櫻源郷について

 春が待ち遠しかっただけでした。この空から降るものが桜の花びらのみでいいと思っていただけでした。春は素晴らしいものです。私が読んだ本のいくつかにも、麗しいほどの春や桜が描かれていました。私はいつかこの世界に飛び込んで帰りたくないと思っていました。


 今年は厳冬ですが、この冬の寒さを乗り切れば、ぽかぽかとあたたかな日射しと、風と、桜の花びらが私を包んで飛ばしてくれるものだと思っていました。しかし春は一向に来ません。ただ寒さと白い雪が身体に吹き付けて、凍えて死んでしまいそうなものでした。

 悴んだ指先で掴む雪は、桜の花びらと対極の存在に感じられます。赤く腫れた指先はどんどん鈍い青色に滲んでいきます。私は今どこにいるのかもわからず、ただ凍えて迎えを待つだけでした。

 それからしばらくのことは覚えていませんが、目が覚めると、穏やかな青い空の下で凍てついた肺をとかすように呼吸をする私の周りを、桜たちがほほえましく囲んでいました。

「おはよう」

「おはよう」

「春が来たよ」

「起こしに来たよ」

桜の花びらに導かれて、上り坂をゆっくりと歩きました。

「きみはね、今日からここに住むんだよ」

「ここで暮らすんだよ」

丘から街を見下ろすと、なんともいえない感動が押し寄せてきました。櫻源郷ともいえそうなほど美しい景色、思わず涙が頬を伝って落ちました。すると涙が落ちたところから、勢いよく木がのび、つぼみをつけ、一気に桜が満開になったではありませんか。

「この街の桜はね、涙が落ちた数だけあるんだよ」

「みんなが涙を落とすから、この世界はこんなにもあたたかいんだよ」

遠くに見える海がきらめいたような気がして、

「この海も涙でできているの?」

と思わず聞いてみると、

「君は寺山修司のあの詞を知っているかい」

私はひとつ頷いてまた海を見つめました。



春の日射しに透ける桜が

  涙の海にかぶさった


    遠くの春が 迎えに来ました

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短編・桜 村上 耽美 @Tambi_m

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