女:赤ワイン①

 赤ワインを好きになったのは、二十歳のお祝いで両親が買ってくれたワインが美味しかったからというのもあるし、初めて弟と飲んだお酒だからという理由もある。


 夕方からの開店とはいえ、仕込みや準備のことを考えるとあまり寝坊はしていられない。十二時過ぎに家を出てお店へ向かう。知人が店を畳むからと、後を受け継いで始めたけれど、今では自慢でお気に入りのお店で私の居場所だ。

 お店に着くとまず簡単な事務作業を終わらせる。昔から嫌なことは先に片付けたい性格なのは変わらない。夏休みの宿題なんかも最初のうちに終わらせていた。弟はいつまでたっても遊んでばかりで、提出が間に合わなくて毎年先生から怒られていた。

 事務作業や予約の確認が終ったらカウンターに入って氷の準備をする。開店前のこの作業が一番好き。無心で氷を削っていると段々心も落ち着いてくる。何よりの精神統一だ。顔に大きなニキビができるより、氷が綺麗に削れないほうが気分が下がってしまう。

 氷の準備ができたらその日に提供する分の肉の用意する。前の日から調味料に付けておいたビーフを取り出して表面に焼き色をつけたら低温のオーブンに入れてじっくりと火を通していく。

 出来上がるの待っている間に、軽い掃除やインテリアの入れ替えをする。家では不要なものは極力置かないけれど、お店のためのインテリアはついつい買いすぎる。そうしているうちに今日のシフトに入っている男の子が店に入って来た。

「お疲れ様です」

 少し頑固な所もあるけれど、長く働いてくれて頼りになる、弟と同年代の男の子だ。お客様からも良く可愛がられている。

「お疲れ様。今日も宜しくね」

「宜しくお願いしまあす」

 軽い返事で私を躱しながら流れるように控室に入って行く。若者にありがちな、ちゃんと食べているのか心配になるほど薄い背中を見送りながら弟のことを考えた。

 弟と私は五歳の差がある。何を思ったか両親が『佐久良』というな名前をつけたせいで女の子に間違われることが良くあった。その名前の通り控えめで色白で、昔から私のことが大好きな弟だった。

 私が保育園に通うようになった時には玄関口で私のスカートを掴んで泣き叫んでいたし、同じ小学校だった時は休み時間の度に私の姿を探して教室まで半べそを掻きながらやって来た。上級生の教室まで来る勇気があるなら友達の一人でも作ればいいのにと思わなくもなかったけれど、それでもその頃は『弟に頼られるしっかり者のお姉ちゃん』を周りにアピールできることに優越感を覚えていた。

 様子がおかしくなり始めたのは私が高校生の時から。弟は中学入学を控えていた。私が先に小学校を卒業して違う学校に通うことになった時も大変だったけど、中学校の入学式直前の荒れようは凄まじかった。

 学校に行きたくないと言って母親に怒鳴り、ティッシュを投げ、部屋に籠って壁やらベッドやらをひたすら殴り続けていた。まだ小学生とはいえ、決して華奢でもない男児が本気で暴れると力ずくで止めることも難しい。

弱り果てた母親に変わって私が弟の部屋に乗り込んで話を聞くことになった。

 ドアを開けると、弟は丁度枕を振り上げて机にぶつけようとしている所だった。

「……枕破れたら佐久良寝れないでしょ」

 弟の動きが止まった。何かの彫刻にありそうな中途半端で躍動感のあるポーズが出来上がった。

「……中学なんかやだ」腕を下ろして枕を床に落とした。

「仕方ないじゃない。皆行くんだよ」

「やだ。違う学校の奴も来るしお姉ちゃんだって居ないもん」

「私は近くの高校に行ってるでしょ」

「お姉ちゃん居ないとやだ」

「無理だよ。母さんも困ってる」

「お姉ちゃんと居ないと、ボク怖い」弟は小さな肩を震わせて泣き始めた。

 その時初めて弟に違和感を感じた。いくら姉好きと言っても、男の子がここまで姉に執着するんだろうか。普通、そろそろ小生意気になって姉とベッタリなんて嫌がる時期が来てもいいのに。

 なんとか説得して中学には通わせることはできたけれど、その後も私と一緒に居たがる傾向は悪化するばかりだった。厄介なことに、思い通りにならない時は暴れることを学習してしまった。弟が高校生の時に家で暴れて警察を呼ぶ騒ぎになったことがある。

