男:白黒④

 あの日バーで大暴れしてから美香は全く姿を見せなくなった。気まぐれに送られていたくだらない内容のメッセージさえ、ぷっつりと止んだ。俺はそれをいいことに、何もなかったみたいに頭を抱える問題から目を逸らす日々を送っていた。


 ピアノの練習をしたり時々教授の手伝いをして小銭を稼いだりしながら、不気味なくらい穏やかな時間だった。


 ただ正直、あの美香がこのまま大人しく引き下がるとは思っていない。きっと今頃俺か松原さんへの仕返しを企ててるに決まってる。いつか来るその日までの執行猶予だと思って、この平和を謳歌しようと思っていた。


そうしてのらりくらり過ごしている時、松原さんからメッセージが届いた。


『どうしよう、助けて』


 その一言だけだった。


『どうしたんですか』

『うちの店に来て。今すぐ。お願い』


 それを見てすぐ服を着替えて財布とケータイを持ってドアノブに手をかけた。なんだか都合よく呼び出されているような気もするけど、それはそれで別にいいかと思って家から足を踏み出した。


 まだ日中なだけあって松原さんのお店は開店していなかったけれど、ドアに手を掛けたらなんの抵抗もなく扉は開いた。


「松原さん? ……柚木です」


 中に入ると店の中は灯りの一つもついてない薄暗い空間だった。その中で松原さんはカウンター席に座って突っ伏していた。


「どうしたんですか」


 俺が近づくのと一緒に顔を上げて彼女は俺を見上げた。


「……ごめんなさい。呼び出して」

「別に。どうせ大して仕事もないんで。基本暇ですから」

「そんなこと言わないの。本当に仕事来なくなるわよ」


 そう言いながら髪をかきあげる横顔はかなり疲れが見て取れた。


「どうしました、体調悪いんですか?」

「ううん。体調は大丈夫」


 細い体を無理矢理持ち上げるように椅子から立ち上がって、照明のスイッチを押す。一気に店内が優しいオレンジ気味の光に包まれた。


「しんどそうですよ」

「ちょっと困ったことになって。柚木くんの意見も聞きたいの」

「俺で力になれることなら」

「その前に座って。何か飲みましょ」


 カウンターに入った松原さんがシェイカーとグラスを取り出した。

 『助けて』なんて送って来るから何があったのかと思ったけど、カクテルを作るくらいの余裕はあるみたいだ。

 言われるままに客席に座って彼女の手つきを眺めてみた。本職なだけあって動きに無駄がない。雑に入れてるようで一滴も零さず液体を注いで、柔らかい手首を使ってシャカシャカと音をたてている。


「……それ何作ってるんですか」

「カクテルよ。XYZていうの」

「へえ、初めて聞きましたきました」

「ラムを使ったカクテルで『これ以上ない究極のカクテル』っていう意味を込めてアルファベットの最後からXYZっていう名前がついてるの。カクテル言葉は『永遠にあなたのもの』よ」


 シェイカーが傾けられてグラスに解き放たれた液体はミルクキャンディに近い乳白色だった。最後の一滴を落としきって目の前にグラスを差し出された。


「綺麗な色ですね」

「私達にぴったりでしょ」

「どういう意味ですか」

「皮肉よ。『永遠にあなたのもの』てくらい誰かに捕らわれて逃げ場もない。まさにXYZまで来ちゃった究極の状態ね」

「……美香のこと言ってますか」

「他に居ないでしょ。乾杯」

 俺の横に座りチンとグラスを鳴らしてグラスに口をつける。俺もグラスを傾けようとしてふと手を止めた。


「お互いって、松原さんは誰に脅されてるんですか」

「やめてよ、私は柚木くんと違って脅されるようなことなんてしないから」

「俺だって不可抗力みたいなものです」

「どうだか」

「相手は誰なんですか。助けって言ってたのそのことですよね」


 俺の問いかけに松原さんは黙ったままカクテルを飲み干して静かにグラスを置いた。


「柚木くんは、美香ちゃんに好意を持たれてると思う? 恋愛的な意味で」

「え? いや……どうですかね。アイツの考えてることはめちゃくちゃだから」

「でも体は許してくれて、あんなにあなたは自分のだって言ってたじゃない」

「アイツは俺で自分の承認欲求を満たしたいだけですよ」

「じゃあ、それが本当の好きだったら?」

「本当だったら?」

「血の繋がった相手から本気で好意を寄せられた私は、どうしたらいいの?」


 思わず松原さんの横顔を見つめた。


「血の繋がった相手って……まさか、この前の弟さん?」

「信じなければそれでもいいわ」


 彼女の表情は悲しんでも怒ってもいない。


「いや別に疑う理由ないですけど……間違いないんですか」

「弟にね、キスをされそうになったの。頬とか額じゃなくて唇によ。無邪気な子どもがするようなキスじゃなかった。熱っぽい目で私を見て、力づくて腕を押さえられた。そのまま聞いてきたの『キスしていい?』て。この意味分かるでしょ?」

「なんで、そんなことに」

「この前柚木くんがうちに来たでしょ? あれで何かスイッチ入っちゃったみたい。柚木くんのこと聞かれて話してるうちに……」

「それで、どうしたんですか」

「もちろん驚いたわよ。思い切り弟を押し退けてここに逃げてきたの。もともと弟とは仲がいいし、あの子が私に執着してるのも知ってたけど。それで暗い店内で一人で居たら、どんどん訳わかんなくなっちゃって。そうだ、柚木くんだって思ったの」

