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    「なろう作家は吟遊詩人」という言葉はとても腑に落ちた気がします。
    読者参加型という作品のあり方自体はまあ面白味もあるし、歓迎されていい気はします。
    ただ個人的には、受け手側として「それは違うよ」とやるのは本来二次創作的にされるべき性質ではと思いまして。
    その境界を曖昧にしておくと、権利的な観点で面倒くさそうな事態に陥るかもなー、ということなど感じたりしました。

    追記:
    「二次創作的に~」のくだりは、商業が絡む場合には、ということでした。
    重要な言葉が抜け落ちてしまい、失礼しました。
    著作権法自体の成りたち含めて、「商人の介在ですべての物づくりは死ぬ」というのが僕の持論で、人気を集めてるなら成るべくして成ったということですから、それが詰まらない形で崩されなければいいなあと願うばかりです。

    作者からの返信

     コメントありがとうございます!

     二次創作と一次創作の区別は、もはや薄まっている。との考えでこれをコメントしました。

     むしろ、サブカルコンテンツはエヴァンゲリオンやmadと言った露骨に二次創作的な物が跳梁跋扈しているものや、字面だけ変えた(オリジナリティは当然ありますが)テンプレート的な特定作品のフォロアー的なコンテンツなど、一次創作や二次創作の境界線は確実に薄れていく感じがしました。

     ただネット小説は常に読者の存在がダイレクトに影響を与えるので、ある程度の地位を獲得した作家様を除外すれば、かなり読者の権限が大きいような気がしたまでです。

     著作権に関してはあまりに法学的な知識が不足しており、考えも及びませんでした。

     しかし、本来は趣味で終わりのネット小説が商業化の波に押され本来の姿を失ったように思います。

  •  テセウスの船を望んで作り上げる、いや捏造や改造をするシステムですか。

     日本仏教の加上説も思い出しますね。ブッダの逸話を捏造することで多様な仏教が生み出されました。
     ここは一種のSNSでありますが、そんな革命が起こっていたとは…

    作者からの返信

     インターネットの登場で真理が不明瞭となり、真理が真理でなくなったのです。

     すなわち悪魔的な相対主義の始まりです。そこでは何もかもが改編可能なモノとして扱われるわけです。

     インターネットは複数の現実でもあり新しい平和的なファシズムの、全員が王となるファシズムの到来が可能となったのです。

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  • 編集済

     なろう系をサブカル解析の手法とは別領域から分解するこの作品はとてもよい試みであると思います。

     近代芸術が高尚、前衛の名において暴走(自分の目には)をしていることはなぜだろう、と僕はよく考えていますね。結局キュビズムの表現手法は分かっても、それが何を指し示し高尚であるのか、一生かけて僕は分からないかもしれません。しかし、紋切り型の流行にも嫌気は差します。小田和正あたりの個性と大衆的要素が欲しいものです。
     被差別階層の解放がもたらしたことには知ったかぶり程の知識は持っているつもりです。同和問題と、奴隷解放と。

     本文の趣旨の方は、読者が憐れむべき主人公を期待をもって見つめた結果、その愛に報恩する形で、主人公は読者に神として恩恵をもたらす、で合ってますよね。
     僕もなろう論を少し書いたので良かったら。(売名行為)

    作者からの返信

    はい、奴隷と主人は役割を交代しながら解放=救済するという形で話が進んでいるという理解でOKです。
     
    ちなみにキュビスムとは写真技術の到来により絵画の価値を問われるなか。遠近法に代表される幾何学的=写実的な空間理解を超越した(その頃には非ユークリッド幾何学という幾何学の到来により空間理解に激震が走っている)つまりユークリッド幾何学という2000年間、西洋の知性のお手本として君臨した体系の解体を絵画的表現に、落とし込んだので高尚と言われるのだと私はなんとなく考えました。

     高尚文学とは、哲学すなわち今の世界への挑戦としての最新哲学を取り入れ、あるいは影響させたモノとして個性的であり(つまり常識を越える)、常識的な欲望に奉仕しない姿勢ゆえに売り上げに繋がらないのだと考えています。(その意味で村上春樹は特別なのです)

     あと最初の理解しにくかったと申し上げられた箇所を改編しておきます。

     誠に丁寧なコメントありがとうございます!

    編集済