男:白黒③♮
「ゆんにい、私上手だったでしょ?」
控室に戻って来てから同じ質問をもう五回目はされた。
「良くやったって。何度も聞くなよ」正装から普段着に着替えながら答えた。
指が滑ってシャツのボタンが上手く外せない。もたついていると控室のドアが開いて松原さんが入ってきた。
「二人とも、お疲れ様でした」シャツに苦戦する俺に構わず堂々と足を踏み入れた。
「……お疲れ様です」いくら男でも着替え中は遠慮して欲しい。
「お客様にも好評でしたよ」
「凄く楽しかったです」美香は満面の笑みでその楽しさを表現した。
「それは良かった。私も楽しく聴かせていただきました」
松原さんと美香が話している所を見ると何故か緊張感が走る。松原さんは美香に何をする気なんだろうか。
「また今度、ゆんにいにお願いしてもらって歌いに来てもいいですかあ? 友達呼びたいんでえ」
笑顔でそう言い放った美香に、松原さんの眉が一瞬動いたのを見逃さなかった。
「……光栄ですけど、若い女性が来て楽しめるお店かどうか」
彼女は崩れかけた表情筋を瞬時に戻した。さすがはバーテンダーだ。
「ええ、大丈夫ですよお。お洒落だし、変なお客さん居ないし」
「今回だけの約束だったろ。松原さんにもそう言ってお願いしたんだ」
「だってえ。思ったより楽しかったんだもん。またやりたい」
「いい加減にしろ」
「そんなこと言っていいの? あのこと、オーナーさんに話しちゃうかもよ?」
美香は意地の悪い顔で俺を試すような視線を送ってきた。
「お前なあ……」
「あなたと柚木君のことかしら。性交渉をしたことなら聞きましたけど」
松原さんの一声が響いた。
性交渉、なんて言葉を聞いたのは久しぶりだ。
美香は面食らった顔で松原さんを見上げた。彼女は何でもないような無表情で美香の視線を受け止めている。
「柚木君のしたことは褒められたことじゃないけれど。聞けば美香ちゃんだって満更でもなかったそうじゃない」
「……誰から聞いたんですか」
「柚木君に決まってるでしょ」
美香が振り向いて俺を睨みつけた。
「何でこの人に話しちゃったの」
「なんでって……お前を出させてもらうのに事情を話さなくちゃいけないだろ」
そのことを話したのは本当はもっと前だけど。咄嗟の嘘が口をついた。つくづく大人は悪知恵だけは豊富だ。
「信じらんない、全部話さなくて良かったじゃんっ」
「私が気になって無理矢理聞き出したんです」
松原さんの助け船が入った。
「はあ? 詮索好きなおばさんって嫌い!」
だんだん美香の顔つきが険しくなってきた。キレ出す前兆だ。
「別にあなたに好かれなくても構わないもの。私、柚木君と付き合ってるし」
「え?」俺の人生の中でも一番と言っていいくらい間抜けな声が出た。
そりゃ、一回松原さんと夜を過ごしたけど、付き合ってる事実なんかない。
「ゆんにい……オーナーさんが好きなの?」
「あの……いや」上手く喋られない俺を遮るように松原さんが後を続けた。
「初めて柚木君がこのお店で弾いてくれた時からの仲よ。初めて会った日に一緒にベッドも入ったわ」すまし顔でとんでもないことを言う。
「うそ! ゆんにいは美香が好きなんじゃなかったの」美香が詰め寄って来た。
そんなことを言った覚えもない。二人ともわけの分からない話を繰り広げ出して、俺が一番混乱したいくらいだ。
「柚木君が中学生の子供を好きになるわけないでしょ。彼が好きなのは私。あなたのことは一時の気の迷いだって、言っていたわ」
それを聞いた美香の爆発は凄まじかった。控室に置いてあるものを片っ端から手にして床や壁に投げつけだした。
「うそだもん! 絶対うそ! ゆんにいは美香のことが好きなの! そうじゃなきゃ駄目なんだからあ!」
色んな物がぶつかったり割れたりする音が重なった。机に置いてあった従業員用のコップも叩きつけられて木っ端みじんに割れた。
「美香、辞めろっ」
止めに入ろうとしても両腕を振り回してなかなか動きを止められない。松原さんはそれでもまだ落ち着いた様子だ。
「もうお客様も居ませんし。暴れるのは構いません。ただ、壊したものは弁償してもらいますよ?」
美香の動きが急に止まった。真っ赤な顔を松原さんに向けた。少し目が据わっている。
「いいもん。ゆんにいがベンショーするから」
「あなたが壊したんです。あなたが弁償しなさい」
