモとか、大きいだけの、ありふれた、ただの蜘蛛さ。毒なんか持っちゃいない。いいか、人間、働きに出て社会の役に立つのが当然の義務なんだぞ。みんな、そうしている。俺だって、ついこの間までは、そうして生活していたんだ。そうやって、かあさんや、お前を養ってきたんだぞ。なぁ、わかってるか?」

『……わかってるよ』


 巧は、もうタランチュラがどうこうと言い募るのを、諦めたらしかった。

 それでいい、と幸三は思った。普通に生活していれば、そうそう耳にすることもないような単語を、この短時間で一生分ほど聞かされた。もう十分だ。


「仕事だ。仕事に行くんだ。人間としての義務を果たせ。俺の言うことはわかるな?」

『うん』

「よし、それでいい。お前が自分の責任をほっぽり出すようなことをすれば、親である俺たちの品性が疑われるんだからな。そんな親不孝は、してくれるな」

『うん』


 電話口から、重々しいため息が聞こえてきた。肺の奥底に押し隠していた凝った空気を、絞り出したような音だった。


『……くそっ、どうやって入ってきたのかなぁ。ドアだって窓だって、閉めていたはずなんだけど。そもそも人の家に勝手に上がり込むなんて、どういう了見なんだ? 住居侵入罪だよ。てんで動こうとしないあたり、不退去罪、逮捕・監禁罪にも問えるかもだ』

「そうだな、そう言ってやったら、通してくれるんじゃないか」

『勘弁してよ、お父さん。ただの軽口だよ。タラン……あいつらに、人のルールが通じるわけないだろ』

「いやいや、わからんぞ。蜘蛛をペットにする人だっているっていう話じゃないか。案外、丁重にお願いしてみれば、聞いてくれるかもしれんだろう」

『冗談だよね?』

「本気だとも」


 もちろん幸三は、本気で言っているわけではなかった。冗談ですらない。どうでもいいからこそ出た言葉だった。早く電話を終え、息子が働きに出てくれればいい、という思いが、彼に、条件反射的に言わせたのだ。


 いずれにせよ、巧の部屋に蜘蛛が出ようが蛇が出ようが俺には関係がない。奴の家は、ここから遠く離れているのだし、当人が対処するべき問題に過ぎないのだ。


「うん? 何の音だ? こんどは、なにをしているんだ?」

『殺虫剤を取ろうと思って。一か八か、飛び掛かられる前に、こっちから……』

「なんだと? おいおい、バカなことはやめろ。殺す必要なんてないだろう」

『どうして?』

「蜘蛛には何の罪もないだろう。ただ、そこにいるだけだ。無駄な殺生をするべきじゃない」


 幸三は、巧の部屋で起こっている光景を想像し、どちらかといえば蜘蛛に同情の念を抱いていた。雨風をしのげる場所に辿り着き、ほっと休んでいたら、自分よりも遥かに巨大で強力な動物に罵声を浴びせられ、戸惑い、怯えている小さな命。

 それを忌み嫌い、恐れおののくあまり身動きもできなくなって自分の勤めを投げ出した息子が、己の責任をすべておっかぶせた上で毒ガスを吹きかけて殺そうという。それは、あまりに道理が通らないことであるように、幸三には思えた。


「一寸の虫にも五分の魂、ってことわざ、お前だって知ってるだろう。絶対に殺しちゃいかん。生きたまま逃がしてやるんだ、窓の外にでも。いいな?」

『お父さんは、あいつを見ていないから、そんなことが言えるんだ』

「殺すんじゃない。いいか、正しいことをするんだ」

 幸三は、声を大きくして言った。「もしも殺したら俺は、お前を恥ずかしく思う」

『…………』


 沈黙があった。

 長い、沈黙があった。

 そして、


『やってみるよ』

 巧は簡潔に言った。


「いいか、ちゃんと仕事に行くんだぞ。また夜に話そう」

『うん、また夜に』

「じゃあな」


 幸三は、そう返して、しばらく待っていた。どうやって電話を切ればいいのか、分からなかったからだ。やがて通話が切れたらしい「ツーツー」という音が聞こえてきたところで、彼はため息をつきながら、腕を下ろした。


「やれやれ、まったく」


 再び横になってみるが、眠気は幸三の中からきれいさっぱり消えていた。彼は仕方なく、テレビのリモコンを取って、電源ボタンを押す。

 ちょうどニュースがやっていた。内容は、どこかの街で飼われていたタランチュラが、逃げ出したという話だった。

「……あ?」

 画面には、慎重に草むらや物陰を覗き込む警察らを背景に、「捜索中」のテロップが踊っている。

 タランチュラ。

 巧が幾度も口にした、その単語が、いくらか重みを備えて、幸三の中に落ちてきていた。


 あれは、どこの話だ。

 日本なのは間違いない。

 どの街だ。ひょっとして、巧の暮らしている街なのか?