「どうして俺に?」

「だって、この手のことは経験豊富でしょ」

「それ、あまり誇れた頼られ方じゃないですね」

「でも役に立ってる」

「弟さんは今どうしてるんですか」

「たぶん家で私の帰りを待ってる。私に嫌われだと思って泣いてるんじゃないかしら」

「俺のほうは何も言ってこないから平和なもんですけど。松原さんはこれからどうするんですか」

「どうするって……暫くしたら家に帰るつもりだけど」

「受け入れるんですか、弟さんのこと」

「馬鹿言わないで。姪と違って、こっちは実の弟なのよ?」

「じゃあ離れて暮らすとか」

「……できない。あの子、私が居ないとパニックになって暴れ出しかねないの。学生だった時も、通う学校が違っちゃって大変だったんだから」

「まさかこのまま一緒に暮らすんですか」

「他にやりようがないのよ。だから柚木くんに聞こうとしてるんじゃない。ねえ、どうしたらいいの」


 ちょっと困ったような松原さんの指がグラスの縁をゆっくりなぞった。


「俺だって分からないですけど。でも男が一度そうなっちゃったら、頭冷やすまでは収まらないんじゃないですか」

「さすが、経験者は語る、ね」

「まじで頭がイカレる時があるんです。その状態の時に近づかないほうがいいと思いますよ。暴れて怪我するかもしれない」

「弟はね、どんなに暴れても人を傷つけた事がないの。人を怪我させないように注意して暴れてるのよ。それがすごく苦しそうで……。だから私もう見たくない」

「だったらどうして、俺にあんなドッキリ仕掛けたんですか。わざと弟さんと鉢合わせさせるようなこと」

「ごめんなさい。こんなことになるなんて思わなかったのよ。柚木くん以外の人も同じようにからかって遊んだことあるけど、いつも拗ねて機嫌を悪くするだけで暴れるなんてなかった」

「何人も同じことしてたんですか……」

 知りたくなかった新事実に軽く打ちのめされる。

「今それはいいの」

「はあ……」

「なぜか柚木くんだけ気に障ったみたい。あの人誰ってしつこく聞かれたの。……何故かしら」

「俺のほうが聞きたいですよ」

「柚木くんが姪っ子ちゃんにも手を出しちゃうモラルのない男だってバレたのかしら」

「ふざけないでください」

「万が一、実は私も柚木くんと遠い親戚関係だったりしたらどうしよう」


 わざとらしく頬に手を添えて見せた。


「……笑えない冗談です」


 松原さんのおふざけは無視してグラスに残ったカクテルを飲み干した。


「ふふ。私ね、男が不服そうにしてる顔が好きなの」初めて、少し明るい笑顔が覗いた。

「俺は自業自得というか、自分はどうなっても仕方ないってわりと思ってますけど。松原さんはどうなんですか」

「……大事な弟よ。私のことが大好き過ぎて困ることもあるけど、それでも弟が好きな気持ちは変わらない。できるならずっと笑顔で居て欲しいし、辛い顔は見たくないの」

「でもそのために全部を許してたら、松原さんも俺と同じになりますよ」

「分かってる……分かってるわよ」


 小さく呟いた時、俺と松原さんのスマホが殆ど同時に震え出した。お互いに顔を見合わせてスマホを手に取る。


「……美香からです」

「こっちは弟からよ」

「弟さんはなんて?」

「お姉ちゃんごめんなさい、早く帰って来てって」

「こっちは会いに来るって」

「ここに?」

「いやどこに居るか教えろって言ってます」

「そう、なら今日のところはお開きにしましょ。お互いに巻きこまれたくないし」


 松原さんは空のグラスを2つ回収して立ち上がるとカウンターの裏でグラスを洗い出した。


「そうですね」俺も席から立ち上がる。

「一応言っておくけど、美香ちゃんがここに来ることが嫌な訳じゃないわよ。この前のことは気にしないでいいから」

「あ、はい。迷惑かけてすみませんでした。すみません、すっかり言い忘れてて……」

「いいの。美香ちゃんに来ていいって言ったのは私なんだから」

「……あの。それから俺また、ここでピアノ弾かせてもらえますか」


 俺の言葉に驚いた顔で手を止めた。


「ここで?」

「はい……もしよければ」

「それは、仕事でってことよね?」

「はい」


 今度は軽く笑い堪えるような表情で視線を手元に戻して洗い物を続けた。


「まったく……ほんとピアニストって変な人。妙なとこ律儀で小心者なのに、普通は気を遣う場面で常識がないんだから」

「え?」

「あんなに美香ちゃんがお店で暴れた後で普通に仕事貰おうとするんだもの」

「あ……」言われてみればそれもそうだ。

「良くも悪くも自分に正直だから、私ピアニストって好きなのよね」

「そうですか」

「いいわよ。何か仕事見つけたら、とりあえず教えてあげる」

「本当ですか?」

「今日ちゃんと来てくれたしね。そのお礼」

「なんかすみません」

「体裁だけの謝罪はしなくていいの」


 ぴしゃっと言い切って松原さんとの会話は終了の空気になった。


「……じゃあ俺はこれで。お邪魔しました」

「ええ。今日はありがとう。柚木くんをからかったら少し元気になった」

「俺でよければいつでも」


 そう言って店のドアを開けて外に出た。そんなに時間は経っていなかったはずなのに、太陽はかなり西に傾いてる。家に帰ろうしているとまた美香からメッセージが入った。


『ねえなんで返事しないの? 無視したらゆんにい許さないから』


 とりあえず俺がどこに居るかはまだ分かってないみたいだ。真っ直ぐ帰ろうと思ったけど、もしかしたら家で待ち伏せしてるのかも知れない。そう思い直して、スマホをポケットに仕舞って歩く方向を九十度変えた。


 家にに帰る前に、ちょっとコーヒーでも飲んで帰ろう。

 お得意の問題の先送りを発動させて、近くのカフェを目指して歩き出した。

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シャンパンのせいにして 那木 馨 @nagi_kaoru

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