「美香まだ中学生だもん!」
「自分のしたことの責任も取れないガキなら、今すぐ暴れるのを辞めて大人しく帰りなさい。非常に迷惑だわ」
「美香じゃない、ゆんにいが悪いんだし!」
「柚木君にも問題は有るけれど、今店の物を破壊しているのはあなたです」
本来の母親は、こうやって子供を叱るんだろうかと思った。
狼狽えない松原さんの姿は家で子度を叱る母親そっくりだ。実の母親があの奔放な姉じゃ、きっと今までまともに叱られた経験なんて美香にはないだろう。
「美香じゃないもん!」そういって泣きながら控室を出て行った。派手な音を立ててドアが閉まった。
美香が完全に遠ざかった後、松原さんが大きくため息をついた。
「ちょっとやりすぎちゃったかしら」
「大丈夫です。あいつはこれくらいじゃへこたれませから」
「柚木君にも、付き合ってるなんて」
「俺の方こそ迷惑かけて。姪が壊した物は俺が弁償します」
「それはいいの。どうせ安物ばかりだから」
「でもそういうわけにも……」
「本当よ。ほとんど百円だもの」
「え、そうなんですか」
「お客様にお出しする物以外はなるべく安く済ませたいでしょ」
淡いピンク色に塗られた唇で少しだけ微笑むと部屋の隅から手帚を取り出して散らばった破片を集め出した。
「危ないですよ。俺やります」
「慣れてるから大丈夫」
その言葉の通り見る間に綺麗に破片が集まってくる。
「お客さんが割ったりとかするんですか」
「弟がね。たまに同じように暴れるのよ」
「弟さん?」
「そう。知ってるでしょ? この前してる最中に帰って来て、柚木君が凄く困ってたあの弟」
「それは忘れて下さい」
「嫌よ。面白かったもの」
「その弟さんが暴れるんですか? 美香みたいに」
「たまに、なんだけどね」
「どうしてまた」
「うちの弟、私のこと大好きだから」
「――なんですか、それ?」
塵取りで回収されたガラスがゴミ箱に落とされて行った。
「こっちはもう大丈夫だから。美香ちゃんのほう見に行ってあげて」
「でも」
「お店のほうで暴れられたら、さすがに洒落にならないわ」
「……分かりました。行ってきます」
控室を出てホールに戻った。小さい電柱だけがついて要る店内で美香はピアノの傍に蹲っていた。膝を抱えてスーツケースに入りそうなほどコンパクトサイズに纏まっている。
「美香」
呼びかけても反応が帰ってこない。
「美香、ちゃんと松原さんに謝れ」
「ゆんにい」
急に立ち上がったのと同時に、体に寄りかかって体を預けてきた。ぶつかるように体を当てられてもバランスを崩さないほど、美香の体は軽かった。
「オーナーさんと付き合ってるなんて嘘。ゆんにいはいつだって美香の味方でしょ」
潤んだ瞳で見上げてくる。あの日の俺なら揺さぶられたかも知れないけど、今は子供の幼い涙にしか見えない。
とりあえず松原さんの話に合わせておくことに決めた。
「嘘じゃない。言ってなかったけど。だからもう、こういうのは今回で終わりだ」
「どうして。美香何か悪いことした? ゆんにいは美香のでしょ?」
「悪いとか悪くないじゃないんだ。初めから俺は美香を好きにはならないよ」
そう告げたら美香はぴたりと涙を止めた。
数秒俺の目を覗き込んだ後、巻きつけた腕を話して数歩下がった。
「ふうん。そういう感じなんだ。……いいよ、別に。あの人と付き合ってることにしてあげる。でも忘れないでよね。ゆんにいが美香にしたこと」
中学生女子ではない誰かがそこに居た。
大人の表情で俺を見据える美香は、女子の体をした『女』だ。
どこまでも追いかけてまとわりついてくる蛇の顔そのものだった。
どこでこんな女臭い表情を覚えてくるんだ。まだ十代前半の子供だぞ。
「分かった。……本当に悪かったと思ってる」
「ゆんにいはこれから私の言いなりだよ」
「もう充分付き合っただろ。勘弁してくれ」
「駄目」
「何でだよ。今回だけって約束だろ」
「それはゆんにいが私のことを好きだった場合。少しおまけしてあげてもいいと思ってたけど、私をほったらかしにして他の人と付き合うって言うなら優しくなんてしない」
美香はワンピースの裾についたホコリを払って、前に垂れた長い髪を鬱陶しそうに払った。
「何言ってんだ」
「私ね、正直クラスでもそれなりのポジションに居るの」
「だからなんだ」