 そんな状態のまま成長して、私が今のお店のオーナーをやることになった時に二人暮らしを始めた。というより、扱いきれなくなった両親に押し付けられた。

 それでも私は弟が好きだから別にいいけれど。落ち着いている時の弟は本当に大人しくて素直で、私が仕事で疲れていれば気遣ってくれる、とてもいい子だ。今のマンションから通いやすい専門学校を見つけてちゃんと毎日通っている。一緒に生活するだけなら何も問題はない。ただ姉好きが過ぎるだけ。そう思っていた。


「オーナー、お酒適当に足しておきますか」

 いつの間にか着替えから戻って来ていた彼に声を掛けられて我に返った。

「あ、うん。お願いね」

 いけない。もうすぐ開店の時間だ。余計なことを考えていたらお酒の味も濁ってしまう。そういえば今日は知り合いのツテで頼んだピアニストが弾きに来る日だ。もうそろそろ来てもいい頃だけれど。

「裏からリキュール取ってきます」

 バイトの彼が在庫置き場に消えて行った。入れ違いでお店の扉が開いた。まだ『OPEN』の札は出していないはずなのに。

 現れたのはヨレたシャツを着て少し挙動不審な若めの男性だった。

 きっと頼んだピアニストだ。

「……柚木さん、ですか?」


 初対面のピアニストのその男と流れでその日のうちに寝ることになった。ちょっとからかうつもりで、弟が帰って来ると知っていながら家に招き入れた。想像通りかなりのまぬけ面が見られた。私の悪い癖だ。今までも関係を持った相手は、一度はからかって遊んだ。バーで知り合った個人事業主、役所務めの年下眼鏡君、ナンパしてきた小金持ちの中年男性。周りと比べても少なくはない程度の男性と関係を持った。その中でも一番のお気に入りはピアニスト。ジャズバーを経営していればそれなりの数のピアニストと交流を持つことになる。彼らは本当に面倒な人種で、自分の気に入らないことには不機嫌を隠すつもりもない。けれどその反面とても几帳面で、一度手を付けたものは最後まで自分の思うようにやらないと気が済まない性格みたい。行為中にどれだけからかっても、怒ったり困ったりしながら、時には汚い言葉で私を罵りながら、ピアニストだけは絶対に最後までしてから帰って行った。その様子がおかしくて時々ピアニストを捕まえてはその反応を楽しんでいた。

 普段は家は絶対に使わないのに、その日はどうしてか『家での弟ドッキリ』なんてものを思いついてしまった。計画自体は上手くいって、満足のいく反応を見ることができた。

 問題はその後だった。

 今まで異性を弟の居る家に連れて来たことなんて無かった。中高生の時は外か相手の家に行っていたし、高校を卒業と同時に私は一人暮らしを始めていた。

家に帰ってきて、私が知らない異性を連れ込んでいると察した弟は、隣の自室でずっと私の部屋の物音に聞き耳を立てていた。柚木君を帰らせた後部屋から出てくると、傷つけられた獣のように荒れ狂って暴れた。

どうして男なんか連れ込むの。どうしてボクを無視するの。ボクにはお姉ちゃんだけなのに。そういうことを言いながら手近な物を手当たり次第に投げつけた。

 私は暴れる弟を怖いと思ったことはない。賃貸の部屋で派手にやられるのは近所迷惑だから困るけれど、それだけ。弟は物を投げる時、いつだって、両親や私には当たらないような場所を狙って投げる。今までどれだけ家の壁に穴が開いても誰かが怪我をしたことなんて一度もない。本当に、どこまでも優しい子だ。

 弟が私に執着しているのは分かっていたけれど、ここまで激高する程だとは思っていなかった。柚木君の一件があってから私の行動に関する弟のチェックが厳しくなった。コンビニに行こうとしても「どこに行くの。ボクも行く」とついて来たがる。遊びに出かける時は「男?」と寂しそうな目で訊いてくる。

 この子はいつからこんなに私に固執するようになったんだろうか。昔からひよこみたいに後ろを歩く姿を見て来たせいか、その異常性に気が付かなかった。両親も匙を投げて私に託すかなかった子だ。私が見捨てたら路頭に迷ってしまう。

 私があの子の支えになってあげなくちゃ。私があの子の支えになってあげたい。

 考え事をしながら氷を触っていたら、表面に見事に斜めのヒビが入れてしまった。

 いけない。集中しなくちゃ。

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