 だが、地域についての言及は終わっていたらしく、二度とアナウンサーの口の端に上ることのないまま、次の話題に移っていく。


「巧――」


 幸三は慌てて、息子に電話をかけようとする。手間取りながら、なんとか通話画面にまで辿り着き、端末を耳に当てた。

 コール音が鳴る。

 二度、三度、四度……。

 出ない。


「あ」


 ふと、幸三は思い出した。

 写真。巧が送ったとか言ってた。

 スマートフォンを耳から離し、画面を覗き込んでみる。するとメッセージアプリのアイコンに印がついているのが分かった。幸三は努めて冷静に、それに触ってみた。


 巧との個人トーク画面が開かれ、そこに、写真が表示されているのが見えた。

 蜘蛛だ。それも大きい。暗い色合いの中に、鮮やかな青が混じっているのが分かる。


「ただいま」

 と、玄関から声が聞こえた。妻が、買い物から戻ってきたのだ。


「かあさん」

「あら、なんですか、血相を変えて」

「この写真を見てくれ」


 幸三が差し出したスマートフォンの画面を、妻の恵子は、目を細めて眺めた。


「なんです、これ」

「タランチュラだ」

「……蜘蛛ですか?」

 恵子は、怪訝そうに言った。「ぶれてるじゃないですか。よく、わかんないですねぇ」


 幸三は改めて、液晶画面に目を落としてみる。


 恵子の言うとおりだった。どうも、黒い影がにじんだようになっていて、それで大きく見えただけのようだ。少なくともそれが本当に毛むくじゃらの大蜘蛛なのかどうか、この画像からは判別しようがない。


「それが、どうしたんですか?」

「いや、別に……どこかの街で、飼育されてたタランチュラが逃げたんだとさ。本当だったらエライことだと思ってな」

「あら、そうですか。でもタランチュラって、意外と毒は弱いそうですけどね」

「そうなのか?」

「ええ。ハチの毒くらいなんですって。過去にタランチュラの毒での死亡例は、無いんだって、先日のドキュメンタリーで言ってました」

「なんだ、そうだったか」

「まぁ、アナフィラキシー? っていうのが、体質によっては起こる可能性もあるそうですけどねぇ。でも基本的には、こっちから何もしなければ大人しい蜘蛛だっていうし」

「そうだろうな」


 幸三は、胸を撫で下ろした。

 ふん、やはり、そうか。そんなことだろうとは、思っていたが。

 幸三は、もう一度、その不鮮明な写真を一瞥すると、ふんと鼻を鳴らして、目を逸らした。


 代わりに、妻が郵便受けから持ってきたらしいチラシの束を、見るともなしに眺める。その中に、やたらと派手なフォントで「憲法改正反対!」「平和憲法を守れ!」という文言が踊るペラ紙が混じっていた。いかにもパソコンに不慣れな素人が、覚えたての技を駆使して作ったような、ごてごてして目に痛いチラシだった。


「駅前で配ってたんですよ。目が合っちゃったもんで、受け取らざるを得なくって」

「ふぅん」


 幸三は、気もそぞろに返事をして、再びスマートフォンを持ち上げた。


「蜘蛛は……うまく……逃がせたかっ、と……」


 巧にメッセージを送り、しばらく画面に視線を注いだまま、待つ。

 だが幸三の送った文章には、いつまでも既読マークはつかず、巧が返答を寄こしてくる気配は無い。


「お茶を淹れてもらえますか。お饅頭、買ってきたんですよ」

「わかった」


 幸三はスマートフォンをテーブルに置き、台所へと向かった。

 やかんに水を入れ、火にかける。そして急須に茶葉を投じ、2人分の湯呑の用意をした。

 その間も、彼の注意はテーブルの上のスマートフォンに向いていた。

 その小さな端末が震え、けたたましく音楽を響かせるのを、彼は待った。

 だが、それは、いつまでも鳴らなかった。

 まるで文鎮のように、静かに死に続けていた。

 コンロの上で、やかんが発するシュンシュンという音だけが、次第次第に、大きさを増して迫ってきていた。

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ものすごくけたたましく、遠いようで近い 飯塚摩耶 @IIDzUKA

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