「中途半端な男に引っかかってヴァージン捧げて、あげくその人は他の女と付き合いました、なんて笑い話にもならないでしょ。恥ずかしくて皆に言えないじゃない」
「そんなの、言わなきゃいい」
「そうはいかないの! もう経験済の子も居るし、置いてかれないように私も経験したって言っちゃったもん」仁王立ちで腕を組む美香の頬が膨らんだ。
「そんなことで張り合ってどうすんだよ」
「張り合わなくちゃいけないの。そういう世界なの! ゆんにいのピアノだって他の人と競争するための道具じゃん」
「俺は――」
そんなことない、と言いかけて考えた。他のピアニストと競っていないかと言われれば、それは嘘だ。毎日、いつだって、自分のポジションを奪われないか不安で仕方がない。その穴をうめるため、狂ったようにピアノに向き合っている。
「いいよ、どうせゆんにいには分からないし」
美香は俺の横を通り過ぎてドアの方へ向かった。
「どこ行くんだ」
「帰るんでしょ。荷物取って来るの」
派手な音を鳴らしてドアが勢いよく閉じた。
後を追って控室へ行くと美香と松原さんが向かい合っていた。脱ぎ掛けのワンピースを掴んだまま美香は松原さんに襲い掛かりそうな視線を向けている。松原さんはリラックスした表情で、入ってきた俺に柔らかく頬を緩ませた。
「やだ柚木君。レディがお着換え中よ」
「あ、すみません」と言っても、美香の着替えなんて見飽きたくらいだ。
「ゆんにいに話しかけないで!」美香が松原さんに怒鳴った。
「どうして?」
「ゆんにいは私のなの。ちょっかい出さないで」
大人の同性相手にも引かないのは、さすがの気の強さだ。
「でも私、柚木君と付き合ってるのよ?」
「信じないもん。ゆんにいは騙されてるだけ」
「柚木君、騙されてるの?」
意地悪い笑顔で松原さんが俺に話を振ってきた。
「いや、俺に聞かれても」松原さんが言い出したことじゃないか。
「ゆんにい帰ろ!」
着替え終わった美香は俺の手を掴んで引っ張った。
「ちょっと、待てって」慌てて荷物を掴むと引かれるまま部屋から出た。
ドアが閉まる一瞬、松原さんが手を振った。「またね柚木君。また連絡するわ」
また? 松原さんの言葉に違和感を感じながら帰りの道を美香と並んで歩いた。
遅い時間なだけあって周りに人気はない。なんとなく、思い出したくないシチュエーションだ。美香は迷わず歩き続ける。このままだと俺の家に着いてしまう。
「おい、どこまで行くんだよ」
「ゆんにいの家だよ」
「待てよ」
引っ張られる力を逆に引き返して美香の動きを止めた。少しふらついて美香が俺を振り返った。
「どうしたの?」
「どうしたじゃないだろ。家来てどうするんだ」
「泊まるんだよ。帰れないもん」
「帰れないって、姉さん迎えに来ないのか」
「来ないよ。言ってないもん」
「言ってない?」
「だって、初めての時は許してくれたけどさ、基本パパもママも過保護なんだもん。私のこと好き過ぎるの」面倒そうに溜息を吐いた。
「親なら心配するだろ。言わないともっと過保護になるんじゃないか」
「今日はゆんにいの家で遊んでるって言ってある。だから帰れない。泊めて」
はい、終わり。と締めくくってまた歩き出した。
「そんなに何回も泊められない」追いかけるように俺も歩き出した。
「どうして?」
「どうしてって……」
「また襲いたくなっちゃうから?」
横目でこちらを見上げる美香の目が『馬鹿らしい』と言っている。
「この前だって俺が無理矢理襲ったんじゃない」
「ゆんにいとはもうああいうことしない」
そう断言して長い髪を風に靡かせた。風に向かって真っすぐ顔を上げて歩いている。柔らかそうで血色のいい頬と前を見つめる視線の強さがアンバランスで、この時期特有の雰囲気に中学生らしさを感じた。
美香に何を言って良いのかが分からない。安心したでも、残念でもない。隣を歩く姪の考えていることが全く分からない。いっそ、美香がピアノだったらいいのに。心を込めて弾けば、それに見合った分だけ応えてくれる。ミスをしたり弾き方が荒々しければ、包み隠さずそれを教えてくれる。余計な忖度も思惑もない。
ピアノだったら、もっと上手くやりとりができるのに。そんなどうしようもない妄想が頭に浮かんだ。
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